2016年03月23日

CKP、地球に衝突す――老いの衝撃

 CKPという隕石が地球に落下した、という話ではない。
ワタクシCKPことカドワキが、梯子状のものから地球に落下し、地面に激突したという話であります。

 雪国のお寺には、本堂の前に「雪割り」という三角屋根が組んであり、本堂の雪が落下してもそこをくぐって本堂に参拝できるようになっております。
その雪割りを解体している時、その三角屋根から降りるとき、もう大地であると判断した我が足は力強く空に踏み込み、我が体は宙に舞い、我が頭は地面に思いっきり頭突きをかましたのでありました。
しかし、我が軟弱なるアタマより地面の方が硬く、我が頭からは、ブラッシーに噛みつかれた力道山のごとくタラタラ血が流れているのでした。

 幸い大したことなく血はすぐに止まり、我がポンコツ頭にも致命的なダメージもなく、作業は無事終了したのです。
さすがに翌日は首筋や腰が痛くて曲げられませんでしたが、日を追うにつれて良くなっています。

 が、歳をとる、というのはこういうことなんですね。
アタマで考えることは、あまり歳をとってはいないのですが、体は確実に老いている。
そのことを強烈に教えてもらった事件でした。

 ホント、とにかく、ただ落ちるだけ。

身体は落ちるという事態になんの対処もできない。
声も出ない。
ばったりに地面にはいつくばるだけ・・・

 身体がこうなったのだから、アタマも少しは歳を考えねばならぬ、と思ったのでした。
お若い方には、いまは、関係のない話ですが・・・
posted by CKP at 16:05| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

卒業、おめでとう――A spooonful of sugar

 本日は、京都は北大路の大谷大学の卒業式。
卒業生のみなさん、おめでとうございます。
楽々とか、なんとかとか、あぶないところだったとかいろいろあると思いますが、とにかく卒業できるということはめでたい。
であるからして、ワタクシ、本日はスーツにネクタイといういで立ちです。

 しかし、こうなってみると、もう少し、ねちねちと鍛えておいた方がよかったかな、と思わんではない。
が、しかし、4年前から見ると、それぞれ、それなりに得るものがあったように思います。
「それなりに」とあいまいなことを言うのは、それは本人にも今ははっきりと分からない、いや「これ」と分かるようなものなら、それはあんまり大したことはない。

 ただ、どうだろう?
あの、とりかかった時には、完成するのかどうかさえ分からなかった卒論がああして完成したとき、ちょっと、勉強というのも楽しいなんて思いませんでしたか?
やんなきゃいけないと始めたことが、ちょっと楽しい・・・これから山ほど押し寄せてくる「やんなきゃいけない」時に、「ああ、これがどうゆーわけか、ちょっと楽しくなるんだな」ということを思い出してくれると嬉しい。

 というわけで、「やんなきゃいけない」ことをなかなかやらない子供たちに、ジェリー・アンドリュース扮するメアリー・ポピンズが唄うお説教歌「A spoonful of sugar」を、卒業のはなむけににお贈りいたします。

「どんな仕事の中にも楽しいところがあるわ
その楽しみを見つけて、指を鳴らしましょう
そうすれば、仕事はゲーム
やらなきゃならないつらい仕事も楽勝よ
愉快!大騒ぎ!
とってもはっきりしてるわ」
(訳は浅井学「ひと匙のお砂糖で」から『メアリー・ポピンズのイギリス』野口祐子編著、世界思想社)
とお説教があって、「とてもはっきりしている」次の歌詞がリフレインされるのでした。

That a spoonful of sugar
Helps the medicine go down,
The medicine go down
The medicine go down
Just a spoonful of sugar
Helps the medicine go down
In a delightful way

 ディズニー映画なので、動画を引用するとどんなおとがめを受けるか分からないので、歌だけ。


 もしなかなか楽しくならないいときは、もちろん「スーパーカリフラジリスティックエクスファリドシャス」と唱えてみましょう。
posted by CKP at 13:47| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

ヘーゲル版「アホ言うもんがアホや」――結論は「ここがロドスだ、ここで跳べ」ですが・・・

今日は、久しぶりにすごく長い!

 が、結論から言うと「ここがロドスだ、ここで跳べ」ということになるかと思います。

 え?AKB48のはなし?
ヘーゲルもAKBと同じこと言ってるの?
というのは、話が逆で、ヘーゲルが『法哲学』の序論で引いたイソップの寓話「ロドス島では高く跳べたんだ」「じゃ、ここがロドスだ、ここで跳べ」などをヒントに秋元康氏がAKBのアルバム・タイトルしたらしい。
じゃ、ヘーゲルもAKBも同じこと言っているんだ・・・かどうかはわかりません。

 私はそのアルバムを聴いたことがないのでAKBや秋元氏が何を言おうとしているのかよく知らない(「恋するフォーチュンクッキー」はちょっと好きでした)
ですから、ヘーゲルとAKBの関係は、両方知ってる人のご判断におまかせ・・・

 それで長い長い話・・・

 ヘーゲルが『精神現象学』で、カント流の道徳的世界観を「それはごまかし(Verstellung)に過ぎない」と批判して見せる箇所がある。
「精神」の章の大詰め「良心、美しい魂、悪とその赦し」の章の前の章である。
このとき「批判して見せる」と書くのは、ヘーゲルはこの批判によってカント流の道徳哲学がダメだ、と主張するのではなく、このような批判がありうるがそれをいかに超えるかということを問題にしているからである。
単なる批判ではないということである。

 こうゆうところがヘーゲルの歴史への態度であり、単なる批判に終始する反対左翼とか、反近代主義者とは違うところである。
つまりヘーゲルの「偉い!」ところである。

 また「カントの道徳哲学」ではなく「カント流の道徳的世界観」と書くのは、カントの道徳哲学に登場する「要請」という考え方をヘーゲルがそうとう独自に解釈して、その批判を展開しているからである。
カントに対する厳密な批判というのではないのである。
だもんでカント・ファンの方は以下を読んで怒らないでください。

 カントの場合、欲望に縛られた不完全な人間が完全な道徳に達するために自由、不死、神が要請されるのであるが、ヘーゲルは、それをアレンジして、「道徳と自然あるいは幸福との調和」「理性と感性の調和」「聖なる立法者」の「要請」としてまとめている。
カントが完全な道徳の成立する根拠を要請しているのに対して、ヘーゲルはむしろ完全な道徳が成立している理想的状態を「要請」の対象としている。
そして、それらを「ごまかし」として批判するのである(現行の翻訳ではVerstellungというドイツ語を「ずらかし」という日本語?で訳しているものが多い)。

 しかし、この「ごまかしだ」という批判がわからない。
私の先輩がカントの道徳的宗教論で卒論を書いたとき、さる高名な倫理学の先生から「君はカント道徳哲学に対するヘーゲルの批判を読んだかね」とこの箇所を指摘されたそうな。
であるからして「わからない」で済ましているわけにはいかないので、こうやって何とかわかろうとしているのでありました。
どうなることやら。

 ちなみに、このわからなさの象徴として、この「ごまかし」あるいは「ずらかし」つまりVerstellungの章の最後の文のいくつかの翻訳を比べてみると全く反対の訳がつけられていたりする。

 まず岩波版ヘーゲル全集の金子武蔵氏の訳。
「かくしてこの自己意識は実際の行動においては佯り(いつわりHeuchelei)をおかしているものであろうが、しかしそれでいて、あの「ずらかし」をあのように軽蔑することがすでに佯りの最初の外化であり放棄であるのであろう。」

次いで、私がけっこう参考にしている牧野紀之訳(出版社は未知谷、一冊本になっていて、それでいて最小限の注が付いていて便利)。
「しかし、〔ここまでと違う点は〕その意識はこれがずらかしであることを知っているということであろう。従って〔知っていてするのだから〕、じっさいにそれはごまかしであり、ずらかしをはねつけるというのも既にしてこのごまかしの最初の現れなのである。」(牧野氏はHeucheleiを「ごまかし」と訳している。)

 つまり、金子訳では、たとえ自分が「ずらかし」を犯していても、それの自覚があるから意識は「ずらかし」を軽蔑することで、佯りを外に出して放棄する、つまり既にして佯っているような悪い奴ではない、ということである。
対して、牧野訳では、意識は自分のずらかしを自覚しているけれども、そうしていながら他人の「ずらかし的態度」をはねつける(軽蔑する)という態度は、それこそ欺瞞的な態度で、こいつは悪い奴だ、ということになる。

 ひとつの章の結論部分が、このように正反対の解釈を呼び寄せるようなわかりにくい章だということであります。
Ausserungというドイツ語を、金子氏は外に出して放棄することと解釈し、牧野氏は表現することと解釈するところからくる、正反対の解釈であります。
でありますから、私がここでどんなたわごとを述べるのも許されるということですが、わたしとしては牧野氏の訳の線で考えていくつもりです。
つまり「おまえなんか嘘つきじゃ」と他人を嘘つきと罵倒する奴が、すでに「嘘つき」である、つまり「アホいうもんがアホじゃ」の「嘘つきヴァージョン」であります。

 あ〜、やっぱめんどくさそう。
止めるなら今です。
この後を読んで、「訳が分からん」と怒り出す方がおられても、私は責任を持ちません。

 それで、ヘーゲルの要請論批判ですが、これがはっきり言って批判というより「いちゃもん」としか思えない。
「いちゃもん」・・・ドイツ語でなんと訳すのでしょうか?

 で、どんな「いちゃもん」かと言うと・・・

 道徳的意識は、この世の中が道徳的でないことを嘆き、「道徳性と自然(ここでは「この世」ぐらいの意味だと思う)の調和」を要請する。
この「調和はアン・ジッヒに(「本来は」ぐらいの意味)存在すべきである」(454ページ、ズールカンプ版)。
ということは、この調和は現実には存在しないということである。
しかし、現実的な道徳的意識の真骨頂は「行動する」ことにあるのだから、この調和を現実のものにするために行動する。
となると、「しかし、この行動において、あの(要請という)位置がすぐさまずらされて(ごまかされてverstellt)いることになる」(同)
「つまり、成立していないと確認されて(aufstellen)、だから要請でしかなく、彼岸にしか存在しないはずのものを、行動はじっさいにすぐさま実現するのである。つまり、この意識はこの行為によって「要請することには真剣ではない」ということを明らかに語っているのである。なぜならば、この行動の意味は現実には存在するはずのないものを現実のものとする、というところにあるのだから。」(同)

 つまり、「aufstellenされた理想状態を、意識が行動によって実現する」というのは、aufstellenすることつまり要請することをverstellenしている(ずらしている、ごまかしている)、というのである。

道徳的な理想郷を目指して行動することが、なぜこんな言われ方をせねばならないか?
道徳的に行動しようとする者への「いちゃもん」としか言いようがないのではないか。

 しかし、「いちゃもん」の論理は、そんな行動によって実現するような調和なら、大げさにこの世の彼方に「要請」するなよ、ということなのであろう。
この世で実現しないからこその要請であり、実現しないとわかっていて行動することを「道徳的行動」と自称するのは論理的に成り立たない、ということなのである。

従って、この行動は、aufstellenされた要請の真剣さ誠実さを裏切っている、とも言える。
逆に言えば、その真剣さ、誠実さは、行動におけるVerstellungを隠蔽しているとも言える。

 わかりにくいと思いますが、この「いちゃもん」ヘーゲル君の「道徳的意識」への基本的なスタンスは、この世を生きる生身の人間のモラルの問題を無限の彼方のアン・ジッヒの理想状態で語ろうとするその姿勢への嫌悪にある。
つまり「ここがロドスだ、ここで跳べ」とAKB48と同じことを言っているわけです(もっとも秋元康氏の元ネタはヘーゲル『法の哲学』序文らしいですが)。

それともう一つ、「徳と福の一致」を道徳の理想とする人間の思い上がりへの反省も問題にする。
つまり、なんであんな奴に幸福が訪れるのだ、という問題である。
正直ものがバカを見るなんておかしいじゃないか!という問題である。

 先のようないちゃもんに対して、道徳的意識は自分は道徳的に完全ではないがしかしその完全性を目指す途上にあるということで道徳的なのだ、と応えるという場面を設定しヘーゲルは次のように、いちゃもんをつける。

「・・・この世では、しばしば道徳的な人が不運に見舞われ道徳的でない人に幸運が訪れるということが経験される。しかし、道徳的に完成されていない中間状態、それは本質的で重要なことだということになったのだが、そのような中間状態が明らかにしているのは、そのような(正直者がバカを見るなんておかしいじゃないかという)受け取り方や(徳と福の一致という)あらまほしき経験を望むことは、事柄をごまかしているに過ぎないということだ。なぜなら、道徳性は完成していない、言い換えれば道徳性は実際には存在していない場合に、道徳的な人がうまくいかないからといって、それがどうしたというのだ?――同時にここにはっきりしてきたのは幸福そのものが問題なのだということだ。そうして示されるのは、不道徳な人に幸運が訪れるという見立てには、言われるような不正なところはなんら含まれていないということだ。ある個人を不道徳と指摘することは、道徳性が完成していない以上、本来、成立しないし、自分勝手な根拠でそう言い立てるだけだ。だから、この経験の不当だという判断の内実は、ある人々には幸運それ自体が訪れないということに過ぎない。つまり、これを不当と判断するのは、妬みなのである。ただ、その妬みは道徳性を口実としているということなのである。しかし、ほかの人々がいわゆる幸福にあずかる、そのような経験を受け入れるのが何かといえば、他人にも自分にもその幸運つまり僥倖を望み認める人の好い友情なのである。」(459−460)

 いちゃもんヘーゲルは、カントの道徳哲学のキモを「徳と福の一致」つまり「正直者が報われる」ということを現実の彼方の理念として立てたことだと見ている。
『歎異抄』風に言えば、「悪人正機」ならぬ「善人正機」である。
「正直者が馬鹿を見る」と嘆くのは、「妬み」にしかすぎないと言ってのけるのである。
カント流の道徳哲学を「妬み」という言葉で批判するヘーゲル。
なんかヘーゲルって、とんでもない悪人のような気がします。
ここ読んで、ぞーっとしました。

「正直者が報われるべき」ということを理念として立てるaufstellenことは、完全な善人ではないという明らかな現実をverstellenすることに他ならない、というのが「いちゃもん」の基本的スタイルなのである。

 しかし、こうやって思いっきりシンプルにすると、もちろん、そうやっていちゃもんつけてるお前はどうなんだ、という問題が出てくるのは理の当然である。

 ヘーゲルもただカント流の道徳にいちゃもんをつけているだけならば、つまらないいちゃもん野郎に過ぎない。
もちろん、この後、ヘーゲルはこのいちゃもん野郎を超えて、「良心、美しき魂、悪とその赦し」という章に進んでゆく。
その時、このいちゃもん野郎を置き去りにして進んでゆく論理が「お前は偽善者だと罵倒するそのことが既に偽善である」という「アホ言うお前がアホじゃ」のヘーゲル・ヴァージョンなのである。

 それで、先に示した金子氏と牧野氏の訳を含むVerstellungの章の最後の部分を訳してみる。
断っておきますが、逐語訳的に訳したのではさっぱりわからないので、相当に言葉を補って、私のポンコツ頭でも意味が通るように訳しています。
もちろん、上にちょこちょこと訳した部分も同じこと。

「意識は、区別にならないものを区別する。つまり、現実を道徳的にむなしいと言ってみたり同時に道徳のリアルな現場と言ってみたり、また純粋な道徳性を真の実在だと言ってみたり実在を欠いていると言ったりする。その意識が、このようにバラバラにしていたこのような考えをまとめて言葉にすると、次のことを表明していることになる。つまり、現実の自己と理想のアンジッヒという二つの要素を上のように規定してバラバラに立てることに真剣ではないということ、そして、意識の外に存在する絶対的なもの(つまり神)と言っていたものを、実は自己意識の自己のうちに閉じ込めて保持しており、また絶対的な思想つまり絶対的なアンジッヒ(つまり道徳的理想)と言っていたものを、まさにそれゆえに真実でないものと見なす、ということを示しているのである。――意識は、この自己とアンジッヒという要素をバラバラに立てる(auseinanderstellen)することは、ごまかし(verstellen)である、ということに気が付くのである・・・」(463)

 この意識、道徳的な意識は決して悪い奴ではない。
道徳的な理想状態を立て、それを保証する神を彼方に仰ぎ見て、不完全ながらも誠実にこの世を生きようとしているいい奴である。
しかし、それは見方をかえれば、ありもしない理想状態を言い募り、不完全でしかない現実の自己の道徳性をごまかす不誠実な意識なのである。
ゆえにヘーゲルは上の「・・・」に続けて、接続法第2式で次のように言う。

「したがって、それでもこのごまかしにしがみつくというのなら、それは欺瞞(Heichelei)であろう」

 もちろん道徳的意識は、そんなごまかしにしがみつかない。

「(しがみつきそうだが)しかし、意識は道徳的で純粋な自己意識として、彼の道徳性に関する表象と彼の本質が等しくないという事態、彼にとって真実でないことを真実と見なすような事態を唾棄し、そこから自分のうちへと逃れるのである。そこに道徳的な世界の見方を嫌悪する良心が登場する。それは身の程をわきまえた率直なガイストである。このガイストは、あのような表象の媒介なしでそのまま良心的に行動する。この無媒介(という率直さ)のうちに彼の真理がある。」(463−464)

 ここで「身の程をわきまえた率直なガイスト」と訳したのは「der einfache seiner gewisse Geist」である。
金子氏はこれを「自分自身のうちにおいて自分を全的に知り確信している単一な精神」と訳しておられるが、これをしっくりくる日本語にすると上のような言葉になるのではないか。
ただ、今まで「意識」と言われていた人間がなぜここでいきなりガイスト(精神)となるのかはわからない。
その問題はおいておく。
ここで人間は道徳的理想を語るのではなく、またそのような人間にいちゃもんをつけることに終始することなく、自分の良心に従って行動する人間となるのである。

 しかし、率直に自分の良心に従って行動するのはなんだかすがすがしい感じがするが、それは単なる独りよがりではないのか?
おそらくこのような疑問に対して、ヘーゲルは述べる。

「このごまかしの世界が道徳的意識をその要素に分解して展開したものにほかならず、それは道徳的意識のリアルな姿に他ならないのだから、彼が自分のうちに戻ったとしても、彼の本質が何か別のものになったわけではない。むしろ、彼が自己のうちに戻ったというのは、
彼の真理が差し出された真理であるということに気が付くということでしかないのである」(464)

 道徳的意識は、もはや理念を立てたり、そのあり方にいちゃもんをつけたりしない。
自分の良心に従って行動する率直な人間である。
だからと言って、別の立派な人間になったわけではない。
むしろ、彼のよって立つ良心という真理が、どこからか差し出されたものであることを認めそれを基盤に行動するのである。

「差し出された」vorgebenされたということ言うことに引っかかるが、とにかく彼はそのような真理を基盤として行動する。
単なる独りよがりではない。
これでいちゃもん人間がなんだかいい奴に変わってめでたしめでたしということで、この章を終わってもよさそうなものだが、ヘーゲルはここで一言(というかごちゃごちゃと)付け加える。
それが、金子氏と牧野氏では正反対の解釈になってしまった箇所である。
ここはまた接続法第2式で語られる。

 もし、意識がこのことに気づかなかったらどうなるか?
「意識は、相変わらず、その差し出された真理をオレの真理だと言い募ることにならざるを得ない。というのは、意識は自分(の真理)を対象的な表象として言明し表現せざるを得ないからである。ただし、こういうことがごまかしに過ぎないことは知っており、それゆえ実際にはそれは欺瞞である。したがってかのごまかしへの嫌悪は既にして欺瞞の最初の表明なのである。」(同)

 道徳的世界観にいちゃもんをつけ、それを嫌悪し、これこそがオレのよって立つ真理と振りかざした途端、それは彼自身がいちゃもんをつけていた道徳的世界観と同じあり方に陥る。
理念と現実の間にaufstellenとverstellenが交差するのである。
このとき、「ケッ、お前はダメじゃん」と嫌悪を表明することは、自分の真理の正しさを彼岸的理念として掲げることになり、「かのごまかしへの嫌悪は既にして欺瞞の最初の表明なのである」ということになるのでした。

 「アホ!」と他人を罵倒し、自らの賢さを誇るものは、その誇りは驕りとなり「アホいうもんがアホじゃ」となるのでした。
もちろん、この後、子どものころのケンカのように、この「アホ言うもんがアホじゃ」というもんがアホじゃ」というもんがアホじゃ」・・・というアホの無間地獄が展開されるのですが。

 であるからして、この後に登場する良心は、男は黙ってサッポロビールのように、信念の人ということが予想されます。
この信念の人は、ロドス島でなら高く跳べるのに・・・なんてことは言わず、ここをロドスと見立て跳ぶのでありました。

しかし、「良心、美しき魂、悪とその赦し」という次の章の表題は、この信念の人にも悪に陥る局面があることを示唆しています。
しかし、そのような悪こそが許される、つまりヘーゲル的「悪人正機」論が展開されるのでした。

 もう少しスッキリ書けるかと思いましたが、もひとつでしたね。
ロドス島でなら、すっきりと書けるのですが・・・

 もしここまでお付き合いくださった方がおられたら、心からお礼申し上げます。
(つっこみどかろがあったら、そっとメールで教えてください。)

posted by CKP at 13:04| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

ピエロのトランペット――突然、聞こえてきた昔

 いきなりですが、遠い遠い昔、NHKの「みんなの歌」で聴いた「ピエロのトランペット」という曲が、耳の底から聞こえてきました。
ひょっとしたら、懐かしいと思う方がおられるかもしれませんので、ここにアップしておきます。



 こんな悲しげな曲を、あの頃の子どもたちは喜んで聴いていたのですね。
そして、こんな曲が好きでこうして動画をアップされる方がおられるのですね。
ちなみに原曲はこれ。



突然の「ピエロのトランペット」で失礼しました。
posted by CKP at 10:56| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

ガッカリ主任の唄ーーただし未完成

 この前の記事で「学科主任」と打とうとして「ガッカリ主任」と出てしまった。
ガッカリ主任。
なんだか、このガッカリした感じが気に入っている。
すると、とやたらと「ちゃっきり節」の合いの手、あの「ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ きゃあろが鳴くんで 雨どらよ〜」にこのガッカリが重なってくる。
というわけで、

ガッカリ ガッカリ ガッカリよ
ヘーゲル読んだら ベンショーホー

とか
ガッカリ ガッカリ ガッカリよ
ザインとツァイトは ハイデガ〜ア〜

というのが今うるさく頭の中で鳴っています。

 はるばるこのブログにたどり着いた哲学を志す若者は、ホント、ガッカリするでしょうね。

 でも、安心してください。
このガッカリ主任もあと一か月。
来年からは、ちゃんとした学科主任ですよ。

 ところであの「ちゃっきり節」、なんと北原白秋の作詞なんですね。
すみませんでした。
posted by CKP at 13:32| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする