2014年11月25日

死を認識する――埋葬義務の発生?

 動物は死を認識するか?
というか、死を認識するというのはどういうことだろう?
脳死なんて死の判定も出てきて、なんだかよく分からない。

 チンパンジー研究の松沢哲郎先生のインタヴュー記事が、編集部によってまとめられてゲラが送られてきました。
うまくまとめていただいたので、なんだか格調高い!知的!な対談!になっています。

 それで、なんとこのカドワキという人は上品で知的な人なんだ!と感心しながら読んでゆくと、チンパンジーがわが子の死を悲しむ場面をめぐる対話があって、松沢先生がチンパンジーも仲間の死を悼むというようなことをおっしゃっているのに対し、私が「でも葬儀はしないんですね」と確かめているところがありました。
それを読んで、なるほどそういうことかと膝を打ったのであります。

 死んだと認識するとき、人間は同時に「埋葬しなければならない」という義務を自覚する。
つまり、死という苦痛をもう一回繰り返して、何か別の世界を開かねばならない――そのような義務感に急き立てられるようになったのが人間であると、思ったのでした。

 幼い日、死んじゃった金魚を庭のつつじの根元に埋めてかまぼこ板を立てた――あの時、私はサルから人間に進化したのでした。

 だから、埋葬の義務を伴わない死の認識は、人間のそれではないということになる。
チンパンジーは仲間が死ぬと心配そうに、そして悲しげにその死体のそばにたたずむ。
それは、体が動かなくなってしまった仲間を心配しているだけかもしれない。
反応が返ってこないことを悲しんでいるだけで、「死んだ」という認識が形成されているかどうかはわからない。
死体が腐ってなくなれば、それまでである。
埋葬する、ましてや火葬するなんてことはない。

人間の場合、「死んだ」という認識に「じゃ、埋葬せねば」という次の行動が埋め込まれているのである。
それは、死体に対して自然とは別の力を加えて、死体の解体を早めることである。
しかし、そのことによって、死者の「想い出」という動物には不可能な次元が開かれる。
埋葬とか、葬儀とかは、よく考えてみれば、死をもう一度繰り返すことである。
わざわざ死の苦痛を繰り返す。
しかし、それは、ちょうど幼児が母の不在を遊びの中の「いないいない、ばぁ」で繰り返して言葉の世界に飛躍するのと同じように、人間に死者と交流できる観念的な世界への飛翔を促す行為なのである。

 仏教説話のキサ・ゴータミーの話もこの線で考えるとわかりやすい。

 そして、脳死に対する我々の違和感もこの線で考えるとクリアになる。
脳死という「死の認識」は、「死んだ」という認識に「じゃ、埋葬せねば」という行動ではなく、「じゃ、移植できる」という行動が組み込まれている。
これが、「死んだ=埋葬」という普通の死の認識と激しく違っていて、私たちは激しい違和感を覚えるのである。
この「死んだ=移植できる」という死の認識は、人間を別の生き物にしてしまうかもしれない。

 また、「死んだ=埋葬せねば」というのは、いわゆる二人称の死の認識であって、自分の死の認識というのは、これとは少し違うのではないかとも予想される。
このあたりも、丁寧に考えねばなるまいて。
posted by CKP at 17:07| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月21日

Jerrey Andrei Barash氏講演のお知らせ――想い出の楽友会館にて

京都大学の杉村靖彦先生から講演会のご案内がありました。
以下の通り。
絶対に書き間違えるので、杉村先生の案内文をそのまま張り付けました。
*     *     *     *
この度、京都大学宗教学研究室の主催で、以下の講演会を行うことになりました。

名称: Jeffery Andrew Barash氏 (フランス・ピカルディ大学教授)講演会
日時: 11月26日(水) 15h−17h
場所: 京都大学楽友会館2階講演室
司会・通訳: 杉村靖彦(英語での講演、原稿あり)

バラーシュ氏は、もともとリクールがシカゴ大学で教えていた時期の弟子であり、アメリカ出身でありながら長らくフランスの大学で教育・研究を続けてきた方です。
20世紀ドイツ思想における歴史哲学の系譜に関する優れた専門家として知られていますが、米・仏・独をまたいで氏が長年行ってきた研究は、リクールの『記憶・歴史・忘却』(2000)の批判的受容をも触媒として、「集合的記憶」という近年さまざまな意味で注目される概念を軸に総合の時を迎えようとしています。今回の講演では、氏の研究のこの面に焦点を当て、まもなく刊行予定の氏の最新作 Collective Memory and Historical Past の主要な論点をお話しいただくことになっています。
明晰で教育的な論じ方をされる方ですので、とくに予備知識も要りませんし、色々な意味で有益な講演になるだろうと思います。

事前に講演原稿に目を通したい方には、メールでお送りしますので、ご連絡下さい。当日は、講演原稿を配布した上で、内容を随時日本語で要約します。また、質疑応答は英語とフランス語で行いますが、全て通訳いたします。
皆様もご参加を心よりお待ちしております。
*     *     *     *
メールアドレスをここに張り付けるのもどうかと思いましたので、ご希望の方は↓をクリック!
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2011/08/ffe6e8940a6ecf307519906e5ce94a37.pdf
 しかし、こうした文章でも杉村先生の文章は明晰です。
 ところでーーと、ろくでもない話を始めます。

 講演会場が京大吉田寮の楽友会館の2階の講演室。
じつは私、ここで田中美知太郎先生に説教したことがある。
説教されたのではありません。
私がギリシャ哲学の碩学中の碩学・田中美知太郎先生に説教したのです。
恐ろしい話でしょ?

 田中先生が、右翼学生団体の主催する講演会で講演されるというので、その講演会をフンサイするために講演会室にランニュウしたわけです。
もちろん、文学部トーソー委員会十数人でランニュウしたのですが、間の悪いことに、私の目の前に田中美知太郎先生。
どうしようかな、と思いましたが、先生に
「われわれわぁー、なぜこのような乱暴狼藉をはたらいているのか。
この主催団体は、普通の学生を装っていますが、れっきとした右翼団体ですよ。
ですから、先生のご講演そのものをウンサイしたいわけではないんです」
と、説教というより言い訳を、しどろもどろになりながらしたという、今思い出しても冷汗が出る、想い出の楽友会館2階講演室なのでした。

 そんなわけで、今でも田中美知太郎先生の孫弟子にあたるギリシア哲学の泰斗・朴一功先生に頭が上がらないのでした。


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2014年11月20日

ヘーゲルってやっぱり大変!ーータヌキならど〜するぅ〜

 え〜、10月末日締め切りの論文を一昨日やっとこすっとこ書き上げ、編集委員に送信。
カントとヘーゲルのGeist(ガイスト=ふつう精神と訳されるドイツ語)の扱いの変化を、「夜と昼」あるいは「夢と現実」という視点で連続的に見てみるという論文であります。
「夜と昼のあいだに・・・」と歌ったのはピーターでしたね。

カントの心の奥にうごめくガイストに対する興味と恐れを書いていたら、枚数が尽きて、ヘーゲルに関しては大急ぎであらすじを述べるだけに終わりました。
で、そのあらすじを書きながら思いましたが、ヘーゲルってやっぱりすごく変なドイツ人ですね。
というのは、ヘーゲルの主著『精神現象学』に「精神的な動物の国と欺瞞、あるいは事柄そのもの」という節があるんです。
このタイトルだけで十分ヘンテコなんですけど、そこでの議論がやたらとめんどくさくて何を言っているのかわからない。
で、これが終わると「立法する理性・「法を吟味する理性」という節があって、この三つで「絶対的にリアルと自覚している個体性」という章を形成している。
カントを意識しているらしいのですが、なぜ、その第一番目が「精神的動物の国」なのかわからない。
しかし、そこでもやたらと「カテゴリー」というカントの用語は出てくる。
いろんな先行研究を見てもなんだかよくわからない。
ほんと、このヘーゲルというおっさんは何を考えているのか?

 で、いったい何が「動物」なのか、と思って読むと「特殊な有機体でありながら、そのままで普遍的な動物的生命」というフレーズが目に入ってくる。
またこの節全体でも、個別でありながら普遍的な行為というのが強調される。
つまり、一人の行動がそのままみんなの行動と重なるということが強調されているのです。
だから「特殊な有機体でありながら、そのままで普遍的な」というフレーズで、個体でありながら普遍的という生命のあり方が動物的生命だ、とヘーゲルは言いたいらしい。
なぜこんな個と普遍の行為の同一性をヘーゲルが強調しているのかといえば、これはどうもカントの定言命法つまりカテゴリー的命法を意識しているから、と推測するほかない(カテゴリーは出てくるけど、命法という言葉は出てこない)。
そこでは、個人の行動原理と普遍的行動原理が一致して、善なる行為の成立が目指される。
しかし、そんなものは形式としてだけ可能で、実際の具体的場面では成立しない(と、へーゲルは次の節の「立法する理性」でカントを批判する)。
しかし、それが動物的生命においては実現している。
というのは動物的生命とは「特殊な有機体でありながら、そのままで普遍的」だから。
一人一人の(?)動物が聞けば怒り出すだろうが、動物はこんな議論は聞かない。
しかし、動物の行為はすべてオッケー、いうなれば「すべて善」ということをどのように説明すべきか。
シマウマを食べるライオンの行為が悪とされては、ライオンの立つ瀬がない。
あるいは新たにボスになったオス猿が、前のボスの子供を殺して群れの雌ザル全員と交尾しても、このオス猿がことさら淫乱なわけではない。
「この人でなし!ケダモノ!」と雌ザルが抵抗するわけではない。
もともとケダモノなんだし。
かくして動物の行為においては、定言命法が実は実現してしまっておる。
つまり個の行動原理と類の行動原理が一致しているのである。
もし、定言命法が現実の行為に実現するとしたら、そのようにしてしかあり得ない。
じゃ、しかし善悪を行為において見出してしまう人間の場合はどうなのか・・・「法」というのはどのように成立したのか、つまり善悪はどのようにして動物と人間を分離したのか・・・という議論をヘーゲルはしようとしているらしいんですね。
すごくへんでしょ?

つまり、例えばカントが「自分の行為の信条が自分の意志によって普遍的自然法則になるべきであるかのように行為しなさい」(岩波版カント全集第7巻54頁)と書いてるのを読んで、ヘーゲルは、「自分の意志によってかどうかわからんが、動物はそうゆうもんや。そやから、動物は法を犯さない。動物の行為に善悪はない」とツイートしているということですね。
あの誠実なカントの文章を読んでいて、どうしてこうしたヘンテコな論理を思いつくのか、不思議です。
であるからして、善とは何かとかんがえるのでなく、気が付いたらある特定の事柄を善あるいは悪とするというようになった動物を人間というという発想をヘーゲルはしていることになる。
どこかで何かがひっくり返っている。
だからヘーゲルは、「いつだれが決めたかわからない」法が人間の基盤となると平気で断言するのであります。
そこにガイストが現象してると。

 というような話を、GPでの夕食時に隣にタヌキがいると、相談できてもう少しすっきりできるのになぁ…とタヌキの不在を少しだけ残念に思うのでした。
「タヌキな〜らどおゆ〜」と思わずいしだあゆみになって唄っちゃいましたよ。
しかし、そういえば、タヌキになりたがっている御仁もおられる。
が、その御仁には「タヌキの代わりは無理」と言っちゃったし・・・
しかし、その御仁、その無理の理由を縷々説明したブログを読んで、「私は、内面がすべて顔に現れるような浅い人間ではないぞ!」というようなご不満を漏らしながらも、メールに「タヌキになれぬ理由はだいたい納得しました」と渋々書いてこられたのですが、よ〜く読んでみると「タヌキになれる理由は・・・」とお書きになっている。
「ぬ」と「る」、似てますもんね。
というわけで、内面の深部にあるタヌキになりたい激しい願望は、こうしてタナゴコロ指すように、書き間違いとして表出されるのでした。
というわけで、それほどタヌキになりたいなら、一度、上のヘーゲルのカント批判についてタヌキのごときアドヴァイスを頂戴しよう。
ただし、「シマウマを食べるライオンより、交尾がすむとオスを食べるカマキリのほうがSMチックでおもろいんちゃうの」というのはなし!
posted by CKP at 14:25| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月17日

哲学科で総合力・基礎力を養成しよう――就職だってなんでもござれ!

 この前の土曜日は、朴パンダ一功先生と指定高校推薦入学の面接。
わが哲学科を志望してくださった高校生たちといろいろ歓談する。
一対一の面接だから相当緊張して始まりますが、どの生徒さんもこちらの質問をよく聞いてはっきり答えてくれたので、なんだか途中から「歓談」という感じになってしまいした。

 ただ高校の先生や友達、あるいは親御さんから「哲学科なんて、変わったところへ行くね」とか「就職ないよ」などという発言があったと聞いて、隣のパンダ先生は少し気色ばんで「それは違う!哲学は総合力を付けるんだ」きっぱり断言されるというシーンがありました。
わたしは横から見ていて、「やっぱりプラトンやアリストテレスを研究している人は、違うなぁ」とパンダ先生の雄姿をまぶしく仰ぎ見てしまいました。

 私は横から「・・・と、先生は親御さんに伝えてくださいね。就職だって、きちんとした卒論を書く人は、きちんと就職していくしね・・」とフォロー。

 面接の後、この哲学への偏見をいかに打破するかについて、しばしパンダ朴先生と協議。
一朝一夕にできるものではなく、正しくわかりやすく考えることの総合力・基礎力の養成を「地道にやってゆくぞ!」とシュプレヒコールを上げて、面接業務を終えたのでした。
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2014年11月12日

大谷大学文芸奨励賞ーー哲学科圧勝

 今年の大谷大学文芸奨励賞の入選者が発表されました。
今年のテーマは「異文化」。
それを50字までの短文で表現する。

 その文芸奨励賞の入選者13名中、哲学科学生が7名!
それに、最優秀賞1名、優秀賞2名、佳作10名のうち、最優秀賞が藤枝ゼミの西岡大輔君(4年)、優秀賞の谷山忠義君(3年)鈴木康太君(2年)が村山ゼミと最優秀と優秀を哲学科が独占!

 別に学科対抗でのコンクールではないけど、哲学科圧勝でありました。

 が、とほほなことに、わがゼミからは入選者なし。
あれほど「50字で表現して、最優秀5万円!一字あたり1000円!」と文芸を奨励していたのですが・・・
あまりにも、さもしい動機付けがいかんやったやろか・・・ちょっと反省。
posted by CKP at 15:40| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月11日

三千世界の論理を壊し一度タヌキを泣かせたい―「鷲田清一の顔」の現象学

 鷲田清一先生の名著『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)に次のような一節がある。

「じぶんのからだ、などとかんたんに言うけれど、よく考えてみるがいい。わたしたちはじぶんのからだについて、ごくわずかのことしか知らない。背中やお尻の穴をじかに見たことはない。いや、他人がわたしをわたしとして認め、覚えてくれるその顔を、よりによって当人であるこのわたしは一生見ることができない。鏡や写真であとで確認することはできる。が、わたしが他人に向きあっているときのまさにその顔(わたしそのもの)を、わたしは見ることができない。わたしをつくっているこの身体の内部となると、これはもうぜんぜんじぶんではわからない。どうも故障しているらしいと感じても、そこでなにが起こっているのか、じぶんではわからない。これ、ほんとうに「じぶんの」からだ?そう問いたくなるほどに、このからだはわたしから遠くへだてられている。からだのことを考えると、ニーチェが引いていたドイツの格言、「各人にとってはじぶんじしんがもっとも遠いものである」ということばがとてもリアルに思えてくる。」(18〜19ページ)

 もう20年ちかくも前(!)、この一節にはじめて触れたとき、シンプルだけど、誰もあまり問題にしないことをズバリと指摘され、衝撃を受けた。
「ほんとにそうだよな」と心底から共感を持って読んだことを思い出す。
その時はそう思ったのに嘘偽りはないのだけれど、著者ご本人の最近の言動に親しく接するとき「が、わたしが他人に向きあっているときのまさにその顔(わたしそのもの)を、わたしは見ることができない」という文章を、そのまま鏡にしてご本人の前にかざしたい衝動に駆られている。
わしばっぱご自身が、じぶんがどんな「顔」で「他人にむきあっている」のか、まったく自覚がないのである。

 わしばっぱの親友である池上哲司タヌキ之介先生に、訊いたことがある。
「鷲田さんて、マージャン強いの?」
タヌキ之介は、言下にニベもなく、
「よわい」
と静かに断定したのであった。
そして、その理由を次のように説明した。
「ぜんぶ顔に出るんだ。
 いい手が着たら喜色満面。悪い手が来たら、しょんぼり。
 マージャンにならないんだ。」

 「顔に書いてある」という表現があるが、わしばっぱの「顔」はまったくそのとおりで、すべてが顔に出る。
いい手が来ると「イイ手ガ来テ、ワタシハウレシイ」と顔に書かれる。
悪い手が来ると「ワタシハ、カナシイ」とその表情に大書される。
喜怒哀楽がすべて、顔に現象するのである。
ほんと、かわいいったらありゃしない。
「タナゴコロ指すように、考えていることがそのまま顔に現象するんだ」
と、タヌキはやれやれといった感じで付け加えたのであった。

 ご本人もその自覚はあったのであろう。
マージャンからは学生時代にそそくさと足を洗っておられると聞く。
そして、その自覚があった故に、「わたしが他人に向きあっているときのまさにその顔(わたしそのもの)を、わたしは見ることができない」と書くことができたのであろう。
マージャンでの数多くの負けの経験が、名著『じぶん』に結実したのである。

 しかし、今現在でも、ゼミなどの時、わしばっぱの「顔」は千変万化する。
学生の発表にときめくものを見つけると喜色満面、考えるべきポイントを見出すと額には深いしわ、つまらないときにはいきなり落胆はせず、教育的配慮からか、まじめな表情で丁寧に問題を指摘される。
したがって、マージャンやゼミにおける「鷲田清一の顔」の現象学は、ご本人の著書『顔の現象学』ほどには難しくはない。
学術的な文章になると、わしばっぱは微妙な問題を徹底的にクールに論理的に追い詰める。
読んでるとイライラするほど細かい。
が、そのクールでしなやかな文章の向こう側にトキメキをまさぐりあてると、一気にその論文が面白くなるのですね。

 対して、池上タヌキの「顔の現象学」は難しい。
喜怒哀楽をほとんど表情に出さない。
というか感情よりも論理で何ごとも判断されるので、マージャンにおいても「これはよくない」「これは勝てる」という判断はあっても、その判断が「だから悲しい」「だからうれしい」という感情にすぐさま結合される、ということがないのである。
ゆえに、マージャンがめちゃくちゃ強い(らしい…私はマージャンができないタイプなのでよく知らない)。
日常生活でも、同様で、物事の判断と感情がすぐさま結合されるということはない。
だから、常に「ニベもなく」「ミもフタもなく」事態の論理的構造的瑕疵を指摘するだけで、それが感情的表現になることはない。
せいぜい「やれやれ、ぜんぶ説明しなきゃ分からないのぉ?メンドクサイなぁ」という感情が表情に現出するだけである。

 ところが、このタヌキが東京に隠居したのを幸いに、わしばっぱが「おらぁ、タヌキの代わりをするぅ」などと言い出したのである。
「身の程知らず」とはことである。
ご自分の『じぶん』に何を書いたか、思い出してほしい。
感情の増幅器を体内に仕込んですべてを顔面に表出しているかのようなわしばっぱが、タヌキの代わりができるわけがない。
つねに、どきどきすること、胸がときめくことを、探しているわしばっぱが、常にクールなタヌキの真似をできるはずがないのである。
だから「それは無理」と申し上げたのだが、その後もメールで「やっぱり無理ですか?」と未練がましく尋ねてこられるので、今論文が仕上がらずにあせっているにもかかわらず、こうして一文をしたためているのである。

 ああ、めんどくせぇ!

 ところが、そのクールなニベもない断定の人であるタヌキの文章が、論理的にも関わらず、妙に叙情的なのである。
冷静な叙情をたたえた不思議な文章なのである。
『不可思議な日常』(東本願寺出版部)や『傍らに在ること』の読者なら共感してもらえるであろう。
そして、日ごろの言動でも、それが論理的なのだけれども優しいことばとなって現象することがあるのである(ごく稀にですけど)。
そんなタヌキの言動に、なにやら私的なことで東京まで出向いて相談したわしばっぱは、一人宿にかえって涙したという。

 しかし、こうして他者を泣かすタヌキではあるが、本人は泣かない。
わたしが何度も号泣したビデオを貸しても、
「なんで、あれで泣きゃなきゃいけないんだ」
とニベもなく問い返してくるのである。
ほんと、憎たらしいたらありゃしない。

 一度でいいから、そんなタヌキの論理の底にある叙情的な感情を刺激して、泣かせてみたい、というのがわたしの目下の夢である。
この夢に関してなら、わしばっぱと共闘してもいいと思う。
「タヌキを一度でいいから泣かしたい共闘会議」、略してT1INK会議結成である。

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2014年11月05日

大谷大学学園祭コンサートーー今年はスガシカオ!!

 あさって11月7日(金)から大谷大学学園祭紫明祭が始まります。
9日の日曜日には、プロフェッショナルのコンサートというのが恒例ですが、今年は、な、なんとスガシカオが登場。
「夜空ノムコウ」好きです!

 ふつう大学の学園祭というのは、これからメジャーの階段を駆けのぼろうという若いミュージシャンがやってくるのですが、シガスガオなんてメジャーの登場に「いったい、いくらかかったの?」と本気で心配してしまいます。

 しかし、シガスガオをそんなアコギな出演料を要求することはないでしょう。
それに、メジャーな事務所を辞めて、一から出直しているみたいだし・・・
むしろ、大谷大学で演奏するからには大谷の学生さんに聴いてほしいので、大谷の学生用の席を前のほうに確保してください、と言ってきているという噂を聞きました。
スガシカオって、やはりスガスガしいいい奴なような気がします。
このカタカナの名前って、やはりスガスガしさを意識したのでしょうか?
スガシカオは、「スガシ カオ」ですもんね。

 それとはカンケーないっすけど、私の場合、「カドワ キケン」って感じが、名前に埋め込まれて、凶暴な奴と無意識に感じられているのでありましょう。

詳しくはこちら↓
http://ch.nicovideo.jp/sugashikao/blomaga/ar643155?cc_referrer=ch
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2014年11月04日

迎えてよし、終わってうれしの報恩講ーー門前の小僧やーい

 先週、うちの寺の報恩講をお勤めしました。
前住職つまり父親の25回忌も同日に勤めたので大変でした。
が、改装なった内陣での多くの坊様方の荘厳な読経は、ぐっと来るものがありました。

 が、それまでの準備が大変。
内陣の飾りつけはもとより、本堂、庫裏の大掃除。
おまけに、そこに久しぶりのお葬式がよりによって前日に飛び込んでくる。
掃除の予定を一日繰り上げてシャカリキ(釈迦力?)になって掃除。
ああ、うちにも小僧さんがいたらなぁ…と思いながら縁側を拭いていました。

 しかし、かく言う私がまさしく「門前の小僧」だなぁと、この間、吉本隆明の親鸞論について論文を書いて、つくづく思います。
実は、私もちゃんと「経を習う」ということを、したことがない。
習わぬ経を読んで、ああだ、こうだと考えているだけである。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」なのである。
(「広辞苑」は、この「小僧」を「お寺の小僧さん」で解釈していますが、他はだいたい「お寺の近所の子供」の意味のほうが強いようです。)

 吉本隆明という人は、習わぬ経を読みながら「門前」にとどまった人だ。
そこを「吉本は親鸞を頭だけでわかろうとした」と批判することはできる。
しかし、吉本は、門内に入ってしまう問題性もよく理解していた人だと思う。
そのような吉本から見える親鸞は、「門」を破壊してしまったような人に見えていたようだ。

 門内に住んではいるけれど実際は「門前の小僧」でしかない私から見ると、親鸞は門に一歩足を踏み入れたけれども、そのことのむずかしさ、入りきってしまうあるいは入ったと思い込む危険性をよくわきまえた人のように思う。
自分の信心深さにふんぞり返る危険性がよく見えていた人だと思う。
このあたりが、親鸞の面白さでもあるなぁ、とガラス障子を磨きながら考えたのであった。

 えー、その吉本論は、おそらく3月ごろに世の中に出ると思います。
そのころ、また告知しますのでヨロシク!
posted by CKP at 14:55| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする