2017年04月25日

おや、きれいなお姐さん――オイオイの言葉

 眠られぬ夜、ヒルティなんぞ読まずに小沢昭一の『小沢昭一的こころ』のCDを聴いているのは私です。
それで、結局、にやにや笑って聴いているものですから、またまた眠れなくなるのでした。

 月曜日から金曜日まで、40年続いたこの番組の1975年12月8日から始まった「よいしょについて考える」の第二日目(つまり1975年12月9日火曜日)の放送で、「よいしょの昭一」こと小沢先生は次のごとく述べておられました。

 地方などに招かれてお座敷で接待を受けるなんてことがよくありますが・・・
ふすまが開いて、お姐さん方がお顔をお上げになった瞬間、
間髪を入れず、裂ぱくの気合でもって、
「おやぁぁ、きれいなお姐さん」
と、歌舞伎で「高麗屋ぁぁ」と掛け声をかけるように、声を発します。
迷ってはいけません。
嘘をつくとか、お追従を言うとか言うことでなく、少し無理かなと思っても、迷いなくすっと声に出します。
すると、その後の時間、お姐さん方は、一のところを二いや四倍八倍の芸を発揮して、楽しい時間をつくって下さるのであります。

 よい話だなぁ、と思って、その後、教室に入るときは、
「おやぁぁ、素敵な学生さん」
と声には出しませんが、そっと呟いて、授業を始めています。

 小沢昭一先生の境地にはまだまだ達していませんが、このつぶやきだけでも、授業が二倍三倍に充実している気がしているのは、私だけでしょうか?
posted by CKP at 17:15| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月15日

やはり海のものとも山のものとも川のものとも知れないタヌキ--浜辺に砂があるように、海に狸がいるのでしょうか?

「タヌキは山のもの」「海豚はいるが海狸はいない」と先々回のブログで書いたら、「海狸もいます」とコメントをいただきました。

 いるんですね、海狸。
ラッコかな?と思ったら、ビーバーなんだそうです。
ビーバーを漢字で書くと「海狸」。

 もちろん、ビーバーは川や湖の生物で、海にはいない。
おそらく、明治あたりの博物学者が欧米の文献で知って、水辺のタヌキみたいな動物ということで海狸としたのでしょう。
ですから、川や湖に棲息する海狸という、タヌキではないビーバー。

 だもんで、タヌキ乃介に浴びせられた「海のものとも山のものとも知れない者」という言葉は、「海のものとも山のものとも川のものとも知れない者」と表現したほうが正確であったということですね。

 コメントをくださった方は、池上タヌキ乃介をご存じない方らしく、「池上先生は物事をコツコツと積み上げてゆく方でしょうか」と尋ねておられました。
すっかり、このタヌキはビーバーになってしまいした。

 はい、このビーバータヌキは、物事を分析し、それをコツコツ積み上げてゆく論理的タヌキです。
これで、もうちょっと筆まめであれば、我々も、あの論理的かつ抒情的な文章を読むことができるのですが・・・。
『不可思議な日常』と『傍らにあるということ--老いと介護の倫理学』が手に入りやすいので、お求めください。
posted by CKP at 19:16| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

風邪をひいておりました――タヌキの呪いか?

 やっと風邪も治りつつあります。
新学期そうそう風邪をひいておったのです。
「馬齢を重ね人間がすっかりねじ曲がったタヌキ」の呪いなのかもしれません。
いや「バカでなかったのが分かってよかったね」というお祝いかも。
しかし、自分がバカでないのを確かめるのにいちいち風邪にかからねばならないというのも困ったものです。

 私が風邪にかかっている間に、トランプは中東であばれるわ、真央ちゃんは引退するわ、ペギー葉山はなくなるわ(合掌)、世界はどんどん動いています。

 しかし、アサドというのは、風邪にかからないバカなのか?
世界が「アサド・シリアもしょうがないか・・・」と思い始めた途端に化学兵器をつかうとは・・・
しかし、風邪にかからないような独裁者の国が内戦状態でもなかなか崩壊しないのはどういうわけ?

 内藤氏が「安定的敵対関係のイスラエルが、最初にアサドが化学兵器を使ったと言い出したから、この話は真実だろう」、とおっしゃっていましたが、どうなんでしょう?
アサド・シリアが容認されればイランも安定して、イスラエルの脅威となるという文脈もあるのでは・・・

 中東の正義というのは奇々怪々で、少しぐらい風邪を引いたぐらいではわかりません。
日本の正義も分かりませんが。
ちょっと風邪を引いたからといって、わからないのが今の世界情勢だ、と世界を見るべきなのでしょう。

 とにかく、「世界の警察をアメリカはやめる」というトランプの唯一の取り柄が、ガラガラと崩れてしまったのが残念でした。
posted by CKP at 14:06| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

タヌキは山のもの――空に星があるように、山にタヌキが住むように

 卒業式の日に卒業生の皆さんに贈った荒木一郎の「空に星があるように」という歌は、馬齢を重ね人間がすっかりひねくれてしまったタヌキから、そのレコードが送られてきたことによって、想い出した楽曲なのでした。
卒業生諸君の、おそらく誰一人知らない曲を贈って、すまん事をしたと反省しております。
スミマセンでした。

 それにしてもこのような暴挙をワタクシに為させた「馬齢を重ね人間がすっかりひねくれてしまったタヌキ」とはいったい何者でありましょうや。
そもそもいかなる生物でありましょうや。
もちろん、それは馬でもなくタヌキでもないレッキとした人間、池上哲司という倫理学者のことでありますよ。

そうです、3月の末、わっしいこと鷲田清一先生が朝日新聞に連載されている「折々のことば」にある文章が引用された、アノ池上哲司先生なのであります。
このようなことばが引用されておりましたね。

「海のものとも山のものとも知れないのは、君にとっての彼女であり、彼女にとっての君なのだよ」(『不可思議な日常』より)

 その昔、今の奥さんを「ください」と相手方のお宅に伺ったとき「海のものとも山のものとも知れない奴にやるのだから」と言われたことを、今度はその相対性を取り出して、息子さんに伝えたいという言葉らしい。

 が、ワタクシはその言葉を読んで、「タヌキは山のものであって、海のものではなかろう」と思ってしまったのでした。
(狸と書くくらいだから、里ちかくの山でしょうが)
海豚はいるが、海狸ってはいないだろう、と。

 しかし、このタヌキも1966年ころは、荒木一郎のレコードなどを買う、まだ馬齢も重ねぬ、人間もまっすぐなさわやかなヨコワケ青年だったんだなぁ、とそのレコードジャケットを見ながら思ったのでした。
1966年というと、あのタヌキは高校3年生、それとも一浪中?

 この年、荒木一郎は『ある若者の歌』というアルバム、そのころには珍しいコンセプト・アルバムも発表していて、これもタヌキから送られてきたのでした。
池田弥三郎氏が「健康な若者の歌」とライナーノーツで絶賛しているのですが、しかし、よく聴くとメロディや歌い方はさわやかなのですが、歌詞はけっこう屈折しているのです。
その屈折を、湿り気なしにさらっと歌うのが、当時の日本では珍しく、ゆえにタヌキ青年が「空に星がるように」のシングル盤のみならず、アルバムLPまで買っていたというのも分かる気がするのでした。

 さらにびっくりしたのは、この同じ年に荒木一郎は『893愚連隊』というチンピラ映画に出演していたのでした。
893を「ヤクザ」とよむトホホなモノクロ映画の18禁映画。
主演は松方弘樹。

 ですから、荒木一郎がなかなか一筋縄ではいかぬように、タヌキはそのころから一筋縄ではいかぬ二筋縄、三筋縄のタヌキだったではないか・・・という話でした。
posted by CKP at 17:38| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月01日

なせショルティ――なぜ『薔薇の騎士』

 なぜ村上春樹の『騎士団長殺し』に登場する『薔薇の騎士』のレコードが、ゲオルク・ショルティ指揮のものなのか?
リヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』には、カラヤンが指揮してシュワルツコップが元帥夫人を歌う絶対的な名盤があるのに、村上春樹はなぜショルティ指揮の、ふつうの名盤案内ではあまり言及されないレコードを選んだのか。

 という問題など読者諸賢にはあまり関心のない問題と思われますが、しかし、よく考えると村上春樹の文体とショルティの文体というか音楽に同質のものがあるのではないか、と思い至ったので書いてしまいます。

 ショルティやセル(『1Q84』に登場)の指揮する音楽は、緻密に正確に演奏されているけれども、情緒にかける、精神性が感じられない、という言い方がされます。
とくに、『薔薇の騎士』に期待される19世紀から20世紀の変わり目のウィーンの情緒ということには、ショルティは目もくれていない、と言えるでしょう。
ましてや、ショルティやセルの演奏から、フルトヴェングラーのような19世紀的「精神性」などは感じられません。

 むしろ、ショルティやセルは、19世紀ヨーロッパに縛られないコスモポリタン的な演奏をするように思います。
どの時代、どこの地域に暮らそうと、分かり合える演奏、そういうものを目指しているように思います。
それは、彼らがユダヤ人としてドイツ、オーストリアから逃れねばならなかった過去と無縁ではないと思われます。
彼らにとって、19世紀的精神性だのウィーン情緒などというものは、どこかナチス・ドイツとつながるものであったのかもしれません。
また、こちらも19世紀ヨーロッパの精神性だのウィーン情緒だのは、知らないのですから、知ったかぶりをしない限り、彼らの演奏は清潔で気持ちの良いものと感じられます。
つまり、「ショルティじゃ、ウィーン情緒がかんじられないねぇ」などと言うことはありません。
わたし、ウィーンにいったことないですし・・・。

 村上春樹の文体も、例えば日本情緒だの大和魂だのとは何の関係もないコスモポリタン的なもののように思います。
そのあたりの透明で清潔な空気感が、ショルティの『薔薇の騎士』を村上春樹に選ばせたということではないか、ひとまずはこんなふうに考えてみました。
しかし、そういう平明さが、「村上春樹は精神性に欠ける」などという批判を呼び込むのでしょう。

 が、なんで小説の中でかけられるレコードが『薔薇の騎士』なのか。
これなどは、岡田暁生氏の『オペラの終焉』(ちくま学芸文庫)あたりを読んでじっくり考えてみたいと思うのですが、まずは、『騎士団長殺し』も『薔薇の騎士』も、そして『ドン・ジョヴァンニ』にも、けっこう性的にいやらしいという共通性が考えられます。
 『薔薇の騎士』なんて、32歳の元帥夫人と若いツバメであるアクタヴィアン(17歳)の朝のベッドでの睦言で幕が開きます。
そして、その幕開きを見て、先ほど演奏されていた序曲の次第に盛り上がっていってまるで頂点に達したようなホルンの咆哮がいったい何を表現していたかが、どんなお上品なお方にもわかってしまうような仕掛けになっています。
「ま、知りません!」
いやらしさを上品に表現する――これがウィーン的なのかはどうかわかりませんが、ま、村上春樹の性描写も淡々と表現されるからこそセクシャルというところがあります。
このあたり、モーツアルトやリヒャルト・シュトラウスと村上春樹に共通するもののように思います。
(『ドン・ジョヴァンニ』にしても、『フィガロの結婚』にしてもけっこうヤラシイお話です。)
ある意味では、冷静な人間観察ということもできます。

 まずは、そんなところに目星をつけて、『騎士団長殺し』を読み直したいと思うのでした…と思っていたら新垣が始まってしまいました。
posted by CKP at 16:07| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする