2010年05月19日

学ぶ力が就業力――大学をヴァージョン・アップ?

 中教審や文科省が次から次へと大学にヴァージョン・アップを求めてくる。
たとえば、この4月に発表された「大学生の就業力育成支援事業公募要領」には次のように述べられている。

「現在の厳しい雇用情勢において、新卒学生の就職率向上、学生の資質能力に対する社会からの要請や、学生の多様化に伴う卒業後の職業生活等への移行支援の必要性等が高まっている。
 これまで、文部科学省では、キャリアカウンセラーの配置など進めてきたところであるが、根本的な解決に至っていない。
 これらを踏まえ、就業力の育成に主眼を置いて、全学的に教育改革を行おうとする意欲を持つ大学に、競争的な環境の下、国として緊急かつ協力に支援することにした。」

「競争的な環境」と述べられているが、昨年12月の中教審答申『学士課程教育の構築に向けて』では、次のような文言が見える。

「従来の改革の背景には、新規参入を促進し、学生獲得の競争を活発化させることが、教育の質を向上させる有効策であるという考え方もあった。今後の大学改革に向けても、そうした主張が依然として見受けられる。
 しかし、このような、いわば市場化した改革手法のみでは、教育の質の向上について十分な成果を期待することはできない。大学の多様化が単なる無秩序に陥り、日本の大学全体の国際的な信用や信頼性を失墜させるような結果を招来してはならない。」(第1章の4)

 12月には競争はまずいと言っているじゃないか、と怒っていると、その文章の数行あとに
「学士の質の保証を図るために必要なのは、第一に、大学間の健全な競争環境の中で、各大学が自主的な改革を進めることである」とある。

 文科省はどうあっても「競争」を大学間に持ち込みたいようである。
大学間で競争させて、何を期待しているのであろうか?

 さて、その競争で育成しなければならない「就業力」とは何ぞや?

 中教審答申『学士課程教育の構築に向けて』には次のように述べられている。
「大学が学生に身につけさせようとする能力と、企業が大学卒業生に期待する能力が乖離しているとの指摘もなされている。近年、「企業は即戦力を望んでいる」という言説が広がり、学生の資格取得などの就職対策に精力を傾ける大学が目立っている。
 しかしながら、実際に企業の多くが望んでいることは、むしろ汎用性のある基礎的な能力であり、就職後直ちに業務の役に立つような即戦力は、主として中途採用者に対する需要であると言われる。
 こうした例に示されるように、大学は、企業の発する情報を必ずしも正確に理解していると言えず、企業も、自ら求める人材像や能力を十分に明確に示し得ていない。」(第2章。第1節)

 「企業は即戦力を望んでいると資格取得をすすめる大学は企業の情報を理解する能力がなく、企業も自分の望む大卒者像を明示できない」ということである。
なんだか、大学も企業も踏んだりけったりですね。

 そして、答申は次のように続ける。

「こうした中、国としては、基礎力の養成を求める産業界の意向を踏まえた政策的な対応も始まっている。」

そして注記に、厚生労働省「若年就職基礎能力」、経済通産省「社会人基礎力」という提起は「産業界の期待・要請を簡明に表現したもの」であると賞賛している。

 どうもこのような「力」が、文科省では「就業力」と表現されているように思われる。

つまり、「国」としては、そのような「力」が大卒者に、あるいは若者に欠けている現状を憂いておられるのである。
それはどういう状況であるのか?
文科省のお役人は次のように述べておられる。

「約6割の高校生が大学、短大に進学しているという状況の中で見ると、その個々人に、全部あなたの頭と心の中で、大学で教えてもらったことや大学の交遊活動や部活動で学んだことを統合化しなさいというのは、やはりなかなか難しいだろうと。そういうことで結局は、企業の求める人材とマッチングしない。あるいは、せっかく就職しても、すぐにやめてしまうというような問題になるわけです。」(『大学と学生』2010・4、p.3)

 要するに、就職してもすぐにやめないで、明るく朗らかにそして粘り強く働く学生を求めているのである。

 しかし、それって、キャリヤ教育とかなんとかとか言うよりも前に、大学なら大学における学生の本務遂行がきっちりできていれば、自然と身につく力じゃないのか?
大学での本務が遂行できないものが、企業でなら本務が遂行できるということにはならないだろう。
とりわけ、本学においては卒業論文に真剣に取り組めば、自然と学びが統合されて、結果として身につく能力じゃないのか、就業力とは?

 なんだかんだと競争に振り回されるよりも、そしてそれで何か精力的にやっても、それは「正確に理解していない」などといわれるのがオチであるのなら、何よりも、現在の教育研究体制をより深化してゆくのが王道であろう。
 つまり学生のworkを深めることによって、社会人のworkにつなげるのである。
もし大学においてキャリア教育というものがありうるとすれば、それは学生のworkも社会人のworkも、その根本においては違いがないということを自覚させることであろう。
 もちろん、文学部の学ぶ力がなぜ「働く力」に直結するのかについては、少し説明が要るであろうが・・・しかし、今日はこれまで!
 
posted by CKP at 13:13| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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