2015年12月31日

どうぞよいお年を!――今年のもろもろベスト3

 もたもたしているうちに大晦日。
今年もお世話になりました。

というわけで、今年のベスト3、まずは新譜編。
1.エリック・カズ『41年目の再会』(プー横丁)
以前にも書いたとおり、今年、一番聞きこんだCD。
シンプルで力強い歌がたいへん気持ちいいアルバムでした。
CDとしては、7曲8トラックという「短さ」がよい。
LPの両面をCDで一気に聞かすというのは、散漫な感じがします。

2.ニール・ヤング『STORYTONE』
此れは実は2014年の暮れに出たアルバム。
10曲をまずはニールのピアノやギターの弾き語り、そしてその10曲をバンドやオーケストラの伴奏でもう一回繰り返すというアルバム。
ちょっと買うのを躊躇しておりましたが、タワーレコードでLPになっているのを見て思わず買ってしまいした。
ムリョ2枚組み8,000円!
 しかし、それだけのことはある。
弾き語り盤も、オーケストラ盤も、深い静けさに満ちた音が広がってびっくり。
2年前の『サイケデリック・ピル』の激しいギターもよかったけれど、この静けさは格別。
ニール・ヤングはついに悟ったのかな・・・と思っていろいろ調べると、な、なんと30年ほど連れ添った奥さんと離婚したそうな。
障害を持ったお子さんを二人で育て、障害児のための学校を運営していた二人が別れたとは!
きっとそのお子さんもそれなりに自立したのでしょう。
しかし、離婚すると、あんな静けさに満ちた音楽が出てくるのか・・・ちょっと複雑な感動になってしまいました。

2.J.D.サウザー『TNDERNESS』
むかしむかしのサウザー、「SIMPLE MAN, SIMPLE DREAM」の頃のサウザーが蘇った感じ。
始めはCDで聴いていましたが、あまりによいのでLPを購入してしまいました。
ちなみに内田樹先生のブログの最初のタイトルが「SIMPLE MAN, SIMPLE DREAM」でした。
 
というわけでアメリカのもう70歳ちかいオッサンたちの新作が大収穫の2015年でした。
ローリング・ストーンズも昔の音源をとんでもない値段で売りつけるあこぎな商売ばっかりしないで、まじめに音楽やらんかい・・・と思っていたら、キース・リチャーズ様が、な、なんと2枚組みのLPを発表。
腰の入った渋いアルバムです。
皆さん、いい爺さんになりつつあります。

ベスト3旧譜編。
「旧譜」といっても再発CDではなく、中古レコードのこと。

1.クララ・ハスキル『スカルラッティ・ソナタ集』
以前から欲しかったレコード。
京都は四条の「ラ・ヴォーチェ京都」でエイヤッと購入。
60年以上前のレコード。
陰影に富んだピアノの音がたまりません。

2.エルナ・ベルガー『モーツァルト宗教音楽集』
これも「ラ・ヴォーチェ」で購入。
ここのオヤッさんに、ヴェルディのオペラについていろいろ教えてもらって、『リゴレット』のジルダを歌うエルナ・ベルガーというドイツのチャーミングなソプラノ歌手を知りました。
ジルダもよかったけれど、やはりモーツァルト。
「ハ〜レルヤ〜、ハレルヤ〜ヤ」って、あれも入っています。
これも60年以上前のレコード、なのに音がよい。

3.ビリー・ホリディ『ソリチュード』
これは、河原町蛸薬師の「ホット・ステップ」で購入した10インチLP。
ふつう1万円以上するのが以下で買えた。
(ちょっと骨董オヤジの世界に足を踏み入れつつある・・・マズイ)
50年代のホリディというのはあまり得意ではないので、CDを聴いてたころはほとんど聴かなかったのですが、オリジナルのLPで聴いて、あ、こーゆー歌手だったんだ、とはじめてビリー・ホリディの素晴らしさがわかったような気がしてます。
しかし、これも60年以上前のレコード。
レコード製作者たちの「心意気」が、今とは違っていたように思います。

で、本来ならここで今年のベスト3ブック編なのですが、今年は『じみへん』の最終巻とわっしぃ&ウチダ以外はあんまり読まなかったので、割愛(今日の「折々」なかなか泣かせましたね)。
代わりに(?)映像編。
1位はもちろん『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』
結局、3回も観にいってしまいした。
ビデオも出ましたが、映画館でのあの映画的な興奮が消えるのが嫌なので、観ていません。

2位は、『刑事フォイル』。
日曜の夜9時からNHKのBSで放映中。
第二次世界大戦中のイギリスの片田舎での刑事ドラマ。
謎解きはもちろん、対戦中のイギリスの惨状がリアル。
ある意味ではイギリスの対ドイツ・ナチス戦というのは開始当初からそうとう悲惨だったのを、あらためて知りました。
また、イギリス内の反ユダヤ団体や活動や、対ナチスのスパイの養成などが描かれていて、とてもリアルな戦争が描かれています。
『下町ロケット』より断然こっち!

3位は、缶コーヒー「ジョージア」のコマーシャル・フィルムで、眉毛の太い兄ちゃんが「俺たちの働きが日本を作ってきた」と缶コーヒーの見ながらアピールするやつ。
あの兄ちゃんの「働く」演技がよい。

 というような一年でした。
 皆様、よい2016年を!
posted by CKP at 12:50| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月29日

A LONG TIME AGO・・・――「おいおいの言葉」(「オレオレ」じゃねぇぞ!)

A LONG TIME AGO IN A GALAXY FAR, FAR AWAY・・・
って、今度の『スターウォーズ』も始まるのでしょうか?
年末年始のお仕事が終わったら、一刻も早く観に行きたい!

 と思っていたら、そういえば、親鸞の浄土和讃の一首目は
「弥陀成仏のこのかたは 今に十劫をへたまえり・・・」
で始まることに気が付いた。
「遠い遠い、今となっては気も遠くなるような過去に法蔵菩薩が阿弥陀仏になられた」

 お釈迦さまは『無量寿経』では、この物語をアーナンダに向かって次のように語り始める。
「アーナンダよ、昔、過去の時、今を去ること無数劫の、さらに無数・広大・無量・不可思議の時、その時分に・・・・」(岩波文庫版『浄土三部経・上』14頁)

「劫」とは一説に「400里四方の石を、100年に一度、衣で撫でて、その石がすり減る時間』などと説明されるが、要するに、永遠の過去。
それは、時間を超えた「ある時」。

 そうか、『スターウォーズ』も『アミダジョーブツ』もそういう世界なのか・・・
アミダの物語も、文字が画面の下から上へ流れてゆくとカッコイイ・・・
しかし、今は、目の前に迫った正月の準備をせねばなるまいて・・・
posted by CKP at 17:16| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月13日

あした待たるる その宝船――わからない心

 時は元禄15年12月13日、ところは両国橋、煤竹売りに変装した四十七士のひとり大高源吾は、俳諧師其角に「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と付け合いを投げかけられる。
そして、源吾がつけた句。
「あした待たるる その宝船」

 というわけで、討ち入りの明日に控えた本日、池上タヌキノ介哲司先生の「心のわからなさ」というごご講演がありました(はずです)。
そこで話題になったかどうかはわかりませんが、「わからない心」と言えば、これはもう、大石内蔵助の「心」にとどめをさします。
いったい大石内蔵助はご主君の仇を討つ気があるのか――祇園は一力茶屋で遊ぶ大石を見て人々は大石の心をいぶかったことでしょう。
しかし、その大石自身に自分の心がわかっていたのか?
復讐の心をうちに秘めて祇園で遊んでいたのか?
ここはまことに微妙なところでありましょう。
大石本人とて、自分の心のありようはそれほど明確になっていたとは思いません。
ゆえに、長谷川一夫演ずる大石内蔵助のように、ず〜っと黙っている。
ず〜っと黙っていて、ついに発せられる「おのおの方」であったから、強烈なセリフとなった・・・

 いったい何のはなしなんだ・・・
 多くの方には、これが赤穂浪士討ち入りの話であることがお分かりにならないことと思います。
これが、1960年代ならば、盛んに忠臣蔵、赤穂浪士というような言葉が今頃飛び交っておりました。
主君の仇を討つ浪士の話に、なぜあの頃の人々は熱中したのでしょう。
今はなぜ、忘れ去られているのでしょう?
なぜスターウォーズの話題ばっかりなんでしょう(これはこれでちょっと興奮しますけど)。
posted by CKP at 20:13| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月09日

なぜ哲学のテキストを読むのか――「度胸をつけるため」@わっしー

 『同朋』(東本願寺出版)12月号の「臨床」をめぐる鷲田清一先生と木越康先生の対談を読んでいた。
大谷大学の真宗学に現代臨床コースを開設するにあたって、「臨床」の意義を確認しようとする対談である。
読み応えあり!
そして、その終盤。
悩みの現場に出かける「臨床」に真宗学や哲学のテキストを読むことはどんな意味があるのか、という木越先生の問いかけに対する鷲田先生の答え。

「それは”度胸をつける”ためです」

 これは、ご自分で朝日新聞「折々のことば」に認定すべきことばです!
「わっしー」という人のことばとして、ご紹介されたらどうでしょう?

「それは、臨床の場において、悩んでいる人のどんな問いを突き付けられても怯まない。あるいは逃げ出さない。そのために度胸をつけることです。」

 しかし、このことはよく考えてみると、テキストを読むということが、悩みの現場と同じくらい、いやそれ以上の厳しい作業でなければならない、ということである。
そして「古典」と言われるテキストは、そのような読み方を要求してきているから「コテンパン」なのである(ちょっととほほでしたね)。

生半可なテキストの読み方で、知ったかぶりをして現場に出ても、臨床の現場は受け入れてくれないということである。

posted by CKP at 15:24| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月07日

どこまで続く・・・師走お見舞い申し上げます

 今年は、「喪中につき年賀欠礼」の葉書きがいつもの年よりぐっとおおいなぁ・・・と思っていたら、先週には、私の姉の姑さんが99歳で亡くなる、ということになってしまった。
夫を沖縄戦でなくして、女手一つで子どもを育て、寺を守ってきた人だった。

 ちょうど寒波のあいだのお通夜・お葬式となってずいぶんくたびれて、本日、遅れ気味のサンダーバードでやれやれという感じで大学に出てきたら、今度は東京の叔母さんが亡くなったとの連絡。
夫に先立たれ、わりあい元気に一人暮らしを楽しんでいたはずだったが、一人で亡くなっていた、と近くに住む娘さんから連絡が入った。
どおりでお歳暮のお礼の電話がつながらなかったはずだ。
いちおう警察の検死などがあるようで、葬儀は今週末になりそう。

 私の90歳の母は、これで今年のうちに妹二人を亡くしたことになる。
入院中の母にどうやって知らせるべきか思案中。
こうゆのって続く時には続くんですね。

 まだ「年賀欠礼」葉書きを書かねばならない事態にはなってはいませんが、どうぞ、皆様もお大事に。
posted by CKP at 14:16| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月01日

「それは違う!」――オイオイの言葉

 昨日、NHKラジオの「すっぴん」で宮沢章夫氏がどんな文脈か忘れたが次のようなことを話していた。

「ある大学教授が『先生、この本、全部、読んだんですか?』と問われて、『それは違う』と答えたそうです。」

 いますね、私の研究室でも「え!?、これ全部読んだんですか」と訊いてくる学生。
んとに、ちょっと考えても、わかりそうなもんだと思うが、「こんなの読めるはずがない」と思うから、尋ねててくるのである。

 で、くだんの大学教授は「それは違う」の後「キミ、キミは国語辞典を全部読んだかね」と応酬したそうな。
おそらく長年そのように学生から尋ねられ、読んでないのをどこか後ろめたく思い、そしてついに見つけた「蔵書=国語辞典」説なのであろう。
ゆえに、いきなり「それは違う」なのであろう。

 この老(おそらく)教授の気持ちは手に取るようにわかる。
私もそのように答えたい、とも思う。
が、しかし、やはり、ちょっと違うような気がする。

 やはり、好きなのである。
本を集め、その本たちに囲まれているのが、好きなのである。
ずらりと並んだ本の背表紙から、ほれほれ、私を読みなさい、と責め立てられるのが、好きというブック・マゾヒストなのである。
これが、女子高生の制服集めでなくて、ホント、よかったなぁ・・・としもじみ思うのは私だけだろうか?
posted by CKP at 16:45| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする