2017年08月28日

ヘーゲルは「規制緩和」を支持するか?――「見えざる手」を手繰り寄せる

 いきなりですが、ヘーゲルの『法の哲学』についての話です。

 ヘーゲルは『法の哲学』で「家族」と「国家」のあいだに「市民社会」を置き、そこで「ポリツァイPolizeiについて論じている。
このポリツァイと言うのは、現代ドイツ語では警察のことであるが、ヘーゲルは「行政」とか「行政介入」というような意味で使っている。(中公の世界の名著では「福祉行政」と訳されている。)

そこでヘーゲルは格差社会の貧困について論じたり、行政による「規制」について論じている。
現在さかんに主張される「規制緩和」のあの規制である。

 ヘーゲルは、アダム・スミスの『国富論』などを研究し、市民社会を家族と国家のあいだに置いたくらいだから、スミスの言う「見えざる手」を認めている。
諸個人が私利私欲から商工業の活動にいそしんだとしても、(神の)「見えざる手」が働いて、正しい均衡が現象するであろう、というあの「見えざる手」の理論である。
(加計問題で先の山本某という大臣が「獣医学部をどんどん作って、どんどん獣医を作っていけば、最終的には「見えざる手」が働いて良質な獣医だけが残るであろう」と言っていたアレである。)
したがって、ヘーゲルも「規制緩和」論者のように見える。
アベ君が「岩盤規制を突破する戦略特区」と言うのを支持するように見える。

 しかし、ヘーゲルはその市民論に「行政介入」という節を設けて、「236節」では「規制」についてその必要性を論じている。

「生産者と消費者とのそれぞれの異なった利益は衝突することがある。なるほど全体的にみてその正しい関係はおのずから成立するのだが、その均衡のためにはまた両者に関する意識的な規制も必要なのである」
つまり、生産者と消費者の利益は放っておいても「おのずから」見えざる手によって「正しい関係」に至るのではあるが、「また」規制も必要だというのである。
そのままにしておいても「正しい関係」になるのなら、何故「規制」が必要なのか?

それは、「波状的な危機や中間状態の継続を短縮し和らげるために」必要だというのである(この節のヘーゲル自身の註解の一番最後の文の部分訳。この「中間状態」には「衝突は無意識的な必然性の道程を経て平衡化されるはずである」という説明がついている)。
つまり、「ただしい関係」をすばやく成立させるために、「規制」が必要だというのである。
「見えざる手」の働きが完了するまでの時間的経過を短縮するために、規制が必要だというのである。
これは、現在あまり論じられることのない視点である。

「規制というのはある業界の悪者たちが自分たちの利益を守るために、規制をいっぱい設けて新規参入への道をふさぐものだ」と言うのが、規制緩和論者の主張である。
したがって、「規制緩和」は正義の味方ということになる。

しかし、行政介入としての「規制」は、何よりも良質な商品やサービスを消費者に提供するためにあるはずである。
悪質な業者を規制して消費者の利益を守ろうとするのである。
それは「見えざる手」によって自然に必然的に実現するはずである。
安くても粗悪な商品を売る業者はそのうちに消費者に見限られて破産するであろう。
ヤブ獣医には誰も寄り付かなくなるだろう。
しかし、それには時間もかかるし、多くの消費者が多大な犠牲を払わねばならない。
それゆえ「見えざる手」に代わって、その「見えざる手」の仕事をすばやく仕上げるのが行政介入による「規制」であるとヘーゲルは言うのである。

これは、今一度、耳を傾けるべき卓見ではなかろうか。
と同時に、官僚諸君は、そのような視点であるべき行政介入を構築していかねばならないだろう。
グローバル、グローバルなどと浮き足立っていると、そのうち「国家試験などという規制も廃止しろ」といわれるのだから。
グローバル経済に邪魔なのは国家の規制、そして国家そのものであることは、TPPなどがよく示していますね。
その点でトランプにちょっと期待してしまった私です。
 
posted by CKP at 19:55| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

西尾浩二・朴一功訳 プラトン『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』発刊!――西洋古典叢書

 京都大学学術出版会の西洋古典叢書から、大谷大学の朴一功先生と西尾浩二先生の翻訳されたプラトンの『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』がこの8月15日に発刊されました。

「エウテュプロン」というのは、裁判前の予備審問に向かうソクラテスとエウテュプロンという人物との「敬虔」をめぐる対話。
これを西尾先生が訳しておられ、あとの「ソクラテスの弁明」「クリトン」を朴先生が訳しておられます。
つまり、裁判前のソクラテス、裁判でのソクラテス、裁判のあとの獄中でのソクラテスがこの一冊において描かれているというわけです。
そして、先に同じ叢書で朴先生が訳されている「パイドン」を並べると、裁判前から裁判を経て獄中で死刑に赴くソクラテスまでが描かれているということになります。

 わたしは「エウテュプロン」というのは今まで読んだことがなかったので、これを機会にこのひとつの流れなの中でソクラテスを、そしてそのソクラテスを描くプラトンを考えてみたいと思います。
 
 「弁明」や「クリトン」をパラパラと読んでみると、今まで読んでいた翻訳とちょっと感じが違います。
なんかすっきりしているのです。
しかし、大理石でできた「普遍的人間」「理想的人間」が対話している・・・というのでもない。
ちゃんと一人の体温も体臭ももったおっさんが話しているという感じなのですね。
そして的確な注、詳細な解説できっと新たなソクラテスに会えそうな予感がします。

 夏休みのカツオ状態に安住していたカドワキを、この本はまずは「バッカモ〜ン」と叱ってくれたのでした。
ほんと、うちの古代ギリシア人はよく働きます。
posted by CKP at 17:44| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月03日

カツオになりそう――悩ましい夏休み

 試験週間もレポートの締め切りも過ぎて学生諸君は夏休みです。
しかし我々教員は試験やレポートの採点。
以前はお盆の前に採点締め切りがあり、それまでにエイヤッと採点して教員も夏休みに突入していたのでした。

 ところが、最近はネット環境が発達したため、我が教務課は親切にも「締め切りはお盆過ぎ。自宅からネット入力でどうぞ」と言ってくれるのでした。
ありがたい!ようですが、これが悪魔のささやきです。
山のようなレポートを見ると、「締め切りはそうとう先だし、そんなに慌てることないか」というささやきがどこかからか聞こえてくるのです。

 かくして、お盆を過ぎたころ、あわくって採点している夏の終わりのカツオのような我が姿が見えるのでした。
誰か、いま現在カツオ状態に突入せんとしているわたくしを、波平さんのように「バッカモ〜ン」と叱ってくれますまいか・・・
posted by CKP at 16:09| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする