2015年02月23日

谷川俊太郎・松本大洋『かないくん』――死ぬことと生きること

 前から気になっていた谷川俊太郎の『かないくん』という絵本をようやく手に取った。
絵は松本大洋。
むかしむかし、松本大洋の『鉄コン筋クリート』という漫画をうちの息子さんが読んでいた。
画風は、大友克洋系と言えるかもしれない。

 なんで前から気になっていたかというと、谷川俊太郎が「死」について書いている、とどこかで聞いたからだ。
ただ、買いそびれていたのは、帯に、
「死ぬとどうなるの。」
と大きく書かれていたからだ。
え?死後の世界の話?
谷川俊太郎もヤキがまわったか・・・と生意気なことを考えて買うのを躊躇していたら、奥さんが買っていて「読みなさい」と渡されました。

 読んだというか、見たというか・・・・
そしたら、死後の話ではありませんでした。
生きることと死ぬことが、わずか90行の文章と、松本大洋の美しい絵で、見事に表現されていました。
二年かけて描いたという絵が、文章に奥行きを与えています。

 出版社は…とみると、「東京糸井重里事務所、1,600円」。
とすると「死んだらどうなるの。」というコピーは糸井重里?
何をねらったんだろう?
少なくとも私にはプラスには働きませんでした。
しかし、ホント、気持ちの良い本で、何度も繰り返し眺めたくなる本です。

〔訂正:げっ!帯のコピーは「死んだらどうなるの」じゃなくて「死ぬとどうなるの」でありました。
「死ぬとどうなるの」を「死んだらどうなるの?」「死後の世界はどうなるの?」と読んでしまったのは、わたくしの無意識の欲望かもしれません。
失礼しました!〕
posted by CKP at 14:08| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月18日

FUREフレー福島――「ほんとの空が戻る日まで」(修正版)

 ある人から「福島大学うつくしまふくしま未来支援センター」が主催する「ほんとの空が戻る日までー東日本大震災及び原発事故からの福島の闘いー」の京都シンポジウムのチラシをいただいた。

あれから4年たっても、ある意味では何も変わらない。
株価が18,000円を超えても何も変わらない。
が、そこで闘っている人々がいる。
何も変わらない原発政策と、あるいは風評被害と闘っている人々がいる。
その闘いを知ってほしい,福島の今を知ってほしいい―そのためのシンポジウムが、3月8日に立命館大学朱雀ホール(二条駅の近く)であるそうです。
詳しくはこちら↓
http://fure.net.fukushima-u.ac.jp/news/post-113.php

 私は何にもできないから、せめてこのブログで広報のお手伝いをいたします。
ちなみに昨年は大阪大学で開催され、基調講演は仙台メディアテーク館長、わしばっぱことわっしぃ、またの名を鷲田清一先生だったそうです。
鷲田先生は、4月から京都芸大学長となられますが、大谷大学の客員教授と仙台メディアテーク館長のお仕事も継続なさるそうです。
ほんと体だけは気を付けてください。
(一部に不正確な記述がありましたので修正しました)
posted by CKP at 12:32| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月14日

『団地ともお』の謎――「父さん」の顔の欠如(改訂版)

 『団地ともお』のない土曜日はつまんない。
この一週間いろいろと調べてみましたが、依然として、『団地ともお』の突然の終了の謎はわからないままであります。
しかし、この『団地ともお』というアニメは、もともと謎の多い不思議なアニメでありました。

 当然、バカな小学生ともおが主人公なのですが、話がいつもともお中心に進むわけではありません。
団地や周辺の大人たちの複雑な物語が平気で展開される回が何度もありました。
伴侶を亡くした老人の話や、パートと子育てに明け暮れる生活でよいのかと自問するともおの母さんの話、受験勉強がさっぱりの受験生の話などなどなど・・・
けっこう深刻な話が猛烈にしみじみと過激に淡々と展開されるそのような回では、ともお達はまったく登場しないか、背景のように登場するだけというのが何度もあったのです。
ともおがトリックスターになって、深刻な大人の世界をかき混ぜて、一件落着というありがちな展開は、見事にありませんでした。

 子ども達が一生懸命に遊んでいる、その傍らで深刻な大人の世界が展開されている。
そんな大人の複雑な世界をぜんぜん知らないともお達は、過剰にバカなのでした。
なかでも、死んだ父親と中年になった息子の憎悪と和解の物語が印象に残っています。
父親というのが、このアニメではけっこうキーポイントになっていたように思います。

 そして、この『団地ともお』の最大の謎は、ともおの「父さん」の顔が、ついにわからないままであったということです。
単身赴任で休日にしか家にいない「父さん」とともおは、決して憎みあっているわけではありません。
むしろ、帰ってきた父さんとともおは少ない時間を一緒に遊びます。
しかし、アニメは決してその「父さん」の顔を描かない。
まるで、大人ビデオのモザイク処理のようにして、「父さん」の顔を隠してしまう。
そして、ともおの「父さん」という呼びかけだけが妙に耳の残るのでした。
というわけで、このアニメ、ラカンの「父の名」という視点から解読する価値がありそうです。
父の顔の欠如に何が代入されるのか?
いや、「顔」が見えないということから言えば、レヴィナスの「顔」という視点から解読もありえます。
なにせ、「母さん」も、プロレスのマスクを隠し持っているのですから・・・・。
しかし、それには取りだめているヴィデオを見直す必要がありそうで、いくらわたしが暇でからといって、そこまではできません(と思います)。

 ただ、最後のともおの台詞が気にかかります。

 父さんは今度の自分の誕生日には、赴任先から帰って来られません。
母さんは父さんに、「ケーキ買って一人で食べなよ」と告げます。
一日、父さんと遊んだともおは、そして、ともおの不器用は父親譲りであることを確認したともおは、もうすぐ赴任先に帰らねばならない父さんに言います。
「さっきは母さん、ああ言っていたけど、たぶんを誕生日には姉ちゃんの作ったケーキもって僕と姉ちゃんを連れてそっちに行くと思うよ」

 ともおは大人になったのでした。
大人の欲望のあり方を理解したのです。
ともおは、母さんの欲望の対象でありたいという欲望を卒業したのでした。

 おそらく、この終わり方はわりと早い段階で構想されていたように思います。
それを突然なんらかの圧力によって放送せねばならなくなったのか、作者がもう終わりにしようと申し出たのかはわかりません。
ひょっとしたら、成長しないかつお、しんちゃんそしてのび太であることを、ともおが拒否したのかとも思います。
それはやはりわからないままです。
ただ、このアニメが面白かったのは、大人と子どもの違いを丁寧に描いていたからだということは、いえるのではないかと思います。
(最終回を見直して、若干修正いたしました。)

posted by CKP at 16:44| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月07日

CKPはご機嫌ななめ――『団地ともお』いきなりの最終回

 レポートの採点で、ただでさえ機嫌が悪いのである。
そこへきて、週末の唯一の楽しみ『団地ともお』が終わってしまったではないか!
それも、この時期に最終回となる理由も明らかにせず、いきなりの打ち切り!
何を考えているんだ、NHK!
これも、あのわけのわからん会長の仕業か?
それとも、ともおがあんまりバカなんで、視聴者からクレームが来たのか?
こないいだなんて、へんてこなマージャンもどきゲームをやっていたし・・・

 それにしても、いきなりの打ち切りはないだろう?
さっぱり、わけがわからんから、ネットで理由を探し回ったけど、誰もが「えっ?」って驚いている状態。
これを暴挙と言わずして、何と言おう!

 この状態でレポート採点に戻ると、ひょっとすると「不可」が大量発生するかもしれん。
いちど落ち着いてから、採点じゃ。
深呼吸!

しかし、今日なんかも、ともおが宿題をしてこなかったのに「家にノートわすれた」とうそをついたら、担任の先生が、
「先生は嘘をつく子は、けっこう嫌いです!」
と叱っていたもんなぁ。
「けっこう嫌い」って、やっぱ、NHK的とは言えんもんなぁ。
しかし、そんな『団地ともお』が、おじさんは「けっこう」好きでした(涙!)。
posted by CKP at 16:03| Comment(3) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月03日

サラヴァ!――卑怯者でいいっす

 この頃のニュースに接していると、自分たちの正義を声高に叫んで戦争の旗をふる者より、怖いことや痛いことから姑息に逃げる卑怯者でいたい、と思ってしまいます。

 むかしむかし、オジサンが二十歳だった40年ほど前のこと、頭脳警察というパンクなロックバンドが「まるでランボー」という歌を唄っていたのを思い出しました。
ランボーといっても、スタローンのランボーではありません。
詩人のアルチュール・ランボー。
こんな歌詞の歌でした。

「みっともないオレはまるでランボー
 卑怯者のオレはまるでヴィヨン
 乱暴者のオレはまるでユーゴー
 梅毒の俺はまるでボードレール
 でもね 君にぁ詩なんてわからない」

懐かしい。
そのころは岩波文庫から『ヴィヨン詩集』というのが出ていました。
ヴィヨンがどのように「卑怯者」なのかは知りませんが。
中世末期のフランスの詩人なんてどうせろくでもない人間でしょう。

頭脳警察のそのレコードを持っていたはずなのに、どこかへ消えてしまいした。
たぶん、浅川マキのレコードと一緒に。

しかし、レコード棚をがそごそ探していたら、これの元歌が入っているブリジット・フォンテーヌの「Brigitte Fontaine est・・・」というレコードが見つかりました。
B面の一曲目がオリジナルの「comme Rimbaud(ランボーのように)」。
頭脳警察の訳詞とちょっと感じが違うとこもあるけど、正義の味方じゃ詩なんてわからないよ、というつっぱった感じが懐かしい。
今だったら、正義の味方じゃ、宗教も平和もわかんないよ、となるでしょうか?
ただし、この歌、最初に聴いたの頭脳警察ヴァージョンだったせいでしょうか。
フォンテーヌの元歌より頭脳警察の方がかっこいいっす。

そして、次のアルバムが名盤「comme a la radio」
アート・アンサンブル・オヴ・シカゴのかっこいいアフリカンリズムをバックに、呟くように唄うブリジッド。

眼鏡屋の友人から聴かなくなった大量のLPを譲り受けた中に、やっぱりこのLPがありました。
みんな、あの頃、聴いていたんですね「ラジオのように」。
私のレコードとダブってしまったから、(藤)先生にお譲りしたら「あれ、かっこいいっすね」と(いつになく)素直に感動されていました。
一瞬、この私を尊敬のまなざしで眺めたいただいたように思います。
気のせいでしょうか?
そう、わたしは、あの頃、かっこいいレコードを聴いていたのだよ。
そして、痛いのや怖いのが嫌いな卑怯な大人になったのでした。



サラヴァ(saravah)というのは「神の祝福がありますように」というポルトガル語で、このレコードのレーベル名。
あの『男と女』(あのダバダバダ)に挿入されているバーデン・パウエルの「サンバ・サラヴァ」から命名されたそうです。
あのダバダバダではありません。

ただし、この曲のかっこよさは多くはアート・アンサブル・オヴ・シカゴの演奏によるものです。
その後、私はアート・アンサブル・オヴ・シカゴを追っかけました。

posted by CKP at 18:17| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする