2010年02月17日

朴一功の正義――『魂の正義』発刊!

park01.jpg われらが大谷大学哲学科の正義、朴一功先生のプラトン「倫理学」についての論考『魂の正義 プラトン倫理学の視座』(京都大学学術出版会)が、ついに発刊された。
ダヴィッドの「ソクラテスの死」が表紙となった重厚で美しい本に仕上がっている。

「魂の正義」というタイトルに込められた朴先生の熱い思いは、少し長めの「あとがき」に見事に表現されている。
また、サブタイトルにある「プラトン倫理学」という、未だ熟していない言い方に関しては、「序」において力強く、そして責任をもって述べられている。
 つまり、この書自体が、毒を自らあおいで死んでいったソクラテスと、それを我々に述べ伝えたプラトンへの倫理的態度に貫かれているのである。

 昨日手にしたばかりで、本文を読んでいはいないが、表紙と「序」と「あとがき」からでも、そのことは十分に伝わってくる。

 京都大学学術出版会からアリストテレスの『二コマコス倫理学』、プラトンの『饗宴/パイドン』で大変の読みやすい翻訳を明解な解説を付けて上梓されてきた朴先生の古代ギリシャ哲学研究の精華を、このよう形で手にすることができたということは、日本いや世界の哲学界において、いや、人間の生き方が混迷をきわめる現代世界において、何よりの慶事である。
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2007年03月25日

『哲学の道の傍らで―大谷大学・学窓点描―』

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今年度で定年退職なさる鈴木幹雄先生が、在職中に学内の広報誌などにお書きになった文章をまとめられた素敵な本です。私たちはここから、鈴木先生のひととなり、そして、教育と学問へのスタンスを改めて知ることができます。

非売品であり、この書を手にとる僥倖に与れる方は少ないでしょうから、その内容を「哲学科教員文書アーカイブス」に掲載するお許しをいただきました(一部はすでに掲載しています)。怠け者の管理人ゆえ、掲載終了まで優に10年はかかるかと思いますが、先生と読者の皆さんには、ご宥恕のほどを。
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2006年08月04日

『ジョコンダ夫人の肖像』――モナ・リザの微笑み

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 『ジョコンダ夫人の肖像』は次のように始まります。

 なぜだろう、と人々はいいます。なぜ、レオナルド・ダ・ヴィンチは、よりによって、フィレンツェの名もない商人の二度目の妻の肖像画を描いたのだろう、それも、イタリアじゅうの諸公・公妃ばかりか、フランスの王までもが、レオナルドに肖像を描いてほしいとせがみつづけていたさいちゅうに?なぜ?いったいなぜだろう?
 その答えをこっそりにぎっているのがサライです。
 「こっそりにぎっている」これは全く、ぴったりな表現です。というのも、サライはこそどろだったからです。ジャン・ジョコモ・・ド・カプロティ、通称サライ、大うそつきでおまけにどろぼうでした。レオナルド自身がそういっているのです。
 
(2ページ省略)

 なぜだろう?と人々はたずねるのです。レオナルド・ダ・ヴィンチは、このうそつき、このどろぼう、このサライを、我慢しつづけたのか?なぜあんなにも長い間?なぜ彼の姉の持参金まで援助してやり、遺言にまで彼のことを書き残したのか?
 いったいなぜ?
 この物語は、それらの疑問に対する答えなのです。
             『ジョコンダ夫人の肖像』「プロローグ」より

 もう、お気付きと思いますが、この『ジョコンダ夫人の肖像』は、レオナルド・ダ・ヴィンチがあの『モナ・リザ』を製作していく過程を書いたものです。
 作者は以前『クローディアの秘密』の作者として紹介したことのあるE.L.カニグズバーグ。松永ふみ子さんの美しい訳で、静かに静かに物語が進んでいきます。
 そして、読み終わると、口絵にある『モナ・リザ』の微笑みの深さに見入ってしまう――そんな物語です。 

 CKPは『ダ・ヴィンチ・コード』には全く興味がわきませんでしたが、そのおかげで、長い間絶版になっていた『ジョコンダ夫人の肖像』が岩波書店から復刊になったことだけは、大歓迎です。

 『ダ・ヴィンチ・コード』は、(読んでいないのでよく知りませんが)何かを「暴く」ような臭いがあって、どうも・・・。
 それに対して、カニグズバークは、『クローディアの秘密』でもそうでしたが、秘密を大切にします。書かないことで、大切なことを描いていきます。そして、絵そのもの美しさを描いていくのです。
 夏休みに、ゆっくり読んでみてはいかがでしょうか?

 あまり知られてはいませんが、カグニズバークの中でも大変深く静かな感動を与えてくれる本なのでご紹介します。
 あまり知られていないといいましたが、あのたぬき先生は、ちゃんと読んでおられました。さすが、ただのたぬきではない、ヘンテコな古だぬきですね。
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2006年07月20日

Come on, Baby,do the Locomtion with me!――内田樹著『私家版・ユダヤ文化論』

 内田樹先生の『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)が, 刊行された。
 どうやって紹介・推薦したらいいんだろう。
 凄い本だから、とにかく読んでください。
 ホント腰ぬかすほど凄いんだから・・・と賞賛の語彙の乏しいCKPは、「凄い、凄い」と繰り返すしかない(今まで人の悪口ばかりいってきたツケがこういうところで回ってくる、トホホ)。
 だから引用する。
 芸もなく、長々と引用する(凄いなと思った文章を書き写す――これがCKPの文章修業です)。

 まず「まえがき」より。
 
 私が本書で論じたのは、「何故、ユダヤ人は迫害されるのか」という問題である。そのことだけが論じられてある。
 この問いに対しては、「ユダヤ人迫害には根拠がない」と答えるのが「政治的に正しい回答」である。だが、そう答えてみても、それは「人間はときに底知れず愚鈍で邪悪になることがある」という知見以上のものをもたらさない。残念ながら、それは私たちにはすでに熟知されていることである。
 この問いに対して、「ユダヤ人迫害にはそれなりの理由がある」と答えるのは「政治的に正しくない回答」である。なぜなら、そのような考え方に基づいて、反ユダヤ主義者たちは過去二千年にわたってユダヤ人を隔離し、差別し、追放し、虐殺してきたからである。
 ユダヤ人問題の根本的なアポリアは「政治的に正しい答え」に固執する限り、現に起きている出来事についての理解は少しも深まらないが、だからといって「政治的に正しくない答え」を口にすることは人類が犯した最悪の蛮行に同意署名することになるという点にある。政治的に正しい答えも政治的に正しくない答えも、どちらも選ぶことができない。これがユダヤ人問題を論じるときの最初の(そして最後までついてまわる)罠なのである。
 この罠を回避しながら、なおこの問題に接近するための方法として、私には問題の次数を一つ繰り上げることしか思いつかない。今の場合、「問題の次数を一つ繰り上げる」というのは、「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることには何らかの理由がある。その理由は何か、というふうに問いを書き換えることである。(引用終わり)

 見事な楷書で書かれた明快な文章(別に毛筆で書かれているわけではないが)。
 内田先生はいきなり自分自身をアポリア、つまり解決不可能な行き詰まりに追い込む。しかし、話はそのドン詰まり状態から始まる。
 私たちはユダヤ人問題に関しては、既にもう身動きできない状態にある。
 そこで、先生が採用する手が「問題の次数を一つ繰り上げる」という技である。
 う〜む、その手があったか!
 このような「手」を思いつく知性にCKPは驚嘆する。
 問題に接近すればするほど普通は思いつかない「手」である。しかし、内田先生は、問題の極北まで進んで、そこで鮮やかに身を翻すのである。
 このようにして、「政治的に正しくない回答」の次数が繰り上げられる。
 その一方で、「政治的に正しい回答」から導き出された「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがある」の次数が繰り上げられる。
 すると「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがあるのはどういう場合か」という自分自身の「愚鈍と邪悪」をも問う問いが出現する。
 これは、昨日書いた田口ランディ氏の「『わからない』を生きる」の実践編である。
 このようにしてこの本は始まる。

 そして
 第一章 ユダヤ人とは誰のことか?
 第二章 日本人とユダヤ人
 第三章 反ユダヤ主義の生理と病理
と、恐ろしいほどの量の知識が、恐ろしいほど明快な論理で整理され提示される。
 ほんとに全然知らない話が、これでもかこれでもかと次から次へと出てくる。
 しかし、きわめて明晰な論理で提示されるので、読んでいて全く混乱しないのである。
 CKPはどうしてもここで笠原和夫みたいだ、と言いたくなる(あの『総長賭博』や『仁義なき戦い』の脚本家の笠原和夫である)。
 それほど面白く、しかも人間の愚鈍さ邪悪さが明快に描かれているのだ。
 ホント、人間て、「いいやつ」なんだけれど、なんでこんなに馬鹿なんだろう?

 そして「終章」は「終わらない反ユダヤ主義」と名づけられる。
 「最終的解決」がキッパリと拒否されている。
 田口ランディ氏の言葉をかりて言えば、「『わかった』と何かを強く確信した時、私は『わかってない』他者をたたきつぶす」からである。
 内田先生は次のようにテクスト戦略について述べる(終章 1「わけのわからない話」)。

 だから、私はこの論考で、私自身が何を言いたいのかよくわかっていないこと、つまり私自身にとっての「棘」的主題を選択的に書くという戦略を採用した。
 読者にとってはまことに迷惑なテクスト戦略であるが、「私にわかっていること」だけをいくら巧みにつぎはぎしても、ユダヤ人問題に私は接近することができない。もちろん私の書いたものを経由して読者の方々がそれに接近することもできない。ユダヤ人問題を三十年近く研究してきてそのことだけは骨身にしみてわかった。自分の知っていることをいくら巧みに構築しても、ユダヤ人問題に切り込むことはできない。ユダヤ人問題というのは、「私の理解を絶したこと」を「私に理解できること」に落とし込まず、その異他性を保持したまま(強酸性の薬品をガラス瓶に入れてそっと運ぶように)、次の受け手に手渡すというかたちでしか扱えないものなのである。
 だから、ユダヤ人問題には「最終的解決」は存在しない。もし「私はユダヤ人問題の『最終的解決』の方法を知っている」と主張する人間をいたとしたら、その人は第三帝国のドイツ人たちと同じことを考えているか、嘘つきかどちらかである。いかなる政治学的・社会学的提言をもってしてもユダヤ人問題の最終的解決に私たちは至り着くことができない。これが私の立場である。
 私にできる誠実な態度は、「これは解決が困難な問題である」というタグを付けて、「デスクトップ」に置いて「目障り」なままにしておくことである。
 それに「解決不能問題」というラベルを貼って「ファイル」してはならない。ユダヤ人問題については、とにかく「片付ける」という動作を自制しなければならない。
(約1ページ省略)
 ・・・・ユダヤ人問題について語るということはほぼ100パーセントの確率で現実のユダヤ人に不愉快な思いをさせるということである。ユダヤ人問題については、「きれいごと」だけを選択的に言うことはできない。だから、「政治的に正しい意見」「倫理的に瑕疵のない言葉」だけを語りたいと望む人はこの問題には足を踏み入れない方がいい。(引用終わり、太字は原文では傍点強調)

 「わからない」に向き合うべきだということだけは「骨身にしみてわかった」というのが凄い表現ですね。
 問題を最終的に解決して自分が正しい瑕疵のない立場にたっていると主張すること、このことが、更なるユダヤ人問題を惹起する。
 だから「わかない」と常に向き合うこと、しかもそれが「正しい」と断定せず、それすらも疑うこと。
 そうか、そのように、問題=「わからない」に向き合う勇気をこの本は与えてくれるんだ。
 だから、皆さんに、お薦めしたいのです(と今気がついた)。
 「合言葉は勇気」(@橋本治)なのであった。

 それこそ、このまま行けば全文引用して「終わりなきブログ」になりそうなので、とりあえず、この辺で止めときます。
 あれ?
 「Come on, Baby, do the Locomtion with me!」ッて、タイトルは何だったの?
 ハイ、いつもの通り、書いているうちに、話が別方向に行ってしまいました。それについては、また明日。
 
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2006年02月20日

『とんぼとりの日々』

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久しぶりに絵本の紹介(?)です。長谷川集平の『とんぼとりの日々』です。以前、「絵本の哲学」という記事を書いて、授業に使えそうな哲学的な絵本を教えてくださいとお願いしたときに、ブロガーの方から教えていただいたものです。長谷川集平の絵本としては、森永砒素ミルク事件*の被害者である著者の少年時代の苦い体験を描いた『はせがわくんきらいや』が有名かもしれませんが、ぼくは『とんぼとりの日々』を紹介します。

このあらすじを書くことは避けたいと思います。単純なストーリーなので、書いてしまうと、未読の方は読む気が失せてしまうだろうからです(単純なストーリーであることは、この本の味わい深さを少しも差し引くものではありません)。代わりに、ぼくがこの本を好きな理由をぼんやりと表現している過去の文章(「どうしようもないことも、ある」)を再録しておきます。特にその第3段落を読んでいただければと思います。バッタをトンボに読み替えて。

運動会の競争で順位をつけない小学校があると聞いたことがある。詳しい事情は忘れたが、順位はつけず、走った全員に参加賞を渡すということであった。足の遅い子が傷つかないように、という配慮なのだろう。

学校がなにを学ぶ場であるのか、間違いなく言えるほどの自信はないが、そのなかには、努力して達成することの喜びだけでなく、努力してもいかんともしようのないことの確認も含まれているのではないか。どんなに勉強をしてもかなわない頭のいいヤツがいて、どんなに練習をしてもかなわない足の速いヤツがいて、どうしても負かされてしまう喧嘩の強いヤツがいること‥‥。自分の力で、自分の努力でなんとかできることは思いのほか多く、努力してもぎ取った果実の味は格別に甘いにしても、自分の力ではどうしようもないこともまたある。ときには負けることも甘受しなければならず、そのこと自体は決して恥ずべきことではない。生きるための工夫はそこからはじまるのだ。

町内の草刈に行った。ピチピチバッタ(ショウリョウバッタ)がピチピチと逃げ回っている。少年たちに手荒にいじりまわされ、バッタは死んだ。「動きよらへんようになったで」。少年たちは取り返しのつかないことをしたのだ、もう誰もバッタを再び動かすことはできない――そのようなことも、ある一定の時期に知っておかねばならないのだろう、過度に傷つかない程度に。
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2006年02月11日

『雨ふり小僧』

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いつからか、個研に一本の傘が置かれたままになっている。心当たりのある人たちに問い合わせてみても返事はない。青い女性物で、全体に色が褪せ、先の部分が欠けている。愛着をもって使われていたのだろう、無碍に捨てることもできない。あれから何度か雨の日を過ごし、思い出してもらえるチャンスを逸した傘は、もう忘れられてしまったのかもしれないが、じっと持ち主を待っている。『雨ふり小僧』(手塚治虫)のセリフを思い出した。

よく 物置なんかに ふるいカサが すてられてあるどに
ああいうのから おいらたち 生まれるどに

山奥の分校に通うモウ太は、本校の子どもたちから田舎者とバカにされる日々。そんなある日、モウ太は橋の下で古傘の妖怪、雨ふり小僧と出会う。モウ太の長靴を欲しがる小僧に、モウ太は三つの願いを叶えてくれたら長靴をやると約束する。三つ目の願いは分校の火事を消して欲しいというもの。火に近づいたら(自分が)消えてしまうと尻込む雨ふり小僧に、モウ太は言う。「火を消してくれたらきっと長靴をやる。あの橋の下で待ってるから」。その言葉を信じて小僧は必死で火を消す。だがその直後、モウ太は都会へ引越すことになった。長靴をわたすこともないままに。約束はすっかり忘れ去られ、40年の歳月が流れて、モウ太は幸せな父親になった。ある日、娘にせがまれ長靴を買おうとしたとき、モウ太は雨ふり小僧との約束を思い出す‥‥

雨はまた降る。傘といっしょに、個研の住人も、もう少し持ち主を待つことにしよう。
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2005年12月21日

秘密の秘密――E.L.カニグズバーク作『クローディアの秘密』

 ここにご紹介する『クローディアの秘密』(E.L.カニグズバーク作、松永ふみ子訳、岩波少年文庫)は、子供たちが成長していくときに「私」にどんな変化がおきるのかを、ユーモアあふれるみずみずしいタッチで描いた、少年少女向けの冒険物語です。
 しかし、20世紀のトム・ソーヤたちは、野原を駆け回るかわりに、「メトロポリタン・ミュージアム」に「家出」します。さあ、そこでこの物語の主人公クローディア・キンドケイトとその弟ジェイミー・キンドケイトにどんな事件が待ちかまえているのでしょう。

 「毎週毎週同じ」で「ただオール5のクローディア・キンドケイト」でいることがいやになった彼女は、「家出」を実行します。「ちがったクローディア」になるためです。そして、彼女はその目的を、予想もしなかった方法で果たします。
 どうやって?
 それは、秘密です。

 この本には、「私」の成長ということがどういうことかが、深くそして優しく述べられていると思います。「私」が「私」であることの、ある重要な要素が、鮮やかに描かれています。同じ作者の『ベーグル・チームの作戦』(以前は『ロールパン・チームの作戦』というタイトルでした。岩波少年文庫)では、男の子がお母さんが自分の野球チームの監督になるというややこしい状況をクリアしていく物語として、同じテーマが描かれています。

 CKPおじさんは、一昨日の「過剰適応」のブログを書いたとき、アメリカ的な「僕の茶碗、私の箸」のあり方として、この本のことを思い出しました。読み始めると止まらなくなり、全部読んでしまいました。改めて面白くまたいろいろ考えさせられる本だと思い、ここにご推薦申し上げる次第です。
 大貫妙子さんが唄っている「メトロポリタン美術館(ミュージアム)」は、この『クローディアの秘密』を唄ったものです。

 CKPおじさんからの、クリスマスプレゼントでした。
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2005年12月05日

「火あぶりにされたサンタクロース」――『サンタクロースの秘密』

 世の中はクリスマス・モード一色で、なにやらコンタンありげなヤングどもが落ち着かない様子をしている不快な季節である。
 クレージーケンバンドの名曲「クリスマスなんて、大嫌いさ!トホホな思い出、胸にオンパレード」イイッすネー。

 「火あぶりにされたサンタクロース」とは、『サンタクロースの秘密』(クロード・レヴィ=ストロース、中沢新一著、せりか書房、1995年、2000円)に収められているレヴィ=ストロースのクリスマスをめぐる短い論文。
 レヴィ=ストロースがクリスマスにおけるヤングな男女の痴態に激怒しサンタクロースを燃やしてしまえ、とアジテイションしている――論文ではありません。

 1951年フランスのある町のカトリック教会が第2次世界大戦後アメリカ経由で入ってきたサンタクロースなどのクリスマスの風習を異教的としてサンタクロースの人形を「火あぶり」した事件から説き起こし、クリスマスを「贈与」という視点から分析した論文。
 少し考えれれば、サンタクロースやトナカイ、或いはもみの木などは、イエスの誕生とはまったく関係がないことは明白である。しかし、イエスという神からの贈与とクリスマスにおける子供への贈与は、人を幸せにする力を持っている。
 なるほど、と読んだ次第。中沢氏の解説論文も分かりやすい。この時期、もっと読まれていい本である。

 本学、大谷大学は仏教・浄土真宗に基づく大学であるから、クリスマスは関係ないが、「贈与」ということから言えば、親鸞の「回向」「他力」という考え方が、それに近い性質を持っているといえる。悟り・救いは修行・努力との「等価交換」でなければならぬ、というそれまでの「自力」の考え方から、それらは、仏から「プレゼントされる」としてしまったのである。
 したがって、仏教も、クリスマスは「関係ない」ということではないのである。

 このような本気の冗談を言っているから、CKPはなかなか人に信用されないのである。
 分かっちゃいるけど、やめられない!
 
posted by CKP at 18:07| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月08日

読書をめぐる断章・・・最近のささやかな楽しみ

CKP先生も書いていたように、私も、週末は指定校推薦入試に従事していた(CKP先生と同じ班だったりするのだが)。そこで受験生の諸君と読書に関して話すことが多かった。

今の傾向としては、読書習慣のある人とない人とに二極化しているようだ。またジャンルとしては、ミステリーや推理小説などが多いらしい。課題図書のようなノンフィクションが好きだという人は少数派だった。

自分が高校生の頃をふり返ってみると、文学史で紹介された古典から近代小説までを興味の赴くまま、ぽちぽちと読んでいた。あまり系統的な読書ではない。他には、興味のあるテーマに関しては岩波新書を愛読していた(歴史の教師で新書を紹介するのが好きな人がいた)。

今は、仕事などで必要に迫られて読まねばならない本は山程あり、積ん読状態だ。正直なところ、純粋に楽しみのために読むことは滅多になくなった。こういう状況は、あまりよろこばしいことではない。だからというわけでもないのだが、最近は、『赤毛のアン』シリーズをちびちびと読んでいる。きっかけは完訳シリーズの文庫版が出たことだ。

小学校高学年あたりで、子ども向け版で最初に読んだ(確かポプラ社)。父親の書棚になぜか新潮文庫版の『アンの青春』『アンの愛情』を発見し、読破。その後、続きが読みたくて、中学生以上が対象の講談社版村岡花子訳(旧版)を翌年のクリスマスにゲット。でもこのシリーズには番外編2冊が欠けていたので、文庫版を入手(『アンの友だち』『アンをめぐる人々』)。

小学生の頃は、「文庫本は大人のもの」と思っていたが、この時から文庫本も読むようになった。父親がなぜこの2冊を所蔵していたのかは謎だ(単純に恋愛小説だと思ったのかも)。番外編2冊は、アンを愛読する人の間でも賛否両論あるが、私は、この番外編を読んで作者のすごさを再認識した。

番外編には、アンは直接的には出てこないので、この辺が意見の分かれ目になるのだろう。全体に涙なしでは読めない話が多いが、どちらかといえば目立たない人物を何人も取り上げ、彼らの地味な人生の中にあるドラマを見事に描ききっている。その点に作者のすごさを見てしまい、文庫版で入手可能なモンゴメリの作品全てを読んだ。

その後、モンゴメリの作品は、折に触れ頻繁に読み返す、私の愛読書となった。

*『完訳クラッシック赤毛のアン 1〜10』(掛川恭子訳 講談社文庫)


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posted by 朽縄木菟 at 16:44| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月06日

野矢茂樹『論理トレーニング101題』

 昨日と本日、大谷大学指定校推薦入試制度により読書・小論文・面接が実施された。
 昨日は一冊の本を読みそれに対する小論文を書き、本日はそれをもとにした面接。ご苦労様でした。
 
 小論文というのは、なかなか勉強しにくい分野であるが、読むほうの立場から申し上げるならば、「接続表現」が上手く使われている文章は読みやすい。そして、それに注意しているならば、課題文の内容もよく理解できる。
 したがって、日ごろから「接続表現に注意する」ことに気をつけて入れば、自然と文章も上手くなるし読解力もつくはずである。しかし、日ごろからそれに注意することは難しい。そこでお勧めなのが、野矢茂樹著『論理トレーニング101題』(産業図書)。
 
 「文章は、それがたとえモノローグの見かけをもっていようとも、基本的に対話の構造をもっている。議論を読み解くとは、何よりもまずこうした問いと応答の流れを読むこと、対話の構造をつかむことである。そのリズムが送り手と受け手で共有されたとき、分かりやすい文章が生まれる。」
 
 野矢氏は、接続表現の代表的なものとして、〈しかし、すなわち、そして、だから、ただし、たとえば、なぜなら〉を最初に挙げて、読者に練習問題を提示している。
 まずは、これらの表現を練習することから始めて、この本を仕上げれば論理的な思考と文章力を我が物とできるであろう(半分位でも十分かもしれない)。
 いや、最初に挙げられた7つの接続表現を意識するだけでもグッと違ってくる。

 「接続表現を読み落とす悲劇」というのが現実の生活の中であるのだが、それはまた今度。
posted by CKP at 17:29| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月25日

『ぼくは くまのままで いたかったのに……』

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冬が来て、森のほら穴で冬眠したクマ。クマが目覚めたのは、なぜか工場の敷地のなか、しかも、工場の人間たちは、誰もクマをクマとして認めてくれません。クマは、ひげも剃らないような薄汚い怠け者の “人間” として、工場で働かされるのでした‥‥

カフカの『変身』を思わせるようなシュール(不条理と言った方がいいかな)な絵本です。読めばやりきれない思いが残って、読んだ方がよかったのか、読まない方がよかったのかと考え込むことでしょう。そういう意味で、子ども向きではありませんし(「5歳から」となっていますが‥‥)、よほどの酔狂な方以外は大人向きでもない。だったら、なにがよいのかって?読んだ者を考え込ませるというのは、その本のもっている力でしょうから‥‥それだけではダメ?もうひとつは、人間には自然を自然として見る目がない、もっと言えば、人間があるものをあるもののままで見ていないことをうまく風刺していることでしょう。

工場で働かされる前、クマは人事課長やら副工場長やら工場長やら社長の “面接” を受けますが、誰も彼をクマとは認めず、お前は人間だ、と言います。社長にいたっては、クマを動物園やサーカスのクマのところへ連れて行って、これこそが本物のクマでお前はクマではない、と言い出す始末。一方で、工場長やら社長らの部屋には自然を写した絵画や写真のようなものが貼られており、社長の部屋には窓ガラス越しに美しい自然の大パノラマが拡がっている。彼らは自然を楽しんでいるつもりなのかもしれませんが、檻やら額縁やら窓枠といった彼らのものの見方のなかに入った自然を見ているにすぎないんですよね。

もちろん、人間にはせいぜいのところそういう限定された自然の見方しかできないのかもしれないけど、それが自然そのままではないのかもしれない、という疑問は露ほども抱いていない。檻に入ったクマや額縁に入った森の絵や美しい島の写真、窓枠越しに見える風景だけが自然の姿であると思っている。そしてそういう見方をこのクマにも強要するわけです。お前は俺から見てクマではない、ゆえにお前はクマではない、と。クマと一緒に働く労働者たちも、クマがクマであるなんて、少しも思っていない。

モリゾーとキッコロは惜しまれつつ森へ帰りましたが、人間として工場労働者となったクマは、やがてその仕事ぶりの至らなさから解雇されます。季節はもう冬。工場を出て、とぼとぼと歩き続けてたどり着いた森のほら穴を前にし、クマは考えます。「なにかだいじなことをわすれてしまったらしいな、とくまは思った。はてなんだろう?」クマが忘れた大事なこととはなんであったのでしょう?それは、しばらくのあいだ “人間” となったことで、失ってしまっていた、クマ本来の、自然の、ものの見方だったのでしょうか?読者は考えることを強いられるでしょう。
posted by pilz at 19:55| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月16日

P.オースター編『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』

 NYの作家ポール・オースターと柴田元幸(翻訳)というお馴染みの組み合わせですが、この本の著者はオースターではなく、アメリカの一般市民たちです。

 全米の聴取者がそれぞれの人生に関する短い物語を書き、ラジオ局(National Public Radio)に投稿し、オースターが番組で取り上げ朗読するという企画を本にしたものです。

 数行で終わる物語もあれば、数頁に渡る分量のものもありますが、基本的にすべて自分の身に起こった実話であり、書き手の名前と居住地が付記されています。
 
 ひねりや意外な結末をもった話、感動的な出来事や教訓めいたメッセージを持った話もありますが、特にオチのようなものもなく淡々と終わっていく話も非常に多いです。短編小説を読んでいるような感覚、もしくはB.スプリングスティーンやB.ディランなどの歌詞を読んでいるような手触りに近いです(ディランは少し観念的か)。

 しかし、その「オチがない」というところにこの本の企画の本質のようなものが感じられると思います。人に自慢できるような体験をしたからそれを語る、というのではなく、自分が感じ経験したものをただ誰かに伝えたい、という雰囲気が全編を通じて流れています。
 人生は特にドラマチックなものでもなければ、自分は完璧な人間でもない。しかし「私は現実なのです」。

 本には180の物語が収められていて、ページ数は550頁を超えます(薄い紙を使って製本されているので、手に取った感じは一般的なハードカバー本の厚さです)。ひとつひとつを読むたびに、自分が経験したことのない(もしくは、自分がいつも経験しているような)生活が眼前に浮かんできます。アメリカの市民生活のリアルなサンプル集としても面白く読めます。

ポール・オースター編『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』柴田元幸他訳、新潮社、2005年

ラジオ局NPRのサイト。放送も聴けます。
http://www.npr.org/programs/watc/storyproject/
posted by (藤) at 04:22| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月09日

『ともだちがほしかったこいぬ』

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怖がられてしまいそうなので、まだシュールなものは紹介しません。カワイラシ系です。奈良美智の絵本です。奈良美智については、ぼくより読者の皆さんの方が詳しいでしょう。登場人物(?)は「おんなのこ」と大きな「こいぬ」。一人と一匹の友情のお話です。『ぼくの ともだち おつきさま』も、友だちとの出会いのお話でしたね。

この絵本からぼくがおもしろく読み取ったのは、次のようなことです。一つ目。すぐそばにあるのに、大きすぎて見えないものがある、ということ。小さすぎて見えないというのはよくある話ですが、大きすぎて見えないものもあるんですね。

二つ目。見えないものを見るためには、偏見のない心と勇気が必要だということ(『星の王子さま』みたいになってきたぞ)。こいぬは幸いでした。まっすぐな心と勇気をもったおんなのこが自分を見つけてくれたのですから。
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2005年09月08日

『学問の道標』

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柏祐賢『学問の道標―学究者におくる』(未来社、1984年)です。学生諸君のなかには研究者を志す人もいるでしょう。本書は、文系の研究者を目指す人の心構えを説くために書かれた――そして、読む者の心を動かしうる――数少ない書のひとつです。著者は京都学派、とりわけその方法論としては、哲学者であった高坂正顕の影響を強く受けています。

学問とは一体なんであり、学問を志す研究者はいかなる人格を養わねばならないのか――20年以上前のものですが、著者の考え方を時代遅れと感じる者があるなら、それは、時代の趨勢に流されることのない学問の本質をいまだ知らない者だと言わざるをえないでしょう。すでに絶版となり、入手の非常に困難な書物ではありますが、研究者を目指す人であれば、一度は目を通してもらいたいものです。

著者の「はしがき」を締めくくる言葉を記しておきましょう。
 
「これから、この学問研究の厳しい道にわけ入ろうとする諸君に、ここで強く申したい。すなわち、この道の何であるかを十分にわきまえ、これこそ、自らの真に進むに値する道であると自覚し、もってまっしぐらにつっ走ってもらいたい。学問の道は、自らの生涯をかけ、燃え尽きるにふさわしい一本道である。」


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『学問の道標』の増補版(柏久編著『「生きる」ための往生―李登輝台湾前総統恩師柏祐賢の遺言』)が、柏祐賢氏の追悼本として再版されました。その「あとがき」によると、このブログ記事もまた、再版のきっかけとなったとなった、とのことです(編著者の方からも、その旨を知らせる御連絡をいただきました)。

思えば『学問の道標』と最初に出会ったのは、私がまだ20代の院生であったころ、京都の小さな古書店においてでした。すぐに一読し、柏祐賢氏については詳しいことはなに一つ知らぬまま、いつか自分が研究者になることがあれば、この書を学生たちに紹介したい、と望んだことをよく覚えています。いま、ブログの記事を介するというかたちで、この書が広く若い読者に読まれることの一助となれたということでしたら、これに勝る悦びはありません。
posted by pilz at 22:09| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月30日

『ぼくの ともだち おつきさま』

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フランスのイラストレーター、アンドレ・ダーハンの絵本です。学生に教えてもらって、一目で好きになりました。温かい絵柄のなかに、人が出会いのときに感じる “うきうき” や “どきどき” や “はらはら” が詰まっています。読めばたちまち温かい気持ちになって、誰かと会って話したくなるでしょう。

参考:アンドレ・ダーハンHP

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2005年08月15日

『夕凪の街 桜の国』

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こうの史代『夕凪の街 桜の国』を読む。原爆が人々にどのような影響を与えるかを描いたコミックとして、長く残るすぐれた作品であると感じた。

構成は「夕凪の街」と「桜の国」(一)(二)から成る。「夕凪の街」は原爆投下10年後、「桜の国」はさらに後の設定となっており、この時期設定が『夕凪の街 桜の国』を特徴づけている。『はだしのゲン』が、原爆投下直後の状況、原爆が瞬間的・短期的にどのような影響を人々に与えるかに目を配った作品であったとすれば、本書は、原爆が長期的に、いかに生き残った人の心(いや、「魂」と言った方がよいかもしれない)と体を徐々に蝕んでゆくかを描き出そうとした作品なのだ。

原爆投下直後の目を背けたくなるような描写はほとんどなく、むしろ、こうの史代の描く町並みや人々は、どこまでも柔らかく、やさしい。だが、それがそのままこの書の印象となることを読者は望めない。やさしく柔らかなものが長い年月のなかで一枚一枚薄皮を剥ぎ取られるように消耗し、やがて消え去ってゆくさまを読者は目の当たりにしなければならない。そして、そのような経過が今も進行しつつあることを知らねばならない。
posted by pilz at 12:17| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする