2016年11月02日

キースやチャーリーとおんなじ!――ローリング・ストーンズ『ハバナ・ムーン』視聴記

 ローリング・ストーンズが今年、2016年3月25日にキューバのハバナで開催したフリー・コンサートのDVDを見ました。
もう50年以上もロックのコンサートの接していなかったキューバの人々の興奮が、そしてその人々を前にしたスト−ンズの興奮がストレートに伝わってくる気持ちの良いステージでしたよ。

 それにしても70歳を過ぎたストーンズの皆様、ホントに元気です。
みな鶴のように痩せて皺くちゃなのですが、ミック・ジャガーなどはステージせましと、いつもの妙なステップを踏み続けています。
みんなどんな健康管理をしているんだろう?
キースもロニーもタバコは演奏中でもぷかぷかやってるのに!
もともと音数が多いバンドではないのですが、さすがに今までよりさらにシンプルな演奏になって、それだけにそれそれの曲の味わいがグッとくるプレイでした。

 で、気が付いたのですが、キース・リチャーズとチャーリー・ワッツの禿げ方が、アタマのテッペンから禿げてくるカッパ禿げ。
カメラは執拗に哀愁ただよう後頭部を追っていました。

 わたくしも床屋に行くと「テッペンから来てますねぇ」と言われるカッパ禿げ過程を歩み出したので、キースとチャーリーのカッパ禿げは「おお同志よ」とうれしくなりました。
ちなみに、ニール・ヤングもカッパ禿げですね。
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2016年10月31日

butの法則ふたたび――後出しジャンキーより

 え〜、今年も自暴の――じゃなかった自坊の報恩講が無事終わりました。
年々、寺中を掃除して荘厳(しょうごん)を整えるのがつらくなります。
もうへとへとですぅ〜。
で、この報恩講が終ったら、わたくしは、「ボブ・ディランは、すくなくとも
ノーベル文学賞は拒否しない」に一票・・・と書こうと思っておったのよ、ほんとに。
したら、日本シリーズとうちの報恩講という忙しいときに「言葉を失っていた。ノーベル文学賞は光栄だ。授賞式にも行けたら行く」とディランは述べたそうな。
もう少し持ってくれたら、「後出しジャンケン」にならずに済んだのに・・・

 で、この受諾声明にあのノーベル賞選考委員の「無礼で傲慢」発言がどう関係したか?

 あの発言はスウェーデン語で英語に訳されるときゴチャゴチャしたようですが、問題は「but」。
どうも、あの発言はディランの無視について聞かれた委員が
「そりゃ、無視するってのは無礼で傲慢だってことになるよね。でも、それがディランじゃないか」というニュアンスで答えた、というのが真相らしい。
次のような英語訳をみつけました。

One can say that it is impolite and arrogant, but he is who he is.

この「but」を見落とすと、妙に「無礼で傲慢」が強調されて、ノーベル賞委員会こそ無礼で傲慢ということになる。
「あなたはとってもいい人です。でも、お友達でいたほうがいいと思います」というラヴ・レターの返事を「いい人って書いてあるからまだ希望はあるよな」としか読めない頭の悪い青年と同じになってしまいますね。

わたしも、最初、この報道に接したとき、そう思いました。
しかし、真相は違ったようで、それで、ディランも、ちょっと安心して受賞オッケーということになったのではあるまいか。
また、賞を拒否するのがディランらしい、という声にウンザリしていたのもあるかもね。
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2016年10月18日

読むとためにならんぞ!――カドワキ、ワキコシ痛し!

 10月のはじめ2週間ほどブログをさぼりました。
そのころ世間で「役に立つ」という言葉が取りざたされていたので、柄にもなく、「役に立つ」ということについて「役に立つ」文章を書かねばと思ってしまったのでした。
毎朝わっしぃの『折々のことば』を拝読していると、自分もひと様の生活に役立つような文章をしたためねばと思ってしまうのでした。
身の程知らずのことを考えてしまいすみませんでした。

 そんなわたしが、いま書きたいことと言えば、タヌキから教わった吉行淳之介のくだらないエッセーの話。
ホント、くだらなくてためにならない、間抜けな話。
これを書こうかなと思っていたら、腰の右わきがぎっくり腰みたいに痛くなってきた。
タヌキがわが腰を呪っているのではないか・・・ということで、その話は書くのを止めます。

 で、ど、どんな話?
と興味のある方は直接ワキバラいたいカドワキにお尋ねください。

ね、ためにならんブログだったでしょ!
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2016年10月15日

『栄光のランナー 1936ベルリン』――いよいよ京都みなみ会館で公開

 1936年のベルリン・オリンピックに出場したアメリカの黒人陸上選手ジェシー・オーエンスを主人公にした映画『栄光のランナー 1963ベルリン』がいよいよ京都のみなみ会館で公開となりました。
http://kyoto-minamikaikan.jp/

 なぜ、「いよいよ」なのかというと、その映画のパンフレットに「人生こそ本当のオリンピック」という文章を寄せておられる古川哲史先生からそのパンフレットをいただいていたからなのでした。
そのパンフレットを読むと、この映画は貧しい家庭に生まれたオーエンスが人種差別を乗り越えてオリンピックに出場した――という単純なお話ではなく、ナチスのユダヤ人排斥のオリンピックにどう対応するかというところで若き日のブランデージとゲッペルスが裏取引をしたり、差別オリンピックをオーエンスが拒否したり迷ったりとドラマとして面白そうなお話になっているようです。
「お話」といっても基本線は史実に忠実に作られているようです。

 また、オーエンスに関しては『走ることは、生きること』という本が古川先生そして三浦誉史加先生、井上摩紀先生の大谷大学の先生方によって翻訳されて、昇洋書房から刊行されています。
たいへん美しい本ですよ。
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2016年10月13日

ね、やっぱり、ボブ・ディランでしょ!――今年は来ると思ってたんだ

 ボブ・ディランに今年のノーベル文学賞が決まりました。
今年は、きっと、ボブ・ディランと思っていたのでした。
ホント、そうおもっていたのですよ、後出しジャンケンみたいですけど。
というのは、イギリスの予想屋のオッズで村上春樹が強く、ボブ・ディランは全然注目されていなかったから。
うん、これは今年はディランに来る、と思ったのです。
と、いまさら言っても遅いけど。

 で、ディランについては、わたくしの『死ぬのは僕らだ!』(角川SSC新書)のカミュを扱った章に引用しているから、お持ちの方は見直してくださいね。
そんな本知らんぞ!という人はぜひお求めになってください。

 カミュの「自殺は認識の不足である」という言葉を、ディランの「Like a rolling Stone」を使って説明しています。
ディランの最高傑作、いやロック史上の最高の名曲です。

 と、何とかディランにあやかってわが本を売ろうとするセコイ門脇でした。
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2016年09月28日

自分自身で考え、理解し、全て言葉にできるぐらいの能力――井上康生

昨日に引き続き、昨日の毎日新聞のインタビューから、柔道の井上康生監督の言葉があまりにかっこいいのでご紹介します。
リオ・オリンピックへ向けて今までの稽古とは違う合理的なトレイニングを取り入れて、日本柔道を復活させたことを述べた後、金メダルの二人に共通することは?という問いに対する答え。

「一言で言えば、自立心だと思う。
スタイルはまったく違う2人だが、何をやるべきか、自らの戦いに何が必要か、考えがよくまとまっていたような気がする。
外発的に詰め込まれるのではなく、自分自身で考え、理解し、全て言葉にできるぐらいの能力がないと五輪では勝てない。
そうした能力の根源にあるのは知識だと思う。
読書し、人の話に耳を傾け、自ら経験を積む。
知識が豊富であればあるほど、いろいろな考え方を持てる。
自らをコントロールし、マネジメントする能力がある選手だけが、数々のドラマが起きうる4年に1度のその日を勝ち抜いていける。」

「考えがよくまとまっている」とか「全て言葉にできる能力」が、具体的にどのようなことなのかはわからないけれど、とにかく柔道という格闘技においても考える力、言葉にする力が大切なのだろう。
いや、おそらく命をやり取りしかねない格闘技だからこそ、「考える」が大切なのだろう。
そしてそれを「自立心」と言ってのけるカッコよさ。

 オリンピックの金メダルとは縁のない世界に生息するわたくしではありますが、このことは「よりよく生きる」ために基本的なことではなかろうかと強く思った次第であります。
posted by CKP at 16:45| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

愛のことはもう仕方がない――オイオイの言葉を枡野浩一の書名からとった

 今朝の毎日新聞の「読書日記」で松尾スズキが枡野浩一という歌人にして芸人の『愛のことはもう仕方がない』という本を紹介していた。
わたしは、その読書日記の本文を読む前に、「愛のことはもう仕方がない」という書名にもうやられていました。
そ、そうなんだ、愛のことは、もう仕方ないんだ!

 読んでみると、松尾氏は
「枡野さんという人の場合、やはり、この本を読んでも、どの本を読んでも、愛がこんがらがってやっかいになっているとしか思えない」
と愛のやっかいさ、仕方なさに共感を示している。

 しかし、私の場合は、それもそうなのだろうけど、それに加えられた、「もう」というなんだか吐き捨てるような、怒りのような、はたまた諦めのような言葉に惹かれる。
「愛のことは仕方がない」
と「愛のことはもう仕方がない」
ではだいぶ違う。
いや、もう全然違う。
ひょっとしたら私のアタマのどこかで、にしきのあきらの「もう恋なのか」(浜口庫之助作)のメロディが共鳴しているのかもしれない。

 とにかく「愛のことはもう仕方がない」という言葉の感覚にグッときましたよ。
きっと購入すると思います。

松尾氏は
「この本には同じぼやきを続けることで「仕方ない」という逆説的な愛のロマンがある意味溢れかえっているのである」
と結んでいます。

 んとに、もう仕方ないですね。
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2016年09月21日

それは言わない約束でしょ?――オイオイの言葉(というより『昭和語広辞苑』かな?)

 世の中には「それは言わない約束」がいっぱいあるようで・・・

 この前の前の記事に書いたボケモンg〇の契約事項「某政府機関が閲覧・・・」について、それから気を付けてさがしてみるが、そんなことを問題視するマスコミはいない。
かろうじて朝日が、オリバー・ストーン監督が「これは監視資本主義の新たな段階」と発言したことを述べているぐらい(ほかにもあるかもしれませんが、私が見つけたのはこれくらい)
https://dot.asahi.com/afp/2016072200158.html
どうもこの問題に関しては「それは言わない約束」が成立しているように見える。
そういう目で見ると、あのボケモンg〇の配信の官民あげてのキャンペーンって、なんだか不気味でした。
ホント、いいのかね。

 あるいは富山市議会の政治資金不正についてはマスコミの皆さんは思いっきりたたいておられます。
が、某大臣稲◎朋見氏の白紙領収証問題はまったく話題にならない。
あれ、問題ないのかねぇ?
ひと昔まえだったら、大騒ぎしたと思うのですが。
うちの県から選出された議員ですけど、ホント、すみません。
でもね、言っとくけど、選挙区は違います!
うちの選挙区はパンツ大臣として有名な高木某氏。
いずれにせよ、トホホな県ですみません。

 しかし、
「おとっつぁん、おかゆができたわよ」
「いつももすまないねぇ。こんなとき、おっかさんが生きていてくれたらなぁ」
「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」
というシャボン玉ホリデーの定番ギャク、いろんな意味で現在ではむずかしくなりましたね。
まずは、おそらく、半身不随で寝たきりの老人をバカにしているという問題が指摘されるだろうということ。
しかし、当時はそのような老人が身近にいたので、それほど「バカにしている」という感じはなかったのではないか?
もちろん、闘病している人の中には、不快に思っていた人はいただろうが、そのころは半身不随で寝たきりというのは普通の老人の「一形態」とみなされていたような気がする。
あの貧乏の描き方も、ついこのあいだまではみんなこうだったよなぁ、という合意があった。
だがら、、そのような家庭での「介護」が一般的でなくなっている現在、あのようなギャグを展開されても親近感がなくなっているだろうということ。
今の子どもにはきっと何のことかわかりません。

 というわけで、ギャグ自体が「お呼びでない」という21世紀の日本なのでした。

【とここに「お呼びでない」が出てきても、これ自体がギャグになっているのが分かりにくいのではというご心配もあるようなので、このギャグコントの一般的なパターンを示しておきます・・・

まず、ザ・ピーナッツが、寝たきりのハナ肇演ずる爺さんに、
「おとっつぁん、おかゆができたわよ」
「いつもすまないねぇ。おめぇたちには苦労ばかりかけて・・・。こんな時、ヒロシがいてくれたらなぁ・・・」
「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」
すると、そこにおどおどキョロキョロした犬塚弘演ずる「ヒロシ」が返ってくる。
「お兄ちゃん!」
「ちょっと、かくまってくれ」
と久しぶり帰ってきたヒロシは警察か何かに追われている様子。
そこへ、植木等が話の筋とは全く関係なく登場。
ボルガの舟歌なんかを唄う。
皆も一緒に歌うが、そのうち植木を睨みつけ、咳ばらいをする。
気持ちよく歌っていた植木もそれに気が付き
「お呼びでない。お呼びじゃないね。こりゃまた失礼いたしました!」
で、みんなズッコケル。

上の文の「お呼びでない」を理解するには以上のようなコントの流れを理解せねばならない。
よろしいでしょうか。】

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2016年09月20日

本日9月20日台風のため休講――新校舎での講義はおあずけ

 本日2016年9月20日は台風接近のため、2限目から休講となりました。

 サンダーバードが運休になるかも知れん、と前日から京都に移動して後期の最初の講義に備えておったのである。
が、ひそかに台風休講を願ってもいたのであろう、京都に「暴風雨警報」が発令される夢を見た。
なんであれ、「休講」はうれしい。
受講する方はもっとうれしいであろうね。
が、目覚めてみれば、京都はまだ穏やか。
で、しょうがないなぁ、と大学に来たら、台風接近のため休講。
ちょっとうれしいが、ちょっと残念。
というのは、このほど完成した新校舎で講義する予定だったのである。

 別に旧校舎でもよかったのであるが、こやつに新校舎での授業をあてがっておかないとブーブー文句垂れるのではないか、という教務の的確なご配慮により新校舎での講義が今日から始まる予定だったのである。
明るい開放的な校舎で講義すれば、あたしの陰気な講義も少しはそれなりに明るいものになりましょう。
が、台風休講ということで来週にお預けとなりました。

 てなことを書いているうちに、外はひどいことになってきております。
posted by CKP at 15:43| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

What's going on?ふたたび――このブログを読むと何か役に立つのですか?

 この金土日あたりに妙にアクセスが増えている。
どうもこの記事にアクセスが殺到しているのである。
http://tetsugakuka.seesaa.net/article/33816064.html
いったい何が起こっているのでしょうね?

 そういえば以前にもそんなことがありました。
その時にはビンボーダナオのことを書いた記事にアクセスがどっと増えました。
今回は、山田晶先生のこと?
よくわかりません。
ちょっと不気味です。
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2016年09月14日

「ゲームのデータはアメリカ政府機関が…」――オイオイの言葉

 勉強さぼって、『紙の爆弾』という『噂の真相』のような雑誌を読んでいた。
「コイツらのゼニ儲け」という記事に西田健という人が怖いことを書いていた。
ポ◎モ◎ゴーのことである。

 私もあれはどうやって「儲け」ているのだろうと不思議に思っていた。
西田氏はそのゲームの本質は利用者の行動を含めたデータが「自動的にデータ化」されるところにあるのであって、最初から赤字覚悟のゲーム。
そして、契約書には「ゲームのデータはアメリカの政府機関が閲覧、利用できる」とはっきり書いてある、という。
これがホントなら怖いゲームですね。
いまだにガラケーの私なぞは、どうやってその契約書にたどり着けるのか皆目分からない。

 中国・ロシアはこのゲームを「アメリカのスパイソフト」として禁止しているという。
日本のテレビは、交通事故などがあっても「注意しましょうね」で済ましていました。
恐いですね。
これが本当なら、ホント、恐いゲームですね。

 ということを書いていても、どこかで監視されてんでしょうか?
律儀に伏字にしてるのは、それが怖いからなんですね。
けっこうビビリです。
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2016年09月10日

詩集『アオキ』――神尾和寿君から届く

神尾和寿君から、詩集が届いた。
詩集『アオキ』編集工房ノア。
詩集を送ってよこすくらいだから、神尾君は詩人だ。
詩人だけれども、それだけでは食べてゆけないので神戸方面で大学の教師もしている。
パチンコも好きだし、京一会館も好きだった。
なんだかんだで神尾君の詩集も、「現代詩人文庫」もいれれば7冊目だ。
ラッキー7の詩集である。
いやウルトラ7か?

神尾君の詩は短くて、ややこしい表現がなくて、どこかとぼけていておかしい。
おかしいけど、ときどき悲しくもあるが、そこにおさまりはしない。
邪悪であったり、猥褻であったりもする。
ひとつ紹介する。
「スィート」という詩。

人生は甘くない

ぼくに
ぼくよりも年上の人は いつもそう言う
(であるならば
どのような味がするのでしょうか)
味はない
色も形もない
喩えようがないからこその 人生
もしも
喩えることができるなら ソイツは魚や豚になっちゃうよ!

にこにこしながら いつもそう言う

という調子の詩がいっぱい。
もういっこ。「アレキサンダー君へ」

アレキサンダー君
怪獣が
もう近所のタバコ屋の
店先までやって来ている
ただちに起きてくれまいか
部屋から出てきてくれまいか 君の
渾身のキックで
息の根を止めてくれないか 想像が追いつかないほどの
凶悪な怪獣なのだからと
ぼくは
玄関の前で
直立不動で
大声で アレキサンダー君に伝えました

アレキサンダー君は起きてくれただろうか?
ところで、神尾君は私の長年の友人だと思うのだが、
今回、
じーっと詩集の奥付けを見ていて驚いた。
私はこの40年ほどのあいだ、
「和寿」を「かずひさ」とよんでいた
のだが
それは「かずひさ」ではなく
「かずとし」が正しい。
友だちとはこれくらいのものであるのだな、
アレキサンダー君。
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2016年09月07日

ねじ回しはねじ回し!――てめぇ、さしずめヤングだな

 京都駅前のヨ○バ○カメラでねじ回しを買おうと思って、受付のお姉さんに「ねじ回しはどこですか?」と尋ねる。
そのお姉さん、一瞬、「?」という表情をして「あ、ドライバーなら三階の照明器具売り場付近の工具売り場にあります」と答えてくれた。
あたしは「ねじ回し」を探しているのであって、ドライバーを探しているわけではない!と言おうと思ったが、ま、確かにねじ回しのことをドライバーとは言う。
しかし、あたしの語彙では、ドライバーとは運転手のことである。
運転手をねじ回しとは言わない。
客がねじ回しと言っているのだから、ねじ回しでいいではないか!

 で三階で、「ねじ回し、あ、ドライバーはどこですか」とお兄さんに尋ねると「工具ですね、こちらです」と教えてくれたのだが、なんで客の発言をそのままオウム返しできんか!
ついに電器屋までも、客を年寄りだとバカにし出したのか?

 というのは洋服屋は客が年寄りだとバカにする傾向が顕著なのである。
「コールテンのズボンありますか」
と尋ねると
「あ、コーデュロイのパンツですね」
そんなもさもさしたサルマタがはけるか!

「とっくりのセーターありますか」
に対して
「あ、ハイネックのセーターですね」
日本人は「とっくりのセーター」でいいの!

そのうち
「ジーパンありますか」
に「デニムのパンツですか」となるであろう。
そんなごわごわしたパンツでは、わがチ○コがすりむけるわい!

 ときどき街で妙にガミガミ怒っている年寄りを見かけるが、きっとそうゆうことなのであろう。
そういうことにならないように、ここでガミガミいうカドワキ62歳でした。
posted by CKP at 18:27| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月06日

さしずめインテリだな――オイオイの言葉というより寅さんのせりふ

 「てめえ、さしずめインテリだな」
とは、寅さんの名ぜりふですね。
新劇出身の俳優さんが演じる大学教授とか医者とか、時には前田吟演じるひろしに向かって、放たれるセリフ。
このセリフの「さしずめ」は渥美清のアドリブなんだそうな。
独特のニュアンスがありますね。

「てめえ、インテリだな」
では単なる推測だけど、「さしずめ」が挟まるとそこに微妙な距離感が出てくる。

「さしずめ」には辞書的には「つまるところ」「結局は」とか「さしあたって」「いまのとこ」など矛盾するような意味がある。
寅さんの場合、どうなのでしょう?

「てめえ、善人面して、俺みたいなフーテンのバカとつきあっちゃいるが、結局は、腹の底でせせら笑ってるんだろう。
ああ、上等だよ、けっこう毛だらけ猫灰だらけだよ。
だがな、そうやっててめえみていに、理屈だけこねて、自分だけ汚れないですましている奴はな、百年たっても、人の情ってもんが分からねえんだ。
見損なったよ、もう、二度とてめえの面なんか見たかねえや」
というようなニュアンスでしょうか?

 こう書いて思い出したのは、さる高名な思想家。
その人の講演の時、楽屋で最近の宗教の衰退について嘆きを共有したのでしたが、いざ講演が始まると開口一番、
「私は信仰をもちません」
と、まるで信仰を持つとはインテリの名折れというような口調で話し出した。
なんか百年の恋もいっぺんに醒めた感じ。
それ以来、その思想家の本は読めなくなってしまった。
「てめえの面なんか二度と見たかねえや」
という感じ。

 信仰、それも素朴な信仰を持つのがどうしてそんなに怖いのでしょう?
でも、私も若いころはそうだったからなぁ・・・
そのころは寅さん、バカにしていたからなぁ・・・
でも、テレビでは観てましたけど。
posted by CKP at 13:02| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月04日

ほんにタヌキは働き者――来週、池上哲司先生集中講義

 来週のたぶん、おそらく、きっと火曜日から池上タヌキノ介哲司先生の集中講義が始まります。
残暑厳しき京都は洛北・大谷大学で、みっちり金曜日まで。
ホント、このタヌキは働き者じゃて・・・

 という記事を書かねば…と思っておったら、タヌキの夢を見ました。
タヌキ一家が、それも亡くなったはずのご母堂様(お会いしたことはないけど)まで引き連れて、池上タヌキノ介がわが寺の境内に、な、なんとシトロエンで乗り付けてきたのである。
それも真っ白なシトロエン。

 あまりに不気味な夢なので、これはとにかく何かアクションを起こさねば悪いことが起こる・・・
というわけでここにタヌキノ介集中講義の記事をあわててエントリーするのでありました。

 くわばらくわばら・・・タヌキの呪いはげにおとろしか・・・
posted by CKP at 17:48| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

肩がとってもベラフォンテ――サイテーな日常

 右肩が上がらない。
もうこれからは右肩上がりでは生きられないということか。

 というわけで、整形外科に行く。
まずはレントゲンを撮りましょう。
「もう60歳過ぎてるのに、50肩というやつですかね」
と冗談をかましながらレントゲンの前に立つ。
「・・・・」
医者はその冗談を完全無視。
で、出来上がったレントゲン写真を見ながら
「ま、50肩みたいなもんですね」
ちゃんと冗談、通じていたんですね。

 23日には奈良の同窓会訪問。
しかし、そこでの講演会のタイトルが見覚えがない。
え、こんなタイトルだっけ?
あまりに暑いからぼけちゃったのかな、と焦る。
で、そのタイトルに合わせてしどろもどろになって講演一席。
帰りの電車で別の書類を観ていると、ちゃんと提出したタイトルが書いてある。
良かった。
ホント、心底、良かったと思いました。

 で、ベラフォンテとはどういうことかというと・・・

ハリー・ベラフォンテと言えば、1950年代60年代にアメリカで活躍したカリプソ歌手。
「バナナ・ボート」があまりにも有名。
その一節が「イテテ・イテテ・イテーヨ」と聞こえたので、「肩がとってもベラフォンテ」。

 はい、今日27日は、大学へ出てきて、教員免許講習で一席うかがってます。
posted by CKP at 12:45| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

ユルチェンコ三回半ひねり――「オイオイの言葉」

 昨日から京都に出てきています。
暑いというよりも熱い!
脳ミソがウニになっている。

 オリンピックも終わりであるが、こう暑いと頭がぼーっとして、出てくる単語は1964年東京オリンピックの頃の選手名ばかり。

水泳のドン・ショランダー。
陸上100メートルのヘイズ。
体操のチャフラフスカなどなど。
ただ男子体操の「あん馬の神様」と呼ばれたハンガリー(?)の選手の名前が出てこない。
・・・と私はすっかり1964年の小学4年生になってしまっているのでありました。

 しかし、その小学4年生男子、リオ・オリンピックに登場した「ユルチェンコ」という名前は見逃さないのであります。
この小学4年生男子は、新学期が始まると学校で「ユルチェンコ」という名前に少々手を入れて連呼するのであります。
つまり、ユルチ○コとかフルチ○コとか・・・まことに正しい小学4年生男子の姿ではありますまいか?!
ポケモン・GOなんぞにうつつをぬかす今どきの小学生よりよっぽど正しい。
べつに偉くはないが、正しい。
が、なにゆえそのような言葉遊びがあれほど楽しかったでしょうか。
「男子ってサイテー」とか女子に言われながらも、ね。

 ホント、サイテーですね。
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2016年08月17日

汗まみれの読経終われば空に秋風――無茶

 はい、今年も無事に旧盆の行事が終わりました。
ご協力、感謝、多謝。

 汗をダラダラ流しながら阿弥陀経を読みながら思ったのが・・・・

 オリンピックの陸上競技のゼッケン、あれなんとかならないの?といことでした。
シャツやパンツは、空気抵抗を考えてけっこうぎりぎりまで工夫してあるように見えるのに、ゼッケンはわたしらの中体連の時や放送陸上のときのゼッケンの同じで「安全ピン」で止めてある。
そのうえ、コース番号のシールを太ももとかパンツに貼っている。
とても百分の一秒を争うようには見えない。
あのゼッケンやコース番号シールはなんとかならないのか!と訴えても家人は取り合ってくれない・・・・
というわけでここに大書してるのですがね・・・

 しかし、夜中にオリンピック観るほど体力はなくなってきましたな。
夜はもうぐっすりです。

 ああ、ドン・ショランダーは遠くになりにけり
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2016年08月09日

避暑地の出来事――オイオイの言葉

 「避暑地の出来事」・・・なんか、イイですね。
なんか、こう、いろいろと妄想しちゃいます。
避暑地で毎朝散歩すると、子犬を連れた上品なご婦人といつも会う。
いよいよ避暑地を去るというその日・・・・

 「避暑地の出来事」というのは1959年のアメリカ映画「A Summer Place」の邦訳題名。
A Summer Placeという英語の語感はちょっとわからないけど、これを「避暑地の出来事」と訳したワーナー・ブラザーズの宣伝部は偉い!
そしてまた、このこのテーマ(Theme of A Summer Place)を「夏の日の恋」と訳した人も偉い!
避暑地の木漏れ日にさわやかな風が吹いてゆくような、パーシー・フェイスの名演奏ですね。



 と「避暑地の出来事」を妄想しながら、昨日今日はあっしは本堂の障子張り。
これだけ暑いと皺が寄っていけねぇや。
明日は、ご門徒の婆ちゃんたちと仏のお磨き。

 一生で一度でいいから、「避暑地」とやらで夏を過ごしたいじゃあ〜〜!
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2016年08月08日

『同朋』8月号発売中!――渡辺啓真副学長登場!

 ただいま、『同朋』8月号が絶賛(たぶん)発売中!
今回の特集は「憲法9条と仏教」ということで、少しだけモヒカン憲法学者・木村草太氏が登場。
ホント、鋭い人ですね。

 また、シリーズ「対話・宗教と現代社会」では、「仏教と生命倫理」というテーマで、われらがナベちゃんこと渡辺啓真大谷大学副学長が龍大の鍋島直樹先生と対談しておられて、なかなかの読物となっています。

 そして、愚僧はやね、最後のページにちょこんと『男はつらいよ』について書いているのでした。
posted by CKP at 20:13| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする