2008年12月08日

この間の遺恨思い知ったか!――西田幾多郎と忠臣蔵?

 毎年今頃になると『宗教学概論』で、西田幾多郎の「『国文学史講話』の序」(岩波文庫『思索と体験』所収)に言及している。
 が、どうも言うことが毎年違っているような気がする。最近すっかり老人力がついて、去年の記憶はおろか一週間前の記憶でさえ曖昧となっているので、違っているのかどうかも分からない。
 西田幾多郎が彼の6歳の女児を亡くした話なのであるが、今年、とりわけ気になっているのは次の箇所。

「しかし何事も運命と諦める外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである。後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を捨てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。」(233‐4頁)

 この「深く己の無力なるを知り」という表現――添削したくなりませんか?

 「そうか、俺は無力なのか。知らなかったな。では、わが知識のうちに登録しとこ・・・」と、今まで私は読んでいたような気がする。
 それはお前の読み方が悪いからと言われればそれまでであるが、「己の無力」は「知る」という能動的な表現とは矛盾するのではないか?
 「己の無力」は「わが子の死」という事実によって突きつけられるという受動的表現を要請してくるのではないか?
 明治語の「知る」にはそのような受動的ニュアンスがあるのかも知れぬが、私だったら「己の無力を思い知らされた」と表現したくなるところである。

「思い知る」の用例にこんなのがある。

 浅野内匠頭は殿中松の廊下で吉良上野介に「この間の遺恨覚えたか(思い知ったか)」と切りつけたと伝えられるが、これについて小林秀雄がこんなことを書いている。

「十七歳の少年時代、やはり勅使饗応掛を勤め、首尾よく行ったのに、三十五歳になり、すこしばかり知恵のついたところで、又勤めてみたら、飛んだ失敗を仕出かした。彼は、上野介に切付けた時、思い知ったかと大声を発したと言われるが、それが確かではないにしても、思い知ったのは当人であったことに間違いはあるまい。彼は、何を思い知ったのか。」(文春文庫版『考えるヒント2』14頁)

 もちろん小林秀雄はお手軽な答えを用意してくれるわけではない。ここから話はどんどん広がり、江戸時代の儒学、とりわけ徂徠学へと展開し「格物致知」へ至る。

「物を重んずるという考えは、徂徠の学問の根本にあった。「大学」の「格物致知」の格物とは、元来、物来るの意であり、知を致す条件をなすのが格物であると解した。これを物の理を窮めて知を致すとする通説は全く誤りだとした。せっかく物が来るのに出会いながら、物を得ずして理しか得られぬとは、まことに詰らぬ話だ、とするのが徂徠の考えだ。」(同、54頁)

 自分の知、自分の道理を上野介に「思い知らせよう」とした内匠頭は、その知の世界の狭さを逆に「思い知らされる」ことになる。「切腹」という物が来たりて、自らの無力を思い知ったのである。

 西田の場合も、「わが子の死」という物が来たりて、これによって「己の無力」を「思い知らされた」のである。
 そうでなくては、その次の「絶大の力に帰依し」が出てこない。
 そこに至るまでの文章では、確かに、「わが子の死」を何とか「理」に収めようと苦しげに文章を綴る西田が見られる。しかし、西田は、その究極において「物窮まれば転ず」と、事柄そのもの、「物」に合わせて自分の知を脱構築するのである。
 つまり、「己の無力」を「思い知らされたことを知る」という形で、その「物」の来るところを己の分別を離れて受け入れるのである。

 小林秀雄が徂徠についていう「経験」、西田が「思索と体験」というときの「体験」とは、このような己の知・理の無力を思い知らされるような経験を言っているのではないか。

 何もわざわざ忠臣蔵を出す必要もないのであるが、師走に入り討ち入りの十二月十四日も近いということで、西田の文章を忠臣蔵を介して考えて見ました。
posted by CKP at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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