2008年06月23日

すすめ!!モグラ君!!――ヘーゲルのスパイ大作戦(その2)

 ヘーゲルは1831年61歳で死去しているが、その死を山田風太郎は『人間臨終図巻』(1986年、徳間書店)で以下のように描いている。

ヘーゲル(1770年―1831年)
 ヘーゲルは三十半ば過ぎ、イエナ大学助教授時代、下宿先の未亡人と密通して、不義の子ルートヴィヒを生ませたが、この母子を捨ててイエナを逃げ出した。
 その後彼はニュルンベルグで名門の令嬢と結婚し、優秀な男の子を生み、健全で幸福な家庭を築いた。少年となったルートヴィヒはこの家庭にひきとられたが、やがて家出し、職を転々としたのち、オランダ植民軍にはいってバタヴィアまで流れる運命を辿った。彼は知人への手紙にいう。「ヘーゲル氏は私と手を切り、直接に手紙をくれたことは一度もありません。」
 さてヘーゲルは、1818年、48歳でベルリン大学の教授として招かれた。
・ ・・・・・
・ ・・1829年、ベルリン大学の総長となった。
 2年後の1831年8月28日、薄幸の子ルートヴィヒはバタヴィアで熱病にかかり、24歳の哀れな生涯を終えた。
 その前日8月27日が、ヘーゲル61歳の誕生日であった。
 その夏、ベルリンでコレラがはやり、ヘーゲル一家もこの難を避けて郊外の寓居で誕生日を迎えたが、やがてコレラ騒ぎもおさまったようなのでベルリンへ帰り、まったく健康で新学期の講義をはじめた。
11月13日の日曜日、ふつう通り朝食をとったが、昼食前に胃痛と吐気を訴えた。医者を呼び、手当てをした。しかし特別に危険な徴候は見られなかった。
 その夜ヘーゲルはベッドの上で悶々と寝返りをして過ごしたが、夜っぴてかたわらに坐っている夫人マリーを気づかって、「お前は寝てもいいよ、私のことは放っておいておくれ」といったくらいの容態であった。
 翌日午前中、痛みも吐気もなくなっていたのに、排尿困難としゃっくりがはじまった。しかしヘーゲルはしずかに横たわっており、意識もはっきりしていた。しかるに、――
 マリー夫人はあとでヘーゲルの妹宛に書く。
「3時に喘鳴が始まりました。それが終わるとまた安らかな眠りが来ました。けれど顔の左側を、氷のような冷たさが覆って来ました。両手が蒼く冷たくなりました。私たちはベッドに跪いて、主人の呼吸に耳を澄ませました。こうして故人は永眠したのです」(中埜肇『ヘーゲル』)
 1831年11月14日午後5時15分。日本では天保2年、良寛や十返舎一九が死んだ年である。
 葬儀は多数の官民が参列し、フィヒテの墓と並んで葬られた。同年に死んだ不幸な息子と比べて、偉大な父の、栄光に包まれた大往生であった。
 で、ヘーゲルは、下火のコレラの最後の犠牲者になったとふつうには信じられているが、しかし右の症状は何一つコレラであることを物語っていないという説もあり、なるほどその通りである。(上巻、365~7ページ)

「性の快楽と死の苦痛は万人平等である。しからば、なぜそれ以上の平等を求める必要があるのだろうか」(同、274ページ)とおっしゃる風太郎先生であるから、ヘーゲルの「若気の至り」あるいは「不徳の致す所」もきっちり描いておられる。

「未亡人下宿」であれば、まあ、そういうことも致し方あるまいなどと、「日活ロマンポルノ」世代はヘーゲル先生に寛大であるが、しかし、もう36歳になっていたのだから、ヘーゲルおじさん、チョット情けないとは思う。

 ま、自分の子どもを孤児院に放り込んでいたルソーなんかよりも罪は軽い、あるいは悪所に通って梅毒病みになったニーチェよりもましだと言えるかもしれぬ。
 あるいは、友人の女房を妊娠させたラカンや、学生であったアーレントと散歩していて突然「我を忘れてしまっ」て自己放下してしまったハイデガーなんかよりも節操があると言えるかも知れぬ・・・・言えないか?
 いずれにせよ、あまりレベルの高い論争にはなりませんが・・・。

 ヘーゲルはカントのsollen(すべきである)という道徳哲学につっかかるのを常としたが、なるほど、このような前科があれば、確かに自らの行動を律することは骨身にしみて困難であると観念していたのも分らんでもない。

 ところで、推理小説でデビューし、忍法帖で一世を風靡した風太郎先生が、ヘーゲルの病状をコレラでないとすると「なるほどその通りである」という文で筆をおくのはいかにも意味深である。
 だれかが「くノ一」でも差し向けて毒殺でも謀った・・・・か。

 たとえば、サリエリのモーツァルト毒殺説のように、ヘーゲルの講義時間に自分の講義時間をぶつけて学生の取り合いをして完敗したショーペンハウエルが毒殺を謀った・・・・てなことを、いかな私でも言いません。まだ、いちおう研究者として学界に未練ありますから・・・・。

 しかし、クーノ・フィッシャーの『ヘーゲルの生涯』(1901年、邦訳勁草書房、1971年)のヘーゲル研究者ラッソンの書いた付録(1911年)に次のような記述がある。

「ベルリンでは一般に、かれの最後の罹病はこのいまわしい葛藤と関係あるものと受け取られていた。」(同書、357ページ)

 この「いまわしい葛藤」に関わったのが、われらがモグラ君の「育ての親」とも言うべきエドゥワルト・ガンス(1798−1839)という人物である。
posted by CKP at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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