2017年04月25日

おや、きれいなお姐さん――オイオイの言葉

 眠られぬ夜、ヒルティなんぞ読まずに小沢昭一の『小沢昭一的こころ』のCDを聴いているのは私です。
それで、結局、にやにや笑って聴いているものですから、またまた眠れなくなるのでした。

 月曜日から金曜日まで、40年続いたこの番組の1975年12月8日から始まった「よいしょについて考える」の第二日目(つまり1975年12月9日火曜日)の放送で、「よいしょの昭一」こと小沢先生は次のごとく述べておられました。

 地方などに招かれてお座敷で接待を受けるなんてことがよくありますが・・・
ふすまが開いて、お姐さん方がお顔をお上げになった瞬間、
間髪を入れず、裂ぱくの気合でもって、
「おやぁぁ、きれいなお姐さん」
と、歌舞伎で「高麗屋ぁぁ」と掛け声をかけるように、声を発します。
迷ってはいけません。
嘘をつくとか、お追従を言うとか言うことでなく、少し無理かなと思っても、迷いなくすっと声に出します。
すると、その後の時間、お姐さん方は、一のところを二いや四倍八倍の芸を発揮して、楽しい時間をつくって下さるのであります。

 よい話だなぁ、と思って、その後、教室に入るときは、
「おやぁぁ、素敵な学生さん」
と声には出しませんが、そっと呟いて、授業を始めています。

 小沢昭一先生の境地にはまだまだ達していませんが、このつぶやきだけでも、授業が二倍三倍に充実している気がしているのは、私だけでしょうか?
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2017年04月15日

やはり海のものとも山のものとも川のものとも知れないタヌキ--浜辺に砂があるように、海に狸がいるのでしょうか?

「タヌキは山のもの」「海豚はいるが海狸はいない」と先々回のブログで書いたら、「海狸もいます」とコメントをいただきました。

 いるんですね、海狸。
ラッコかな?と思ったら、ビーバーなんだそうです。
ビーバーを漢字で書くと「海狸」。

 もちろん、ビーバーは川や湖の生物で、海にはいない。
おそらく、明治あたりの博物学者が欧米の文献で知って、水辺のタヌキみたいな動物ということで海狸としたのでしょう。
ですから、川や湖に棲息する海狸という、タヌキではないビーバー。

 だもんで、タヌキ乃介に浴びせられた「海のものとも山のものとも知れない者」という言葉は、「海のものとも山のものとも川のものとも知れない者」と表現したほうが正確であったということですね。

 コメントをくださった方は、池上タヌキ乃介をご存じない方らしく、「池上先生は物事をコツコツと積み上げてゆく方でしょうか」と尋ねておられました。
すっかり、このタヌキはビーバーになってしまいした。

 はい、このビーバータヌキは、物事を分析し、それをコツコツ積み上げてゆく論理的タヌキです。
これで、もうちょっと筆まめであれば、我々も、あの論理的かつ抒情的な文章を読むことができるのですが・・・。
『不可思議な日常』と『傍らにあるということ--老いと介護の倫理学』が手に入りやすいので、お求めください。
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2017年04月13日

風邪をひいておりました――タヌキの呪いか?

 やっと風邪も治りつつあります。
新学期そうそう風邪をひいておったのです。
「馬齢を重ね人間がすっかりねじ曲がったタヌキ」の呪いなのかもしれません。
いや「バカでなかったのが分かってよかったね」というお祝いかも。
しかし、自分がバカでないのを確かめるのにいちいち風邪にかからねばならないというのも困ったものです。

 私が風邪にかかっている間に、トランプは中東であばれるわ、真央ちゃんは引退するわ、ペギー葉山はなくなるわ(合掌)、世界はどんどん動いています。

 しかし、アサドというのは、風邪にかからないバカなのか?
世界が「アサド・シリアもしょうがないか・・・」と思い始めた途端に化学兵器をつかうとは・・・
しかし、風邪にかからないような独裁者の国が内戦状態でもなかなか崩壊しないのはどういうわけ?

 内藤氏が「安定的敵対関係のイスラエルが、最初にアサドが化学兵器を使ったと言い出したから、この話は真実だろう」、とおっしゃっていましたが、どうなんでしょう?
アサド・シリアが容認されればイランも安定して、イスラエルの脅威となるという文脈もあるのでは・・・

 中東の正義というのは奇々怪々で、少しぐらい風邪を引いたぐらいではわかりません。
日本の正義も分かりませんが。
ちょっと風邪を引いたからといって、わからないのが今の世界情勢だ、と世界を見るべきなのでしょう。

 とにかく、「世界の警察をアメリカはやめる」というトランプの唯一の取り柄が、ガラガラと崩れてしまったのが残念でした。
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2017年04月04日

タヌキは山のもの――空に星があるように、山にタヌキが住むように

 卒業式の日に卒業生の皆さんに贈った荒木一郎の「空に星があるように」という歌は、馬齢を重ね人間がすっかりひねくれてしまったタヌキから、そのレコードが送られてきたことによって、想い出した楽曲なのでした。
卒業生諸君の、おそらく誰一人知らない曲を贈って、すまん事をしたと反省しております。
スミマセンでした。

 それにしてもこのような暴挙をワタクシに為させた「馬齢を重ね人間がすっかりひねくれてしまったタヌキ」とはいったい何者でありましょうや。
そもそもいかなる生物でありましょうや。
もちろん、それは馬でもなくタヌキでもないレッキとした人間、池上哲司という倫理学者のことでありますよ。

そうです、3月の末、わっしいこと鷲田清一先生が朝日新聞に連載されている「折々のことば」にある文章が引用された、アノ池上哲司先生なのであります。
このようなことばが引用されておりましたね。

「海のものとも山のものとも知れないのは、君にとっての彼女であり、彼女にとっての君なのだよ」(『不可思議な日常』より)

 その昔、今の奥さんを「ください」と相手方のお宅に伺ったとき「海のものとも山のものとも知れない奴にやるのだから」と言われたことを、今度はその相対性を取り出して、息子さんに伝えたいという言葉らしい。

 が、ワタクシはその言葉を読んで、「タヌキは山のものであって、海のものではなかろう」と思ってしまったのでした。
(狸と書くくらいだから、里ちかくの山でしょうが)
海豚はいるが、海狸ってはいないだろう、と。

 しかし、このタヌキも1966年ころは、荒木一郎のレコードなどを買う、まだ馬齢も重ねぬ、人間もまっすぐなさわやかなヨコワケ青年だったんだなぁ、とそのレコードジャケットを見ながら思ったのでした。
1966年というと、あのタヌキは高校3年生、それとも一浪中?

 この年、荒木一郎は『ある若者の歌』というアルバム、そのころには珍しいコンセプト・アルバムも発表していて、これもタヌキから送られてきたのでした。
池田弥三郎氏が「健康な若者の歌」とライナーノーツで絶賛しているのですが、しかし、よく聴くとメロディや歌い方はさわやかなのですが、歌詞はけっこう屈折しているのです。
その屈折を、湿り気なしにさらっと歌うのが、当時の日本では珍しく、ゆえにタヌキ青年が「空に星がるように」のシングル盤のみならず、アルバムLPまで買っていたというのも分かる気がするのでした。

 さらにびっくりしたのは、この同じ年に荒木一郎は『893愚連隊』というチンピラ映画に出演していたのでした。
893を「ヤクザ」とよむトホホなモノクロ映画の18禁映画。
主演は松方弘樹。

 ですから、荒木一郎がなかなか一筋縄ではいかぬように、タヌキはそのころから一筋縄ではいかぬ二筋縄、三筋縄のタヌキだったではないか・・・という話でした。
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2017年04月01日

なせショルティ――なぜ『薔薇の騎士』

 なぜ村上春樹の『騎士団長殺し』に登場する『薔薇の騎士』のレコードが、ゲオルク・ショルティ指揮のものなのか?
リヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』には、カラヤンが指揮してシュワルツコップが元帥夫人を歌う絶対的な名盤があるのに、村上春樹はなぜショルティ指揮の、ふつうの名盤案内ではあまり言及されないレコードを選んだのか。

 という問題など読者諸賢にはあまり関心のない問題と思われますが、しかし、よく考えると村上春樹の文体とショルティの文体というか音楽に同質のものがあるのではないか、と思い至ったので書いてしまいます。

 ショルティやセル(『1Q84』に登場)の指揮する音楽は、緻密に正確に演奏されているけれども、情緒にかける、精神性が感じられない、という言い方がされます。
とくに、『薔薇の騎士』に期待される19世紀から20世紀の変わり目のウィーンの情緒ということには、ショルティは目もくれていない、と言えるでしょう。
ましてや、ショルティやセルの演奏から、フルトヴェングラーのような19世紀的「精神性」などは感じられません。

 むしろ、ショルティやセルは、19世紀ヨーロッパに縛られないコスモポリタン的な演奏をするように思います。
どの時代、どこの地域に暮らそうと、分かり合える演奏、そういうものを目指しているように思います。
それは、彼らがユダヤ人としてドイツ、オーストリアから逃れねばならなかった過去と無縁ではないと思われます。
彼らにとって、19世紀的精神性だのウィーン情緒などというものは、どこかナチス・ドイツとつながるものであったのかもしれません。
また、こちらも19世紀ヨーロッパの精神性だのウィーン情緒だのは、知らないのですから、知ったかぶりをしない限り、彼らの演奏は清潔で気持ちの良いものと感じられます。
つまり、「ショルティじゃ、ウィーン情緒がかんじられないねぇ」などと言うことはありません。
わたし、ウィーンにいったことないですし・・・。

 村上春樹の文体も、例えば日本情緒だの大和魂だのとは何の関係もないコスモポリタン的なもののように思います。
そのあたりの透明で清潔な空気感が、ショルティの『薔薇の騎士』を村上春樹に選ばせたということではないか、ひとまずはこんなふうに考えてみました。
しかし、そういう平明さが、「村上春樹は精神性に欠ける」などという批判を呼び込むのでしょう。

 が、なんで小説の中でかけられるレコードが『薔薇の騎士』なのか。
これなどは、岡田暁生氏の『オペラの終焉』(ちくま学芸文庫)あたりを読んでじっくり考えてみたいと思うのですが、まずは、『騎士団長殺し』も『薔薇の騎士』も、そして『ドン・ジョヴァンニ』にも、けっこう性的にいやらしいという共通性が考えられます。
 『薔薇の騎士』なんて、32歳の元帥夫人と若いツバメであるアクタヴィアン(17歳)の朝のベッドでの睦言で幕が開きます。
そして、その幕開きを見て、先ほど演奏されていた序曲の次第に盛り上がっていってまるで頂点に達したようなホルンの咆哮がいったい何を表現していたかが、どんなお上品なお方にもわかってしまうような仕掛けになっています。
「ま、知りません!」
いやらしさを上品に表現する――これがウィーン的なのかはどうかわかりませんが、ま、村上春樹の性描写も淡々と表現されるからこそセクシャルというところがあります。
このあたり、モーツアルトやリヒャルト・シュトラウスと村上春樹に共通するもののように思います。
(『ドン・ジョヴァンニ』にしても、『フィガロの結婚』にしてもけっこうヤラシイお話です。)
ある意味では、冷静な人間観察ということもできます。

 まずは、そんなところに目星をつけて、『騎士団長殺し』を読み直したいと思うのでした…と思っていたら新垣が始まってしまいました。
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2017年03月28日

『騎士団長殺し』読み終わってしまいました――遅かりしショルティ殿!

 『紀信団長殺し』読み終わってしまいました。
ショルティ指揮の『薔薇の騎士』が、はるかスウェーデンから届くの待ちながらゆっくりゆっくり読んでいたのですが、結局、届く前に読み終わってしまいました。

 面白かった!です。
ただ、もう終わり?という感じが残りました。
もう一波乱、いや二波乱もありそうな感じが残っています。
ひょっとして、第三部、第四部があるのでは・・・と期待しています。

 ところで、『ドン・ジョヴァンニ』に関しては、誰の演奏をイメージしているのか、最後まで分かりませんでした。
『薔薇の騎士』に関しては、はっきりとショルティ指揮ウィーンフィル、元帥夫人フレスパンと指定しているのでよけいに気になります。

 村上春樹は、どうもショルティとかセルとか、すっきりとしたきびきびした演奏が好みなのかなと思います。それに、ショルティ盤は、デッカ録音。
そのデッカ盤のショルティ指揮の『薔薇の騎士』が、はるばるスウェーデンからようやく到着。
このレコードをかけながら、もう一度読むとどんな感じになるのか楽しみです。
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2017年03月22日

村上春樹『騎士団長殺し』途中経過報告――あるいは『薔薇の騎士』のどれをきくか?

 やっと、一息ついたので、『騎士団長殺し』を読み始めました。
このひと月ばかり、とんでもなく忙しく、授業のないこの時期にやろうと思っていた仕事はきっぱり諦めました。
とにかく、これを読み終わらねば、なにごとも始まらない・・・という感じで読んでいます。

 はっきり言って、大変面白い。
異様に面白いと言ってもいい。
村上春樹自身の訳によるチャンドラーの『ロング・グッド・バイ』の面白さ、そしてその面白さを確認したのちに再読した『羊をめぐる冒険』の面白さに匹敵する面白さだと思います。

 先回の『1Q84』は、私は途中で挫折してしまって、今回もあまり読む気はなかったのですが、タイトルの「騎士団長」というのは、『ドン・ジョヴァンニ』の、オペラが始まっていきなり殺されてしまうあの「騎士団長」と関係があると聞いて、これは読まねばなるまいと思ったのでした。
昨年、久しぶりにクルレンツィスと彼の仲間たちによる『ドン・ジョヴァンニ』をきいて、にわかに『ドン・ジョヴァンニ』熱が再燃していたからでした。

 さらに読み進めてゆくと、そこに登場するリヒァルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』。
これも、最近、指揮はカラヤンかクライバーか、元帥夫人はシュヴァルツコップカ、デラ・カーザかと迷いだし、カラヤンが元帥夫人にデラ・カーザを起用したCDを手に入れたばかりだったので、「何たる偶然の一致!」と妖しい気持ちで読んでいます。

 ところが、この本に出てくるのはゲオルグ・ショルティがレジーヌ・クレスパンというソプラノと組んだ『薔薇の騎士』。
黒田恭一氏が、クレスパンのおっとりした感じが好ましいと書いておられたので興味を持ってはいたのですが、購入するまでもないとたかをくくっておりました。
ところが、こんなところに登場。

 日本の古レコード通販サイトでは1万円前後。ちょっとな・・・
ところがスウェーデンの古レコード屋で2,000円で売っている。
またショルティの『ラインの黄金』(@ワーグナー)も3,000円くらい(日本では15,000円は下らない)。
えいやっと注文したら「申し訳ない。『薔薇の騎士』がめちゃめちゃ豪華なブックレットが付属していて大変重いので郵送料が5,000円かかりますけど、よろしいか」と訊いてきた。
もちろんそれでもぐんと安いから注文。
ただいま、それが届くのを待っています。

 村上春樹は、なぜショルティ盤を挙げたのでしょう?
前回は、ジョージ・セル指揮の「シンフォニエッタ」でした。
両方ともハンガリー系ユダヤ人。
ショルティはGeorg、セルはGeorge名乗っているが、実は同じ名前の同郷人なのでした。

 とにかくそのバカ重い『薔薇の騎士』が届いたら、それをバックに流しながら、『騎士団長殺し』を読むのが楽しみです。

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2017年03月17日

空に星があるように――ご卒業おめでとうございます

 本日は、京都は北大路、大谷大学の卒業式です。
哲学科卒業生の皆さん、カドワキゼミ卒業生の皆さん、おめでとうございます。
とりわけ、最後までハラハラさせてくれた方々、しぶとく頑張りました。
その調子で、今後の人生の荒波を乗り越えていってください。

 が、時には座礁することもあります。
私の場合、20歳代は座礁の連続でした。
そんな時に、気が付くと口ずさんでいた歌をはなむけに贈ります。

荒木一郎作詞作曲そして歌唱の「空に星があるように」
これです。



春に小雨が降るように
秋に枯れ葉が散るように
それは誰にもあるような
ただの季節の変わり目の頃

う、う、う、う、・・・・

こんな歌とは無縁の人生だといいのですけれど・・・
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2017年03月16日

さながらかすめる――60年目の真実

 ラジオから「朧月夜」が流れてきました。
「菜のは〜なばたけ〜に・・・」って、あの歌です。

 その二番目の歌詞
「かわず〜のなくね〜も かぁね〜のおとも〜
さなが〜ら かすめぇる おぼ〜ろづきよ〜」
を、きいていてはっと気が付きました。

「かすめる」は「霞める」なのだと。

 わたしは、この歌を耳して約六十年のあいだ、
「まるで月の端をかすって飛んでいるような」と思っていたのです。
ゆったりした曲なのに、ここだけ妙にスピード感がますなぁ、とは不審に思ってはいたのです。

 しかし、そうではなく、「蛙の鳴く声も、お寺の鐘の音も、まるで霞がかかっているように、ぼんやりしている」というような意味だったのですね。

 まずはよかった、よかった・・・
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2017年03月11日

死にどき--難しいぞ、延命治療拒否

 母親を乗せた救急車に同乗しながら「無駄な延命治療は拒否しよう」と考えておりました。

 92歳の母親の嘔吐が続き、いつもの病院から市内の大きな病院に移って検査したら、腸閉塞らしいということで、10キロ以上離れた日赤へ救急車で移動することになりました。
夕方のラッシュ時に道の真ん中を救急車をぐいぐい走ります。
「つらいですか」と母親に問いかけてくれる看護師さん、「救急車がとおりま〜す。道を開けてください。ありがとうございま〜す」という救急隊員がやたらと頼もしい。

 それで日赤に着いたらさらに詳しい検査。
その結果、これは開腹手術をした方がよいとのこと。
92歳での手術は、よけい苦しいことになるのではと思い、もう静かに死なせてやって欲しい、と言おうと思ったのです。
すると、お医者さんのおっしゃるには、そのままにしておくと、腹膜炎を起こして大変リスクが大きくなるとのこと。
高齢で手術もリスクを伴うが、腹膜炎のリスクのほうが高いとのこと。

 そのお医者さんも、母親の92歳という年齢をよく考えていてくれているようだったので、手術の同意しました。
おかげさまで、手術は1時間もかからない単純な手術で済み、本人も集中治療室で順調に回復しています。

 が、いざとなると、なかなか「その延命治療はもういいです。静かに穏やかに死なせてやってください」という判断は難しいですね。
いちおう、本人とも「胃ろうだけはやめようね」と約束しているのですが、なんだか自信なくなってきました。
posted by CKP at 17:39| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

おぎゃー――オイオイの言葉

 しんらん交流館での日曜講演のとき、「おぎゃーという産声は、危険な声でもあります」というようなことをお話ししました。

 人間の赤ちゃんは、仰向けに寝たり、オッパイを吸うときお母さんの揺さぶりを待って吸うの休んだり、声を出すため喉を広げ気管支にものが詰まりやすくしたりして、死の危険を冒しながら言葉の世界に近づきます。
動物的生命よりも人間的生命を大切にする――というようなことを宗教学概論の講義で話したら、レポートに「産声も、天敵に居場所を知らせるようなもので、危険な行為ではないか」
という指摘がありました。

 なるほどその通りです。
というわけで、「学生諸君に教えてもらったのですが」と、前置きして、上の話しをしたのでした。

 人間というのは、そこに「死」を含んで存在している――という話をひろげて、その日曜講演では、フロイトの「快原理の彼岸」のラカンの解釈を、ヘーゲルのギリシア悲劇解釈を土台にわかりやすく話して、それで親鸞の神話観・浄土観を説明するというアクロバチック(悪路?)な展開となりました。

 お話ししていて、自分でも面白かったのですが、パラパラと参加していただいた方々を置いてきぼりにしてしまったのでは・・・
と心配していたら、正面に座っておられた70歳前後の爺さんが、終わったとたん「ええ話やった」とつぶやいてくださいました。

 これさえ聞けば、お礼なんかいらないくらいですが、ちゃんと用意していてくださったので、それはそれでありがたくいただきました。
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2017年03月03日

カドワキ一席うかがいます――3月5日 しんらん交流会館

 えー、今度の日曜日、3月5日午前9時半より、京都は駅前東本願寺の北にある「しんらん交流会館」(センター?)で、カドワキが一席うかがうことになりました。

タイトルは「阿弥陀の神話と〈私〉の物語」。

21世紀の今に、なんで法蔵菩薩が阿弥陀如来になられて十劫の時が流れました――なんて話を信じられるのか?
そんな神話を信じながら、死んで西方浄土に往生するという物語に、なんで抵抗するんだ?

 そんなことを考えるという、聴いていて思わず「ナンマンダブ」と手を合わすことのない、なんだかめんどくさい話になりそうです。
私としては、めんどくさいけど、大事なことだと思うのですが・・・
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2017年02月28日

「死と乙女」のほうへ――西田幾多郎、オルカーニャ、コパチンスカヤ

 西田幾多郎は「『国文学史講話』の序」(『思索と体験』所収)というエッセイで、その『国文学史講話』の著者・藤岡作太郎と西田自身の子どもを亡くした経験について書いています。
ちょうど『善の研究』を書いていたころの文章です。

 そこに「オルカニヤの作といい伝えている画に、死の神が老若男女、あらゆる種々の人を捕え来りて、帝王も乞食もみな一堆の中に積み重ねているのがある、栄辱得失もここに至っては一場の夢に過ぎない。」という文章があります。
今年の講義でこの文章をとりあげたとき、「このオルカニヤの画というのはどんなんでしょうかねぇ。誰か調べてくれませんか」とつぶやいたら、それを調べてきてくれたレポートが3篇ありました。
3人とも、図書館では「オルカニヤ」では調べられず、ネットで調べて「オルカーニャ」なる人物に行きついていました。
オルカーニャことアンデレア・ディ・チョーネ・ディ・アルカンジェロという人物で、1308年ごろ生まれ、1344年から68年までフィレンツェで活躍した画家にして彫刻及び建築家。
例の画は「死の勝利」というフレスコ画であろうというのが、3人の共通した結論でした。

 なるほど、ネットとはこうゆうふうにして利用するのか・・・ネットにうとい怠け者の教師は感心してそのレポートに「S」を付けてしまいました。

 このオルカーニャの活躍した時期は、ヨーロッパで黒死病つまりペストが流行り、ヨーロッパの人口が半減したといわれる時期に重なります。
その「死の勝利」という絵も、おそらくペストの大流行と関係があるのでしょう・・・

 なんてことを考えていたら、タワーレコードで、パトリツィア・コパチンスカヤの『「死と乙女」のほうへ』という奇妙なタイトのCDが目に止まりました。
英語のタイトルは「DEATH AND THE MAIDEN  SCHUBERT」つまり「シューベルトの死と乙女」なのですが、邦題では『「死と乙女」のほうへ』と妙な言葉がくっついています。
なんじゃろ?と曲目を見ると、シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」の4つの楽章のあいだに、「死の舞踏」と呼ばれた中世の曲や現代の死を扱った曲がはさまっているのでした。

 何たる偶然と即座に購入を決定。

 冒頭の妙に明るい「死の舞踏」という曲が、なんだか人間の無力さ、そして「一場の夢」という感じで妙に納得させられます。
しかもシューベルトは弦楽四重奏ではなく、もう少し規模の大きな弦楽合奏。

 今まで、「死と乙女」という曲はシューベルトにしては激しい曲であまり得意ではなかったのですが、こうして「死」のヨーロッパ的伝統の中で聴くと、たいへん説得力があります。
死に対するシューベルトの怒りともやけくそ的な諦めともつかぬ激しい感情が、コパチンスカヤの率いる弦楽合奏でストレートに伝わってきます。

わたしは大変に気に入っています。
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2017年02月23日

まだ書いてます――『同朋』3月号ぼちぼち発売

 東本願寺出版部から毎月発行されている同朋3月号がぼちぼち京都市内の書店に並びます。

 わたくしカドワキの「人生ロードショー」も昨年の7月号から打ち切りを申し渡されることなく、細々と続いておりますよ。
3月号では『マッド・マックス 怒りのデスロード』をとりあげました。
ネタが少ないから何でも書いてます。

 ちなみに今まで書いたのは
『パリ・テキサス』
『男はつらいよ ハイビスカスの花』
『ローマの休日』
『道』
『魔女の宅急便』
『日本暗殺秘録』
『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』
『冬冬の夏休み』
そして『マッド・マックス』

 どういう基準で選んでいるのか自分のでもわかりません。
東本願寺の境内の書籍部に行くとバックナンバーが立ち読みできます。
ぜひ!
posted by CKP at 17:26| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月21日

目頭が熱くなる声――『ハリー・ベラフォンテ カーネーギー・ホール・コンサート』

 ついに『ハリー・ベラフォンテ カーネギー・ホール・コンサート』を購入いたしました!
1959年のコンサートの実況録音ですが、名録音と言われ、現在でも、アメリカはもちろんドイツでも高音質の復刻LP(2枚組)が出ています。
いずれも1万円近くするのですが、今度はイタリアのゴールドノートという会社がドイツでプレスして発売しました。
9000円!
しかし、音溝に余裕ある3枚組で9,000円ということで、思い切ってアマゾン経由で購入。

 たいへん良かった。
2時間のコンサートがあっという間。
ベラフォンテの何とも言えない声がストレートに届けられる。
ビロードというより麻の布のちょっとざらついた声。

 最初はアメリカの労働歌。
そしてカリプソに移り、ついに「デ〜オ、デ〜〜〜オ〜」のバナナ・ボート。
その次に「さらば、ジャマイカ」。
それを聴いていたら、なんだか目頭が熱くなってしまいました。
ジャマイカのキングストンに可愛い女の子を残して旅を続ける歌。
ほんと、いい歌です。
ベラフォンテの声もいい声です。

 そして、世界旅行。
アイルランドの歌もあれば、ユダヤの歌も。
メキシコの歌もあって、最後はオーディエンスを巻き込んで「マチルダ」。

 その昔の「労音」のコンサートのような感じ(ったって若い方は全然わかりませんね)。

 こちらも、60年代のヨコワケの若者、「若者たち」を唄うような若者のような気分になってきます。

 ベラフォンテを聴くと、このひねくれた自分が、ちょっとまっすぐな人間になったような気がします。
馬齢を重ね人間がすっかりひねくれてしまった皆さんにお勧めです。
(CDもあるはずです)
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2017年02月16日

胸の熱くなるモーツァルト――ファジル・サイのピアノソナタ全集

 さてさて、来年度の準備にぼちぼち・・・
その前に去年聴いた音盤について。

 新譜では、以前にも書いた、テオドール・クルレンツィスの『ドン・ジョヴァンニ』、そしてパトリシア・コパチンスカヤと組んだチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。

 それに、イリーナ・メジューエワワさんのモーツァルトのピアノ・ソナタ集。
ピアノという鋼鉄のバケモノに立ち向かう凛々しいロシア女性という感じの弾き方が気持ちの良い曲集でした。
サインももらったし・・・(というわけで「さん付け」です)

 と思ってたら、年末にファジル・サイのピアノソナタ全集が出ました。
以前のサイのモーツァルトは、ちょっと奇を衒った感じであまりなじめなかったのです。
で、ちょっと躊躇したのですが、いろいろと調べてみると、今回はそれほどスットンキョなことをやっているわけではなさそう。
しかし、それなりに刺激的な弾き方をしているようなのでエイッ!と購入。

 一番最初がそのトルコ行進曲付きのソナタ。
左手を強調した力強い演奏。
第三楽章のトルコ行進曲、なんだか胸が熱くなるような激しい演奏。
なぜ「トルコ行進曲」と呼ばれたのかがよく分かる演奏でした。
あのドラマ「阿修羅のごとく」のテーマ音楽のトルコ軍楽隊の音楽と通じる弾き方で、トルコ人サイの面目躍如といったところでした。

というわけで、昨年は、モーツァルトのピアノソナタのあたり年でした。

 また、クレイジーケンバンドの『香港的士』もヘビーローテンションでしたよ。
男女の愛。いけない愛。友達同士の愛。親子の愛。
いろんな愛がちょっとテレを含みながら歌われていてなかなかご機嫌なアルバムでした。

 そして、これも年末に出たルーマーという女性歌手の『This girl's in love』というバートバカラックの作品集がよかったです。
カレン・カーペンターをちょっと思い出させるような感じですが、カレンほどの凄みはない。
でも、自然な感じで、バカラック御大もお気に入りらしく、一曲参加されておられました。
このアルバム、CDで聴きましたが、レコードでも出たようで、どうしようかなぁ、と迷っています。
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2017年02月13日

ふたりでお茶を--『漱石と煎茶』☆☆☆☆☆

 卒論試問も終わり、レポート採点も終わって、そして追いコンも終わりほっとして大垣書店に行ったら、新書棚で、「読んでみんかね」と声をかけられました。
見ると、「漱石と煎茶」というタイトルの新書。
漱石と煎茶?
煎茶って、急須でいれるアレ?

 パラパラと見てみると、『草枕』で「余」にふるまわれるお茶が「煎茶」で、それが「抹茶」でないのには訳があるという内容。
面白そうなので、購入し拝読。

 煎茶の中国での由来が書かれていて、漢詩が多く、どれだけ理解したか心もとないが、とにかく読了。

 とっても面白かった。
小川後楽著『漱石と煎茶』(平凡社新書)

 権威に近づく「茶の湯」に対して、反権力的な「煎茶」。
そんなこと考えたこともなかったので、大変面白い。

も一度、漢文の引用なども味わいながら、ゆっくり読んでみます。

 が、おそらくうじゃうじゃピロリ菌が生息していた胃の持ち主の漱石にとって、煎茶でも抹茶でも、きつかったのではないか・・・と同情しました。
posted by CKP at 10:51| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

卒論試問、無事終了――ところで私はバカかもしれない(疑念)

 先週、卒論試問、19篇、無事終了いたしました。
まずはめでたい。

「無事」というのは、一人も欠席者が出なかったこと。
ま、当たり前と言えば当たり前なのですが、最後の授業の時、2名がインフルエンザで休んでいたのでちょっと心配していたのでした。
また、同僚でもインフルに罹っていた人がいたりして、私自身がインフルエンザにならないかとおびえながら卒論を読んでいたのでした。

 しかし、学生諸君もインフルを克服して全員時間通りに出席、私自身もインフルエンザに罹ることなく卒論試問を終えることができたのでした。
また、檀家さんにもインフルなどで亡くなる方もなく、無事、卒論試問を終えたのでした。

 それに、どの論文も、学術的には高レベルというわけにはいきませんが、真剣に取り組んだ跡が見えて、気持ちの良い論文でした。
どうして哲学科なんてところに来てしまったのか、そのことを真摯に問う論文でした。
このような卒論試問も、あと三回となりました。

 ところで、入院中の母親がインフルエンザに罹ってしまいました。
病院内でインフルに罹ったのはうちの母親だけ。
そして、発病の数日前に外部から母親に接触したのは私だけ。
つまり、どうも私が母親にインフルエンザのウィルスを運んだらしいです。
ところが、私自身はインフルの兆候は一切なし。
インフルエンザのウィルスは私の体を素通りしていったのでした。

 というわけで、ここにきてにわかに、私はバカではないかという疑念が沸き上がっていたのでした。
以前からその自覚はないでもなかったのですが、このような事実として突き付けられ、ちょっとショックです。
何をいまさら、と思われる方もおられるでしょうが、インフルも寄り付かないバカ、というのは想定外でした。

 ま、健康でよかったね、ということですわ。
なお、母親は快方に向かっておるようです。
posted by CKP at 18:04| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月01日

今こそペルシアンラブ――ホルガー・シューカイ

 今こそ、いろんな民族の音楽のごった煮である音楽を聴きたい。
ロックって、アメリカやイギリスの民族のごった煮からできた音楽だなぁ、と改めて思います。

と思っていたら、、ホルガー・シューカイの「ペルシアン・ラブ」が記憶の底から浮かび上がってきました。
ホルガーおじさんは、ポーランド出身でドイツのバンド、カンで活躍した人ですが・・・

これです!

posted by CKP at 12:46| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月31日

プロレス政治?――トランプはヒールか?

 トランプが暴れていますね。
まるで、プロレスのリングに上がったヒール(悪役)みたいに次から次への反則技。
どこかの国の議員が、中東7か国の入国拒否を「非人道的で馬鹿げている」と言っていましたが、ホント、馬鹿げていて、トランプの支持者もドッチラケになって引いているのではないですか?

 しかし、プロレスのヒールというのは、実は冷静な判断を行える緻密な頭の持ち主で、意外と紳士というのがふつうです。
が、トランプの場合はどうなんでしょう?
この馬鹿げた大統領令の連発の裏に何か緻密な計算があるのでしょうか?
わたしのようなボンクラには分からない、少なくともトランプ自身に利する何かがあるのでしょうか?

 それとも副大統領あたりが、トランプを暴走させてその後釜に座る、というシナリオを書いているのでしょうか?
得するものがいないように見えます。
いや、反対運動がやけに盛り上がっている。
反対運動を盛り上げるためにやっているのでしょうか?

 卒論を読む合間にチラチラとテレビを見ていると、文脈が追えなくなり、アタマが壊れそうです。
posted by CKP at 16:15| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする