2016年06月03日

出でよ!暗闇!――生活に闇を!

 北海道の「しつけ」のために山の中に置き去りにされた少年が無事見つかったということで、まずはよかった!よかった!

 が、「置き去り」というのは、現代的しつけとしてポピュラーなのでしょうか?
私はあまり聞いたことがないのですが・・・

 私ら田舎もんのお仕置き的しつけは、「土蔵の中に閉じ込めらる」か「夜、庭に立たされる」が代表的なものでした。
わたしは、「土蔵の中に閉じ込められる」型でした。
何をやったのかは覚えていないのですが、泣こうが喚こうが、母親は断固として私を土蔵に閉じ込めたのでした。
甥っ子たちも、うちに来たとき、時々、閉じ込められておりました。

 しかし、都会のモダンな住宅では、そのような怖い暗闇がなくなってしまいましたね。
庭があったとしても、「恐い」と感じるほど暗くはない。
モダンな家でも、ご遺体を置く空間と、閉じ込められると怖い!という空間が必要ですね。
そのうえ、妖怪たちも「妖怪ウォッチ」で見ると、ゲゲゲの鬼太郎の時分よりも、恐くなくなっているし・・・
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2016年06月01日

いいこだねぇ〜――岩合光昭の臨床現象学

 「いいこだねぇ〜」とはBSプレミアムの『世界ねこ歩き』で岩合光昭さんが、猫たちにかける挨拶言葉である。
しかし、見ていると、ケ小平じゃあるまいし、別に悪い猫と良い猫がいるわけではない。
岩合さんは、どんな猫にも「いいこだねぇ〜」と声をかけ、まるで岩合さん自身が猫になりつつ、世界中の猫たちの路地裏や原っぱをでの生態をカメラに収めている。

 なんで、あれほど、岩合さんは猫に信頼されているのであろうと、岩合さんの『生きもののおきて』というカラー写真も楽しい文庫本をパラパラと読んでみました(ちくま文庫)。
こんなおいらでも猫には信頼されたいのだにゃ〜。
これは、主に、1982年8月から84年3月までの一年半、ご家族とともに、タンザニアのセレンゲティ国立公園というサバンナに滞在したときの記録。
 
 「見たままのこと……分からないことがあれば、それを分からないままに、ヒトの見方を加えずに、どうしたら伝えられるだろうか。」(61頁)

おそらくこれがこの本のテーマなのだと思う。

 ライオンを近くで撮影しながら一度も襲われたことがない岩合さんは次のように書いている。

「多くの場合、野生動物を見るとき、最初に結論を出してしまっているような気がしてならない。その結論に導くには、目のまえで起きていることをどういうふうに解釈したらいいか。頭の中でそれを確認している。現実があとからついてくる。
 それでは、野生動物は見えてこない、とぼくは思う。考えるよりも、まず見る。「ヒトが見る目」をはずし、まったく別個の生きものとして、虚心坦懐に見る。そうしなければ、いつまでたっても野生動物とヒトとの関係は変わらないのではないか。」(40頁)

 「まったく別個の生きものとして、虚心坦懐に見る」とは、ライオンになってライオンを、シマウマになってシマウマを見るということなのだろう。
ただし、「ライオンってこんな感じ」という「ヒトの見る目」ははずしながら。
だから襲われないのだろう。
シマウマになってライオンを見たら、たぶん、襲われるだろうし、人間のままで見ても襲われるのだろう。

 だから、きっと世界中の猫をカメラに収めると岩合さんは猫になっている。
その時の変身の呪文が「いいこだねぇ〜」なのであろう。
それは同時に「ヒトが見る目」を捨て去る判断停止の合図でもあるのではないか。

 果たしてフッサールにはこのような「いいこだねぇ〜」というエポケーは出来ただろうか?
エポケーを論ずることは出来ても、エポケーすることは出来ただろうか?
フッサールが「いいこだねぇ〜」と猫の信頼を得ようと工夫していたら、現象学もまた別の展開があったかもしれんね。
 
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2016年05月30日

The Riot of Spring――recommended by わっしー

 先週の大谷大学哲学会の前、わっしーが少し興奮気味に
「クルレンツィスというギリシア人の指揮者のriot of springというヴィデオ知ってる?」と訊いて来られた。
クルレンツィスは知っていたけど、そのヴィデオは知らなかった。
これです。

https://www.youtube.com/watch?v=ZIFmzP-b9Pw

オーケストラの音合わせを劇場全体つまりオーディエンスも巻き込んで、みんなで「盛り上って大騒ぎする」ライオットするという趣向である。
その大騒動の最後は、まるでThe Who的なのであるが、わたしにはちょっと????。
が、「レコード芸術」3月号のクルレンツィスのインタビューを読み返して納得。

「私には、華麗なオペラのディーバが人を泣かせることができると思いません。
農村の老人が一本弦の楽器で弾いたほうが、ずっと心を打つのです。
この純粋なサウンドこそが、われわれの本来の血です。
音大でピカピカに磨き上げられた、アカデミックなサウンドは、ジュースにすぎません」
アカデミックなサウンドがぶっ壊されたのですね。

(この同じ号の伊東信宏氏のクルレンツィス×ムジカエテルナのケルンでのコンサートの報告が抜群に面白い。
そのステージと同一かどうかは分からないけど、おそらくこんな感じ。
https://www.youtube.com/watch?v=t_YBqqMXvtU
ケルンのコンサートではアンコールがなかったので、それこそ会場は暴動寸前だったそうな )

 とにかく、いま、クラシックのCDで聴きたいと思うのは、クルレンツィスのものだけ。
私は、彼が彼の仲間たちムジカエテルナと作った『フィガロの結婚』があまりに面白くて、今年はじめに出た『rite of spring』やラモーのオムニバス盤(これはヘーゲルの言う「ラモー的音楽の混乱」をイメージするのにありがたかった)、そしてチャイコフスキーのバイオリン協奏曲を次々に買って聞いている。
チャイコフスキーのバイオリン協奏曲は、じゃじゃ馬バイオリン弾きのコパチンスカヤとの共演で、まるで民族音楽のような展開が圧倒的に面白い。
今年中にいよいよダ・ポンテ三部作の最後『ドン・ジョヴァンニ』が出るらしい。
わくわくどきどきです!

 というわけで、クルレンツィスについてはけっこうファンだったりしたので、わっしーは「なんで知ってるのぉ」となんだかご不満のようでした。
けっこう負けず嫌いなのですね。
しかし、riot of springのヴィデオのことは知りませんでしたよ。
(これは、ラストが違う別のヴィでもあるようです)

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2016年05月25日

もう一つ別のスター・ウォーズ――ジェダイはつらいよ

 水曜日2限目の哲学科3回生ゼミ(宗教学・死生学)では小此木圭吾著『対象喪失 悲しむということ』を読んでいるのであります。
本日は、失ってしまった対象に対するアンビバレントな愛憎ということを、あれこれと考えました。
当然、ルーク・スカイウォーカーとダーズ・ベイダーの愛憎劇も議論されます。
まだ失ってないけど・・・
その時に、「おお、これは新発見だ!」と、私は叫んだのであります。

 何を発見したのかというと・・・
 ルーク青年が、両親を失い叔父夫婦に育てられるという設定は、『男はつらいよ』の寅さんとおんなじ設定である、という発見であります。
よって、ルークの叔父夫婦が帝国軍に殺されることなく健在であれば次のような展開が考えられるのでした。

 ルークがぐれて家出をしてフーテンのルークとして、つまりハン・ソロのように流れ者になって、時々、叔父夫婦と妹レイアの待つ星に帰ってきてはひと騒動・・・・という連続活劇が考えられるんであります。
裏のタコ社長は、本物のタコ星人。
「おいちゃん、それを言っちゃおしまいよ」と星を出ていこうとすると、そこに銀河系で出会った謎の美女・・・今度こその期待が盛り上がりますが・・・
(正確には父方の親戚の、ルークとは血のつながりはない夫婦ということらしいですが・・・)

 ちなみに、ヴィム・ヴェンダースの『パリ・テキサス』のハンター少年も、叔父夫婦に育てられ・・・という設定でした。

 というわけで、このゼミでは突拍子もないことを思いつく能力を鍛えます。
鍛えられているのは教師だけ?
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2016年05月18日

しらけですけどなにか――世代で俺をくくるな!

 クドカン脚本の『ゆとりですがなにか』が面白い。
最初の二回を見逃し、3回目から見たので、最初いつもより速いセリフ回し、複雑な人間関係について行けなかったが、この前の日曜日の放送はバッチリであった。
今どき、「バッチリ」という評価もいかがなものかと思うが、要するに面白い。

 で、考えたのであるが、1954年生まれ、1973年高校卒業の私らは、どのような世代と呼ばれたか?
私らの上は「団塊の世代」というより、この呼び方から「××の世代」という言い方が始まった。
私らのすぐあとが、シラケ世代あるいは共通一次世代、そのあとバブル、氷河期ときて、ゆとりということでしょうか?

 1973年連合赤軍事件の次の年に大学に入学した私らは、しいて言えば「シラケ世代」のハシリだったと言えるかもしれない。
学生運動もアングラもトレンディではなかった(もちろんトレンディなんて言葉もなかった)。
トレンディでなかったかもしれなかったが、ガラパゴスのごとく、学生運動もアングラも続いている場所はあった。
だから、私らを「シラケ世代」と一言でくくられるのは迷惑なのである(って、今頃だれもそんなこと言ってないって・・・)・

 だから、「ゆとり」にせよ、「団塊」にせよ、一言で語るのは暴力的言論なのである・・・というようなこととは関係なく、『ゆとりですけどなにか』は、なんだか切ない話に突入していて目が離せません。
もちろんお仏壇、出てます。
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2016年05月11日

辞書は両手で引かなきゃダメだよーータン・タン・タヌキの金言葉、風に吹かれてゆ〜らゆら

 今年も原書講読の時間に、ハイデガーの「Sein und Zeit」を読んでいる。
ドイツの細かなニュアンスを確認するために紙の辞書をもって授業に参加することを学生諸君に義務付けている。

 授業中にある言葉を引くように指示するのだが、引きなれていないのか、なかなか目当てのドイツ語を見つけられない。
見れば、その学生は片手にテキスト、もう一方の手で辞書をペラペラめくっている。
そこで思い出した池上タヌキ之介のお言葉。

「辞書は両手で引かなきゃだめだよ」
もっとつよく
「辞書は両手で引かなきゃダメじゃないか!」
だったかもしれない。

 それは私に向けた注意ではなかったが、リンゴが木から落ちるのが自明な如くの確信に満ちた断言であった。
私は、そのお言葉を拝聴してからは、辞書を引くときは片手で引くなどという横着をしないように気を付けている。

 たしかに両手でひいたほうが、スペル・発音も頭に入るし、速いし、辞書も傷まない。
タン・タン・タヌキの風に吹かれる金コトバであった。

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2016年05月05日

僕のおじさん――金沢でグループ展

 金沢まで出かけました。
おじさんが金沢の東山でグループ展をやっているというので見てきました。
桃組というしゃれたカフェの二階。
http://www.geocities.jp/syumihaba/eat/02-01momogumi01.html
一階の入り口には、苔やアザミ(?)が生えている、おじさんの焼いた物体がおいてありました。
自然回帰してゆく焼き物がおじさんのテーマなのでしょうか。

 カフェでフレッシュ・ジュースを飲んでいたら、おじさんのことを感じのよいお嬢さん方が「モンさん」と呼んでいました。
門脇のモンなのか、文雄のモンなのか・・・
いずれにせよ、あのひょうひょうとしたおじさんらしい呼ばれ方でした。

 「おじさん」とは言いながら、実は、父の従兄。
それほど、密な付き合いがあったわけではないけど、ときどき、妙なオブジェをもって我が家に現れていたその生き方は、微妙に私の人生に影響を与えているような気がします。
あんまり、いい影響ではないと思いますが・・・

「なかぬき5人衆」というグループ名で5月15日までやってます。
金沢近辺の方、ちょっと覗いてみてください。

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2016年04月26日

薗田坦先生のお通夜にお参りしてきました―みんな歳とっていたなぁ

 昨日、私にとっては宗教学の大先輩にあたる薗田坦先生のお通夜に行ってきました。
3年ぐらい癌を患って、今年の1月ヤコブ・ベーメのご本を出されてのご逝去でした。
79歳。合掌。

 わたしのはじめての学術誌論文の編集担当委員が薗田先生でした。
たしか百万遍の学士堂という喫茶店で、真っ赤になった原稿を示して、直しを指示くださいました。
まだ手書き原稿の時代です。

 それなりに自信をもって書いた文章を、とことん校正されて、たいへん悔しい思いをしたのです。
しかし、後に自分が編集委員になってみると、「ああ、薗田先生はホントにきちんと読んで細かいところまで赤ペンを入れてくださった」ということに気が付きました。
あそこまで、キッチリ読むということは、私にはなかなかできません。
ホントにありがとうございました。

 ところで、久しぶりに多くの先輩方とお通夜の席でお会いしましたが、みなさん、見事にじいさん・ばあさんになっておられえました。
かく言う私も、その一人でありました。
「こういう席でないと、なかなか会えませんね」と松○さんと別れました。
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2016年04月20日

そろそろお酒なんかも・・・『対象喪失』を読みながら

 今年の3回生のゼミでは、小此木圭吾著『対象喪失』(中公新書)を読んでいます。
今日読んだところには、大切なものを喪失したときの心の痛みが、心臓の病気を誘発するという調査結果が報告されています。
今回の地震で、大切な家族、そして住処を喪失した方々の心の痛みを想像すると胸が痛くなります。
エコノミー症候群で亡くなられる方が多いのも、心の痛みが心臓の機能低下を招くことと関係があるのでしょうか。

 そんな心のストレスを少しでも和らげるために、生活に必要なものはもちろんですが、それが行き渡ったら、お酒やコーヒーあるいはカラオケセットなどの嗜好品も届けられていいように思います。
とにかく少しでも心のストレスや緊張が和らぐことを祈ります。

 が、地面が揺れ続ける、というのはたまらないでしょうね。
想像するだけでも、胸が痛くなります。
最近、「救心」を愛用する我が心臓は、冗談抜きで、ホント、キューとなってしまいます。
ホント、お大事に。
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2016年04月14日

「ただの通りすがり」@タヌキ――「オイオイの言葉」

 昨日、学食で一緒になったN塚先生から聞いた話。

「(京都の岡崎の)S学院の卒業式が終わってK玉さんと話してたんや。
そしたらその向こうをイケガミ君がすーっと通ってゆくんや。
こんなところで何してんの、て聞いたら
『ただの通りすがり』やて。
ほんま。びっくりしたでぇ」

 浅草に生息しているはずの池上タヌキ之介が、うららかな春の一日、京都は岡崎に出没していたという話。
「ただの通りすがり」とそんなところで、タヌキは何をしていたのでしょう?
だから、「ただの通りすがり」だって・・・
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2016年04月12日

ストーンズってサンダーバードじゃないの?――とくだらない事を考えられるくらい元気になりました。

 ローリング・ストーンズのキューバでのフリー・コンサートの写真をネットで眺めておったのです。
70歳過ぎた爺さんたちは、2時間以上のコンサートを平気でこなしている。
「鶴のように痩せた老人」という言い方があるが、ストーンズの面々の体形はまさにそれ。
しかし、頑固爺さんというのではなく、陽気な・・・
・・・には、「サンダーバードの人形」がふさわしいことに、今更ながら気が付きました。

 イギリスの人形劇『サンダーバード』。
あの人形たちは、目が大きく眉毛が太く、口がでかい。
ミックもキースもチャーリー・ワッツもロン・ウッドも、まさにこの顔。
初代リーダーもブライアン・ジョーンズも、次に加入したミック・テイラーもその方向の顔ではなかった。
で、その手の人形顔のロン・ウッドが入って、ストーンズは死なないバンドになったのか・・・

 と、まあ、このようなくだらない事を考えられるくらい元気になりました。
ご心配いただいた方、ありがとうございました。
ただ。このようなことしか考えられない、というのが相変わらず問題ではありますね。

 そういえば、ボブ・ディランも今日は大阪で旅芸人ですね。
シナトラの曲が中心とか・・・これもディランなりの年の取り方です。
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2016年04月05日

爆走老人?ショボクレ老人――ソクラテス爺さんはどっちだったか?

 作業中に転倒しアタマにケガをしてから、すっかり老人が板についてきました。
ケガ自体は大したことなかったのですが、転倒してケガをしてしまったという事実は身体の衰えを自覚させるには十分なインパクトがありました。
アタマの「ゴルバチョフのアザみたい」(@うちの奥さん)なかさぶたをはがしながらしょげかえっていたら、そんなにショボクレていないで、内田樹先生の講演会の案内をしなさい!という激励のコメントをいただきました。

 4月16日(土)に内田樹先生が京都で講演なさるそうです。
詳細はこちら↓

http://shogoin.or.jp/_src/11448/%E6%88%A6%E5%BE%8C70%E5%B9%B4%2B1.pdf

 うっちーも元気なら、わっしーも元気です。
あ、わっしーって、京都市立芸大の学長で大谷大学の客員教授、というより『折々のことば』の鷲田清一先生のことです。
わしばっぱ、とも呼ばせていただいてます。
じぇじぇじぇですね。
そのわしばっぱの、この間の京都市立芸大の卒業式の式辞がアップされております。

http://www.kcua.ac.jp/information/?mp=72926

そのうち入学式の式辞もアップされるでしょう。

 それにしても、みなさん、お元気です。
もう70歳をとっくに超えたボブ・ディランやローリング・ストーンズもコンサートで世界中を飛び回っています。
まさに爆走老人です。

 ストーンズのキューバでの無料コンサートの写真を見ながら思い出したのですが、キース・リチャーズが60歳を過ぎたころ、木に登っていて落っこちて大けがをし、再起不能というニュースが世界を駆け巡ったことがありました。
60過ぎたおっさんが木に登って何をしようとしていたのでしょうか。
常人を超えたキース様のことですから、なにかのっぴきならない理由で木登りをなさっていたのだろうと思います。
が、木から落ちて、天下の秋ではなくわが身の老いをいやおうなしに自覚しただろうと思われます。

 キースは、木から落ちることを想定して木登りしたのではないでしょう。
今までの身体能力なら問題なく安全に登り降りることができる木登りだったはずです。
(それにしても、ホント、なんで木に登ったのでしょうね)
しかし、おそらく一瞬ふらったとして落っこちてしまった。
ワタクシと同じく、キースもアタマから落ちたと報道されていたように記憶します。
ケガも大変でしたが、落ちてしまったというショックも相当なものであったかもしれません。

 老いというのは、若い時には想像できなかった事実としてやってきます。
少なくとも私の場合、一瞬ふらっとする身体感覚は初めてでした。
今まで知らなかった感覚です。

 それで思うのですが、ソクラテスが『弁明』で「みな、死を知らないのに知っているかのように思っている」と言うのは、70歳の老人ソクラテスが、どこかの時点で、知らなかった老いを、老いてみて初めて知ったということがあったのではないか、と思うのですがいかがでしょうか。

 老いというのは、若い時には知らなかった。
老いは老いてみなければ分からない。
ゆえに、死というのも、死んでみなければ分からない・・・
だもんで、ソクラテスは死に向かって、悠々と向き合うことができたのではなかったかと・・・
そのようにして、悠々老人ソクラテスではなかったかと・・・

posted by CKP at 15:05| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月01日

さよなら、ト一食堂ーー京都で過ごした青春やさかい・・・

 本日は、大谷大学の入学式なのですが・・・

 昨日、2016年3月31日午後9時をもって、京都は四条・富小路の「ト一食堂」が閉店となってしまいました。

 わたしは、たまたま、北陸のお魚の刺身が食べたいなぁと昨日ふらりと立ち寄ったのですが、「本日で閉店」の貼り紙にびっくり。
接客のお兄ちゃんに「ほんとに閉店するの?」と確かめたら、やっぱりホント。
これで最後かと、予定の「造り定食800円」に思わず「湯豆腐600円」を追加して、贅沢をしてしまいました。

 学生時代、河原町の京都書店で本を買って、十字屋でレコードを探して、ちょっと北陸の魚が恋しくなったとき立ち寄りました(「ト一」のトはたぶん富山のト)。
気取らない定食屋兼居酒屋。
音楽は流れず、お客さんの賑やかな話し声がBGM。
学生の身分での「造り定食」や「ト一定食」は、ちょっと贅沢な食事でした。

 そのト一食堂が、41年の歴史に幕。
なんだか、あの頃、学生の頃が、また遠くに行ってしまったようで、オジサンはちょっと涙ぐんで、お刺身を食べておりましたよ(べつに「踊りつかれたディスコ」の帰りに寄ったのではありませんが)。

 あの頃、お刺身を食べながらどんな未来を予想していたんでしょうね。
こんなはずじゃなかった、ような気もするが、そう思うことも含めて、こんなのがわたしの人生なんだなぁ、としみじみ思ってしまいました。

 頭にけがをしてから、ちょっとセンチメンタル・ジャーニー・カドワキです。

 学生時代における定食屋の位置というのは案外大きなものです。
本日、入学された学生さんたちもよい定食屋が見つかるといいですね。

 おかみさん〔?〕によれば、ビルの老朽化での閉店なのだそうです。
いつも、それなりににぎわっていたのに・・・

長い間、ありがとうございました。
posted by CKP at 14:07| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月23日

CKP、地球に衝突す――老いの衝撃

 CKPという隕石が地球に落下した、という話ではない。
ワタクシCKPことカドワキが、梯子状のものから地球に落下し、地面に激突したという話であります。

 雪国のお寺には、本堂の前に「雪割り」という三角屋根が組んであり、本堂の雪が落下してもそこをくぐって本堂に参拝できるようになっております。
その雪割りを解体している時、その三角屋根から降りるとき、もう大地であると判断した我が足は力強く空に踏み込み、我が体は宙に舞い、我が頭は地面に思いっきり頭突きをかましたのでありました。
しかし、我が軟弱なるアタマより地面の方が硬く、我が頭からは、ブラッシーに噛みつかれた力道山のごとくタラタラ血が流れているのでした。

 幸い大したことなく血はすぐに止まり、我がポンコツ頭にも致命的なダメージもなく、作業は無事終了したのです。
さすがに翌日は首筋や腰が痛くて曲げられませんでしたが、日を追うにつれて良くなっています。

 が、歳をとる、というのはこういうことなんですね。
アタマで考えることは、あまり歳をとってはいないのですが、体は確実に老いている。
そのことを強烈に教えてもらった事件でした。

 ホント、とにかく、ただ落ちるだけ。

身体は落ちるという事態になんの対処もできない。
声も出ない。
ばったりに地面にはいつくばるだけ・・・

 身体がこうなったのだから、アタマも少しは歳を考えねばならぬ、と思ったのでした。
お若い方には、いまは、関係のない話ですが・・・
posted by CKP at 16:05| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

卒業、おめでとう――A spooonful of sugar

 本日は、京都は北大路の大谷大学の卒業式。
卒業生のみなさん、おめでとうございます。
楽々とか、なんとかとか、あぶないところだったとかいろいろあると思いますが、とにかく卒業できるということはめでたい。
であるからして、ワタクシ、本日はスーツにネクタイといういで立ちです。

 しかし、こうなってみると、もう少し、ねちねちと鍛えておいた方がよかったかな、と思わんではない。
が、しかし、4年前から見ると、それぞれ、それなりに得るものがあったように思います。
「それなりに」とあいまいなことを言うのは、それは本人にも今ははっきりと分からない、いや「これ」と分かるようなものなら、それはあんまり大したことはない。

 ただ、どうだろう?
あの、とりかかった時には、完成するのかどうかさえ分からなかった卒論がああして完成したとき、ちょっと、勉強というのも楽しいなんて思いませんでしたか?
やんなきゃいけないと始めたことが、ちょっと楽しい・・・これから山ほど押し寄せてくる「やんなきゃいけない」時に、「ああ、これがどうゆーわけか、ちょっと楽しくなるんだな」ということを思い出してくれると嬉しい。

 というわけで、「やんなきゃいけない」ことをなかなかやらない子供たちに、ジェリー・アンドリュース扮するメアリー・ポピンズが唄うお説教歌「A spoonful of sugar」を、卒業のはなむけににお贈りいたします。

「どんな仕事の中にも楽しいところがあるわ
その楽しみを見つけて、指を鳴らしましょう
そうすれば、仕事はゲーム
やらなきゃならないつらい仕事も楽勝よ
愉快!大騒ぎ!
とってもはっきりしてるわ」
(訳は浅井学「ひと匙のお砂糖で」から『メアリー・ポピンズのイギリス』野口祐子編著、世界思想社)
とお説教があって、「とてもはっきりしている」次の歌詞がリフレインされるのでした。

That a spoonful of sugar
Helps the medicine go down,
The medicine go down
The medicine go down
Just a spoonful of sugar
Helps the medicine go down
In a delightful way

 ディズニー映画なので、動画を引用するとどんなおとがめを受けるか分からないので、歌だけ。


 もしなかなか楽しくならないいときは、もちろん「スーパーカリフラジリスティックエクスファリドシャス」と唱えてみましょう。
posted by CKP at 13:47| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

ヘーゲル版「アホ言うもんがアホや」――結論は「ここがロドスだ、ここで跳べ」ですが・・・

今日は、久しぶりにすごく長い!

 が、結論から言うと「ここがロドスだ、ここで跳べ」ということになるかと思います。

 え?AKB48のはなし?
ヘーゲルもAKBと同じこと言ってるの?
というのは、話が逆で、ヘーゲルが『法哲学』の序論で引いたイソップの寓話「ロドス島では高く跳べたんだ」「じゃ、ここがロドスだ、ここで跳べ」などをヒントに秋元康氏がAKBのアルバム・タイトルしたらしい。
じゃ、ヘーゲルもAKBも同じこと言っているんだ・・・かどうかはわかりません。

 私はそのアルバムを聴いたことがないのでAKBや秋元氏が何を言おうとしているのかよく知らない(「恋するフォーチュンクッキー」はちょっと好きでした)
ですから、ヘーゲルとAKBの関係は、両方知ってる人のご判断におまかせ・・・

 それで長い長い話・・・

 ヘーゲルが『精神現象学』で、カント流の道徳的世界観を「それはごまかし(Verstellung)に過ぎない」と批判して見せる箇所がある。
「精神」の章の大詰め「良心、美しい魂、悪とその赦し」の章の前の章である。
このとき「批判して見せる」と書くのは、ヘーゲルはこの批判によってカント流の道徳哲学がダメだ、と主張するのではなく、このような批判がありうるがそれをいかに超えるかということを問題にしているからである。
単なる批判ではないということである。

 こうゆうところがヘーゲルの歴史への態度であり、単なる批判に終始する反対左翼とか、反近代主義者とは違うところである。
つまりヘーゲルの「偉い!」ところである。

 また「カントの道徳哲学」ではなく「カント流の道徳的世界観」と書くのは、カントの道徳哲学に登場する「要請」という考え方をヘーゲルがそうとう独自に解釈して、その批判を展開しているからである。
カントに対する厳密な批判というのではないのである。
だもんでカント・ファンの方は以下を読んで怒らないでください。

 カントの場合、欲望に縛られた不完全な人間が完全な道徳に達するために自由、不死、神が要請されるのであるが、ヘーゲルは、それをアレンジして、「道徳と自然あるいは幸福との調和」「理性と感性の調和」「聖なる立法者」の「要請」としてまとめている。
カントが完全な道徳の成立する根拠を要請しているのに対して、ヘーゲルはむしろ完全な道徳が成立している理想的状態を「要請」の対象としている。
そして、それらを「ごまかし」として批判するのである(現行の翻訳ではVerstellungというドイツ語を「ずらかし」という日本語?で訳しているものが多い)。

 しかし、この「ごまかしだ」という批判がわからない。
私の先輩がカントの道徳的宗教論で卒論を書いたとき、さる高名な倫理学の先生から「君はカント道徳哲学に対するヘーゲルの批判を読んだかね」とこの箇所を指摘されたそうな。
であるからして「わからない」で済ましているわけにはいかないので、こうやって何とかわかろうとしているのでありました。
どうなることやら。

 ちなみに、このわからなさの象徴として、この「ごまかし」あるいは「ずらかし」つまりVerstellungの章の最後の文のいくつかの翻訳を比べてみると全く反対の訳がつけられていたりする。

 まず岩波版ヘーゲル全集の金子武蔵氏の訳。
「かくしてこの自己意識は実際の行動においては佯り(いつわりHeuchelei)をおかしているものであろうが、しかしそれでいて、あの「ずらかし」をあのように軽蔑することがすでに佯りの最初の外化であり放棄であるのであろう。」

次いで、私がけっこう参考にしている牧野紀之訳(出版社は未知谷、一冊本になっていて、それでいて最小限の注が付いていて便利)。
「しかし、〔ここまでと違う点は〕その意識はこれがずらかしであることを知っているということであろう。従って〔知っていてするのだから〕、じっさいにそれはごまかしであり、ずらかしをはねつけるというのも既にしてこのごまかしの最初の現れなのである。」(牧野氏はHeucheleiを「ごまかし」と訳している。)

 つまり、金子訳では、たとえ自分が「ずらかし」を犯していても、それの自覚があるから意識は「ずらかし」を軽蔑することで、佯りを外に出して放棄する、つまり既にして佯っているような悪い奴ではない、ということである。
対して、牧野訳では、意識は自分のずらかしを自覚しているけれども、そうしていながら他人の「ずらかし的態度」をはねつける(軽蔑する)という態度は、それこそ欺瞞的な態度で、こいつは悪い奴だ、ということになる。

 ひとつの章の結論部分が、このように正反対の解釈を呼び寄せるようなわかりにくい章だということであります。
Ausserungというドイツ語を、金子氏は外に出して放棄することと解釈し、牧野氏は表現することと解釈するところからくる、正反対の解釈であります。
でありますから、私がここでどんなたわごとを述べるのも許されるということですが、わたしとしては牧野氏の訳の線で考えていくつもりです。
つまり「おまえなんか嘘つきじゃ」と他人を嘘つきと罵倒する奴が、すでに「嘘つき」である、つまり「アホいうもんがアホじゃ」の「嘘つきヴァージョン」であります。

 あ〜、やっぱめんどくさそう。
止めるなら今です。
この後を読んで、「訳が分からん」と怒り出す方がおられても、私は責任を持ちません。

 それで、ヘーゲルの要請論批判ですが、これがはっきり言って批判というより「いちゃもん」としか思えない。
「いちゃもん」・・・ドイツ語でなんと訳すのでしょうか?

 で、どんな「いちゃもん」かと言うと・・・

 道徳的意識は、この世の中が道徳的でないことを嘆き、「道徳性と自然(ここでは「この世」ぐらいの意味だと思う)の調和」を要請する。
この「調和はアン・ジッヒに(「本来は」ぐらいの意味)存在すべきである」(454ページ、ズールカンプ版)。
ということは、この調和は現実には存在しないということである。
しかし、現実的な道徳的意識の真骨頂は「行動する」ことにあるのだから、この調和を現実のものにするために行動する。
となると、「しかし、この行動において、あの(要請という)位置がすぐさまずらされて(ごまかされてverstellt)いることになる」(同)
「つまり、成立していないと確認されて(aufstellen)、だから要請でしかなく、彼岸にしか存在しないはずのものを、行動はじっさいにすぐさま実現するのである。つまり、この意識はこの行為によって「要請することには真剣ではない」ということを明らかに語っているのである。なぜならば、この行動の意味は現実には存在するはずのないものを現実のものとする、というところにあるのだから。」(同)

 つまり、「aufstellenされた理想状態を、意識が行動によって実現する」というのは、aufstellenすることつまり要請することをverstellenしている(ずらしている、ごまかしている)、というのである。

道徳的な理想郷を目指して行動することが、なぜこんな言われ方をせねばならないか?
道徳的に行動しようとする者への「いちゃもん」としか言いようがないのではないか。

 しかし、「いちゃもん」の論理は、そんな行動によって実現するような調和なら、大げさにこの世の彼方に「要請」するなよ、ということなのであろう。
この世で実現しないからこその要請であり、実現しないとわかっていて行動することを「道徳的行動」と自称するのは論理的に成り立たない、ということなのである。

従って、この行動は、aufstellenされた要請の真剣さ誠実さを裏切っている、とも言える。
逆に言えば、その真剣さ、誠実さは、行動におけるVerstellungを隠蔽しているとも言える。

 わかりにくいと思いますが、この「いちゃもん」ヘーゲル君の「道徳的意識」への基本的なスタンスは、この世を生きる生身の人間のモラルの問題を無限の彼方のアン・ジッヒの理想状態で語ろうとするその姿勢への嫌悪にある。
つまり「ここがロドスだ、ここで跳べ」とAKB48と同じことを言っているわけです(もっとも秋元康氏の元ネタはヘーゲル『法の哲学』序文らしいですが)。

それともう一つ、「徳と福の一致」を道徳の理想とする人間の思い上がりへの反省も問題にする。
つまり、なんであんな奴に幸福が訪れるのだ、という問題である。
正直ものがバカを見るなんておかしいじゃないか!という問題である。

 先のようないちゃもんに対して、道徳的意識は自分は道徳的に完全ではないがしかしその完全性を目指す途上にあるということで道徳的なのだ、と応えるという場面を設定しヘーゲルは次のように、いちゃもんをつける。

「・・・この世では、しばしば道徳的な人が不運に見舞われ道徳的でない人に幸運が訪れるということが経験される。しかし、道徳的に完成されていない中間状態、それは本質的で重要なことだということになったのだが、そのような中間状態が明らかにしているのは、そのような(正直者がバカを見るなんておかしいじゃないかという)受け取り方や(徳と福の一致という)あらまほしき経験を望むことは、事柄をごまかしているに過ぎないということだ。なぜなら、道徳性は完成していない、言い換えれば道徳性は実際には存在していない場合に、道徳的な人がうまくいかないからといって、それがどうしたというのだ?――同時にここにはっきりしてきたのは幸福そのものが問題なのだということだ。そうして示されるのは、不道徳な人に幸運が訪れるという見立てには、言われるような不正なところはなんら含まれていないということだ。ある個人を不道徳と指摘することは、道徳性が完成していない以上、本来、成立しないし、自分勝手な根拠でそう言い立てるだけだ。だから、この経験の不当だという判断の内実は、ある人々には幸運それ自体が訪れないということに過ぎない。つまり、これを不当と判断するのは、妬みなのである。ただ、その妬みは道徳性を口実としているということなのである。しかし、ほかの人々がいわゆる幸福にあずかる、そのような経験を受け入れるのが何かといえば、他人にも自分にもその幸運つまり僥倖を望み認める人の好い友情なのである。」(459−460)

 いちゃもんヘーゲルは、カントの道徳哲学のキモを「徳と福の一致」つまり「正直者が報われる」ということを現実の彼方の理念として立てたことだと見ている。
『歎異抄』風に言えば、「悪人正機」ならぬ「善人正機」である。
「正直者が馬鹿を見る」と嘆くのは、「妬み」にしかすぎないと言ってのけるのである。
カント流の道徳哲学を「妬み」という言葉で批判するヘーゲル。
なんかヘーゲルって、とんでもない悪人のような気がします。
ここ読んで、ぞーっとしました。

「正直者が報われるべき」ということを理念として立てるaufstellenことは、完全な善人ではないという明らかな現実をverstellenすることに他ならない、というのが「いちゃもん」の基本的スタイルなのである。

 しかし、こうやって思いっきりシンプルにすると、もちろん、そうやっていちゃもんつけてるお前はどうなんだ、という問題が出てくるのは理の当然である。

 ヘーゲルもただカント流の道徳にいちゃもんをつけているだけならば、つまらないいちゃもん野郎に過ぎない。
もちろん、この後、ヘーゲルはこのいちゃもん野郎を超えて、「良心、美しき魂、悪とその赦し」という章に進んでゆく。
その時、このいちゃもん野郎を置き去りにして進んでゆく論理が「お前は偽善者だと罵倒するそのことが既に偽善である」という「アホ言うお前がアホじゃ」のヘーゲル・ヴァージョンなのである。

 それで、先に示した金子氏と牧野氏の訳を含むVerstellungの章の最後の部分を訳してみる。
断っておきますが、逐語訳的に訳したのではさっぱりわからないので、相当に言葉を補って、私のポンコツ頭でも意味が通るように訳しています。
もちろん、上にちょこちょこと訳した部分も同じこと。

「意識は、区別にならないものを区別する。つまり、現実を道徳的にむなしいと言ってみたり同時に道徳のリアルな現場と言ってみたり、また純粋な道徳性を真の実在だと言ってみたり実在を欠いていると言ったりする。その意識が、このようにバラバラにしていたこのような考えをまとめて言葉にすると、次のことを表明していることになる。つまり、現実の自己と理想のアンジッヒという二つの要素を上のように規定してバラバラに立てることに真剣ではないということ、そして、意識の外に存在する絶対的なもの(つまり神)と言っていたものを、実は自己意識の自己のうちに閉じ込めて保持しており、また絶対的な思想つまり絶対的なアンジッヒ(つまり道徳的理想)と言っていたものを、まさにそれゆえに真実でないものと見なす、ということを示しているのである。――意識は、この自己とアンジッヒという要素をバラバラに立てる(auseinanderstellen)することは、ごまかし(verstellen)である、ということに気が付くのである・・・」(463)

 この意識、道徳的な意識は決して悪い奴ではない。
道徳的な理想状態を立て、それを保証する神を彼方に仰ぎ見て、不完全ながらも誠実にこの世を生きようとしているいい奴である。
しかし、それは見方をかえれば、ありもしない理想状態を言い募り、不完全でしかない現実の自己の道徳性をごまかす不誠実な意識なのである。
ゆえにヘーゲルは上の「・・・」に続けて、接続法第2式で次のように言う。

「したがって、それでもこのごまかしにしがみつくというのなら、それは欺瞞(Heichelei)であろう」

 もちろん道徳的意識は、そんなごまかしにしがみつかない。

「(しがみつきそうだが)しかし、意識は道徳的で純粋な自己意識として、彼の道徳性に関する表象と彼の本質が等しくないという事態、彼にとって真実でないことを真実と見なすような事態を唾棄し、そこから自分のうちへと逃れるのである。そこに道徳的な世界の見方を嫌悪する良心が登場する。それは身の程をわきまえた率直なガイストである。このガイストは、あのような表象の媒介なしでそのまま良心的に行動する。この無媒介(という率直さ)のうちに彼の真理がある。」(463−464)

 ここで「身の程をわきまえた率直なガイスト」と訳したのは「der einfache seiner gewisse Geist」である。
金子氏はこれを「自分自身のうちにおいて自分を全的に知り確信している単一な精神」と訳しておられるが、これをしっくりくる日本語にすると上のような言葉になるのではないか。
ただ、今まで「意識」と言われていた人間がなぜここでいきなりガイスト(精神)となるのかはわからない。
その問題はおいておく。
ここで人間は道徳的理想を語るのではなく、またそのような人間にいちゃもんをつけることに終始することなく、自分の良心に従って行動する人間となるのである。

 しかし、率直に自分の良心に従って行動するのはなんだかすがすがしい感じがするが、それは単なる独りよがりではないのか?
おそらくこのような疑問に対して、ヘーゲルは述べる。

「このごまかしの世界が道徳的意識をその要素に分解して展開したものにほかならず、それは道徳的意識のリアルな姿に他ならないのだから、彼が自分のうちに戻ったとしても、彼の本質が何か別のものになったわけではない。むしろ、彼が自己のうちに戻ったというのは、
彼の真理が差し出された真理であるということに気が付くということでしかないのである」(464)

 道徳的意識は、もはや理念を立てたり、そのあり方にいちゃもんをつけたりしない。
自分の良心に従って行動する率直な人間である。
だからと言って、別の立派な人間になったわけではない。
むしろ、彼のよって立つ良心という真理が、どこからか差し出されたものであることを認めそれを基盤に行動するのである。

「差し出された」vorgebenされたということ言うことに引っかかるが、とにかく彼はそのような真理を基盤として行動する。
単なる独りよがりではない。
これでいちゃもん人間がなんだかいい奴に変わってめでたしめでたしということで、この章を終わってもよさそうなものだが、ヘーゲルはここで一言(というかごちゃごちゃと)付け加える。
それが、金子氏と牧野氏では正反対の解釈になってしまった箇所である。
ここはまた接続法第2式で語られる。

 もし、意識がこのことに気づかなかったらどうなるか?
「意識は、相変わらず、その差し出された真理をオレの真理だと言い募ることにならざるを得ない。というのは、意識は自分(の真理)を対象的な表象として言明し表現せざるを得ないからである。ただし、こういうことがごまかしに過ぎないことは知っており、それゆえ実際にはそれは欺瞞である。したがってかのごまかしへの嫌悪は既にして欺瞞の最初の表明なのである。」(同)

 道徳的世界観にいちゃもんをつけ、それを嫌悪し、これこそがオレのよって立つ真理と振りかざした途端、それは彼自身がいちゃもんをつけていた道徳的世界観と同じあり方に陥る。
理念と現実の間にaufstellenとverstellenが交差するのである。
このとき、「ケッ、お前はダメじゃん」と嫌悪を表明することは、自分の真理の正しさを彼岸的理念として掲げることになり、「かのごまかしへの嫌悪は既にして欺瞞の最初の表明なのである」ということになるのでした。

 「アホ!」と他人を罵倒し、自らの賢さを誇るものは、その誇りは驕りとなり「アホいうもんがアホじゃ」となるのでした。
もちろん、この後、子どものころのケンカのように、この「アホ言うもんがアホじゃ」というもんがアホじゃ」というもんがアホじゃ」・・・というアホの無間地獄が展開されるのですが。

 であるからして、この後に登場する良心は、男は黙ってサッポロビールのように、信念の人ということが予想されます。
この信念の人は、ロドス島でなら高く跳べるのに・・・なんてことは言わず、ここをロドスと見立て跳ぶのでありました。

しかし、「良心、美しき魂、悪とその赦し」という次の章の表題は、この信念の人にも悪に陥る局面があることを示唆しています。
しかし、そのような悪こそが許される、つまりヘーゲル的「悪人正機」論が展開されるのでした。

 もう少しスッキリ書けるかと思いましたが、もひとつでしたね。
ロドス島でなら、すっきりと書けるのですが・・・

 もしここまでお付き合いくださった方がおられたら、心からお礼申し上げます。
(つっこみどかろがあったら、そっとメールで教えてください。)

posted by CKP at 13:04| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

ピエロのトランペット――突然、聞こえてきた昔

 いきなりですが、遠い遠い昔、NHKの「みんなの歌」で聴いた「ピエロのトランペット」という曲が、耳の底から聞こえてきました。
ひょっとしたら、懐かしいと思う方がおられるかもしれませんので、ここにアップしておきます。



 こんな悲しげな曲を、あの頃の子どもたちは喜んで聴いていたのですね。
そして、こんな曲が好きでこうして動画をアップされる方がおられるのですね。
ちなみに原曲はこれ。



突然の「ピエロのトランペット」で失礼しました。
posted by CKP at 10:56| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

ガッカリ主任の唄ーーただし未完成

 この前の記事で「学科主任」と打とうとして「ガッカリ主任」と出てしまった。
ガッカリ主任。
なんだか、このガッカリした感じが気に入っている。
すると、とやたらと「ちゃっきり節」の合いの手、あの「ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ きゃあろが鳴くんで 雨どらよ〜」にこのガッカリが重なってくる。
というわけで、

ガッカリ ガッカリ ガッカリよ
ヘーゲル読んだら ベンショーホー

とか
ガッカリ ガッカリ ガッカリよ
ザインとツァイトは ハイデガ〜ア〜

というのが今うるさく頭の中で鳴っています。

 はるばるこのブログにたどり着いた哲学を志す若者は、ホント、ガッカリするでしょうね。

 でも、安心してください。
このガッカリ主任もあと一か月。
来年からは、ちゃんとした学科主任ですよ。

 ところであの「ちゃっきり節」、なんと北原白秋の作詞なんですね。
すみませんでした。
posted by CKP at 13:32| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月24日

嫌がるタヌキを無理やりに・・・――池上タヌキ之介哲司先生の集中講義予定

 今年度、CKPカドワキはガッカリ主任、じゃなかった学科主任というお仕事を拝命しており、これでもけっこう忙しいのでありました。
レポートの採点が終わっても、次から次へとお仕事が回ってくる。
わたしの仕事容量を超えているので、他の学科教員の皆様のお力添えを得てなんとかやっております。
シラバスチェックに関しても(藤)大人のお力添えを得てやりましたよ。

 昔の学生さんには信じられないことでしょうが、最近は、大学の授業の一コマごとの内容を年度初めに公表するのです。
半期15コマの内容の一覧表を教員は書き込むのでありました。
むかしのように「今年はヘーゲルの宗教思想について考察」などという一行授業案内で済ましていると文科省からおとがめが来るのであります(それで全然困らなかったですけどね)。
そのうえ各学科の主任は、その授業案内(シラバス)がちゃんと書けているのかチェックするのであります。
一番チェックされるべき人間がチェックしているという根本的矛盾を無視して進んでいると、池上タヌキ先生のシラバスが目に入ってきたのでありました。

 近頃は浅草での隠居生活がすっかり身についてしまって、京都まで講義に出てくるのを嫌がるのでありました、このタヌキは。
その嫌がるタヌキを「もう一年だけ・・・」とかなんとか言って引っ張り出した講義のテーマは・・・

「テーマ 傍らにあること 私と他者との関係をめぐって」

 とありまして、そして「概要」「到達目標」の欄には、

「日常における人間存在のあり方を、いくつかのテーマを軸に考察する
倫理的主体を個人として捉え、その視点から倫理的問題を考えていこうとすると、どうしても解決できない問題が生じてしまう。その難しさが具体的な問題を通して提示されるので、それを切っ掛けとして自らの思索を深め、考えることの厳しさと楽しさを知る。」

と、短いながらもなかなか味わい深い文章なのであります。
で、「形式」の欄には、

「講義形式で行う。しかし、授業中にこちらから質問もするので、漫然と聞いているのではなく、常に自分の頭で考えていること。」

と、「漫然」を戒めておられるのであります。
さらに、シラバスには「予習・復習」という欄まであるのですが、そこには

「授業中も授業後も、テーマについてひたすら考えること。但し、車にはねられたり、階段を踏み外さないように。」

と親切なアドバイスが書かれています。
が、ある意味では、それくらいでないと考えたことにならない、タヌキの思考は命がけということでありましょう。

 この講義、9月6日から9日までの集中講義です。
元ゼミ生の方々、同窓会は8日までにご計画を。
ホント、このタヌキを穴から引っ張り出すのに苦労してますので、ぜひともご聴講ください。
posted by CKP at 13:37| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月21日

うるさい今日の私――わからんことが多すぎる

 「どうぞお静かに」と言いながら、うるさいことを書きますが・・・

 年明けからこのかた、株式市況がうるさい。
株価の乱高下は、わたくしには何のかかわりもないものです。
その昔、NHKの第二放送で「○○社3円安、✖✖社変わらず・・・・」という不思議な抑揚のアナウンスを聞いて以来、株の世界はどこか遠い世界の出来事だと思っています。
しかし、このところの株価の乱高下のニュースはそんな私にもやかましく届いてきます。
そして、「円高株安」という言葉が乱れ飛んでいますが、これがわからない。
 
 円が高くなってと輸出が伸びなくて株安になる、と説明される。
これがわからない。
輸出不振になれば経済が落ち込んで円が安くなるのではと、ブンガクブ的頭は考えるのであります。
円が高くなるというのは、日本経済が信用されているということと考えるのであります。
こういうアタマを納得させる説明を誰もしてくれない。
なんだかんだと言っても、日本の経済は世界から見れば「まし」ということか?

 それに、「円高株安」となると「アベノミクス失敗」と鬼の首を取ったように喜ぶヤカラが、そういいながら「規制緩和が大事」と主張するのもわからないのです。
ワタシの目に映る規制緩和は、バス会社や介護施設の乱立で、生命が危険に冒されていることだけなのです。
規制緩和して新たに企業を!ということらしいが、規制のあるとことろで企業しようというのは「起業精神」とは言えないのではありますまいか?
規制も何もないところで「へー、そんなことが商売になるのか」と何かを始めるのが起業精神というのではないのでしょうか?

 それに金融をいろいろいじって景気をよくしようというのもわからない。
景気が良いというのは、みんなが安心てお金を回していける状態のことだと思うのです。
それには雇用の安定が必要。
今みたいに終身雇用、年功序列は古臭い!成果主義、派遣労働者で企業利益の確保とか言っていたんじゃ、おちおちお金を手放すことができない、と考えるのではないでしょうか、ふつう。

 と、いきなりの経済ネタで失礼しました。
さきほど、確定申告書を自宅パソコンで独力完成したので、ちょっと経済に対して強気に書いてみました。
posted by CKP at 15:33| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする