2015年04月30日

おいおいの言葉――(大谷大学で学ぶのは)めっちゃ楽しいです。

 この春、京都の某有名大手私立大学から編入してきた学生に「調子はどうですか?」と尋ねたら、即座に、
「めっちゃ楽しいです」
という返事。
大谷大学の授業を通じて学ぶことがとても充実していて楽しいとのこ。
リップサービスもあるかもしれませんが、あの即答の仕方にはいくばくの真実が含まれているはず。
 
 じゃ、前の大学はどうだったのかと尋ねると、
「あの大学は、勉強しないんです。」
むしろ、この返事の方が「おいおいの言葉」でありましょう。

 もう少し詳しく聞くと、どうもその大学は、学生に教育を施すというカリキュラムではないらしい。
「ちゃっちゃっと単位を取って、はい就職って感じなの?」
と訊くと、
「そうなんです。大学として、これだけは学んで卒業してほしい、というのがないんです。」
という感じらしい。
どうも、ただただ要領のいい人間を送り出すだけを大学の使命としているように聞こえました。

 また、彼いわく、
「この大学(つまり我が大谷大学)、語学が厳しいですね。今、英語を必死でやってます」
とのこと。
その前の大学は偏差値も高い大学なのに・・・と不思議に思って尋ねると、
「語学は一つだけ。第二外国語なんてありませんでした」
その学部は文学部ではなかったけど、そんな有名私立大学なのに、外国は一つでいいというのです。
彼は中国語だけをとっていたとのこと。
グローバルとかなんとか言っている大学なんですが。

 そんな有名大手私立大学がそんなことでよろしいのか?
いったい、日本の将来はどうなるんだろう・・・
若者は要領だけよくなるわ、首相はアメリカのご機嫌取りの要領だけはうまいわ・・・で、なんだか暗澹たる気分になります。
が、ゆえに、京都は洛北・北大路の大谷大学のようなオールド・ファッションな大学が、「人間とは何か」「真理とは何か」を今どきも追究している大学が、ますますしっかりせねば、と思うのであります。
posted by CKP at 13:54| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月28日

おいおいの言葉――月曜日の混雑を避けたつもりがかえって混んでる火曜日

 昨日の月曜日、うちの90歳の婆さまを、福井の日赤の眼科へお連れする。
眼底出血で目が急激に見えなくなり、近くの町の眼科では処置が難しいということで、紹介状をいただいて予約を取って出かけた。
予約しているのだからすぐに終わると思ったが、9時半の予約で、検査だの注射だので終わったのが1時半。
今日はその経過を診ていただく。

 火曜日だからすいていると思ったら大違い。
そう思った人たちがたくさんおられて昨日より混んでいる。
午後からの授業に間に合うかと焦ったが、なんとか午前中に終わり、あとを奥さんに任せてサンダーバードに飛び乗る。

 要するに、大病院はいつ行っても、予約を取っていても、紹介状があっても、時間がかかることを覚悟せよ、という教訓でした。
しかし、眼科のスタッフの皆様がてきぱきと処置してくださったのと明解な説明で、時間はかかったが大満足でした。

posted by CKP at 14:29| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月24日

ホトケちがい――死んだはずだよ・・・

 昨日の早朝、7時前にケータイが鳴る。
奥さんから「Nさんとこのおばあちゃんが亡くなった」との連絡。
しかし、木曜日は5コマ目まで授業があるから、「枕経は夜に伺います」と伝えてくれるように頼む。

 で、5コマ目の大学院演習を終えてソッコーで地下鉄に飛び乗り京都駅へ。
京都駅でおにぎりとお茶を買ってサンダーバードに飛び乗る。
三月のおじいちゃんのご法事の時には、おばあちゃん、元気だったのに・・・。
寺に帰り、法衣に着替えてソッコーでNさん宅へ。

 息子さんに、
「この前までお元気だったのに・・・。急に悪くなったんですか?」
とお尋ねすると、
「いや、もうだいぶ悪かったんです」
との返事。
そうだったのかぁ…人間のいのちなんてわからんもんだなぁ、と思いながら、袈裟を付けていたら、
死んだはずのおばあちゃんが出てきて、
「お疲れのところ、すみません。どうぞよろしく」
と畳に額をこすりつけんばかりにあいさつなさる。
????????
なんだ、なんだ?
なんで、死んだはずのおばあちゃんが、ここにいるわけ?
あそこのお仏壇の前の、顔に白布がかけられたご遺体は誰?

 これは現実なのか?
タヌキに化かされているんか?
ドリフかクレイジー・キャッツのコントなのか?
「およびでない」のか?

まさか「お亡くなりになったんじゃないですか」と本人に訊けない。
だって亡くなってないもん。
目の前にいるもん。
幽霊か?
幽霊にしては出てくるのが早すぎる。
?????????
「いやいや、おさびしいことで・・・」
と何とか応じるが、事態が呑み込めない。
このまま枕経をあげてもホトケさん、迷ってしまう。
必死で記憶をたどる・・・
・・・・・
・・・・・
ああ、そういえば、この家にはもひとりおばあちゃんがいた。
いつしか見えなくなったけど・・・・
あとで訊いたら、おじいさんの姉さんが同居されておられたが、認知症になられて施設に入っておられたんですと。
ああ、ビックリした。
とんだホトケちがいでした。

 僧侶のみなさん、枕経に出かけるときは、どなたが亡くなったのかよ〜く確かめておきましょう。
posted by CKP at 12:01| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月22日

おいおいの言葉――They haven’t used it.  Steve Jobs

 They とは、スティーブ・ジョブズの子どもたちのこと。
itとはipodのこと。
つまり「私の子どもたちはipodを使ったことがない」
そして「私たちは、私たちの子どもたちがどれくらいテクノロジーを家庭で使うかを制限しています」と続く。
まさしく「おいおい、それを君が言うか?!」的発言であります。

2010年、ニューヨーク・タイムズの記者のジョブへのインタヴューの中での発言のこの部分が、昨年(2014年)公表されて話題になりました。
おそらく「オフレコにしておいてね」ということだったのでしょう。
昔、ナチスとの関わりについてのインタヴューを、死ぬまでオフレコにしていた哲学者がいましたね。

 スティーブ・ジョブズは企業家としては天才なんだろうけど、一人の人間としてはどうなんでしょうか?
私のような起業する気が全くない人間から見ると「自分の子どもに使わせない器具を売りまくる人間」というのは、いかがなものか、と思ってしまいます。
というか、そうゆう人間でなきゃ世界的な企業家としては成功しないのでしょう。

 人様の役に立つ者、危害を加えないもの、本当に喜んでもらえるものを、コツコツ作って小商い、というのでは企業家とかベンチャー・ビジネスとかは言わないんでしょうね。
 トヨタなんかも「酒を飲んで運転しようとするとエンジンがかからないクルマ」なんかの開発に血道を上げると、小商いになっちゃうんでしょうね。

 去年の言葉ですけど、「おいおいの言葉」にあまりにふさわしいので今頃書いてみました。
もちろん「おいおい、それをブログで言うか」と言われても反論できませんけど。

posted by CKP at 16:28| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月21日

杉村靖彦先生からお知らせです。 エマニュエル・カタン(ブーレーズ・パスカル大学)教授講演会

京都大学の杉村靖彦先生からこんな講演会の案内が来てました。
遅くなってすみません。

*****Emmanuel Cattin 氏講演会のお知らせ*****

この度、京都大学宗教学研究室の主催で、以下の講演会を行うことになりました。

名称:     Emmanuel Cattin氏 (フランス、クレルモン=フェラン・ブレーズ・パスカル大学教授)講演会
日時:     4月22日(水) 14h45−16h45
場所: 京都大学文学部校舎地下1階、大会議室
司会・通訳:  杉村靖彦 

カタン氏は、フランスにおけるドイツ観念論研究をリードする一人として知られ、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルについて優れた研究を著していますが、同時にハイデガーやフランス現象学からも影響を受け、ご自身の思索を展開してきました。日本思想・日本哲学にも継続的に関心をもっておられます。最近の著作としては、 Vers la Simplicité. Phénoménologie hégélienne, Paris, Vrin, 2010, Sérénité. Eckhart, Schelling, Heidegger, Paris, Vrin, 2012. などがあります。今回の講演会では、ミシェル・アンリ晩年の「キリスト教の哲学」を取り上げ、それを動かしているヨハネ福音書の独自の解釈を浮き彫りにしていきます。ドイツ観念論や現象学と聖書的伝統との関係に専門的に興味をもつ方々はもとより、より広く哲学と宗教との関係に関心をもつ方々にも、示唆の多いお話になることと思います。

 事前に講演原稿(原文・邦訳)に目を通したい方には、メールでお送りしますので、ご連絡下さい。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

ということです。

posted by CKP at 14:39| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月19日

おいおいの言葉――「粛々」

おいおいの言葉――「粛々」

 先ごろ、官房長官が使って話題となった「粛々」。
「粛々」と言えば「鞭声粛々」。
「鞭声〜〜粛々〜ぅ〜〜、夜ぅ河を〜〜わたるぅ〜〜」と詩吟の一節を思い出した方もあると思います。
あると思います!

 調べてみると、この漢詩、頼山陽が『日本外史』の中で川中島の戦いをうたったもの。

鞭声粛々夜河を過(わた)る
暁に見る千兵の大牙を擁するを

上杉謙信の軍が、夜陰に紛れて、川を渡る。
朝、武田信玄の軍は、数千の軍に取り囲まれているのに気が付いてびっくりした。

 というわけで、真昼間に反対を意に介さず辺野古の埋め立てへの工事を「粛々」と進めるというのは、「夜陰に紛れて」はいないけど、使い方としてはそれほど間違ってはいない。
ただし、この後半は次のようになっている。

遺恨十年一剣を磨き
流星光底に長蛇を逸す

謙信は積年の恨みはらさでおくべきかと剣を磨き、
流星のごとくきらりと剣を光らせ切りつけたが、結局、信玄を討ち損じてしまった。

ということになるので、目的達成という点からみれば「粛々」の使い方は、あまりよろしくない。

 もっとも、アベ君たちは、「粛々」という言葉で挑発し、沖縄の反対運動が盛り上がってどうにもならなくなり、アメリカに「とても抑えきれません。このままでは沖縄独立です。基地は出てってください」と言う機会を待っているのかもしれない。
それでこそ「戦後レジームの脱却」というものであります。
こうして基地を少しずつ減らし、アメリカに我が邦の領土をいいように使われている戦後日本の植民地体制を変革し、日本の独立を狙っているんだよね、きっと。
自衛隊を「軍」にしたがっているのも、独立戦争に備えているのかも知れない。
でなかったら、中国や韓国、そしてロシアとあれほど領土問題ですったもんだしながら、日本の領土にアメリカの基地が居座るのには何も言わない、というのがわけ分かりません。
言わないどころか、占領軍にお金まであげてるんだから・・・
このような予算措置を「粛々」と進めながら、虎視眈々とアメリカからの独立の機会を待っているに違いない・・・

 アメリカだって、あんまり日本を植民地のように使っていると、「アメリカの日本との関係は、ロシアとウクライナ東部のような関係だ」とボチボチ言われそうだな、と思っている・・・

・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・・

posted by CKP at 11:11| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月15日

おいおいの言葉(第2回)――まぁ、なんと申しましょうか・・・

 長嶋がグラウンドで輝いていたころ、王、金田、広岡というダジャレが流行っていたころ、東映フライヤーズに毒島(ぶすじま)という不気味な名前の選手がいたころ、小西得郎という解説者がいた。

「まぁ、なんと申しましょうか」
が口癖の野球解説者。

 原っぱの三角ベースで野球をやっている子供たちも、誰かがエラーなんかすると、
「いまのプレーは?小西得郎さん?」
「まぁ、なんと申しましょうか・・・」
と自己解説していましたね。

 今から思うと、少し高めの独特の聴きやすい声と、きれいな言葉づかいの解説でした。

 また原っぱのお相撲では、今の一番を玉の海さんに解説してもらいながら、子供たちは「分解写真」で「今の一番」を再現したのでした。
60歳以下の人にはさっぱりわからん話でしたね。
posted by CKP at 15:25| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月11日

鷲田清一先生の書下ろし新刊!――『しんがりの思想』(角川新書)

郵便受けにKADOKAWAの編集部から本が届いている。
誰の本だろう?
開いてみると、鷲田清一先生の『しんがりの思想』!という「角川新書」!
こ、こ、これは…とさっそく「あとがき」を見る。
    *    *    *
「しんがり」という言葉は友人からもらった。大阪大学の総長職を退任後、ほぼ十年ぶりに教育現場に戻ることになった。家から歩いて八分の大谷大学の哲学科教員になった。そのお披露目というわけではないが、着任後すぐに講演をさせていただき、《フォロワーシップ》の精神について述べた。そのあと、同僚、というよりは大学時代からの四十年来の友人、池上哲司が、感想代わりにこんな言葉をくれた。「大谷の哲学科では、ちゃんとしたしんがりの役を務められるような人を育てることにしているんだよ」、と。この大学で教鞭を執れることを心底うれしく思った。
    *    *    *
 じぇじぇじぇ×アジャパーとはこのことである。
当分は出ないと思っていた鷲田先生の書下ろしが届いたこと。
それも、ある意味では鷲田清一×池上哲司という形で出たこと。

「しんがり」という言葉は池上哲司先生が口にして、そしてすぐさま鷲田清一先生が講演で取り上げ、すると素早く内田樹先生がツイッターした言葉でした。
これらの方々に共通して流れる何かを表現している言葉のようです。
そんな興味も持って拝読したいと思います。
posted by CKP at 19:33| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月09日

新シリーズ「おいおいの言葉」始まる――第一回「もう赤とんぼなんか追わない」

 わしばっぱが朝日新聞で「折々のことば」の連載を開始されました。
「じぇじぇじぇ!!!」で始まるかと期待しましたが、違いました。
「折々のうた」大岡信氏へのオマージュで始められました。
わしばっぱらしい始まりでしたね。

その「折々の言葉」開始に心からお祝いのエールをおくるべく、このブログでは、皆様のご期待にお応えして「おいおいの言葉」というシリーズを開始します。

「おいおい、その言葉かよ」とか「今はわかんなくても、おいおい分かるよ」という言葉について書いていきましょう。
「オレオレの言葉」ではありまへん。

 第一回目は「もう赤とんぼなんか追わない」。
おいおい、なんだそれは?
「夕焼け小焼けの赤とんぼ」とは関係がありません、たぶん。
「トンボ釣り今日はどこまで・・・」という世界でもありません。
もう旧聞に属しますが、福井県は勝山の山里で赤とんぼを追っていた大学教員と大学院生の関係がもつれてしまって(?)、殺人事件になってしまったのを「他山の石」としようとする言葉です。
しかし、あの事件、さっぱり続報がありません。
ほんとのところどういう関係だったのでしょう?
が、とにかく、
「もう赤とんぼなんかなんか追わない」

ところで「もう森へなんか行かない」と唄ったのは若き日のフランソワーズ・アルディさま黒ハートでした。
ちなみにこのお方です。


いかにも60年代の安っぽさが懐かしい映像ですが、フランソワーズさまはお美しいです(冒頭のカップルの映像は意味不明ですが)。
〔残念!著作権にひっかかってしまいました。興味のある方は「もう森へなんか行かない フランソワーズ・アルディ」で検索!〕
それにしても「森へなんか」行って何をしていたのでありましょうか?
60年代のNHK「みんなの歌」には「森へ行きましょう、娘さん」という歌もありましたな。
娘さんと森で何をするのでしょうか?
まさか「草刈り」だけでは終わりますまい。
わたしは小学生の時、な〜んも考えずこの歌を唄っとりましたがな。

え〜っと「赤とんぼなんか」の話です。
大学の教員の中心的な仕事は、学生諸君の真理への欲望に火をつけることです。
それには、教員自身がその欲望に駆動されて、自らの無知の自覚を基礎として真なる知識へと邁進する楽しさを提示することが肝要です。
赤とんぼを追っている先生の赤とんぼへの欲望が学生に感染して学生も赤とんぼを追う――美しく正しい光景です。
要するに学問するって、なんだか楽しいそうだな、という姿を学生諸君の前で示すことです。
その時、教員と学生諸君との間には、真理への欲望によって真理を目指して共に学ぶという「学びの共同体」が形成されます。
 
 しかし、この「学びの共同体」は、ソクラテスの昔から、常に「危険な関係」の共同体でもあるのです(朴一功訳『饗宴』参照)。
つまり、「その真理を私は持っている、私を欲望せよ」という形で教師が振舞うと、真理に対して閉じられた、一種の宗教的な師弟関係つまり教祖とその弟子、あるいはいびつな相互依存の疑似恋愛関係が出現してしまうのです。
つまり、教師が「赤とんぼは私だ!私を欲望せよ」とか「君は僕の赤とんぼだ」と言ったり、逆に学生が「先生こそが私の赤とんぼ」とか「私が先生の赤とんぼ」とか言ったりして、赤とんぼがあっちゃこっちゃ乱れ飛んで、欲望の関係がもつれるわけであります。
ですから、学生諸君は「私は真理の体現者である。君の真理への欲望は私に向けられるべきである」と振舞う教師は敬して遠ざけるべきでしょう。
そのような共同体は妙に閉じられたものですから、そのような閉鎖性を感じたら警戒しましょう。

真理への欲望つまり赤とんぼへの欲望は、常にハングリーで開かれてあるべきです。
そして、教師自身も「学びの共同体」が閉じることを常に警戒すべきでしょう。
真理の体現者である私を欲望せよと振舞うことは、学生諸君に依存することですし、何よりも、学びの終焉であるからです。

 その点、タヌキ之介先生の振る舞いは見事でした。
真理の体現者として注目を浴びたいという研究者が持ちがちな煩悩に対して邪悪なまでの警戒心を持って、常に「無知の知」を基礎として学ぶ姿を学生諸君に示していたからです。
タヌキの邪悪さとは、常に自分の煩悩に対して向けられていた警戒心のことだったのです。

 しかし、いくらタヌキだからと言って、そんなに自分の煩悩を邪悪なまでに検閲しなくてもいいんじゃないの、と思われる方もおられるかもしれません。
しかし、タヌキ之介の場合はそういうわけには行きません。

 というのは、あまり言いたくないのですが、このタヌキ、アタマがすこぶる良いのであります。
もともと理科系の数学アタマのタヌキで、物事を理にしたがって洞察する能力はホントすごい。
私が生涯で出会ったもっともアタマのよいタヌキと断言します。

 ということは、このタヌキには私なんぞの文系人間のアタマの悪さが目についてしょうがない。
「やれやれ、こんなこともわからないの?」
であるから、ちょっと油断すると「わたしは圧倒的に賢い」という自己評価に陥るのです。
理研のあの笹井氏などは、他の人間がすべてバカに見えていたのだと思います。
ですから、そのような増上慢をつねに検閲する警戒心が、タヌキ独特の邪悪さを形成しているのでありました。

 数学出身のフッサールなんかも同じようなタヌキ・アタマをしていたように思います。
「剣呑」を絵にかいたようなフッサールの表情はそれを表しています。
しかし、フッサールは世界を理科系的に把握してすっきりしたいという自分の煩悩には無自覚だったように思います。
つまり、理が情に駆動されていることに無自覚だったのです。
その点、あのタヌキはそのような煩悩すらも検閲している、故にその文章は理系的でありながら文系的な抒情性をたたえているという不思議な文体を形成したのでしょう。

 ということで、タヌキ之介の文章は、多くの「学ぶ仲間」から支持を得ているのでしょう。
また、タヌキ・ゼミの学生さんも、実に軽やかに学びを進める人が多い。
つまり、タヌキ先生と同じで、「哲学やってる私はえらい」と威張る人がいないのです。
「つまんないことやってるだけだけど、ま、面白いからしょうがないか・・・」という脱力系の感じなのですね。

 さすが、教員三カ条「取らず・漏らさず・手を出さず」を提唱したタヌキ之介先生であります。
何のことか?
あなたが教員になった時、そっと、教えて差し上げます。

 私もタヌキの三カ条の教えを守って、あと5年の教員生活の穏やかに過ごしたいと思うのでした。
posted by CKP at 14:16| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月07日

なぜ池上哲司タヌキ之介の文章が東大の入試問題に採用されたのか――煩悩を見つめるタヌキ

 最近、「池上哲司」の名前で検索をかけて我らが哲学科教員ブログにたどり着く方が多い。
池上哲司タヌキ之介が何やら東京で悪さでもしているのか・・・ちょっと心配しておりました。
そしたら、どうも今年の東大の入試で『傍らに在ること』の文章が採用されたらしい、との情報を得ました。
東大も見境がないというか、怖いもの知らずというか・・・

 しかし、「池上哲司とは何者?」とインターネットを彷徨し、このブログにたどり着いた受験生や予備校の先生方は「?????・・・」となっておられるのではないか。
「え、池上哲司って人間じゃなくて、タヌキなの?」

 そーです、池上哲司は、またの名を池上タヌキとか池上哲司タヌキ之介といって、タヌキ、それも邪悪なタヌキです。
昨年までは京は北大路の大谷大学哲学科の教授、現在は名誉教授のタヌキです。
秋には集中講義のために上洛されます。

昨春、京の上賀茂の狐狸庵を引き払い、東京は浅草に庵をむすび、夜な夜な雷門あたりに出没し、好物の柿の種で人を化かしているらしい。
サッカーがあるとサッカーボールに化ける。
マージャンパイに化ける機会が少なくなり嘆いているらしい。

 その池上哲司タヌキ之介が昨春に出版した『傍らにあること―老いと介護の倫理学』(筑摩書房)からの文章を、東大は今年の国語の長文問題に採用したのであります(生物の問題ではないらしい、念のため)。
 
 このブログの読者におかれては「あんな邪悪のタヌキの書いた文章を採用して大丈夫なのか?『週刊文春』の文章よりも行間に煩悩が充満してるんじゃないの」と心配なさる向きも多いかと思います。
が心配には及びません。

 確かにこのタヌキの邪悪さは、文春の記者など足元にも及ばないものであります。
しかし、このタヌキ、無邪気におのれの邪悪な欲望を開陳するというよな、人の良いタヌキではありません。
おのれの邪悪な欲望つまり煩悩を徹底的に見つめ、煩悩こそが老病死の苦を「苦」たらしめていることを洞察し、邪気に満ちた文章で明らかにするのでした。
つまり、煩悩が見えなくしていたものを身もふたもなく明らかにしていく現象学的邪気がタヌキの文章を駆動しているのでした。
邪悪な内容を邪気に満ちた文章で表現するという「邪」の2乗あるいは相殺で、その文章は、あの邪悪なタヌキとは似ても似つかない論理的で抒情的という文章に化けるのでした。

 というわけで、今年の東大の受験生諸君はタヌキの瘴気に当てられてしばらく具合いが悪かったのではありませんか。
どうぞお大事に。

posted by CKP at 14:29| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月03日

入試問題に、なぜ『週刊文春』の文章が出題されないのか――煩悩が読む、煩悩を読む

 ここ数か月のあいだ、時々「なぜ『週刊文春』や『週刊新潮』の文章が入試問題に採用されないか」という問題を考えていました。
週末、サンダーバードで実家に帰るとき、相当に疲れていても『週刊文春』の文章なら長くても読める。
この日本の由緒正しいお父さんたちの愛読する文章を、大人の階段をのぼりかけている大学受験生に読ませようという出題者がいてもよいではないか、とふと思ったわけです。
しかし、絶えてそのような話は聞かない。
また、もし私が出題者となったらやはり『週刊文春』や『週刊新潮』に題材を求めようとはしないでありましょう。
お下劣だから?
いやいや、そんな記事ばかりではありません。
文春や新潮なら下手すれば裁判沙汰になるような話題をしっかり取材し、慎重に文章化している…いいじゃないですか、入試問題にすれば……しかし、やはり入試には無理。

 なぜでしょう?
・・・・・
・・・・・
・・・・・

 と考えていると、大垣書店本店の先週のベストセラーのトップに、出口汪(ひろし)著『センター現代文で分析力を鍛える』(大和書房)というのが挙げられていたので、パラパラと読んでみました。
昨年の7月に出た本で新刊というわけではない。
おそらく、近隣の高校で国語の先生が、今年のセンター入試の反省に基づいて、強力に推薦されたのでありましょう。

 その「はじめに」という序論に次のような記述があります。
「たとえば小説問題の大多数は、登場人物のセリフに傍線を引き、その時の心情を答えるものだが、文中に客観的な根拠があるからこそ、その箇所を設問としているのだ。こんな簡単なことなのに、大半の受験生は問題文をあるがまま読まず、無意識のうちに主観で解釈し直してしまう。その結果、いくら練習を積んでも合ったり間違ったりの繰り返しで、それを結局は「文学的センス」のせいにする。」(8ページ)

 これを読んで、はるか昔、現国の試験で「合ったり間違ったりの繰り返し」をしていた私は、はたと膝を打ったのでありました。
入試問題は、行間を読んではならないんだ!
だから、入試問題には、「行間」が前提とされる問題は、不適当なんだ!

 そういうことなんですね。
『週刊文春』や『週刊新潮』の文章は、あらかじめ「行間」の共有が前提とされている。
「今現在、功成り名を遂げて羽振りを聞かせているコイツはろくでもない奴に違いない,こんな奴にはバチが当たればいいんだ!」という抑圧された欲望が行間に充満しているのが、『週刊文春』や『週刊新潮』の文章の基本なのであります。
したがって、その抑圧された欲望を共有しているお父さんは、つかれているにも関わらず、そうとう長い記事をすいすいと読んで、その欲望を賦活して、明日への元気を養うのでした。
「やっぱり、まじめにコツコツ働こうおっと」(ちなみに今週は『週刊新潮』買ってしまった私です)。

 こんな欲望で行間を読まねばならない文章は、そりゃ、入試問題にはなりません。
まだそんな僻んだ欲望つまり煩悩が形成されてない受験生に、そんな文章は読ませられません。

 むしろ、受験問題に選択されているのは、無意識の欲望によって見えなくなっている現実を情理を尽くして洞察していくのような文章でしょう。
鷲田先生をはじめとする現象学的な文章が入試問題に採用されるというのはそういうことだとは思うのですが、しかし、それを限られた時間で読み解くのはあまりにも酷のような気がします。
ただし、入試問題はテキストそのものを読み解くのではなく、設問に答えられるかどうかという問題ですから、そのあたりはテクニックということなのでしょう。

 新学期早々、ろくでもない考察で失礼しました。
来週からまじめにコツコツ、授業をしようおっと!
posted by CKP at 18:19| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする