2016年06月30日

お待たせしました――『同朋』7月号、書店配本完了!

 お待たせしました。
『同朋』7月号が、各書店に配本完了したようです(前々之記事参照)。
フライング気味でお知らせし、タヌキ・ファンの皆様を焦らせてしまいました。

池上タヌキ之介の写真が、知的で優しそう、と書店員のあいだで評判です。
タヌキの術のタヌキ効果ですな。
posted by CKP at 10:04| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

私はヨーロッパのことを何も知らない――EU離脱について考えて分かったこと

イギリスには何の義理もない。
株とか為替に手を出して、この混乱にあたふたしているわけでもない。
ただ、この間のイギリスの国民投票のEU離脱派勝利を、「愚かな選択」「馬鹿な事」と吐き捨てるようにテレビで言ってる「識者」がおられたので、ホントにそうなのかと悩んでおります。
そのうえ梅雨風邪で・・・

 株とかそういうものとは無縁のわたくしには、離脱派勝利⇒株式市場大混乱という状況は当面は関係ない。
 
 ただ、逆の場合はどうなったか、と考える。
離脱はなく現状維持の場合。
おそらく反移民感情は今にもまして燃え上がり、それを右翼が吸い上げて、極右政党が強くなって…という絵柄が浮かぶ。
フランスでも、ドイツでも、イタリアでも排外主義が燃え上がり・・・となるでしょう。
これはこれで、じわじわと嫌な感じ・・・

 どっちが嫌か、という問題ではないのだろうけど。

 そもそもルーマニアやポーランドからイギリスくんだりまでなぜ移民が殺到するのだろう(難民ではない)。
EUってのは、ルーマニアやポーランドあたりに積極的に産業を興すということはしていないのか?
安い労働力をドイツやイギリスに持って来ればよし、という体制なのか?
たしかに移動が自由、しかしそれで得するのは資本家だけ、貧乏労働者は安い仕事の奪い合い・・・
EUの平和への理念を今回の決定は踏みにじる愚かな判断、と識者が言っていたが、EUというのは理念はそうかもしれんが、ホントに理念どおりに機能しているのだろうか・・・

 結局、EUについての実態というのがよく分かっていない自分に気が付くのでした。

 それに、イギリスの農場風景がちらりとニュースで映し出されたいたけれど、大規模農業でそこにポーランド移民が雇われている。
いまさら聞けもしないのですが、イギリスっていまだに爵位なんかもった大地主がえばってるのでしょうか?
ロールスロイスなどを馬車代わりにしている人たちなのでしょうか?
「農地改革」なんてなかったですよね、イギリスでは。
というか、ヨーロッパの農地の所有者っていまだに貴族たち?
(逆に言えば、日本で大規模農業が難しいのは、農地改革でそれまでの小作農が土地を所有してしまったから。
つまり、日本は土地所有者が多いのではないか?
それと円の強さがどこかでつながっているような気がするが、そのような話はとんと聞かない。)

 というわけで、ヨーロッパについて何も知らない自分に気づいたのでした。

posted by CKP at 13:35| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月23日

読んだ?!――中島岳志×高橋源一郎×池上哲司

 『同朋』7月号の中島岳志×高橋源一郎×池上哲司の現代における親鸞をめぐる鼎談。
読まれましたか?
これは、近年、まれにみる気持ちの良い、そしてためになる、とっても面白い親鸞をめぐる鼎談です。
それぞれの個性が、ぶつかり合いながらも見事に調和しているまれにみる鼎談です。
たぶん、一部分しか採録していないと思います。
出来たら、全部起こして一冊の本にしてほしいくらいです。

 あのタヌキはやはりただのタヌキではないのです。
書店ではなかなか手に入らないかもしれません。
そんな時は、こちらにどうぞ。
 http://books.higashihonganji.or.jp/

追記
現在、京都の大垣書店(各店)の他、
ジュンク堂(京都店)、丸善(京都本店)、京都駅アバンティブックセンター、
三省堂書店(京都駅前店)、水島書房(丹波橋駅前店)、
滋賀の紀伊国屋書店(大津店)で書店販売しているそうです。
posted by CKP at 12:50| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月22日

お待たせ!池上タヌキ之介哲司登場!――『同朋』7月号で高橋源一郎、中島岳志と鼎談!!!

 全国のタヌキファンの皆さま、お待ちどうさまでした。
池上タヌキ之介哲司先生がリニューアルした『同朋』7月号(東本願寺出版)に登場でございます。
現代における親鸞をめぐって、高橋源一郎氏、中島岳志氏と鼎談。
表紙に、3人が源一郎兄さんが真ん中・・・という感じで、逆三角形の配置で写った写真が掲げられているのですが、見事にだれもネクタイをしていない。
そういう3人の鼎談です。
もちろんタヌキ之介は、タヌキの着ぐるみを着ているわけではありません。

 また延塚知道先生も『教行信証』についての連載を始められました。
難解なこの本のポイントを優しく説いてくださる連載となるでしょう。
またまた元哲学科の客員教授であったマイケル・パイ先生は、まだ京都あたりに住んでおられて、木越大谷大学学長と対談をなさっています。

 ページ数も増えて一般書店でも扱いが始まったのではないか、と思うのですが・・・
そこんとこ、どうなっているのかいな・・・
posted by CKP at 13:51| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月20日

萩原健太は声もいい――今日の「折々」

 今日のわっしーの「折々のことば」は萩原健太さんの言葉でしたね。
私が一番信頼している音楽評論家(ロック)で、一度書きたいなと思っていたところ、わっしーに先を越されてしまいました(いったい何を競争しているのでしょうか)。
昨年大推薦したエリック・カズの「41年目の再会」も萩原健太さんのラジオ番組で教えていただいたアルバムでした。

 なぜ萩原さんを信頼しているかと言えば、声がいいんです。
大平透さんを少し若くしたような深くて柔らかい声。
ああ、この声の持ち主なら信頼できる、そんな声なんですね。

 高橋源一郎さんの声は、それとはまったく違う声質ですけど、好きですね。
声というより話し方なのでしょうか?
宮沢章夫さんのしゃがれた声もよい。
このお二人はNHKラジオすっぴんのパーソナリティですね。
この人たちのお相手のNHKの女性アナウンサー(藤井さん)の声も落ち着いていていいです。

 美声と自分にとって「いい声」というのは微妙に違います。
何が違うのでしょうね。
posted by CKP at 19:34| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月15日

ナチスも日本の軍部も――オイオイの言葉

「猫も杓子も」ということわざはあるが「ナチスも日本の軍部も」というのはない。
語呂が悪いですものね。
これは、丸山眞男が、学園闘争の頃に研究室を荒らされたとき学生に向かって「君たちのような暴挙はナチスも日本の軍部もやらなかった。しかし、わたしは君たちを憎みはしない。ただ、軽蔑するだけだ」と言ったという、今や都市伝説となった言葉の一部である。
いあ、もう、伝説にもなってないか・・・
ましてや、この言葉を軸に吉本隆明が丸山眞男を批判したなどという話は過去の彼方でありましょう。

 そんな話をなぜ今ごろ蒸し返したのでありましょうや。

 なぜ丸山眞男は全共闘学生の乱暴狼藉ごときに、日本の軍部はもとよりナチスまで持ち出したのか…これが今まで不思議だったのですが、先日のブログでフルトヴェングラーをとりあげたとき、中野雄『丸山眞男 音楽の対話』を引っ張り出して読んで、なるほどと合点できたので、そのご報告に至った次第。
そんな事、もうどうでもいいとは思いますが・・・

 そもそも全共闘の狼藉ごときに、日本の軍部を持ち出してくるのも大げさな話である。
が、これは「狼藉」の規模の話ではなく、学者・文化人の待遇の話である。
日本の軍部は、東京帝国大学助教授丸山眞男の研究を妨げはしなかった。
もちろん、軍に招集されることでその研究は中断を余儀なくされたが、将校になれるところを一兵卒として入った軍隊でも、8・15以後には、丸山眞男は軍隊で将校相手に講義を行っている。
軍部は、丸山を「先生」として遇したのである。
ゆえに、「君たちのような暴挙を日本の軍部はやらなかった」。
これは分かる。

 が、そこにナチスが出てくる、これが分からない。
ナチスと言えば、学問に関していえば、ユダヤ人や共産主義者の書物を「焚書」した連中である。
全共闘の乱暴狼藉の比ではない。
なのに、なぜ「こんな暴挙はナチスもやらなかった」ということになるのか?
不思議と言えば不思議ですね。

 おそらく、この時、丸山眞男はフルトヴェングラーになっていたのではないか、というのがわたくしの推測であります。

 丸山眞男のお弟子さんで、レコード業界で世界的に活躍した中野雄氏の『丸山眞男 音楽の対話』を読むと、丸山眞男が西洋の、とりわけドイツ語圏のクラシック音楽への造詣の深さに圧倒される。
ドイツからベートーヴェンやワーグナーのスコアを取り寄せ、生半可なプロの指揮者よりも詳細に読み込み、それが丸山自身の書き込みからよく分かるという。
またフルトヴェングラーの著書もドイツ語で読み、詳細な書き込みがあるという。
丸山眞男は心からフルトヴェングラーを敬愛し、そのベートーヴェンの演奏を、とりわけ戦時中の切羽詰まった状況での演奏をこよなく愛したという。

 そのようなフルトヴェングラーをナチスは、利用したとはいえ、慇懃に遇した。
おそらく丸山眞男は、大学が封鎖されている時、自宅で悲壮な心持で、戦時中のフルトヴェングラーの演奏を聴いていたのではないか。
自身がフルトヴェングラーになったような気持ちで聴いていた・・・そして大学に来てみれば自分の研究室が荒らされている・・・と思わず「君たちのような暴挙はナチスも日本の軍部も・・・」という発言になったのではないか、と邪推するのであります。

 でなければ「ナチスよりひどい」というようなセリフは出てこない。
ナチスよりひどいことをする人間なんてのはそうそう存在しない。
ナチスよりひどい、と言われた学生諸君、とんだとばっちりでしたね。
posted by CKP at 13:30| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月13日

大拙忌は7月7日――上田閑照先生のご講演

 今年も大拙忌の時期となりました。
今年は、鈴木大拙没後50周年に当たります。
というわけで、ご講演を上田閑照先生にお願いしたところご快諾いただきました。
講演タイトルは
「分別と無分別――而して「無分別の分別」妙
             大拙先生に学びつつ」

 上田先生は、電話でのお声はお元気でしたが、なんといっても今年90歳。
このようなテーマでのお話は貴重なものとなると思います。

7月7日午後4時20分より6時ごろまで
大谷大学響流館(図書館棟)3階メディアホール
聴講無料の公開講演です。
posted by CKP at 11:51| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月11日

うれし恥ずかし写真入り――ネット毎日ではさらにでかい面

 え〜、昨日の毎日新聞「くらしナビ ライフスタイル」という欄お読みいただいたでしょうか?
たぶん、いただいていないと思いますので、ここでネットに出た記事をご紹介。

 新聞では、不肖カドワキの顔の写真が切手大で載っています。
ところが、ネット毎日では、ずっ〜とでかい面で出ています。
あれだけのコメントで顔写真が出るとは思わなかったのでびっくり。
ま、とにかくここです。
http://mainichi.jp/articles/20160610/ddm/013/040/015000c

蒸し暑くなってきたところに、暑苦しい顔写真でスミマセンでした。
posted by CKP at 16:46| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月09日

明日6月10日は毎日新聞――ホントの名前で出ています

 明日の毎日新聞の朝刊にわたくしCKPカドワキが、ホントの名前でコメントする記事が掲載されます。
「くらしナビ」か宗教に関するのページかは不明ですが、最近、坊さんの悩み相談というのがトレンドなんだそうで、それについてのコメントを求められました。

 インタヴューされて、かれこれ一時間ぐらいお話ししました。
途中で何を話しているのやら自分でもよく分からなくなっていたのですが、担当の花澤記者がポイントを10行ぐらいにきっちりまとめてくださいました。
それを読んではじめて、なるほどおいらはこういうことが言いたかったのかと分かった次第。
また、それを読んでさらに浮かんだアイデアでまとめていただいた文章を修正したら、はいはいと応じていただきました。
改めて、スミマセン。

 というわけで、明日の毎日の朝刊(ただし、関西版と東京版のみ)、ウォーリーを探せの要領で、目を皿のようにして小生の名前を探してみてください。
わたくし自身は、そのコメントを読んで、なるほどなぁ、納得いたしました。
自分のコメントなのだから、当たり前田のクラッカーなのですが・・・
posted by CKP at 13:33| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月07日

めちゃくちゃかっこよかった――シモーヌ・ヴェイユも津村記久子さんも

 本日6月7日の毎日新聞の「読書日記」は津村記久子さん。
とりあげるのは、シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』(田辺保訳、ちくま学芸文庫)。

 この組み合わせは、やばい。
以前、津村さんがヴェイユについて書いていた文章を紹介しようとして、結局、全文紹介してしまった前歴がおいらにはある。
今日の文章は、かいつまんで紹介しようとしたが、そうするとやっぱり全文引用したくなる。
が、それはまずかろうね。

 なんかヴェイユについて書く津村記久子は、めちゃくちゃかっこいいのである。
本気なのである。
「わからないだろうな」と思いつつ、突き進んでゆくのである。

 今日の文章は「本気だった。めちゃくちゃかっこよかった。」と、終わるのであるが、津村さんの写真を含めて、めちゃくちゃかっこよかった。
posted by CKP at 16:44| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月06日

フルトヴェングラーをめぐるもやもや――よい音楽、悪い音楽?

 中川右介『戦争交響楽』(朝日新書)が面白い。
1933年から戦後までのクラシック音楽家の動向を、当時のコンサートプログラムや手紙などを引用して、追った読物。
ほとんど年表を読んでいる感じだけれど、これがめっぽう面白い。

 とりわけナチス・ドイツによってドイツを追われたワルターやクレンペラー、ナチスと敢然と戦ったトスカニーニ、ポストを得るためナチの党員になったもののヒトラーに嫌われたカラヤン、そして党員ではなかったけれどヒトラーの隣席のもと、ハーケンクロイツはためく中で指揮をするフルトヴェングラーの動向が面白い。

この中で一番「困る」のは、フルトヴェングラーですね。
彼の指揮するベートーヴェンやワーグナーそしてブルックナーは、モノラルの古い録音だけだけれども、やはり今聴いても、すごい、感激する。
しかし、彼のナチスに対する煮え切らない態度――ハーケンクロイツのもとで指揮する姿を見てしまうと、なんだか困ってしまう。
素直に感激していいんだろうか、と困るのである。
少しハイデガーに「困る」のと似ているところがある。

 それで、いったいフルトヴェングラーとはどういう人物なのかという興味で読んでいると、次のような記述にぶつかった。
少し長い。
*          *
 ベルリンで活躍していた指揮者のなかで、ナチスの反ユダヤ政策によって、ワルターやクレンペラーが追放されるようにして出て行ったことは、彼(フルトヴェングラー)にとって衝撃だった。
 (1933年)4月11日、フルトヴェングラーがゲッペルスに宛てて書いた手紙と、ゲッペルスの返信が、「ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイツング」紙に載った。
 フルトヴェングラーは「私は究極のところ、ただひとつしか境界線は認めません。すなわち、よい藝術か悪い藝術か、です」とした上で、「ユダヤ人か非ユダヤ人か」の境界線が「仮借のない厳密さで引かれている」が、それよりも「よい藝術か悪い藝術か」の問題のほうを重視すべきだと述べる。そして「もしユダヤ民族に対する戦いが、根無し草のような、いかさまや空虚な妙技によってお客に受けようとする人たちに向けられているのなら、それはすごく当然なことでしょう」と書く。つまりフルトヴェングラーはユダヤ民族の低俗な藝術であれば弾圧してもかまわないと言っている。
 しかし、「この闘争が真の藝術家に向けられるならば、それは文化活動の利益になりません」とし、「はっきり申し上げておかなければならないのは、ワルターやクレンペラー(中略)といった人たちには、将来ドイツでそれぞれ専門の仕事に従事できるようにしなければなりません」と訴える。
 (中略)
 ゲッペルスの返信は、フルトヴェングラーへの感謝と尊敬の念を述べることから始まる。本題に入ると、「真の藝術家は稀ににしかいません。だからこそ彼らは保護育成され保護されなければならないわけです」としたうえで、ワルターやクレンペラーが演奏できなくなることへの批判については、「過去14年の間に、真のドイツの藝術家がたびたび沈黙を強いられたことを思えば、適切を欠く」と退ける。
*            *
 中川氏は、この後、「政治は藝術だ」というゲッペルスの発言を受けて、「ナチス・ドイツとは、藝術家としては成功できなかった三流藝術家たちが、一流の藝術家を支配することで、自らの藝術的野心を満足させるための巨大な玩具だったという一面」を指摘して、次のように結論付ける。

「プロパガンダの天才であるゲッペルスの前に、非政治的人間と自分でも認めるフルトヴェングラーは完敗した。いやフルトヴェングラーには自分が負けたという意識もなかったかもしれない」(50頁から52頁)

「よい藝術と悪い藝術」という区分が、フルトヴェングラーにははっきりとあった。
ゆえに、よい藝術であるベートーヴェンやワーグナーは、渾身の力を込めて指揮をする。
そして、それに、この私は感激してしまう。
のだが、その一方で、ユダヤ民族の「根無し草のような、いかさまや空虚な妙技に酔ってお客に受けようとする」音楽は軽蔑する(マーラーなどもこれに入るのだろうか?)・・・というフルヴェンの態度には同意できない。
何かを低俗、下劣とし、その一方で自らを高く評価する態度って、なんだか嫌な感じ。
もっとも、アドルドなどもどこかで「ジャズは低俗」と書いていた。
いや、ワルターもどこかでヴェルディは指揮するが、低俗だったか、下劣だったか、とにかくプッチーニは指揮しない、と言っていた。
ゆえに、これはフルヴェンだけの芸術観ではなく、ベートーヴェンなどの教養的(!)19世紀音楽を高く評価する芸術観に広く見られる傾向なのだろう。
しかし、「よい藝術」まだ分かるとして、「悪い藝術」というのはなんぼ何でもというきがします。

 ちなみに、ベートーヴェンとフルトヴェングラーをこよなく敬愛したという丸山眞男は、フルトヴェングラーとナチスの問題に次のような発言をしている。( 中野 雄『丸山眞男 音楽の対話』(文春新書)より孫引き)

 丸山は、第一にフルトヴェングラーは、「ナチズムの実体について」「全く、あるいはほとんど無知」であったことを第一として次のように言う。

「第二には、フルトヴェングラーは、個々のユダヤ系の芸術家に対する迫害、あるいは個々のナチの文化統制にたいしては、その都度、実にはっきりと抗議し、また懸命に人助けの活動もしたのでありますが、幸か不幸か、ナチ当局者が……非常に低姿勢をとって彼のそういう努力がかなり功を奏したということが、かえって、起こっている事態を全体的に掴んで見抜く眼を曇らした、ということが言えるんじゃないかと思います」。(189頁)

 おそらく中川氏が指摘している同じ問題を扱っているのだろうけど、フルトヴェングラーへの尊敬のせいか、丸山の分析はフルトヴェングラーに甘すぎる。
おそらく、丸山自身もフルトヴェングラー的「よい・悪い」芸術観に同意する傾向があるのではないか?

音楽の二分法と言えば、デューク・エリントンの「素敵な音楽」と「それほど素敵じゃない音楽」があるが、これは「よい・悪い」とは違う。
エリントンのは「素敵」の量の問題だが、よい・悪いは質の問題なのである。
藝術における、よい・悪いをフルヴェンやアドルノは、何を基準に考えていたのだろう。
・・・ということを考えざるを得ず、フルトヴェングラーを聴くのがますます「困る」ことになるのでした。

 そのうえ、フルトヴェングラーの「よい・悪い」を考えるうえで、次のようなエピソードもさらなる混乱をもたらす。
*         *
 (1935年)4月10日、ベルリンではゲーリングと女優エミー・ゾンエマンの結婚式が盛大に執り行われた。その直後にヒトラーはフルトヴェングラーと面談した。
 フルトヴェングラーが求めたのはドイツでフリーランスの指揮者として活動することと、外国でも指揮したいのでパスポートを発行してくれということだった。フルトヴェングラーはベルリン・フィルハーモニーや歌劇場の仕事がなくても外国へ行けば稼げるとふんでいたのに、パスポートを更新できず、出国できなくなっていたのだ。
 ウィーン・フィルハーモニーの関係者によると、フルトヴェングラーの出演料は、ベルリン・フィルハーモニーからのものは妻の口座へ、ウィーンからのものは愛人たちの口座に送金されたという。フルトヴェングラーには多くの愛人がいて婚外子がたくさんいた。その数は本人にもよく分からないらしいが、確認できるだけで13人という。彼にはこの子どもたちの養育費を稼がなければならない事情もあった。国外での仕事がなくなれば、愛人とその子供たちは生活できない。この大指揮者が亡命できなかった理由のひとつが、この扶養家族の多さにあった。(143頁)
*         *
 同情していいのやら、尊敬していいのやら・・・
愛人たちや少なくとも(!)13人の子供たちの面倒を見るというのは、えらいと言えば偉い!
が、「本人にもよく分からない」13人以外の子どもはどうなったか?
また、世俗的倫理観と芸術的倫理観は違うのか?って問題も出てくる。
いったい、どの口が「よい・悪い」を言うの?って。
しかし、愛人をいっぱい囲っているような人物だからこそ、ワーグナーを魅力的に演奏できたりもする。
しかし、愛人や子ども、多過ぎ!

 このフルトヴェングラーが亡命しなかったことについて、丸山眞男の弁。

「最後に重大な理由としまして、フルトヴェングラーは、自分の主張を貫いて亡命の道をとるには、あまりにドイツ人とドイツ文化への愛着が深かったということを考えなければなりません。勿論、偏狭な国家主義の意味ではなく、彼は自分の芸術がドイツの国土との結びつきを離れてはあり得ないという自覚をもっておりました」。(193頁)

 丸山先生にとっては、どこまでもフルトヴェングラーは偉いのでありました。

結局、わたくしのアタマのなかでは、『マクベス』の魔女たちが「キレイは汚い、汚いはキレイ」と踊りまわり、チャック・ベリーが「Roll over the Beethoven」を奏でるのでした。
そんなお下劣なロックンロールなんか聴いてると、丸山先生に叱られちゃうかもね。
posted by CKP at 12:09| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月03日

出でよ!暗闇!――生活に闇を!

 北海道の「しつけ」のために山の中に置き去りにされた少年が無事見つかったということで、まずはよかった!よかった!

 が、「置き去り」というのは、現代的しつけとしてポピュラーなのでしょうか?
私はあまり聞いたことがないのですが・・・

 私ら田舎もんのお仕置き的しつけは、「土蔵の中に閉じ込めらる」か「夜、庭に立たされる」が代表的なものでした。
わたしは、「土蔵の中に閉じ込められる」型でした。
何をやったのかは覚えていないのですが、泣こうが喚こうが、母親は断固として私を土蔵に閉じ込めたのでした。
甥っ子たちも、うちに来たとき、時々、閉じ込められておりました。

 しかし、都会のモダンな住宅では、そのような怖い暗闇がなくなってしまいましたね。
庭があったとしても、「恐い」と感じるほど暗くはない。
モダンな家でも、ご遺体を置く空間と、閉じ込められると怖い!という空間が必要ですね。
そのうえ、妖怪たちも「妖怪ウォッチ」で見ると、ゲゲゲの鬼太郎の時分よりも、恐くなくなっているし・・・
posted by CKP at 19:52| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月01日

いいこだねぇ〜――岩合光昭の臨床現象学

 「いいこだねぇ〜」とはBSプレミアムの『世界ねこ歩き』で岩合光昭さんが、猫たちにかける挨拶言葉である。
しかし、見ていると、ケ小平じゃあるまいし、別に悪い猫と良い猫がいるわけではない。
岩合さんは、どんな猫にも「いいこだねぇ〜」と声をかけ、まるで岩合さん自身が猫になりつつ、世界中の猫たちの路地裏や原っぱをでの生態をカメラに収めている。

 なんで、あれほど、岩合さんは猫に信頼されているのであろうと、岩合さんの『生きもののおきて』というカラー写真も楽しい文庫本をパラパラと読んでみました(ちくま文庫)。
こんなおいらでも猫には信頼されたいのだにゃ〜。
これは、主に、1982年8月から84年3月までの一年半、ご家族とともに、タンザニアのセレンゲティ国立公園というサバンナに滞在したときの記録。
 
 「見たままのこと……分からないことがあれば、それを分からないままに、ヒトの見方を加えずに、どうしたら伝えられるだろうか。」(61頁)

おそらくこれがこの本のテーマなのだと思う。

 ライオンを近くで撮影しながら一度も襲われたことがない岩合さんは次のように書いている。

「多くの場合、野生動物を見るとき、最初に結論を出してしまっているような気がしてならない。その結論に導くには、目のまえで起きていることをどういうふうに解釈したらいいか。頭の中でそれを確認している。現実があとからついてくる。
 それでは、野生動物は見えてこない、とぼくは思う。考えるよりも、まず見る。「ヒトが見る目」をはずし、まったく別個の生きものとして、虚心坦懐に見る。そうしなければ、いつまでたっても野生動物とヒトとの関係は変わらないのではないか。」(40頁)

 「まったく別個の生きものとして、虚心坦懐に見る」とは、ライオンになってライオンを、シマウマになってシマウマを見るということなのだろう。
ただし、「ライオンってこんな感じ」という「ヒトの見る目」ははずしながら。
だから襲われないのだろう。
シマウマになってライオンを見たら、たぶん、襲われるだろうし、人間のままで見ても襲われるのだろう。

 だから、きっと世界中の猫をカメラに収めると岩合さんは猫になっている。
その時の変身の呪文が「いいこだねぇ〜」なのであろう。
それは同時に「ヒトが見る目」を捨て去る判断停止の合図でもあるのではないか。

 果たしてフッサールにはこのような「いいこだねぇ〜」というエポケーは出来ただろうか?
エポケーを論ずることは出来ても、エポケーすることは出来ただろうか?
フッサールが「いいこだねぇ〜」と猫の信頼を得ようと工夫していたら、現象学もまた別の展開があったかもしれんね。
 
posted by CKP at 17:40| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする