2016年11月29日

言語の矛盾――音楽の嫉妬

 先ごろ、わっしぃの「折々のことば」に取りあげられたジョン・ケージのことばが、我がアタマに引っかかってはなれませぬ。

I have nothing to say and I am saying it.

これが、butで連結された文ならば、「言うことは何もないって、それを言っているじゃないか!」という揚げ足取りの突っ込みなのだろうが、andで結ばれた場合は、そうはなっていないように読める。
わっしぃによれば、ケージはこのことばをよく口にしたという。
 
 思うに、ケージは音楽の立場から、言語に嫉妬していたのではないでしょうか?
「何も言うことはない」と言うことができる言語に、音楽は憧れた。
矛盾を平気で抱え込む言語に、音楽は嫉妬した。
しかし、音楽は「何も言うことはない」を、「演奏しない」ということでしか表せない。
言語のように、発話主体と文の主語が平気で矛盾するということができない。
「何も言うことはない」は、4分33秒、ピアノを弾かないということでしか表現できない。

 と、ここまで考えて、待てよ、とケージの曲をフッソングというアコーディオン弾きが引いているCDを取り出してみる。
すると、そこでは常に音がなっている。
アコーディオンのふいごから空気が送られている間、ずーっと音が鳴っていて、その上にメロディが流れる。
となると、ずーっと流れている音はメロディという図に対する地として、背後に退き、沈黙と同じ役割を持つ。
そこでは、確かに音が沈黙を表現するということになる。
が、それはあくまでもメロディに対しての地としての沈黙。
(この音のある地と音のない地をヘーゲルの論理学の最初の存在=無⇒生成の説明に使うとよく分かる!)

 が、もういっこ、高橋悠治が弾くプリペアド・ピアノはいったいこれと関係あるのか?
ピアノの弦にいろんなものを挟み込んで演奏するプリペアドピアノをケージは発案した。
どんな音になるかは弾いてみなければ解らない。
久しぶりにLPを引っ張り出し聞きましたが、なかなか、ミニマル・ミュージックとして気色よろしい。

 これと先の言語への嫉妬を合わせて考えた。
この間、ずーっと考えていたのです。
もらえなかった「お礼」のことばかり考えていたのではないのです。

 で、まったくの思いつきですけど、ケージは水墨画の世界を音楽で表現したかったのではないか?
描き残しというか、まったく塗られない広大な空間が平気で広がる水墨画。
しかし、その「何も描かれていない空間」が何かを伝えてくる。
しかも、その線は、かすれていたり、墨のしずくが垂れていたりすることもある。
作品を偶然に平気でゆだねている。
そんな音楽を創りたい・・・・

 それがどうした、と言われると困るのですが、雪舟あたりの水墨画を想いながら、ケージを聴くとなるほどとけっこう納得して気持ちよく聴けるのでした。




posted by CKP at 17:58| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月23日

待てば海路の日和あり――眠れ、小さき人よ

 え〜、いろいろご心配いただいたり、喜んでいただいたりした、「カドワキは小さい人間であること」再認識事件ですが、先ほど解決いたしました。

 本日、夕方、先方のご住職から電話があり、すぐにこちらにおいでになるとのこと。
れいの「御包み」をもって来られました。
おそらく今日、床の間かどこかにその包みがあるのを発見され飛んでこられたものと思われます。

 いや〜、べつにボランティアのご法話でもかまわなかったんだけどね〜。
ま、せっかく持ってこられたことだし、いただいてもバチはあたらんでありましょう。

 というわけで、本日は熟睡する小人カドワキでした。
posted by CKP at 20:04| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月22日

おらが村さクマが出た!――ちょっと物騒な里の秋

 もう稲刈りもすんで、家々の柿木に柿が鈴なりになっている「しぃずか〜な静かな里の秋」の風景が広がるおらが村。
そんなおらが村にも、ついにクマが現れました。
ミサキさんちの木に登っていたとのこと。

 今までタヌキやサル、シカ、イノシシが出てきていたが(けっこう出ているね)、クマは初めて。
北陸新幹線の工事がやかましくて、こっちの方にクマが回ってきたのか?

 まだ、おらが寺の境内では見かけていない。
境内でクマと鉢合わせしたらどうしょう?
お参りはこちらと本堂に案内したらいいでしょうか?
案外、本堂で手を合わせて帰って行ったりして・・・
posted by CKP at 13:51| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

ついに登場――クルレンツィス『ドンジョヴァンニ』

予約しておいたテオドール・クルレンツィス×ムジカ・エテルナの『ドン・ジョヴァンニ』が届きました。
これで、彼らのモーツァルト×ダ・ポンテ三部作、つまり『コジ・ファン・トゥッテ』、『フィガロの結婚』そして『ドン・ジョヴァンニ』が完成したわけであります。

 全曲聴き通すと3時間近くかかるオペラです。
しかし、先週とどいてから、私はもう二回も聴きとおしてしまいました。
全曲きちんと聴きとおすのはおそらく40年ぶりくらい。
軽快でしかもメリハリが利いていて、とても面白い。
往年の大歌手の迫力は聴かれないけれども、全体のバランスがよく、とても見通しがよい。
このオペラにつけられる形容詞「デモーニッシュ」というのとは違う不思議な魅力が迫ってきます。

 先の二つは完全な喜劇ですが、この『ドン・ジョヴァンニ』は、冒頭にいきなりドン・ジョヴァンニが、引っ掛けそこなった女性の父親を殺し、最後にはその父親の亡霊によって地獄に道連れにされるという暗いドラマ。
そこを強調してデモーニッシュな演奏があるわけです。
しかし、その二つの事件の間は、女たらしドン・ジョヴァンニとその従者レポレッロの喜劇。
昔から悲劇か喜劇が判別がつかないオペラとして有名で、これという決定盤が見当たらないとされるオペラです。

 少なくとも私にとっては、この演奏が決定盤になりそうなレコードです。
軽快であり、しかしずしんと来る――どうも褒める言葉が見つかりません。
それでブックレットをめくっていたら、このドラマについてクルレンツィスがカミュの『シーシュポスの神話』の「ドン・ファン論」から次の部分を引用していました。

「ドン・ファンのなかに、生のむなしさを説く『伝道之書』で養われた人間を眺めようと試みるのは、一見いかにももっともらしいが、大きな欺瞞である。なぜならばもはやかれにとっては、死後の生への希望意外は、なにものもむなしくはないからだ。かれみずからその証拠を示している。自分の死後の生を、天国とは反対側のほうに賭けているからだ。享楽のなかに失われていった欲望を愛惜する、――不能を語るそんな常套句はかれには属さない。そんなものは、自分を悪魔に売りわたすほど神を信じていたファウストにこそ似つかわしい。」(清水徹訳、新潮文庫版改版、126ページ)

 クルレンツィスの『ドン・ジョヴァンニ』の面白さは、このようなドン・ジョヴァンニ観に秘密がありそうです。
が、あんまりそこから論ずるより、まずは聴いて楽しみます。
とっても面白いです。
輸入盤だとLPでも4千円台、CDだと2000円台(円安が進むと値上がりするかも・・・)
posted by CKP at 21:32| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月16日

いまさら言うのもなんですが――私は器の小さい人間ですぅ

 先日、あるお寺の報恩講で法話を一席うかがう機会をいただきました。
親鸞聖人のご恩をご門徒の方々と確認し、そのうえなにがしかのお鳥目までいただけるというような、まことに有難い機会、私などには勿体ないような機会であります。
わたしの場合、どういうわけか、このところそういう機会がさっぱりなくなったので、めったにない機会と、張り切って出かけました。
風邪で喉が痛く熱も少しありましたが、我が寺の親鸞聖人の原寸大の熊皮の御影を持ち出して、お話ししたのであります。
幸い、ご門徒方も身を乗り出して聞いていただいたように思います。

 そのあとご住職と歓談し、歓談し、歓談。
そしてご住職は何やらお取込みがあるらしくどこかへ行ってしまわれました。
はて、どうしたものでしょう?
こういう場合、話が終わると、ご住職から和紙に「御礼」と書かれた包みをいただくのです。
そして、「いやいや」とかわけの分からないことを言って、結局はいただく。

 が、いっこうにその気配がありません。
こちらから請求するわけにもいかない。
ご住職は消えたまま。

 いつまでも、もの欲しそうに座敷にポツンと居残っているわけにもいかず、腰を上げました。
奥様からお土産をありがたくいただきました。
そして、玄関で晴れやかに送っていただきました。
が、こちらはなんだかかたづかない気持ちのまま。

 ま、家に着くころには「あ、お礼をお渡しするのを忘れました」と連絡があるだろう、と家路につきます。
が、家についても、そのような連絡は無し。
一日たっても、二日たっても、三日たっても連絡なし。

 あの法話はボランティアだったのかなぁ。
いや、去年は「お礼」ってもらったぞ。
座敷を掃除をすれば、床の間に「お礼」の包みを発見して「忘れていた!」って大騒ぎになるのでは・・・
などといろんなことを考えます。

 いやいや、親鸞聖人のお話をさせていただいただけでもありがたい事じゃないか・・・
と思おうとするのですが、やっぱ、なんだか片づかない。
そんなに気になるなら直接電話で確かめたら・・・と家人に言われるが、そんなあさましい真似はできない。
と、考える自分が浅ましい。

 ひょっとして、いただいたのを私自身が忘れたかな、と不安になって鞄などを探すがやはりない。
「いただいたお礼を持ち帰るを忘れてないでしょうか」という電話をしようかなどとも考える。
「お礼は振り込みになったのでしょうか?口座番号ご存知でしたでしょうか」と電話しようとも考える。
そこまで考える自分の浅ましさ、器の小ささにもううんざりする。

 というわけで、ここに一文したためてすっきりしてしまおうという魂胆なのでした。

 ああ、どうせ、おいらは小さい人間ですよ!

 そんなこと百も承知の皆様には、不必要な文章でしたね。

教訓
坊様がなかなか帰らないときは、お布施をお渡ししたかどうか確かめましょう。
お渡しすれば、すぐ帰ります。
posted by CKP at 18:59| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月14日

風が吹けば桶屋がノーベル賞――ボブ・ディランと大谷大学、ついでにジョン・ケージも

「風が吹く」と「桶屋が儲かる」が関係あるように、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞と大谷大学が「関係がある」と言えないことも無い(ちょっと無理があるけれども)。

 ボブ・ディランに音楽と詩の両面で強い影響を与えたのはウディ・ガスリーである。
が、詩作においての影響では、ディラン・トマスはもちろんのこと、ジャック・ケルアックやアラン・ギンズバークの名も挙げられる。
じっさい、『NO DIRECTION HOME』というドキュメンタリー映画でディラン自身がそう発言している。

 このケルアックやギンズバークが、実は鈴木大拙に相当影響を受けているのである。
ケルアックとギンズバークは、1958年のある夜、そのころブロウドウェイにあった大拙の家を訪ねている。
ケルアックもギンズバークもこの夜のことを回想していて、ケルアックが大拙に金剛経や禅の問答について問うたこと、大拙から抹茶をふるまわれたこと、帰り際に大拙から「お茶のことを忘れないように」と言われたことを記している。
大拙が次のように書いているは、おそらくこの来訪のことであろう。。

「近ごろアメリカに、ビートニックの一人として、統領株のものに、四十ばかりの男が出た。その名をギンズベルグという詩人である。自分も一遍会ったことがある。日本的に俳句式の英詩も作る。先月、かの『ライフ』誌国際版を見ると、髯も髪も生え次第にして、無茶苦茶風采で、米国中を漂浪してあるく。カンサス州では大もてにせられておるとのこと。この人の理想はシナ唐代の詩人、寒山・拾得の風を慕い傚うことである。これら千年前の詩人生活を米国で近代化したものといってよい。破れ袈裟を風の吹くままにして、山奥に住んだという自由人の寒山・拾得を、今に写したギンズベルグ氏は誠に近来の破天荒漢である。孔子はこのような人を、「個々の欲するところに従う」とはいわぬと信ずる。」
(鈴木大拙『東洋的な見方』岩波文庫版(上田閑照編集)所収「老人と小児性」266頁)

 ケルアックもギンズバークも大切に会ったことを大切な思い出として書いているのだが、大拙の方は、少々、批判的で困り気味である。
別のところでは、禅の自由の境地が彼らにおいては「放埓」となってしまっていることに注意をしている。
いささかこのアメリカのカウンター・カルチャーの展開に大拙は責任を感じていたらしく、どこかで「LSDでは悟りの境地は得られない」とわざわざ書いている。
大拙チルドレンを叱っていたんですね。
彼らビートニクは、仏教に興味を持ち、そこから新たなカウンター・カルチャーを形成したのであるが、その一方でドラッグにのめり込んでいたのである。

 ボブ・ディランはそのビートニクの詩人たちから大きな影響を受けている。
おそらくドラッグの経験もあるだろうが、それほどのめり込むことはなかったようだ(あまりその話題を聞いたことがない。)
つまり、ディランは大拙の孫弟子と言えないこともないのである。
もちろん、大拙はディランをほとんど知らないだろうし、ディランもそんなことは自覚していないだろう。
いや、「ラヴ・マイナス・ゼロ」なんて曲名には禅的な「無」が直接意識されているようには思う。
しかし、宗教的には、ディランは仏教というよりユダヤ教とキリスト教のあいだを揺れ動いている人である(現在形?)。
仏教の思想的影響を直接論ずるのは難しいだろう。

 しかし、「LIKE A ROLLING STONE」などを聞くと、そこには仏教的な世界観がそこはかとなく感じられる、ように思う。
どのような世界観?
それはどうぞご自分で確かめてくだされ・・・

 が、とにかく、鈴木大拙は大谷大学で長らく教鞭をとっていた人だから、「ディランのノーベル賞」と大谷大学は関係があると言えないことも無いのでありました。

 ついでに、この間、わっしぃの『折々のことば』に登場したジョン・ケージも大拙に多大な影響を受けた人で、例の「4分33秒」なども、それがなかったら登場しなかった「作品」でしょう。
というわけで、ケージも大谷大学と関係がないこともない(く、く、苦しい〜)。
posted by CKP at 10:56| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月10日

ウエストコースト合衆国独立!――サンダースを大統領に

 というわけで、早出しジャンケンをしたら的中してしまいました。
よほど、クリントンが嫌われていたということでしょう。
なのに、サンダースではなくクリントンを担いだ民主党の敗北ということでしょう。

 こうなったら、もう、トランプが選挙戦とはうって変わって、案外まともな政治感覚を持っていた、となることを期待するしかありません。

 が、もう一つの策としては、ウエストコースト、イーストコーストのいくつかのステイトが合衆国として独立するという手もある。
南北戦争ではなく、東西戦争。
いや、東・真ん中・西戦争。
もちろん、「戦争」とは選挙戦・・・というのはあり得ないでしょうか?

 しかし、アメリカの新聞がこの結果に慌てているのには、びっくりしました。
やはり、新聞はエスタブリッシュメントの味方ということでしょうか?
トランプ対米国富裕層の対立、これはこれでおもしろそうですけどね。
posted by CKP at 09:59| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月08日

〇〇はどっち?――後出しジャンキー、早出しす

 いよいよアメリカ大統領選挙です。
メディアはクリントンかトランプかで賑やかなことです。
どっちにしても、あまりぱっとしない、というか相当ぱっとしない大統領候補です。
どちらが相手より余計に嫌われているかで勝敗が決まるようなトホホな選挙です。
クリントンだけにはやらせたくない。
トランプだけにはやらせたくない。
となるとどのような結果になるのか?

「FBI訴追なし」のクリントンの支持者の油断(トランプの線は遠のいた)が微妙に影響を与えてトランプの勝ち。
いつも「後出しジャンケン」をしているので、今回は早出しして見ました。

 しかし、こんなことにアタマ使うよりも、今場所、豪栄道か白鵬かにアタマを使った方がよいように思う。
豪栄道は、他の大関が優勝のあとにはしゃいで次の場所を棒に振ってきたのを見てきている。
そこから学習して今場所、万全の体制で臨んでいるような気がする。
よって、豪栄道が一気に優勝、横綱!
実はわたし、けっこう相撲好き!
 
posted by CKP at 13:42| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月06日

ギターのちから――哲学のギター?

 犬小屋の間借り人から、ジェフ・ベックの『ロックン・ロール・パーティ』というDVDを貸していただく。
ジェフ・ベックが、主に50年代のロックン・ロールを弾きまくるというヴィデオ。
なかでもレス・ポールの楽曲を中心に弾いている。
この場合、レス・ポールとはギター名ではなく、そのギターを開発したおじさんの名前。
この人は、エレキギターを開発し、多重録音を思い付き、そして「ハウ・ハイ・ザムーン」や「モッキンバード・ヒル」を作って唄ったアメリカのエレキ・ギター音楽の父のような人。
そして、そのエレキ・ギターの求道者ジェフ・ベックが、ホントに楽しそうに古い曲を弾きまくる楽しいヴィデオです。
なんと、シャドウズの「アパッチ」も弾いています。
ジェフ・ベックってイギリスの人だったんですよね。

 しかし、このレス・ポールが開発したエレキギターによって、20世紀という世紀は、どこでも誰でも音楽表現ができる時代になりました(もちろん電気が必要ですが)。
そして、レコードの発明で、どこでもだれでも、いろんな音楽表現に接することが可能になりました。
エレキ・ギターとレコードというのはすごい発明だったのだと、このヴィデオを観ながら、改めて思いました。
レス・ポール偉い!
ジェフ・ベック、いい奴!

 となると、哲学にギターの役割をするメディアはあっただろうか・・・などと考えてしまいます。
ブログとかツイッターとかはそんな役割を担えるのでしょうか?

 もちろん、メディアがか変化すれば、そのコンテンツも変わる。
エレキバンドでブルックナーはあり得ない。
チェンバロでラフマニノフは迫力不足。
オーケストラあってのブルックナー。
ピアノあってのラフマニノフ。

 もちろんギターあってのボブ・ディラン・・・

 哲学は活字であれば、デジタルでもアナログでもよろしい、ということでよろしいのでしょうか?
posted by CKP at 20:42| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月03日

ホスピタリティにもほどがある!――わっしぃの十字路

 GPでサンマの塩焼き(大根おろし付き)、とろろ、納豆など、タヌキもよだれをたらす孤独のグルメをいただくとき、今週の週刊現代を手に取りました。
巻末の日活ロマンポルノのグラビアをじっくり堪能した後、パラパラとめくっていると、鷲田清一「生きものたちの十字路」という記事が目に止まりました。

 まず、柴犬の姉妹に居間や離れを犬小屋として明け渡すうちに、結局は家全体が犬小屋となり、わっしぃご夫妻は犬小屋に住まわせていただく身となったことが述べられている。
そうか、あの家は犬小屋だったのか(それにしてはウーちゃんサーちゃんの表札がありませんよ)。

 次いで、京都芸大の学長「執務室」の改造のはなし。
机とかロッカーを取っ払い、壁に卒業生がフレスコ画を描き、教室の机に天板を置いた机を学生だったか教員だったかが塗装し、鉄のドアを教員がガラス戸に変えてくれて、今は、学生や職員が自由に出入りし、そこでの音楽科の学生の演奏に牛蛙が呼応する状況が形成されいるという。
会議(?)なども、その空間で椅子を車座に並べて行われるという。

 ホント、わっしぃの歓待性にはあきれるばかりであります。

 しかし、あきれているばかりでは、わたしの研究室で卒論試問もできない状態だから、一月の口頭試問に向けて、せめて人三人が机を挟んで座れるスペースを構築せねばなるまいて。
posted by CKP at 13:20| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月02日

キースやチャーリーとおんなじ!――ローリング・ストーンズ『ハバナ・ムーン』視聴記

 ローリング・ストーンズが今年、2016年3月25日にキューバのハバナで開催したフリー・コンサートのDVDを見ました。
もう50年以上もロックのコンサートの接していなかったキューバの人々の興奮が、そしてその人々を前にしたスト−ンズの興奮がストレートに伝わってくる気持ちの良いステージでしたよ。

 それにしても70歳を過ぎたストーンズの皆様、ホントに元気です。
みな鶴のように痩せて皺くちゃなのですが、ミック・ジャガーなどはステージせましと、いつもの妙なステップを踏み続けています。
みんなどんな健康管理をしているんだろう?
キースもロニーもタバコは演奏中でもぷかぷかやってるのに!
もともと音数が多いバンドではないのですが、さすがに今までよりさらにシンプルな演奏になって、それだけにそれそれの曲の味わいがグッとくるプレイでした。

 で、気が付いたのですが、キース・リチャーズとチャーリー・ワッツの禿げ方が、アタマのテッペンから禿げてくるカッパ禿げ。
カメラは執拗に哀愁ただよう後頭部を追っていました。

 わたくしも床屋に行くと「テッペンから来てますねぇ」と言われるカッパ禿げ過程を歩み出したので、キースとチャーリーのカッパ禿げは「おお同志よ」とうれしくなりました。
ちなみに、ニール・ヤングもカッパ禿げですね。
posted by CKP at 17:09| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする