2016年08月27日

肩がとってもベラフォンテ――サイテーな日常

 右肩が上がらない。
もうこれからは右肩上がりでは生きられないということか。

 というわけで、整形外科に行く。
まずはレントゲンを撮りましょう。
「もう60歳過ぎてるのに、50肩というやつですかね」
と冗談をかましながらレントゲンの前に立つ。
「・・・・」
医者はその冗談を完全無視。
で、出来上がったレントゲン写真を見ながら
「ま、50肩みたいなもんですね」
ちゃんと冗談、通じていたんですね。

 23日には奈良の同窓会訪問。
しかし、そこでの講演会のタイトルが見覚えがない。
え、こんなタイトルだっけ?
あまりに暑いからぼけちゃったのかな、と焦る。
で、そのタイトルに合わせてしどろもどろになって講演一席。
帰りの電車で別の書類を観ていると、ちゃんと提出したタイトルが書いてある。
良かった。
ホント、心底、良かったと思いました。

 で、ベラフォンテとはどういうことかというと・・・

ハリー・ベラフォンテと言えば、1950年代60年代にアメリカで活躍したカリプソ歌手。
「バナナ・ボート」があまりにも有名。
その一節が「イテテ・イテテ・イテーヨ」と聞こえたので、「肩がとってもベラフォンテ」。

 はい、今日27日は、大学へ出てきて、教員免許講習で一席うかがってます。
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2016年08月22日

ユルチェンコ三回半ひねり――「オイオイの言葉」

 昨日から京都に出てきています。
暑いというよりも熱い!
脳ミソがウニになっている。

 オリンピックも終わりであるが、こう暑いと頭がぼーっとして、出てくる単語は1964年東京オリンピックの頃の選手名ばかり。

水泳のドン・ショランダー。
陸上100メートルのヘイズ。
体操のチャフラフスカなどなど。
ただ男子体操の「あん馬の神様」と呼ばれたハンガリー(?)の選手の名前が出てこない。
・・・と私はすっかり1964年の小学4年生になってしまっているのでありました。

 しかし、その小学4年生男子、リオ・オリンピックに登場した「ユルチェンコ」という名前は見逃さないのであります。
この小学4年生男子は、新学期が始まると学校で「ユルチェンコ」という名前に少々手を入れて連呼するのであります。
つまり、ユルチ○コとかフルチ○コとか・・・まことに正しい小学4年生男子の姿ではありますまいか?!
ポケモン・GOなんぞにうつつをぬかす今どきの小学生よりよっぽど正しい。
べつに偉くはないが、正しい。
が、なにゆえそのような言葉遊びがあれほど楽しかったでしょうか。
「男子ってサイテー」とか女子に言われながらも、ね。

 ホント、サイテーですね。
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2016年08月17日

汗まみれの読経終われば空に秋風――無茶

 はい、今年も無事に旧盆の行事が終わりました。
ご協力、感謝、多謝。

 汗をダラダラ流しながら阿弥陀経を読みながら思ったのが・・・・

 オリンピックの陸上競技のゼッケン、あれなんとかならないの?といことでした。
シャツやパンツは、空気抵抗を考えてけっこうぎりぎりまで工夫してあるように見えるのに、ゼッケンはわたしらの中体連の時や放送陸上のときのゼッケンの同じで「安全ピン」で止めてある。
そのうえ、コース番号のシールを太ももとかパンツに貼っている。
とても百分の一秒を争うようには見えない。
あのゼッケンやコース番号シールはなんとかならないのか!と訴えても家人は取り合ってくれない・・・・
というわけでここに大書してるのですがね・・・

 しかし、夜中にオリンピック観るほど体力はなくなってきましたな。
夜はもうぐっすりです。

 ああ、ドン・ショランダーは遠くになりにけり
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2016年08月09日

避暑地の出来事――オイオイの言葉

 「避暑地の出来事」・・・なんか、イイですね。
なんか、こう、いろいろと妄想しちゃいます。
避暑地で毎朝散歩すると、子犬を連れた上品なご婦人といつも会う。
いよいよ避暑地を去るというその日・・・・

 「避暑地の出来事」というのは1959年のアメリカ映画「A Summer Place」の邦訳題名。
A Summer Placeという英語の語感はちょっとわからないけど、これを「避暑地の出来事」と訳したワーナー・ブラザーズの宣伝部は偉い!
そしてまた、このこのテーマ(Theme of A Summer Place)を「夏の日の恋」と訳した人も偉い!
避暑地の木漏れ日にさわやかな風が吹いてゆくような、パーシー・フェイスの名演奏ですね。



 と「避暑地の出来事」を妄想しながら、昨日今日はあっしは本堂の障子張り。
これだけ暑いと皺が寄っていけねぇや。
明日は、ご門徒の婆ちゃんたちと仏のお磨き。

 一生で一度でいいから、「避暑地」とやらで夏を過ごしたいじゃあ〜〜!
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2016年08月08日

『同朋』8月号発売中!――渡辺啓真副学長登場!

 ただいま、『同朋』8月号が絶賛(たぶん)発売中!
今回の特集は「憲法9条と仏教」ということで、少しだけモヒカン憲法学者・木村草太氏が登場。
ホント、鋭い人ですね。

 また、シリーズ「対話・宗教と現代社会」では、「仏教と生命倫理」というテーマで、われらがナベちゃんこと渡辺啓真大谷大学副学長が龍大の鍋島直樹先生と対談しておられて、なかなかの読物となっています。

 そして、愚僧はやね、最後のページにちょこんと『男はつらいよ』について書いているのでした。
posted by CKP at 20:13| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月04日

号泣する準備はできていた――『トランボ』、また観てきてしまいました。

 『トランボ――ハリウッドで最も嫌われた男』、また観てきてしまいました。
先回観たとき、ラストのトランボのスピーチ、そしてエンド・ロールの途中に出てくる本物のトランボのインタビューで号泣してしまって、ティッシュが底をついてえらい目にあいました。
だもんで、今回はティッシュを十分に用意して臨んだのであります。

 トランボ、かっこええなぁ。
もう一回観たいくらい、いい映画です(が、きょうから福井に帰っているので、観ることができません。福井では上映していないのです、トホホ)。

 ホント、この人はcommunistだった。
共に映画をつくり、共に生きるという意味での、本当のcommunist。
だから生活のため仲間を裏切った友にも、「時代の犠牲者」という大きな視点で接することができた。
かっこええなぁ。

 それと、カーク・ダグラスが意外に好漢なのに驚いた(カーク、ごめん)。
ブラックリストなど無視して、トランボに『スパルタカス』を書かせて、本名でクレジットさせたのである。

 それはともかく、ホント、ええもん観させてもらいました。
派手なアクションも、濃厚なセックスもない、ドキュメンタリータッチの地味な映画ですが、とてもリズムがよく、この映画を大切なものとして作った映画人たちの心意気が感じられる熱い映画でした。
posted by CKP at 23:01| Comment(2) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月02日

☆☆☆☆☆の大推薦です――『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』

 『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』、観てきました。
とっても佳い映画でした。
終わったとき、どこかのご夫婦でしょうか、「いい映画やったね」という会話が聞こえてきました。

 戦後から1950年代にアメリカを席巻した「赤狩り」。
トランボは、その赤狩りによって投獄という苦渋をなめた脚本家。
それはただの脚本家ではない、天才的な脚本家。

 しかし、その不正義に正義の共産主義者として敢然と戦う、というのとは少し違う。
生活のためということで、偽名や他人名義で脚本を書きまくる。
そしてオスカーまで獲ってしまう。
しかし、自分ひとりだけ抜け駆けするのではない。
食えなくなった共産党の仲間の映画人を巻き込みながら、金儲けの活動を進める。
それがかっこいい。

 また、裏切った友人に対しても、実に見事にふるまう。
絶交はしない。
その裏切りをなじるのでもない。
どこかで「裏切り」を受け入れている――うまく表現できないけど、格好いいのである。

 ブラックリストが消滅して、赤狩りが過去のものになった時も、英雄探し、悪人探しをやらない。
歴史の流れを受け入れるというのか、人間としての器が大きいというのか、人々が生きることに対するまなざしが優しいのである。
共産主義で自分の正義を主張するのではなく、人々の生きることへの応援が彼の共産主義ということなのだろう。
それゆえ、彼の書く脚本は面白いのであろう。

 今年一番の、いや21世紀に入って一番の映画でしたよ。
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2016年07月29日

夏風邪に わが身のポンコツ 心に沁む――無茶

夏風邪を引きました。
いつも低体温の小生にはめずらしく38度の熱。
関節はギシギシいたい。

インフルエンザかと焦ってお医者さんへ。
「この程度なら寝ていれば治ります」
「熱とかこの痛みは・・・」とわたし。
「治ります!」
最近、自己免疫主義者にでもなったのか、頓服すらも出してくれない。
この先生は、うちの奥さんの同学年で福井県でずーっとトップだった奴であります。
言うことに間違いがあろうはずがない。

言われたように、三日間、ボー然と寝ておりました。
四日目に布団からはい出し、お参りに。
そして、今日、大学に出てきて、レポートの整理。

 毎年、暑さがやってきてクーラーと暑さの交替の中で体調を崩すのだが、その崩し方が年々おお崩しになっている。
そのうち崩れてもう元には戻らんようになるのであろうか。

が、今回はあの自己免疫主義者(?)のお医者さんのおかげで、我が白血球諸君はまだまだ健在であることが証明されたのであった。
それとも病院前の薬局と喧嘩でもしたのかいな?
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2016年07月20日

トランボ――『ローマの休日』で世界中を騙した男

『トランボ ハリウッドで最も嫌われた男』という映画がこのほど公開される。
まだ見ていない。
しかし、ちょっと興奮している。

 このダルトン・トランボという男、あの『ローマの休日』の原案・脚本家なのである。
しかし、彼は戦後の「赤狩り」調査会での証言を拒否したため、投獄され、1年の刑期を終えて出てみれば、ハリウッドから干されてブラックリスト入り。
彼はアメリカ共産党員であった。
しかし、彼は生活のため、偽名や他人名義で脚本を書き始める。
彼が、友人イアン・マクラレン・ハンターの名前を借りて脚本市場に出したのが『ローマの休日』。
これをウィリアム・ワイラーが気に入り、オードリー・ヘップバーン主演でアカデミー主演女優賞。脚本もアカデミー賞を獲得したが、この脚本がトランボの手になるものであったことは、トランボが死ぬまで知られないままであった。
死ぬまで、世界中の映画ファンを騙していたのでした。

 ね、ちょっと興奮する話じゃないですか。

 わたしは、この話を知ったとき、いろんなことが、かちかちかち、と音を立てて重なってゆく興奮を味わったのでした。
というのは『ローマの休日』という映画は、嘘をつく、だます、そして最後まで嘘をつきとおす、というようなことがテーマになっているからです。
映画の冒頭の「パラマウト・ニュース」。
1950年代半ばの映画館では、観客は「あれ、映画が始まったんじゃないんだ。またニュース映画かいな・・・」と騙されたはず。
そして、王女と新聞記者の必死の騙し合い。
「真実の口」の前でグレゴリー・ペックがヘップバーンを騙す印象的なシーン(これはペックのアドリブと伝えられていますが)。
最後は、ローマの一日を永遠の秘密とすること、世界中を騙し続けることの確認。
そして、そこに突然出てくるヒッチコックの名前。

 やっぱり、この「おとぎ話」は、とんでもないミステリー映画だったのです。

 しかし、このトランボという人、単なる正義の人ではなく、活動するためには平気で人をだます、しかも騙すことを楽しんでいるってのがかっこいいです。
そう思って、あの「ままならないのが人生さ」ってシーンを見ると、カッコええなぁと思います。
そのあたりが映画でどのように描かれるのかが、楽しみ楽しみ・・・
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2016年07月14日

誤読するにもほどがある!――「即非の論理」を誤読する


 先日の大拙忌における上田閑照先生のお話に「即非の論理」というのが出てきた。

 「AはAに非ず、それゆえにAなり」

 なんのことやら、わけが分かりませんね。
同一律が支配する日常的な場面で考えようとすればナンセンス極まりない、わけの分からない論理です、いや、非論理ですね。

 この非論理を説明していただけるとありがたい、と何度おもったことか・・・
しかし、禅はこれを体験せよ、という形で迫ってくる。
説明されて「ああそうですか」と「分かる」というような論理ではない。
というわけで、説明されないままになっていると、何かとんでもない境地として崇め奉られるか、そんなお関係ねぇと遠ざけられてしまう。
上田先生は、今回の講演では、禅の言葉でその境地を指し示すということはなさらなかったが、わかりやすく説明するということもなさらなかった。

 ここは難しいところで、説明してしまうとそれは知識になってしまって、その境地自体が生きられないということになる。
それは客観的に語りうる対象論理ではない。
体験の論理なのである。
しかし、ある程度の具体的な説明がないと、体験したとき、「あ、このことか!」ということも分からないのではいか。
それで、大拙や上田先生は、その著作では、禅問答をそうとう具体的に「解説」したり、さりげない日常的体験(こどもの言動)にその境地を見出し説明しようとされている(そのような説明的行為は禅の保守本流からはいわば邪宗視されているところもある)。

 が、もうちょっと普通の体験で説明してもよいのではないか、と思うのは私だけか。
 それも普通の人の普通の宗教体験。
 大いに悟ったなどという大げさな体験でもなく、ちょっと気持ちが楽になりましたぐらいの体験でも語れるのではないか。

 例えば、合掌してお参りするという、最小限の宗教体験。
私は、合掌という宗教的儀礼においては、主語的な私ではない。
そのような私は否定されて、むしろ間接目的語的な贈与の対象、あるいは超越者から呼びかけの対象としてしか存在しえない。
それが証拠に、どんな宗教儀礼も、両手の自由を奪ったり体全体の自由を奪ってしまう。
数珠とかロザリオは主語的自由を奪う鎖なのである(座禅は結跏趺坐で主語的私は否定されている)。
そのような儀礼的時空から再生して再び主語的な私として日常を生きる。

 「我、我ならずして我なり」というわけの分からない論理は、実は日常に区切りを入れるごく普通の宗教的行為の中に体験される。
ふつうの人生の中で体験されていると思う。

 あるいは、『ローマの休日』。
ローマの聖なる日に、アン王女はアン王女としてふるまうことを禁じられる。
女学校の寮から出てきた女子学生としてしか振舞えない。
そこには、自分の振る舞いを抑制し、超越的な視点を意識して演技するという体験が成立する。
そして、そこから抜け出るとき、アン王女は大人の凛々しいアン王女になる。

 「無分別とは超越的な視点」というこの間のご講演の言葉が耳に届いたとき、私にはいろんなことがカチカチカチと音を立てて結びついたのでありました。

『ローマの休日』が「即非の論理」で説明できる!というのは、誤読なのかもしれない。
いや誤読です!
しかし、そのような誤読が、思想を豊かにするのではないか。
少なくとも、わたしは、楽しい。

 あるいは、カミュの「meprisによって乗り越えられぬ運命はない」という「シーシュポスの神話」の言葉も同じ論理で理解できるかもしれない。
新潮文庫では、「軽蔑」、内田樹先生は「俯瞰」と訳しておられるが、いずれにせよ、超越的な視点より自らを見つめ、新たな自分へと再生する。
「自殺は認識の不足である」とは、そのような「即非の論理」の欠如を言うのではないか(あたしの『哲学入門死ぬのは僕らだ!』の121頁参照うれし)。
もちろん、そんなことカミュの知ったことではなく、それは誤読かもしれないが。
誤読ですって!

 ボブ・ディランの「風に吹かれて」なども、そこには大拙的な「答え」のあり方があるように思う。
大拙をギンズバークやケルアック、サリンジャーらが誤読し、そしてディランが誤読する。
そのようにして、思想が豊かになってゆく方が楽しいと、私は思う。
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2016年07月12日

死にはする。殺されはしない。――永六輔氏死去で思い出した言葉

 あれは、1975年ごろの『面白半分』という雑誌だったか・・・
記憶はあいまいですが、永六輔氏が、

「死にはする。殺されはしない。」

という言葉を反戦のメッセージとして書いていたのを思い出した。
順番は逆で「殺されはしない。死にはする。」だったかも知れない。

 つまり、人間だからいつかは死ぬだろうが、戦争で殺されることはまっぴらだ!というメッセージである。

 そのメッセージに、石原慎太郎への批判がくっついていたのを思い出した。

 60年安保当時、石原慎太郎は戦争反対を唱え颯爽と運動の前面にたっていた。
わたし、永六輔はその後ろでうろうろしていただけだ。
その石原慎太郎は、今や、戦争への旗振り役を先頭に立ってやっている。
わたしは、ただ殺されるのが嫌だから、いまだに戦争反対を言いながらうろうろしている。

 そんな趣旨の言葉だったと思う。
こんなのが記憶のどこかに引っかかっていたんですね。
おそらく共感したんだろう。
今でも共感するもの・・・
ウロウロ、オズオズ、グズグズ、ウジウジ、ジタバタしている人間に共感してしまうのです。

 あのあたりの不良のあんちゃんたちが次々と亡くなってゆきます。
寂しいですね。合掌。
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2016年07月11日

怒涛の十日間――あたしゃちょっぴりくだびれた

7月2・3日は近くのお寺さんと合同で門徒さんとの旅行。
7月7日は大拙忌で上田閑照先生のご講演。
7月10日には、わが寺の役員会と永代経法要。
これらの日程が無事終了と言いたいところですが、有事終了で、さすがにちょっとくたびれました。

 まず、門徒さんとの一泊の旅行。
旅館での宴会もさらりと終わり、ゆっくり眠れると思っていたら、夜明けごろ添乗員さんが飛び込んでこられました。
「ご夫婦で参加の旦那さんのほうが冷たくなってます」
「冷たくなって」亡くなっておられました。
警察などの事情聴取の後、ご遺体と奥さんと責任者を残して、盛り下がった旅行は旅館を出発。
ホント、心臓は簡単に止まるのです。

 次に大拙忌。
こちらは、ま、無事に終了なのでしょう。
が、よい講演会と感謝されたり、お小言頂戴したり、どっと疲れました。

が、疲れる暇なく、役員会の書類準備。
そして、寺のそうじ、そうじ、そうじ、そうじ。
こちらも、役員会で「墓地のそうじがゆきとどいていない」とのお小言をいただいて、がっくり。
はい、くたびれました。

 セルジオ・メンデスが演奏する「フール・オン・ザ・ヒル」を聴いてぼんやりしてます。
こんな曲も、大拙が英語で仏教や禅を語らなかったら、聴くことはできなかったような気がします。
posted by CKP at 16:22| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月06日

キジも買わずば読まれまいに――CKP,タヌキをダシに使う

 『同朋』7月号、購入なさいましたか?
池上タヌキ之介×高橋源一郎×中島岳志の鼎談、お読みになりましたか?
大学近くの大垣書店本店ではあっというまに売り切れ!

 で、その7月号を最後までペラペラとめくってゆくと、わたくしCKPカドワキの『人生ロードショー』という連載ページにたどり着くのでした。
こ、こんなものがあるのなら買わなかったのに~、と悔しがってももう遅い。
賢明なるワタクシは、タヌキをダシに使い、読者諸賢の講読意欲をそそり、結果としてワタクシが連載を始めた『同朋』を購入せしめたのでありました。
なんという、タヌキもたじたじの深謀遠慮。

 というわけで、来月号にはタヌキはたぶん登場しませんが、ワタクシは1ページの連載をしこしこやっとりますので、立ち読みでいいから手に取ってやってくだされ。

 最初は「鴨川長治」のペンネームで、淀川調で書いたのです。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラって調子で。
編集部も面白がってくれて、これでいけるかなと思っていたら、「ところで原稿は800字ぐらいでお願いします。ペンネーム?それはなし」とあっさり無視されてしまいました。
というわけでホントの名前で書いてます。
posted by CKP at 12:53| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月05日

フンベツとムフンベツ――7月7日上田閑照先生講演会の予習のために

 いよいよ7月7日の大拙忌・上田閑照先生の講演会が近づいてまいりました。
午後4時20分から、京都は北大路の大谷大学メディアホールです。

 私はあまり勉強しなかったせいか、学生時代から上田先生が怖くてしょうがない。
いつも態度のでかい私ですが、上田先生の前に出ると、もう、コメツキバッタのごとくペコペコせざるを得ない。
別に怒鳴られたことなどないのですが・・・

 で、日ごろ不勉強な学生は、泥縄で予習しようと焦っておるのです。

 タイトルの「分別と無分別――而して『無分別の分別』妙」に関しては、上田先生が編集された『新編 東洋的な見方』(岩波文庫)の解説がコンパクトにまとまっていて便利です。
そこからちょこっと引用しておくと・・・
    *       *
 世界のうちにある大拙にとっては「二分性は人間に与えられたところのもので、これから脱離不可能だ」、むしろ人間にとって必要なものであり、「二分性の徹底をまなばなくてはならぬ」。しかし、「二分性はけっして絶対的ではない」、かえって「分別は分別だけで可能なのではなくて、そのうらに無分別があることを忘れてはならぬ。」
    *     *
 物事を二つに分け考えるのが分別。
主観と客観、物と心、光と闇、善と悪などなど、人間である限り、この二分性から離れられない。
しかし、その分別の元があって分別されるわけであるから、そこには無分別なる事態がある。
が、それを分別に対立する無分別として語ることは不可能なはず。
だから、禅は不立文字。
あるいは、分けのわからぬ禅問答。
しかし、大拙は語る。
大いに語って、英語でも語る。
分かるように語る。
ゆえに「無分別の分別」妙、ということになる・・・?

 そこのところはご講演で直接聴聞してくだされ。
なんで大拙忌でゴミの分別のはなし?・・と不思議がっていたキミ!ちゃんと聴こうね。
posted by CKP at 13:49| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月30日

お待たせしました――『同朋』7月号、書店配本完了!

 お待たせしました。
『同朋』7月号が、各書店に配本完了したようです(前々之記事参照)。
フライング気味でお知らせし、タヌキ・ファンの皆様を焦らせてしまいました。

池上タヌキ之介の写真が、知的で優しそう、と書店員のあいだで評判です。
タヌキの術のタヌキ効果ですな。
posted by CKP at 10:04| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

私はヨーロッパのことを何も知らない――EU離脱について考えて分かったこと

イギリスには何の義理もない。
株とか為替に手を出して、この混乱にあたふたしているわけでもない。
ただ、この間のイギリスの国民投票のEU離脱派勝利を、「愚かな選択」「馬鹿な事」と吐き捨てるようにテレビで言ってる「識者」がおられたので、ホントにそうなのかと悩んでおります。
そのうえ梅雨風邪で・・・

 株とかそういうものとは無縁のわたくしには、離脱派勝利⇒株式市場大混乱という状況は当面は関係ない。
 
 ただ、逆の場合はどうなったか、と考える。
離脱はなく現状維持の場合。
おそらく反移民感情は今にもまして燃え上がり、それを右翼が吸い上げて、極右政党が強くなって…という絵柄が浮かぶ。
フランスでも、ドイツでも、イタリアでも排外主義が燃え上がり・・・となるでしょう。
これはこれで、じわじわと嫌な感じ・・・

 どっちが嫌か、という問題ではないのだろうけど。

 そもそもルーマニアやポーランドからイギリスくんだりまでなぜ移民が殺到するのだろう(難民ではない)。
EUってのは、ルーマニアやポーランドあたりに積極的に産業を興すということはしていないのか?
安い労働力をドイツやイギリスに持って来ればよし、という体制なのか?
たしかに移動が自由、しかしそれで得するのは資本家だけ、貧乏労働者は安い仕事の奪い合い・・・
EUの平和への理念を今回の決定は踏みにじる愚かな判断、と識者が言っていたが、EUというのは理念はそうかもしれんが、ホントに理念どおりに機能しているのだろうか・・・

 結局、EUについての実態というのがよく分かっていない自分に気が付くのでした。

 それに、イギリスの農場風景がちらりとニュースで映し出されたいたけれど、大規模農業でそこにポーランド移民が雇われている。
いまさら聞けもしないのですが、イギリスっていまだに爵位なんかもった大地主がえばってるのでしょうか?
ロールスロイスなどを馬車代わりにしている人たちなのでしょうか?
「農地改革」なんてなかったですよね、イギリスでは。
というか、ヨーロッパの農地の所有者っていまだに貴族たち?
(逆に言えば、日本で大規模農業が難しいのは、農地改革でそれまでの小作農が土地を所有してしまったから。
つまり、日本は土地所有者が多いのではないか?
それと円の強さがどこかでつながっているような気がするが、そのような話はとんと聞かない。)

 というわけで、ヨーロッパについて何も知らない自分に気づいたのでした。

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2016年06月23日

読んだ?!――中島岳志×高橋源一郎×池上哲司

 『同朋』7月号の中島岳志×高橋源一郎×池上哲司の現代における親鸞をめぐる鼎談。
読まれましたか?
これは、近年、まれにみる気持ちの良い、そしてためになる、とっても面白い親鸞をめぐる鼎談です。
それぞれの個性が、ぶつかり合いながらも見事に調和しているまれにみる鼎談です。
たぶん、一部分しか採録していないと思います。
出来たら、全部起こして一冊の本にしてほしいくらいです。

 あのタヌキはやはりただのタヌキではないのです。
書店ではなかなか手に入らないかもしれません。
そんな時は、こちらにどうぞ。
 http://books.higashihonganji.or.jp/

追記
現在、京都の大垣書店(各店)の他、
ジュンク堂(京都店)、丸善(京都本店)、京都駅アバンティブックセンター、
三省堂書店(京都駅前店)、水島書房(丹波橋駅前店)、
滋賀の紀伊国屋書店(大津店)で書店販売しているそうです。
posted by CKP at 12:50| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月22日

お待たせ!池上タヌキ之介哲司登場!――『同朋』7月号で高橋源一郎、中島岳志と鼎談!!!

 全国のタヌキファンの皆さま、お待ちどうさまでした。
池上タヌキ之介哲司先生がリニューアルした『同朋』7月号(東本願寺出版)に登場でございます。
現代における親鸞をめぐって、高橋源一郎氏、中島岳志氏と鼎談。
表紙に、3人が源一郎兄さんが真ん中・・・という感じで、逆三角形の配置で写った写真が掲げられているのですが、見事にだれもネクタイをしていない。
そういう3人の鼎談です。
もちろんタヌキ之介は、タヌキの着ぐるみを着ているわけではありません。

 また延塚知道先生も『教行信証』についての連載を始められました。
難解なこの本のポイントを優しく説いてくださる連載となるでしょう。
またまた元哲学科の客員教授であったマイケル・パイ先生は、まだ京都あたりに住んでおられて、木越大谷大学学長と対談をなさっています。

 ページ数も増えて一般書店でも扱いが始まったのではないか、と思うのですが・・・
そこんとこ、どうなっているのかいな・・・
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2016年06月20日

萩原健太は声もいい――今日の「折々」

 今日のわっしーの「折々のことば」は萩原健太さんの言葉でしたね。
私が一番信頼している音楽評論家(ロック)で、一度書きたいなと思っていたところ、わっしーに先を越されてしまいました(いったい何を競争しているのでしょうか)。
昨年大推薦したエリック・カズの「41年目の再会」も萩原健太さんのラジオ番組で教えていただいたアルバムでした。

 なぜ萩原さんを信頼しているかと言えば、声がいいんです。
大平透さんを少し若くしたような深くて柔らかい声。
ああ、この声の持ち主なら信頼できる、そんな声なんですね。

 高橋源一郎さんの声は、それとはまったく違う声質ですけど、好きですね。
声というより話し方なのでしょうか?
宮沢章夫さんのしゃがれた声もよい。
このお二人はNHKラジオすっぴんのパーソナリティですね。
この人たちのお相手のNHKの女性アナウンサー(藤井さん)の声も落ち着いていていいです。

 美声と自分にとって「いい声」というのは微妙に違います。
何が違うのでしょうね。
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2016年06月15日

ナチスも日本の軍部も――オイオイの言葉

「猫も杓子も」ということわざはあるが「ナチスも日本の軍部も」というのはない。
語呂が悪いですものね。
これは、丸山眞男が、学園闘争の頃に研究室を荒らされたとき学生に向かって「君たちのような暴挙はナチスも日本の軍部もやらなかった。しかし、わたしは君たちを憎みはしない。ただ、軽蔑するだけだ」と言ったという、今や都市伝説となった言葉の一部である。
いあ、もう、伝説にもなってないか・・・
ましてや、この言葉を軸に吉本隆明が丸山眞男を批判したなどという話は過去の彼方でありましょう。

 そんな話をなぜ今ごろ蒸し返したのでありましょうや。

 なぜ丸山眞男は全共闘学生の乱暴狼藉ごときに、日本の軍部はもとよりナチスまで持ち出したのか…これが今まで不思議だったのですが、先日のブログでフルトヴェングラーをとりあげたとき、中野雄『丸山眞男 音楽の対話』を引っ張り出して読んで、なるほどと合点できたので、そのご報告に至った次第。
そんな事、もうどうでもいいとは思いますが・・・

 そもそも全共闘の狼藉ごときに、日本の軍部を持ち出してくるのも大げさな話である。
が、これは「狼藉」の規模の話ではなく、学者・文化人の待遇の話である。
日本の軍部は、東京帝国大学助教授丸山眞男の研究を妨げはしなかった。
もちろん、軍に招集されることでその研究は中断を余儀なくされたが、将校になれるところを一兵卒として入った軍隊でも、8・15以後には、丸山眞男は軍隊で将校相手に講義を行っている。
軍部は、丸山を「先生」として遇したのである。
ゆえに、「君たちのような暴挙を日本の軍部はやらなかった」。
これは分かる。

 が、そこにナチスが出てくる、これが分からない。
ナチスと言えば、学問に関していえば、ユダヤ人や共産主義者の書物を「焚書」した連中である。
全共闘の乱暴狼藉の比ではない。
なのに、なぜ「こんな暴挙はナチスもやらなかった」ということになるのか?
不思議と言えば不思議ですね。

 おそらく、この時、丸山眞男はフルトヴェングラーになっていたのではないか、というのがわたくしの推測であります。

 丸山眞男のお弟子さんで、レコード業界で世界的に活躍した中野雄氏の『丸山眞男 音楽の対話』を読むと、丸山眞男が西洋の、とりわけドイツ語圏のクラシック音楽への造詣の深さに圧倒される。
ドイツからベートーヴェンやワーグナーのスコアを取り寄せ、生半可なプロの指揮者よりも詳細に読み込み、それが丸山自身の書き込みからよく分かるという。
またフルトヴェングラーの著書もドイツ語で読み、詳細な書き込みがあるという。
丸山眞男は心からフルトヴェングラーを敬愛し、そのベートーヴェンの演奏を、とりわけ戦時中の切羽詰まった状況での演奏をこよなく愛したという。

 そのようなフルトヴェングラーをナチスは、利用したとはいえ、慇懃に遇した。
おそらく丸山眞男は、大学が封鎖されている時、自宅で悲壮な心持で、戦時中のフルトヴェングラーの演奏を聴いていたのではないか。
自身がフルトヴェングラーになったような気持ちで聴いていた・・・そして大学に来てみれば自分の研究室が荒らされている・・・と思わず「君たちのような暴挙はナチスも日本の軍部も・・・」という発言になったのではないか、と邪推するのであります。

 でなければ「ナチスよりひどい」というようなセリフは出てこない。
ナチスよりひどいことをする人間なんてのはそうそう存在しない。
ナチスよりひどい、と言われた学生諸君、とんだとばっちりでしたね。
posted by CKP at 13:30| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする