2017年04月01日

なせショルティ――なぜ『薔薇の騎士』

 なぜ村上春樹の『騎士団長殺し』に登場する『薔薇の騎士』のレコードが、ゲオルク・ショルティ指揮のものなのか?
リヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』には、カラヤンが指揮してシュワルツコップが元帥夫人を歌う絶対的な名盤があるのに、村上春樹はなぜショルティ指揮の、ふつうの名盤案内ではあまり言及されないレコードを選んだのか。

 という問題など読者諸賢にはあまり関心のない問題と思われますが、しかし、よく考えると村上春樹の文体とショルティの文体というか音楽に同質のものがあるのではないか、と思い至ったので書いてしまいます。

 ショルティやセル(『1Q84』に登場)の指揮する音楽は、緻密に正確に演奏されているけれども、情緒にかける、精神性が感じられない、という言い方がされます。
とくに、『薔薇の騎士』に期待される19世紀から20世紀の変わり目のウィーンの情緒ということには、ショルティは目もくれていない、と言えるでしょう。
ましてや、ショルティやセルの演奏から、フルトヴェングラーのような19世紀的「精神性」などは感じられません。

 むしろ、ショルティやセルは、19世紀ヨーロッパに縛られないコスモポリタン的な演奏をするように思います。
どの時代、どこの地域に暮らそうと、分かり合える演奏、そういうものを目指しているように思います。
それは、彼らがユダヤ人としてドイツ、オーストリアから逃れねばならなかった過去と無縁ではないと思われます。
彼らにとって、19世紀的精神性だのウィーン情緒などというものは、どこかナチス・ドイツとつながるものであったのかもしれません。
また、こちらも19世紀ヨーロッパの精神性だのウィーン情緒だのは、知らないのですから、知ったかぶりをしない限り、彼らの演奏は清潔で気持ちの良いものと感じられます。
つまり、「ショルティじゃ、ウィーン情緒がかんじられないねぇ」などと言うことはありません。
わたし、ウィーンにいったことないですし・・・。

 村上春樹の文体も、例えば日本情緒だの大和魂だのとは何の関係もないコスモポリタン的なもののように思います。
そのあたりの透明で清潔な空気感が、ショルティの『薔薇の騎士』を村上春樹に選ばせたということではないか、ひとまずはこんなふうに考えてみました。
しかし、そういう平明さが、「村上春樹は精神性に欠ける」などという批判を呼び込むのでしょう。

 が、なんで小説の中でかけられるレコードが『薔薇の騎士』なのか。
これなどは、岡田暁生氏の『オペラの終焉』(ちくま学芸文庫)あたりを読んでじっくり考えてみたいと思うのですが、まずは、『騎士団長殺し』も『薔薇の騎士』も、そして『ドン・ジョヴァンニ』にも、けっこう性的にいやらしいという共通性が考えられます。
 『薔薇の騎士』なんて、32歳の元帥夫人と若いツバメであるアクタヴィアン(17歳)の朝のベッドでの睦言で幕が開きます。
そして、その幕開きを見て、先ほど演奏されていた序曲の次第に盛り上がっていってまるで頂点に達したようなホルンの咆哮がいったい何を表現していたかが、どんなお上品なお方にもわかってしまうような仕掛けになっています。
「ま、知りません!」
いやらしさを上品に表現する――これがウィーン的なのかはどうかわかりませんが、ま、村上春樹の性描写も淡々と表現されるからこそセクシャルというところがあります。
このあたり、モーツアルトやリヒャルト・シュトラウスと村上春樹に共通するもののように思います。
(『ドン・ジョヴァンニ』にしても、『フィガロの結婚』にしてもけっこうヤラシイお話です。)
ある意味では、冷静な人間観察ということもできます。

 まずは、そんなところに目星をつけて、『騎士団長殺し』を読み直したいと思うのでした…と思っていたら新垣が始まってしまいました。
posted by CKP at 16:07| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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