2017年05月25日

人の身になって考える――客観的に考える

 アベ君が「朝日新聞の報道は言論テロ」というツイッターだったかフェイスブックだったかに「いいね」を押した、という情報がネットで報じられています。
報道をテロと断定するそういう考え方は言論弾圧だ!という批判はもっともです。

 が、それ以前に、アベ君にとっては、今治市の獣医学科新設をめぐる一連の報道はテロに見えてしまった、ということが、問わず語りに事の真相を告白しているのが面白いです。
ここはアベ君の身になって考えてみませう。

「こ、こんな報道は爆弾みたいなものだ!こんなことが報道されたら、僕の政治生命が終わってしまう・・・」アベ君はきっとこんなふうに思って朝日新聞の報道を苦々しく思っていたのでしょう。
だもんで、「朝日は言論テロ」という書き込みに思わず「いいね」を押してしまったんでしょうね。
心中お察し申し上げます。
しかし、一国の宰相がネットの書き込みにいちいち「いいね」を押しとっちゃいかんよね。

 また、国連の人権部門から今度の共謀罪法案に質問書が来ていて、それを露払いのスガ君がはねつけているという報道も表に出てきています。
この状況を客観的に外から見ると、日本というのは、人権を軽んじる国に国連には見えていて、北朝鮮と同じようになるのではないかと危惧されているということなのでしょう。
そう思って、アベ君とキム君を並べて眺めてみると、だんだんその太り具合、刈り上げ具合が似てきているような気がします。
また、取り巻きの必死の生き残り忖度処世術というのも似ている。
これで、「忖度なんかしていられるかい!」という人たちが出て来なかったら、ホントそっくりになってしまいます。
 
 そのあたりのことが週刊文春、新潮に出ていそうで、さて、今日はどちらを買って、サンダーバードにのりませうか?
posted by CKP at 14:10| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月24日

どや、悪いようにはせんかったやろ?――オイオイの言葉というよりオイオイの村上春樹

 川上未映子が訊いて村上春樹が応えるインタビュー本『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読みました。
村上春樹の『騎士団長殺し』の制作の様子や自作への態度(昔の作品のディテールを完全に忘れている!)など、なかなか興味深く読めました。
が、中でも面白かったのは、読者と作者の間はある種の「信用取引」で成り立っているという考え方の表現。
川上が「ほら、悪いようにはしなかっただろう」と表現したのを受けて村上がわざわざ関西弁に言い直す。

どや、悪いようにはせんかったやろ?

なんだかドキッとしました。
ご自分でも「生々しくなる」と言っておられます。
なんとなく河合隼雄の匂いも感じられます。

 と同時に、村上春樹って、関西人だったということに改めて気が付きました。
尋ねる川上も関西人、両方とも神戸あたりの出身なんだから、あっさり神戸弁でのインタビュー本にすれば劇的に面白いのに・・・と思ったのは私だけではないでしょう。

 この本の中で、地下二階の集合的無意識というのが何回か話題になっていましたが、村上春樹に個人的集合的無意識という矛盾した領域があるとすれば、そこには神戸弁がうずまいとるかもしれんなー・・・と思ったりもしました。
地下一階の近代的自我の葛藤よりも、地下二階の集合的無意識から物語が生成するというのも、ひょっとして関西的なんかもしれん。
東京弁というのは、近代的自我の悩みを語る言葉でありますが、関西弁はそんないちびったことは邪魔臭いとさっさと素通りして、おもろいところだけではなしつくるからなぁ・・・
posted by CKP at 13:25| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

ねちょねちょ生きるこっちゃ――オイオイの言葉

 2,3週間前の「折々のことば」で松方弘樹兄貴のテレビ役者と映画俳優についての言葉が紹介されておりました。
対して、松方弘樹兄貴の役柄の上での名ぜりふは何といっても『仁義なき戦い』の坂井鉄也の

「神輿が勝手に歩けるいうんなら歩いてみないや、おう!」

でありましょう。
「神輿」とはもちろん金子信雄が見事に演ずるせこい卑怯もんの組長・山守ですね。

 これにはどなたも異論のないところでありましょうが、先日、松方弘樹兄貴追悼ということで購入した1966年の『893愚連隊』という日活ヤクザ映画!のラストの松方兄貴のセリフもなかなかよろしおまっせ。

 これは、京都を舞台としたせこいせこい愚連隊の映画。
白タクとか無銭飲食とかのせこいシノギばかりやっていた若き松方弘樹率いる民主主義的愚連隊が、封建的ヤクザの鼻をあかして、ひと山当てるというお話し。
しかし、最後の最後で元の木阿弥に戻って、七条大橋か五条大橋の上でのセリフ。

「ねちょねちょ生きるこっちゃ」

これがなかなか味わい深くよろしいのではないかとご紹介する次第。

 それにこの映画、京都でのオール・ロケ。
1965年ごろの京都駅や四条河原町、そして懐かしい市電が写されていて、それだけでも楽しい映画です。

 また、この映画、荒木一郎がその手下のチンピラをやっているという興味からもみました
自然な関西弁で、せこいチンピラを好演していますが、この年、「空に星があるように」とか「今夜は踊ろう」がヒットするんですね。
そのうえ、この荒木一郎、マジックの本なども何冊か出している。
なんだか不思議なヨコワケ青年です。
posted by CKP at 12:10| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月16日

・ゴォウ――オイオイの言葉

 日本語の歌でgo/ゴーの掛け声が一番カッコよいのは誰のどの曲か?
欧米では、もちろん、チャック・ベリー御大の「ジョニー・B・グッド」の「ゴー、ジャニー、ゴー、ゴー」でありましょう。
これは、どなたも異論のないところでありましょう。
チャック・ベリーなかりせば、ビートルズもストーンズもビーチ・ボーイズも無かったのでありますから。

 しかし、これが日本となるとどうでありましょうや。
美樹克彦の「回転禁止の青春さ」の「ゴー、ゴー、ゴー。レッツ、ゴーゴー」あたりかなと考えてはいたのですが、この間、ワタクシは完全に荒木一郎モードになっているので、今は荒木一郎の「いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー」しか考えられませぬ。

 GS的な暗めのロックの最後に「・ゴォウ」と息をのむようにつぶやかれるgoがたまりませぬ。
「・」は、その息をのむ感じを表したものです。
決して絶叫ではなく、呟きに近いゴォウなのであります。
この荒木一郎の魅力は、なんだか体温が低そうな、どこか脱力したようなその活動姿勢です。
演歌的暑さからはもっとも遠く、ロック的な熱さとも違う不思議な軽やかさ。
わたしはタヌキ的軽やかさと呼んでいますが、なんのことやら烏丸線。

 連休中、この曲ののシングルレコードをついにネットで発見。
2,600円してましたが、この子の63のお祝いにと、購入。
幸せな63歳の誕生日を迎えることができました。
ちなみにこんな曲です。



ワンちゃんと戯れる荒木一郎がよいですね。
posted by CKP at 17:31| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月10日

悟性と理性――連休中に小人、閑居して不善をなした

 はい、こんんちは。
皆さん、お元気でしょうか?
わたくしは、連休の後半、お休みを満喫し、危うく不登校教師になるところでした。

 さてさて、どのようにお休みしていたかというと、することも無いので、ヘーゲルの『精神現象学』の序文の訳を暇に任せて作っておりました(べつに出版するとかの予定は、まったく爪のアカほどもない)。
それに飽きると、雑誌の付録のスピーカーを組み立てたり・・・

 で、そのとき、ひらめいたのでした。
要するに、思いついたのです。
悟性と理性の違いの説明。
カントあたりで、悟性だの理性だの、摩訶不思議な言葉が使われますが、あれはどこで区別されるのか。
悟性は、ドイツ語でVerstand, 英語だとUnderstanding、まぁ理解力とか知性と訳した方がよろしいような能力。
理性はドイツ語で Vernunft,英語で Reason、つまり推理する力とでも訳せる能力。
が、この区別、カントやヘーゲルの解説書にそれなりに書いてあるのですが、どうもしっくりこない。
で、ヘーゲルの『精神現象学』の序文を訳していて、ひらめいたのが「悟性は一人称、理性は三人称」。

 ヘーゲルというより、村上春樹の『騎士団長殺し』を読んだせいかもしれない。
つまり、悟性というのは、語りが一人称単数であるハードボイルド小説的な主体の知性。
それに対して、理性は、全体を見渡せる三人称的語り手の知性。
となると、悟性は対話を通じて三人称的理性に達する。

 とまあ、よけい分からないですな、このような説明では。
というわけで、小人、閑居して不善をなしたのでありました。
posted by CKP at 17:35| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする