2014年12月30日

鯖江のフクロウは年末に飛ぶ――カドワキのフクロウは還暦過ぎに飛ぶ(?)

 鯖江市に住む友人からフクロウの写真が送られてきました。
近くの山の枝に止まっているところを写したものです。
という説明ぬきでここにアップできればよいのですが、ごめんね!還暦おじさんで、そんなことは逆立ちしてもできません。
(追記:ここをクリック!http://tuziokamegane.blog108.fc2.com/blog-entry-1547.html

 昔はうちの庭にも、夜になるとフクロウが飛んできてホーホー鳴いていました。
小学校でも、誰かの親が山で捕まえたフクロウを飼っていました。

ミネルヴァのフクロウは夕暮れになると飛ぶ、といったのはヘーゲルでした。
ああ、カドワキのフクロウはいつ飛ぶのでしょうか?
え、飛ぶのぉ?
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2014年12月29日

年賀状一年越しに返事書く――CKPの今年の重大ニュース

 去年の年賀状を書いていると、宛名書きの手を止めてついつい読んでしまいます。
さすがに60歳になると、「元気ですか」という問いかけの応酬になりますが、子どもが成長期には、「○年生になりました」と言う報告に一年越しに返事を書いていると、だんだん相手の子どもの学年が分からなくなって混乱したものです。

「年賀状一年越しに返事書く」は、そんな滑稽を詠んだ「俳句」です。
「年賀状」が年末の季語になるかどうかは微妙なところですが・・・。
わたしが時々この欄に書く俳句を「川柳」と言い放った御仁もおられましたよね、わしばっぱ。

 さて、年賀状も出して、寺の修正会の案内も出して、年忌の繰り出し表も書いて、後は本堂の掃除を残すだけ・・・というわけでこの一年をふり返ります。

まず、今年の我が最大の出来事は還暦を向かえ、小学校、中学校、高校の同窓会に出席したこと。
みんな、いいおじさん、おばさんになっておりました。
ただ、中学の同窓会で、クラスの世話焼きタイプの女子のF井さんや陸上のハードルを飛ぶ姿がかっこよかったT川さんが亡くなっていたのはショックでした。
 
 まめにクラス会に出席したのが評価されたのでしょうか。
地元の「3×成人のつどい」の実行委員にご指名いただきました(チョッと泣き)。

 次に大きな出来事は、やはりタヌキが東京に去ったことでしょうか(疑問形)。
ミフタもないそのうえニベもない、ないないづくしタヌキでしたが、いなくなると毎日がちょっと物足りない。ちょっとだけですけど。
ま、居ても居なくてもないない尽くしのタヌキでした。

 そして、最後は我が胃に棲息していたピロリ菌が居なくなったこと。
一回の処方では絶滅できず、結局三回もピロリ菌退治の薬をのんで、やっと絶滅。
胃が快調なのは、タヌキがいなくなったからではなく、ピロリ菌がいなくなったため。
どうゆうわけか、二キロやせました。

 もひとつおまけは、アナログ回帰。
レコードプレイヤーの接続部分をいじって、音がスッキリしてアナログ・レコードを聞き出したら止まらない。
CDとどのように違うのかは説明できないけど、例えばオーケストラの演奏がCDだとやかましくて、ついボリュームを絞ってしまうけど、アナログ・レコードだとそうとう大きい音でもうるさくない。
ついつい聴き入ってしまって「ながら勉強」しづらいのが難点といえば難点ですが・・・。
という平和な一年でした。

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2014年12月21日

2014ことしのベスト3――ただし『あまちゃん』関連は除く

 いよいよ押し詰まりました。
恒例の「今年のベスト3」の発表です。

 まずは、本から。
鷲田清一、内田樹、池上哲司の先生方のご本は別格として、今年いちばん読みふけった本は、このブログでもご紹介した村上春樹著訳編『セロニアス・モンクのいた風景』。
モンクの不思議なピアノの秘密が少しだけ理解できたような気がしました。
しかし、なによりもモンクの奇天烈なリズムと不協和音の謎がより魅力的に聴こえるようになったのが、うれしい読書体験でした。
あちこち読み返しては、モンクを聴く・・・幸せな時間です。

 読んで泣いてしまった本は、伊集院静の『それでも前に進む』(講談社)。
伊集院静の本は今まで読んだことはなかったのですが、週刊文春の人生相談がけっこう読ませるのでエッセイも読んでみました。
「二千万人が泣いた」と帯にあったので、変にお涙頂戴の文章だったら嫌だなと思い、最初はびびりながら読んだのですが、淡々とした文章なのに、突然、ぐっと来るものがあって、まんまと泣かされてしまいました。
伊集院静といえば、夏目雅子の夫ということで、ずうーっと敵視してきたのですが、そしてまたこの本を読んだら、現在は篠ひろ子の夫であるのが分かって絶対に許すことのできない男であるのですが、しかし、この本を読んで、それも仕方がないか、と許すことにしました。

何度も何度もあちらこちら繰り返して読んだ本は、長岡鉄男の『新・長岡鉄男の外盤A級セレクション』(共同通信社)と嶋護の『クラシック名録音106究極ガイド』(ステレオサウンド社)。
今春にアナログ回帰して、中古レコードを買い漁るときに指針とした本です。
この本を読むと、1960年前後のレコード製作者たちの熱意とか、音楽を録音できる喜びがひしひしと伝わって来ます。

 番外として浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたか』(新潮新書)。
タイトルを見たときちょっと躊躇しましたが、目次を見るとリストのまじめな、そして新しい社会史的視点からの伝記。
リストって、単なるプレイボーイだったのか、まじめな求道者だったのか、よくわからない人物だったので、買って読んでみました。
たいへん面白い伝記ですし、何よりも、リストの深い影のようなものがより気になって、リストを聴こうという気にさせる本です。
何で、あんなタイトルにしたのか・・・

 さて、CDですが、今年はアナログレコードばかり聴いていたので、CDはほとんど聴きませんでした(あ、なかの綾姐さんは別格です)。
しかし、年末にとんでもないCDが飛び込んできました。
大瀧詠一の「夢で逢えたら」です。
わたしは、この曲を吉田美奈子の『フラッパー』に収録されているヴァージョンでしか聴いていません。
大瀧さんのヴァージョンがないか、ずうーっと探していたのです。
生前ご本人は「そんなものはない」と言っておられたらしい。
その幻のヴァージョンが、ついに氏の一周忌を前にして『Best Always』というベスト盤に収録されているのを知って、四条の十字屋さんに走りましたがな。
フィル・スペクター風に仕上げられた、ロネッツの「Be My Baby」に匹敵する最高のポップスです。
アナログのドーナッツ盤で聴きたいっす。
ナイアガラー同盟の内田樹議長に教えて差し上げると、「おお」とびっくりなさった後、「今までは大瀧師匠から直接にいただいていたので見落としていました。おそらく、まだまだ幻の録音があるはずです」と、なんだか負けず嫌いのウチダらしい反応をしておられました。

 また古い録音なのに今まで知らなかった、ということであわてて聴いたのは、マイルス・デイヴィスとモダン・ジャズ・ジャイアンツの「バグズ・グルーヴ」。
村上春樹の『セロニアス・モンクのいた風景』で、紹介されていた曲。
マイルスとモンクが喧嘩しながらの緊張感あふれるセッション。
マイルスが「俺が吹いているときはピアノ抜きでいきたい」と言って、そのとおりにマイルスのトランペットがなっているときは、モンクは一音も出さず、ミルト・ジャクソンのヴァイブのバックとソロのときだけ、不思議なリズムと不思議な和音を奏でるという奇妙なセッション。
しかし、これがなんとも不思議な力のあるピアノ。
ちょうど、千円のジャズの名盤ナントカというシリーズで売り出されたので買いました。
アナログでもぜひ聴いてみたい曲です。

 そして、やっぱり買ってしまいました!
『にっぽん縦断こころ旅2014オリジナル・サウンドトラック』
これを聴いていると、番組のいろんな場面が思い出されて泣けます。
タヌキは絶対に泣かないでしょうけど・・・

 番外としては『ごめんね青春!オリジナル・サウンドトラック』
これも泣けるのですが、何故、番外かというと、わたしとしては当然「ごめんねウナギ」グッズがおまけでついているもんだと思って買ったのでした。
しかし、な〜んもついとらん。
DVDにつけるつもりであろうか・・・そしたらDVDも買わんといけん・・・。
悩ましいことであります。
いよいよ、『ごめんね青春!』も今夜が最終回。
さてさてどうなることやら・・・。
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2014年12月19日

鷲田清一先生、2015年からは大谷大学客員教授――京都市立芸術大学学長就任にともない

 鷲田清一先生が、2015年の4月より京都市立芸術大学の学長に就任されることになりました。
大谷大学では客員教授として授業を継続していただくことになりました。

 京都市立芸大は、10年後に京都駅東側の崇仁地区に移転することが決まっています。
しかし、高齢化とそれに伴う過疎化が進むこの地区への大学移転の具体化には様々な困難が予想されます。
具体的にどのような地域コミュニティを形成するか?
大学が移転したあとの西京をどうするか?
いろいろと細かい気遣いが必要とされるお仕事です。
しかも芸大です。
芸のない移転はできません。
こんなお仕事は鷲田清一先生しかできないと懇願され「請われたらひとさし舞わねば鷲田じゃない」とお引き受けになりました。

 まるで、「行かせておくんなさい」と敵地に乗り込む『残侠伝』の高倉健さんのようです。
「行かないで」と藤純子のように止めたい心境になっているのは、わたくしカドワキです。
が、藤純子でも引き留められなかったのを私が引き留められるわけがありません。
しかし、きっとどなたかが、池辺良のように「ご一緒いたします」と降りしきる雪の中で傘を差しだすでしょう?
・・・・・・話の方向を見失ってしまいました。

 別に鷲田先生は「敵地」に行かれるわけではありません。
おそらく、そこには学ぶべきものがあるということでしょう。
臨床哲学の臨床の現場とは、研究室での哲学を上から目線で応用する場所ではありません。
現場での学びが研究室の学びを深め、そして研究室の学びが現場での学びを深める、そうゆう場所なのだと思います。
学びの中で哲学が使われ鍛えられる場所が「現場」なのだと思います。

 しかし、そうなるともう「わしばっぱ」と遊んでもらえないなぁ、とガックリ来ていたら、大谷大学の授業は続けていきたい、と言ってくださいました。
というわけで、来年からは「客員教授」として授業を続けていただけることになりました。
別にわたしと遊ぶための「客員教授」ではなく、学生たちと研究室での学びを鍛え継続するための「客員教授」ですが・・・。
というわけで、このブログでも「わしばっぱシリーズ」あるいは「タヌキシリーズ」は継続されます。
そんなシリーズは別に継続しなくていい、という意見は無視しますです。
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2014年12月16日

西川勝先生講演会「ケアを哲学する」――大谷大学西哲・倫理学会公開講演会

 来る12月18日(木曜日)午後4時20分より、大谷大学西哲・倫理学会公開講演会が開催されます。
今季は、大阪大学コミュニケーション・デザイン・センターの西川勝先生をお招きして「ケアを哲学する」というタイトルのご講演を拝聴いたします。
西川先生は、大阪大学大学院で哲学もおさめられた方ですが、看護師さんもやっておられた方。
現場からの視点と、研究室での問題の掘り下げが、どんな形で一つになるのか?

 場所は大谷大学の正門を入ったところの赤レンガの建物の2階。
時間は午後4時20分から6時ごろまで。
学生諸君はもちろん、学外の方も来聴歓迎!
寒くなりそうですから、暖かくしてお出かけください。
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2014年12月15日

自惚れなさんな!――今年のひと言

 選挙結果についての論評ではありません。
高校三年生のイクちゃんが、何かの授業で「今年のひと言」というので挙げたフレーズです。
どこかで聞いたことがあるフレーズだなぁ、と思って聞くと「ごめんね青春!」のセリフでした。
若い英語の女性教師が、初めての愛の告白のあと、相手に言い放つ言葉です。

 同級生から「イクちゃんも『ごめんね青春!』見てるんやぁ・・・」と驚かれたそうです。
高校生に強烈に響く何かがあるのでしょうか?

「自惚れなさんな!」

 このフレーズにイクちゃんは、どんな思いを託したのでしょう?

「自惚れなさんな!」

 お父さんは、このフレーズをこれからの人生の座右の銘にしようと思います。
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2014年12月09日

好きの理由は、好きにならなきゃわからない――『ごめんね青春!』どうするんだクドカン?!最終回はどうなるんだ!?

『ごめんね青春!』がついに最終回を迎えます。
が、次回は一週とんで、12月21日!
どうなるんだろう?今からドキドキです。

 だって、主人公の国語教師・原平助クンが同僚の英語教師・蜂矢りさに、愛の告白と自分の後ろめたい過去の告白を同時にしてしまったのです。

 高校生の時、振られた腹いせに飛ばした花火で高校が火事になったこと。
これを国語教師・原平助は告白したのでした。
そして、文化祭の後、教師を辞める決意も。

しかし、その火事の原因の疑いが、その英語教師の姉にかかってその家族はバラバラになっていたのでした。
つまり、自分の家族をめちゃめちゃにした、絶対に許せない火事の犯人からその過去の告白と愛の告白を同時に受けるという英語教師のジレンマ。

こんなややこしい事態を構築して、クドカンはいったいどんな展開を最終回にもってくるのでしょう?
ほんと、こうゆうときにこそ使える「哲学」でなくてはなりません。
というわけで、この二週間、こうかなああかなと私の哲学をフル回転させるのです。
ああ忙しい!

 しかし、その英語教師・蜂矢りさは、その愛の告白を受け入れるんです。
というか、先にりさ先生の方が愛の告白をしているんです。
その時、彼女を支えた言葉が、冒頭の「好きにならなきゃ、好きな理由はわからない」

You must love him.
Before to you he will seem worthy of your love.

この言葉を黒板に書いて、彼女は「好きにならなきゃ、好きな理由はわからない」と生徒たちに向かって呼びかけた!
すごい訳ですね。
でも、そういうもんです。
事柄は常にすでに始まっている――このような哲学がどんな最終回をつくるのか?

ところで、このドラマの音楽は真島昌利!
あのブルーハーツ!そしてクロマニョンズのギタリスト!
どおりでドラマ全体がロックンロールしているわけです。

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2014年12月08日

哲学とハサミは使いよう――鷲田清一『哲学の使い方』の使い方

 鷲田清一先生の新刊(といっても9月に出てますけど)『哲学の使い方』(岩波新書)を拝読しました。
なんだなんだ…と立て続けに2回も読んでしまいました。
いや、読み始めてすぐに「なんだ?なんだ?いつもと様子が違うぞ???」と一章の途中まで読んで、も一度最初から読んだのを合わせると、2回と4分の1回読んだ、ということになります。

 おそらく、『おとなの背中』などの鷲田先生のエッセイのファンの方も、最初ちょっと面食らったのではないでしょうか。
私も最初、「哲学の使い方」というタイトルから、一連のエッセイ集か高校生に向けた入門書だと思い込んで読み始めたので、しばらくして、これはいったい誰に宛てられた本なのかわからなくなって混乱してしまいした。
そう思って最初から読み直すと、「はじめに」で勘違いしてしまったのに気が付いたのでした。
「初めに」の最初の女子高校生のレポートが引用してあるくだりで、「あ、これは『じぶん』とおんなじ入り方だ」と思ってしまったのですね。
『じぶん』(講談社現代新書)では、女子学生のレポート(ここでも女子!)の「大好きだ攻撃」が取り上げられていましたっけ。

 しかし、第一章に入るとすぐに次のような問題を共有する読者に向けてこの本が描かれていることがはっきりします。

「そういう哲学の思考にアプローチしようとしてひとがまずぶつかる問いは、哲学はそもそも研究として取り組まれる一つの学科なのかどうかという問題であろう。」(2ページ)

 これは哲学を本格的に研究したいと入門を決意したひと、あるいはすでに大学の「学科」で研究しているというひとの問いであって、哲学的な視点を借りて現実の問題を考えてみたいという鷲田エッセイ・ファンの方々にはそれほど関心をそそる問いではないように思います。
私も最初、ひとりの鷲田エッセイ・ファンと読み始めたので、「なんだか様子が違うぞ」と思ってしまったのでした。
これはむしろ、大学の研究室にチンマリと納まっている私のような研究者に「それでは哲学を使っていることにならないのではないか」と問いかける本じゃないか、と読み直しました。
(あわてて付け加えておきますが、哲学なんてめんどくさいことに関心はないけど、鷲田エッセイのファンという方は、第三章「哲学の臨床」から読み始めると、鷲田エッセイがなぜあなたの胸にグッとくるのかがほの見えてくると思います。)

 それで、そう思って読むと、この本は大変きびしく哲学の在り方を問う本であるとことがわかってきて、思わず2回も読んでしまったというわけです。
つまり、哲学は大学の研究室という現実から隔離された「階上」のみに閉じられていていいのか、と問いかける本なのです。
が、この本で鷲田先生が「私の臨床哲学は正しい。現実の階上にしかない研究室で研究に埋没している君たちは間違っている」と大上段に研究者批判を展開するというのでもない。
いわばこの本は「鷲田清一の方法序説」なんだと思います。
したがって、本家デカルトが『方法序説』で書いているように、

「・・・この書は一つの話として、あるいは寓話といってもよいが、そういうものとしてだけお見せするのであり、そこには真似てよい手本とともに、従わないほうがよい例も数多くみられるだろう。そのようにお見せしてわたしが期待するのは、この書が誰にも無害で、しかも人によっては有益であり、またすべての人が私の率直さをよしとしてくれることである。」(岩波文庫版、谷川多佳子訳、11ページ)

と読むことができると思います。
「行かしておくんなせい」と『昭和残侠伝』の高倉健のように決然と現場に赴く鷲田先生の真似なんて、私にはとてもできません。
「その後まる九年の間、世間で演じられるあらゆる芝居の中で、役者よりもむしろ観客になろうと努め、あちこちと巡り歩いた」デカルトの真似ができないように。

 で、私に何が「有益」だったかといえば、落語の「コンニャク問答」を解くのに哲学がつかえるぞ、と思ったことでした。

 ひょんなことで禅寺の留守をしているコンニャク屋の親父が旅の禅僧と問答することになる。
わけがわからないから何もしゃべらない。
「無言の行でござるか」と禅僧は両手で輪を作って差し出す。
親父は両手を大きく回して輪を描く。
すると禅僧、両手の指を突き出す。
親父は片手の指を突き出す。
すると禅僧は三本の指を突き出す。
親父は、目の下に指をやる。
禅僧は、「なんという高僧。心はとお尋ねしたら、大海の如し。十方世界はと尋ねると、五戒で保つ。三尊の弥陀はとおききすれば、目の下にありとお答えになった。とても拙僧ごときがお相手できる方ではござらん」と逃げ帰った。
いっぽう親父は仲間に「あいつはとんでもねえ坊主だ。お前のところのがんもどきはこんなに小さいというから、こんなに大きいと答えてやった。十でいくらだと言うから、五文と答えた。三文に負けろというからアッカンベーをしてやった」

 お互いのフレイムワークを一歩出ない問答の悲喜劇です。
が、それを笑っている私たちはこの笑われている禅僧と親父を超えているのか。
あるいは、禅という現実の階上世界とこんにゃく屋という現実生活の現場がそれぞれ全く交差しない可笑しさ、これを私たちは笑うことができるのか、という問題です。

 この問題は、切れ味の鋭いハサミやナイフで現実をじょきじょき切り取れば済むという問題ではないでしょう。
日常的なさまざまな現場で、哲学というハサミをある時はトンカチの代わりに、ある時は錐の代わりに使ったりしながら、ハサミの使い道をあれこれ工夫することから始めるしかないように思います。
この問題を解くのに哲学が「使える」のではなく、なんでもいいから手元の道具を使って解いてゆくのが「哲学」と言ったほうがいいのかもしれません。

と、まずは『哲学の使い方』をこんなふうに使ってみました。
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2014年12月04日

勝つよりも負けるのが青春!――宮藤官九郎『ごめんね青春』に感涙!

 クドカン脚本の『ごめんね青春!』!
やっぱ最高に面白いっす。

 いろんな過去や問題を抱えた人物たちが入り乱れる学園コメディー。
成功物語ではなくて、その過去をどうやって「ごめんね」できるかというお話。
先回は、性同一性障害というとんでもなく重い問題を、予想もしないとんでもない展開で「ごめんね」していました。
などといくら書いても面白さは伝わりませんね。

 という私も、最初のほうは論文を書くので忙しくて見ていなかったのです。
そしたら、妻な人が「なんで見ないの?面白いよ」とビデオにとっておいてくれたのです。
で、一応論文も提出したし、ビデオを見たらこれがすさまじく面白い。
『あまちゃん』といい勝負なのであります。

 主人公の誰にも言えない過去というのが最大の問題なのですが、この主人公には2年前に死んだ母親が観音菩薩として見える。
その森下愛子演ずるその観音菩薩の一言。
「私は後ろメタファーだから」

 そうなんだよなぁ・・・。
俺たち「後ろメタファー」を抱えて生きてるもんなぁ・・・。
(この「後ろメタファー」は、もともとは「ゆるキャラ」と同じくみうらじゅん印ですけど)

 冒頭の「勝つよりも負けるのが青春」っては、いろいろあって「箱根まで駅伝」というに失格してしまってションボリしている生徒に向かって放った満島ひかり演ずる英語教師の言葉。
テニス選手か誰かの「Sometimes the best gain is to lose」ってのを、「勝つより負けるのが青春」と強引に訳する。
いいですね。
このクドカンのやさしさに、毎回、涙しながら観ています。
posted by CKP at 17:33| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月02日

臨機応変ーー北陸はきょうも風だった

 本日12月2日、北陸線の午前中の特急サンダーバードは「小松付近の強風のため」あっさりとす・べ・て・運休!
なんとJRは諦めがよろしいこと!
ドンコウ列車を、武生ー敦賀−近江塩津−と乗り継いで京都につきましたがな。
しかし、とうてい授業には間に合わず休講。
今期はじめての休講は、喜んでもらえたか?残念がられたか?急な休講だからクレームが来たか?

 ドンコウは動くのに、何で特急をあっさりと止めるのかしらね?
「小松付近の強風のため運休」というのが、もひとつよく分からない。

 そういえば、この前の週末、武生への帰りの特急が、途中駅に停車した時のこと。
停車直前に、ホームに転落した酔っ払い(?)がいて、急停車。
その救助などに45分間停車。
それはいいのだけれど、その駅に降りる人もドアを開けてもらえず、45分間、閉じ込められたまま。
乗り継ぎのドンコウが2回、先に出ていきました。
「みすみす指をくわえて」とはこのことです。

 降りる人が「ドアを開けるように」と車掌に掛け合っていましたが、「指示が出ないので」で開けてもらえず。
現場の判断より、中央からの指示待つという不思議な不思議なJRのシステムです。

 しかし、教育の現場も、生徒・学生よりも「中央からの指示」の顔色をうかがうという点では、JRと大同小異かもしれません。

 とにかく、つかれた。
北陸はえらい荒れてましたよ。

が、「ドンコウ」って昭和語?
posted by CKP at 15:09| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする