2015年07月31日

日本一の無責任男――アベ君を見ていて思い出した歌

 最近のアベ君を見ていて、この人がどうしたいのか、やっと分かってきました。
今ごろ!?・・・と驚く人もいるかもしれないが、私はアベ君はアベ君なりに日本の安寧を考えているのではないか、と思っていました。
その方向は間違った危険な方向だと思うが、しかし、彼はそれが正しいと思い込んでいて、困ったものだな…と思っていたのであります。
が、最近の彼の言動を見ていると、どうもそうではないらしい、と今頃になって気が付いたのであります。

 彼のやっていることは、安保にしろTPPにしろ、結局、それはアメリカのご機嫌取りです。
しかし、アメリカ軍と一緒にアジアで戦争したら、ヴェトナム、イラクの二の舞になる。
もし中国大陸に戦線が伸びたら、イラクよりももっとえげつないことになる。
TPPが実現したら、日本の農業ばかりでなく医療だってめちゃくちゃになる。
とても「日本人の生命と財産を守る」なんてことにはならない。
憲法改正もせず、アメリカのご機嫌取りをしていては、彼のお爺さんもさぞご立腹のはず。

 それなのになぜ、彼は日本をアメリカの完全植民地にしようとしているのか?
それで何を彼は得るのか?
・・・・・・・これが長いことわからなかったのですが、結局、彼が野党時代に学んだこと、つまり「アメリカの言うなりになっていれば長期政権でいられる、逆らったら鳩山政権のようにアッという間につぶされる」……どうもそういうことではないか。
自分の長期政権のためなら日本をアメリカに売るのもヘーッチャラ、そう考えねばアベ君の言動は理解できない。
究極の無責任男なのでした。

 だから、政権の座が危うい、という状態が一番効きます。

 というわけで、青島幸男の作詞した1962年の「日本一の無責任男」を思い出したのでした。

 お〜れ〜はこの世でいちばん無責任と呼ばれた男
 あめり〜かに向けては調子よく
 おかげ〜で首相やってる

 しかし、1962年、この無責任男の歌を、戦争責任を頬かむりしたままの偉い人たちはどんな気持ちで聞いていたのでしょうね。
そうとう嫌味な歌として聞いていたのではないか、と思います。
小学生の私は、ただただ楽しいコミック・ソングとして唄ってましたけど・・・・

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2015年07月27日

今週もマッドなカッドにご用心――寡黙力養成中

 映画を観るとき60歳以上になると「シニア」料金というのがあって、1,100円で映画が観られるのです。
それに味をしめ、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』をまたまた観に行ってきました。
というのは、2時間近い映画で、主人公のマックスがどれだけしゃべっているかが気になったからです。

 最初こそモノローグで少し長めのセリフがありますが、そのあとは、短いセリフが十数か所あるだけ。
ほとんどマックスはしゃべらないのでした。
ですから、この映画の正しい観方は、寡黙の中に狂気を秘めたクルマ好きになることです。

 というわけで、今週のワタクシは、狂気を内に秘めた寡黙な男になるのでした。
気安く話しかけると、ターボをブンブン効かせて暴走するから気を付けてください。
posted by CKP at 21:48| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月24日

マッドなカッドにご用心――『マッドマックス』後遺症

 日曜日の夜に映画館で『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を鑑賞したワタクシの一週間は、ちょっとマッドな一週間でした。

 『昭和残侠伝』を観ると、高倉健になって「死んでもらうぜ」とうそぶく。
『仁義なき戦い』を観ると、菅原文太になって「山守さん…弾はまだ残ってるがよ・・・」と毒づく。
『燃えよドラゴン』を観ると、ブルース・リーになって「アチョー」と叫ぶ。
これが正しい映画の観方であります。
『マッドマックス』の場合は、怒りを胸に秘め、ほとんどしゃべらず、相手をあっという間に叩きのめす、という行動に出ねばなりません。
が、そのような腕力も沈黙力もないわたくしは、「ブァカにはわからん」とか「アタマ悪い奴はどうしようもない」という発言をやたらと繰り返すという凶暴な人格に変貌していたのでした。
スミマセンデシタ。
もう少し沈黙力を鍛えます。

 ところで、(藤)先生から、「淀川長治の真似をしてブログを書いても、その元ネタがわからなくなってきているのではないか」とのご指摘を受けました。
なるほど、そうかもしれない。
わたしらが、市川歌右衛門や大河内伝次郎の物真似されても、「?・・・」だったように、淀川長治の物真似も今の若い方には「????」なのかもしれません。

 一度、考えてみますです。
貴重なご指摘、ありがとうございました。
止めるつもりはないけどね。
posted by CKP at 15:13| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月21日

マッドがマックス――哲学科教員ブログ・ロードショウ『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』

 ハイ、お久しぶりです、またお会いしましたね。
今日は、ジョージ・・ミラー監督の最新作、30年ぶりの「マッド・マックス」シリーズ『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』を観てゆきましょうね。

 まあ、このシリーズ、マッドがとってもとってもマックスな映画。
いかれたあんちゃんたちが、荒廃した未来の砂漠で改造車をとばして喧嘩する映画です。
はい、それは喧嘩ですけど、「気分はもう戦争」ですね。
大事な資源の取り合いです。
それを演じたメル・ギブソンのいかれ具合、とってもとってもかわいかった。
しかし、今回は、メル・ギブソンではなくトム・ハーディというちょっと静かな感じの俳優さん。
クールなのにいかれている。
それがよけいに怖い。

 
そして一緒に追手から逃げる巨大なトラックを運転する女隊長がシャーリーズ・セロン。
この女性、坊主頭でとってもとっても男前。
マックスよりもこっちが主役になった映画やったね。

 さあ、この映画、全編、改造車をあやつってのマッドな人間どもの喧嘩、喧嘩、喧嘩。
手に汗握る、息もつかせぬアクション、とはこの映画のこと。
映画は、何よりも絵が動くから、「ムーヴィ」ということを思い出させてくれる映画でした。

 逃げるトラック、
それを追う改造車の軍団。
細い谷合の道を抜けるトラック。
それを上から眺める別の軍団。
はい、ここは21世紀の『駅馬車』。
そう、ジョン・フォード監督の『駅馬車』の21世紀ヴァージョンですね(ワイラー監督の『ベン・ハー』も入ってます)。
しかし、そこは21世紀。
息もつかせぬアクションはそのままに、ずいぶん、様子が変わっています。
「正義」の内容が変わってるんですね。
それは観てのお楽しみ。

 はい、まずは映画館の大画面、大音響で『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』を観ましょう。
ホント、楽しい楽しい痛快な映画ですよ。
はい、時間が来ました。
またお会いしましょうね。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

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2015年07月15日

はい、それまでよ〜――いつか読むはずの本たちとのブック・オフでの別れ

「ハイ、それまでよ〜」とアベ政権に言いたいのですが・・・・
 
 「いつか読む」が永遠に来ないのがもう明らかになってきた本をブック・オフに少しずつ持ち込むが、それで部屋にスペースができたかというと、以前とあまり変わらない。
むしろ、そこで見つけた本を買ったり、京都のブック・オフの場合、階上がタワー・レコードなので、なんだか、事態がますます悪くなっている。

 しかし、それでも、心を鬼にして、「いつか読もう」と思っていた本たちに「ごめんね、今度こそ、もっといい人に読んでもらえよ」と別れを告げる日々なのであった。
しかし、その本たちは怒っているだろうな・・・と思って、クレイジー・キャッツの「ハイ、それまでよ」の替え歌をつくって、詫びるのであります。

 君のことは いつか読むよ~
 それまで それまで 待っててね〜

 ってなこと言われて その気になって
部屋の隅っこ 20年
いつかいつかと待ってたら〜
いきなり来たのが ブック・オフ
値段が付かずに
はい、それま〜で〜よ〜

ふざけやって ふざけやがって ふざけやがって この野郎
泣けてく〜る〜

(って「ハイ、それまでよ」という元歌を知ってる人が、どれだけいるか?)
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2015年07月14日

「學而時習之」がなぜ愉悦をもたらすのか――「而」というさなぎの時間

 暑いっす!

 さて、こないだとにかく人生の下り坂を開始するべく部屋のスペースを確保するため、まずは下宿の本をブック・オフに持ち込んだ。
査定してもらっている間、本棚を見ていたら『身体感覚で『論語』を読み直す』という安田登氏の本を見つけた。
大学で中国哲学を学んだ能楽師で、内田樹先生ともお能の対談本を出している人。

 わたしは、成り立ちを身体的にとらえた漢字で論語を読む、ということがもひとつピンと来ないのだが、この本には何か惹かれるものがあったので、買ってしまった。

 これでは、本を売りに行っているのか、買いに行ってのかわからない。

 冒頭はもちろん「學而時習之、不亦説乎」。
「学んで時に之を習う、また悦ばしからずや」
学んでちょうどよい時に復習する、なんと悦ばしいことか、と訳されるのがふつうだが、しかし、そんなに悦ばしいだろうか・・・と疑問を飲み込みつつ『論語』は始まる。

 だから、これは中国語で読むと本当の楽しさがわかるのではないかと思って、学生時代、中国語を習おうとした。
しかし、ドイツ語で手いっぱいなので、中国人風に読んで「あいやー、学んで時にこれ習うと,悦びたくさんあるアルよ」とやってみたが、もひとつ悦びがやってこなかった。
 
 それで安田氏の説明である。

「學」は手とり足とり教えられ、それをまねること。
「而」、これが面白いのだが、この字は単なる「置き字」にとどまらない、「何かが変容するための呪術的時間」を表す。もともと呪術師の髪とか髭を表す字なのだという。
そして、ある時が来たって、これを習う。
「習」とは羽をパタパタ(白々)とはばたいて飛び立つさまだという。
つまり、あることを教えられ、苦労してこれをああでもないこうでもないと自分のものにしようという長い時間が流れ、ある時、それがすっと自分のものになる、それが悦びをもたらす、というのである。
能楽師という身体で学ぶ安田氏の説明は説得力がある。

 つまり、わたしの経験で言えば、逆上がりや自転車乗りを見よう見まねで学び、擦り傷やたんこぶをいっぱい作って練習し、そしてある時それがすっと出来た!という感じ。

 これから学んでゆく論語は、読んですぐ分かるというものではない。
学んで、学んで、そして、「而」という自分を見失しなってしまいそうな長い時間が流れ、しかし、ある「時」が来て、「そういうことか!」という悦びの瞬間が来る。

「而」というのは、羽ばたく瞬間を待つさなぎ的時間なんですね。
「あなたに抱かれてわたしは蝶になる」と唄ったのは森山加代子でしたか?

 とにかく、最近の政治家に子ども顔が多いのは、このような「而」という時間を経てないからでしょう。
posted by CKP at 14:15| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月05日

今年の大拙忌は50回忌――安富信哉先生ご講演

 もう大拙忌の季節です。
今年は鈴木大拙の50回忌に当たります。

 ということで、京都は北大路烏丸の大谷大学宗教学会が、「大拙50回忌記念公開講演会」を来る7月9日(木曜日)午後4時から、尋源講堂(赤レンガ2階)で開催します。

 4時からはまずは50回忌のお勤め。
そのあと、4時20分ごろから、真宗教学研究所所長・大谷大学名誉教授の安富信哉先生にご講演いただきます(6時ごろまで)。

講演タイトル:「日本的霊性」私考

 鈴木大拙の大きな概念である「日本的霊性」を、英語圏の浄土真宗にも造詣の深い安富先生がどのように「私考」なさったのか?
大拙は猫好きで有名でしたが、安富先生は猫型ロボット「ドラえもん」の大ファン。
さてさて、どのようなお話になりますか・・・・

 どうぞふるってご参集ください。
posted by CKP at 21:15| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月01日

「いいね」はよくないね――ネット的「取り巻き」の怖さ

 もういっこ。

 自民党の「若手」のみなさんの「悪い新聞やオキナワを懲らしめる」的発言がなかなか止まらない。
こういう人が政治家でよろしいのでしょうか?
議論とか論争、論戦とかいう言葉を知らないんでしょうか?

 なんでこういう人が政治家なのか・・・考え込んでしまいます。

 で、思い立ったのが・・・

 これきっとフェイスブックのやりすぎじゃないでしょうか。
ある意見を言って「いいね」をもらう。
そして、気を良くして、もっと「いいね」がもらえるような意見を言う。
ますます「いいね」が多くなり、ご満悦。

 おそらく、まだ「懲らしめる」とか言っている議員のところには「いいね」がいっぱい来ているんだろうと思う。

 周りに「イエスマン」ばかりをおいてはならない、というのが上に立つ者の鉄則である。
フェイスブックでイエスマン同士で「いいね」「いいね」とお互いに持ち上げて、いつの間にやら、世間とはかけ離れた世界に生きるようになってしまった。

 どうもそんな気がする。

 ネットというのは、案外、世界を狭くしているのかもしれません。
というわけで「いいね!」ボタンよろしく!
posted by CKP at 17:55| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トキメクからといってみんなと結婚できるわけではない――ゴミ屋敷的研究室からの脱出

 ちょっとご無沙汰でした。
結局、大阪の叔母さんも亡くなって、大阪と京都と福井を行ったり来たりで、疲れ切っておりました。
昨日などは疲れが腰に来て大変だったのですが、大学の隣の沢井整体院のゴッド・ハンドでほぐしていただいて、本日は快調。

 さてさて、5月の末に開催された大谷大学哲学会の合評会の時、中野加奈子先生の「シェルターとは何か―ホームレス状態に陥った人への支援を中心に」という論文に対して、「ゴミ屋敷なんかも、その人にとってはシェルターとして機能しているのではないか」と質問したら、「君の研究室こそが、シェルターとしてのゴミ屋敷ではないか」という容赦ない指摘が四方八方から発せられた。
やぶへびとはこのことである。
雉も鳴かずば撃たれなかったのである。

 たしかに、「この本はいつか読むつもり」とか「この資料はいつか役立つ」とかいう、研究室に本や資料をため込む論理は、テレビに登場するゴミ屋敷の住人と同じ論理であることに、今更ながら気が付いた。
ホント、ゴミ屋敷を形成してしまう人は、決して悪い人じゃないんですよ。

 ワタクシも悪い人ではないが、しかし、ここまで本やら資料やらCDに埋もれていると、さすがに何がどこにあるかわからなくなってきてる。
分かっていても取り出せない。

 それに、あと20年も生きて本を読むという生活はおそらく無理。
いつか読む、のその「いつか」は永遠に来ないことがだんだんはっきりしてきた。

 というわけで「断捨離」の決行に思い至ったのであるが、しかし、どの本を見てもトキメクのである。
「断捨離」の基本は、ときめかないものは処分する!なのであるが、ワタクシの場合、どれもこれもトキメクのである。

そのときである。
ワッキー(「わっしぃ」ではなく)先生が、
「いくらときめいても、みんなと結婚できるわけじゃないですからねぇ」
とつぶやかれたのであった。

 そう、いくらときめいても、この身は一つ。
それぞれと添い遂げるわけにはいかないのである。
というわけで、「別れても好き」である本たちと、別れることにしたのである。
また「おんなじ雨の夜」に会えるかもね。

というわけで、人生の下り坂は、本と別れから始まるのでした。
さて、どの本から別れようか・・・この順番を決めるのが、また、けっこう大変なのね・・・
posted by CKP at 17:38| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする