2014年09月30日

不安の音楽的表現――ハイデガーとシェーンベルク

メンドクサイ話をもう一席。

 前々回、ハイデガーの『存在と時間』(1927年)の中のアングスト(不安)の話を、『ティファニーで朝食を』との関連で書きました。
で、そのハイデガーの不安の具体的な表現、それも音楽的表現として、ちょうど同じころ作曲されたシェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲・作品31」(1926−27)を聴くのもよいのではないか、というご提案です。

 これは、いわゆる12音技法で書かれた、調性のない、不安な音楽です。
なにが悲しくって、こんなわけのわからん音楽を聴かねばならんのだ!と怒りだしたくなる音楽です、はっきり言って。
シェーンベルクという人は、20世紀初頭から調性のない音楽を書きだし、そして12の音階、ピアノで言えば白い鍵盤と黒い鍵盤のすべてを平等に扱う作曲技法を発明しました。
ドミソ(長調)とかラドミ(短調)の音が中心的に扱われるのではなくて、すべての音が平等に扱われるのです。
音階の共産主義といったらいいでしょうか?
ユダヤ人であったシェーンベルクが、共産主義者だったかどうかはまだ調べたことはありません。

 それはともかく、この12音技法は、調性がどこにもないということで、きわめて不安な音楽として迫ってくるのです。
ホーリー・ゴライトリーみたいに、いやな汗をかいてしまうのです。
前々回に引用したハイデガーの不安の説明とぴったりと重なるのです。

「・・・脅威となるべきところがどこにもないというのが、不安が直面するものの特徴である。
不安には、自分が何を前にして不安にかられているのかが『分からない』。
『どこにもない』というのは、しかし、何もないという意味ではなく、その中には、本質的に空間的な内=存在にとっての方面全般、世界の開示性が含まれる。・・・
脅威はすでに『そこに』在るのだが、それでいて、どこにもない。
窮屈で息もできないほど近くに迫っているのだが、それでいてどこにもないのである。」

「そこにあるのだが、それでいてどこにもない」ってのが、シェーンベルクの音楽にぴったり重なるのでした。
興味ある方は一度聴いてみてください。
不安になる、というより、怒りだすかも知れませんが・・・
私は、カラヤン×ベルリン・フィルの演奏しか知りませんが、LPもCDも持っているところを見ると好きなんでしょうね。
ホントは、わたし、暗い不安な性格なんですね。

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2014年09月29日

「心肺停止」って何?――なぜこの不自然な表現を使うのか?

 御嶽山の噴火で多くの方が亡くなれれた。
合掌。

 ただ「心肺停止の人が26人」とか述べる報道に接すると、「????」という感じになる。
「死亡した人が何人、心肺停止の人が何人」という言い方が耳障りだ。
昔からこんな表現をしていたっけ?

 おそらく病院で死亡が医師によって確認された人を「死亡」とし、それ以前の心肺停止の状態は確認できるが医師の診断を受けていないを「心肺停止のひと」といういうのだろう。
遺族に一縷の望みを、という配慮からそういわれているのならわからんでもないが、心肺停止のまま一昼夜過ぎれば、誰の目にも「死亡」は明らかであろう。
なぜ「心肺停止」という不自然な表現を使うのだろうか?

 「誤報」を恐れているのか?
それとも、死亡の判断は医者しかできない、ということなのだろうか?
確かに法律的にはそうだろうが、報道はそれとは違うであろう?
「死亡した見られる方が何名で、そのうち何名がふもとで医師が死亡を確認しました」でなぜいかんのだろう?

 というか、なぜ「心肺停止」という表現に目くじらを立てているのでしょうか、わたくし・・・
昨日から、すっごくイライラしてるんです。
posted by CKP at 20:19| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月24日

ハイデガーもティファニーで朝食を食べればよかったのにね――「いやったらしいアカに心が染まるとき」

 トルーマン・カポーティの、ということはオードリー・ヘップバーンの主演の『ティファニーで朝食を』に、いきなりドイツ語のアングスト(Angst)つまり不安が出てくる場面がある。

 ヒロインのホーリー・ゴライトリー(映画ではオードリー・ヘップバーン)が、飼っている猫に名前を付けない、そして「自分といろんなものごとがひとつになれる場所を見つけたとわかるまで、わたしはなんにも所有したくないの」と、階上に越してきた売れない作家に語るシーンである。
以下の会話を村上春樹訳で引用する(新潮文庫版、2008年、63ページから。読みやすいように、一文ごと改行してます)

 「そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかっている」、彼女は微笑んで、猫を床に下ろした。
「それはティファニーみたいなところなの」、と彼女は言った。
「といっても私が宝石にぞっこんていうことじゃないのよ。・・・・
私がティファニーに夢中になるのはそのせいじゃない。
ねえ、いいこと。
ほら、いやったらしいアカに心が染まるときってあるじゃない(You know those days when you've got the mean reds?) 」
「それはブルーになるみたいなことなのかな?」
「それは違う」と彼女はゆっくりとした声で言った。
「ブルーっていうのはね、太っちゃったときとか、雨がいつまでも降り止まないみたいなときにやってくるものよ。
哀しい気持ちになる、ただそれだけ。
でもいやったらしいアカっていうのは、もっとぜんぜんたちが悪いの。
怖くって仕方なくて、だらだら汗をかいちゃうんだけど、でも何を怖がっているのか、自分でもわからない。
何かしら悪いことが起ころうとしているってだけはわかるんだけど、それがどんなことなのかはわかからない。あなたはそういう思いをしたことある?」
「何度もあるよ。そういうのをアングスト(不安感)と呼ぶ人もいる」
「わかったわ。アングストね。なんでもいいけど、そういうときあなたはどんなことするの?」
「そうだな、酒をのむのもいい」
「それはやってみたよ。アスピリンもためしてみた。・・・・・
これまで試した中でいちばん効果があったのは、タクシーをつかまえてティファニーに行くことだったな。
そうするととたんに気分がすっとしちゃうんだ。
その店内の静けさと、つんとすましたところがいいのよ。
そこではそんなにひどいことは起こるまいってわかるの。
隙のないスーツを着た親切な男の人たちや、美しい銀製品やら、アリゲーターの財布の匂いの中にいればね。
ティファニーの店内にいるみたいな気持にさせてくれる場所が、この現実の世界のどこかに見つかれば、家具も揃え、猫に名前をつけてやることだってできるのにな。・・・・」

 映画でもほぼこの通りの台詞が展開される。
この箇所にいきなり出てくるアングストは、ハイデガーの『存在と時間』に出てくるアングストのことであろう。
カポーティーがハイデガーを読んでいたかどうかは分からないが、1958年に発表された英語の小説にアングストなんてドイツが飛び出してくるのは、何らかの形で、次のような『存在と時間』の一節が、この会話に反響しているのは確かであろう。
「第40節 現存在の格別な開示性としての不安という根本的情態性」から、高田珠樹氏の訳で引用(作品社版、2013年、278ページ)

「・・・脅威となるべきところがどこにもないというのが、不安が直面するものの特徴である。
不安には、自分が何を前にして不安にかられているのかが『分からない』。
『どこにもない』というのは、しかし、何もないという意味ではなく、その中には、本質的に空間的な内=存在にとっての方面全般、世界の開示性が含まれる。・・・
脅威はすでに『そこに』在るのだが、それでいて、どこにもない。
窮屈で息もできないほど近くに迫っているのだが、それでいてどこにもないのである。」

 これをカポーティー流に翻訳すると
「でもいやったらしいアカっていうのは、もっとぜんぜんたちが悪いの。
怖くって仕方なくて、だらだら汗をかいちゃうんだけど、でも何を怖がっているのか、自分でもわからない。
何かしら悪いことが起ころうとしているってだけはわかるんだけど、それがどんなことなのかは分からない。」

 そして、そんなアングストにいちばん効果があるのが「ティファニーみないな場所」だという。
これを、ホーリー・ゴライトリーは資本主義にどっぷりつかっている人物だとする批評は、浅いと思う。
そんな解釈じゃ1マイルより広いMoon Riverは渡れない。
彼女は「宝石にぞっこんだっていうことじゃない」とはっきりと言っている。
そこは、宝飾という「無意味性」が「つんとすまして」秩序立っている場所なのである。
ニーチェが、「最高の徳は稀有にして非実用的であり、光り輝きながらもその輝きは柔らかである」と、贈与された金の握りをもつ杖についてツァラトゥストラに語らせているが、そのことにも通ずるであろう(これについては『死ぬのは僕らだ』の第三章を参照してくだされ)。
無意味性が受け入れられる場所――そこではアングストも受け入れられる、そう考えるべきだろう。

 ハイデガーも、死を覚悟した民族主義的な共同体を考えるよりも、ティファニーで「無意味」が開示されている中に身を置いた方が、アングストをより豊かに考えることができたのではなかったか。

 こう考えてきてはじめて、私が京都大丸のティファニーに行ったときと妙にオドオドするというのが理解できた。
「ティファニー」という無意味性が開示された場所で、宝飾品を買って奥さんの歓心をゲットする「有意味」な行動をしようとしているからである。
ゆめゆめ、奥さん以外の誰かに何かを買おうとしてオドオドしていたわけではない。
念のため。
posted by CKP at 15:48| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月19日

便所の真ん中で「何故だ」と叫ぶ――追い詰められてヤケクソで書いてます

 締め切りが迫った論文二本でそうとう煮詰まっていたところに、8月31日締め切りの完全に忘れていたレポートを催促されて、やけくそになって書いてます。
はい、年に一度のスカトロ譚です。
「そうゆうクソみたいな文章は反吐がでる」という方は読まないでください。

 人間ドックの話であります。
人間ドックの憂鬱の種は、皆さんもそうでしょうけど、検便です。
前日あたりにおあつらえ向きのウンコが採取できるか否か・・・今、思い返してもドキドキします。
それで、人間ドック一週間前から、納豆やヨーグルト、漬物などの発酵食品を積極的に食べてその日に備えたのであります。
で、前日、洋式便所にいつもとは反対向きに坐って、お出ましを待ったわけです。
そしたら、努力のかいあって、ワタクシの排便史上、まれに見る見事なウンコがお出ましになったのであります。
硬さといい、量といい、色艶といい、太さといい、ほんと、惚れ惚れするような立派なウンコで、これならば人様に視ていただいても恥ずかしくない、という代物でした。

 そんで、おもむろに立ち上がり、振り向いて検便容器に採取しようとしたら、にわかにゴーという音がして、ウンコが流れ去るではありませんか。
「わ“−」
と叫ぶだけで、芸もなく見送るしかありませんでした。
ホント、あやうく手でつかみそうになりました。

 ウィシュレットを「自動洗浄」にしていたのでした。
このごろ自力でトイレまで歩けるようになった母親が使いやすいようにと、トイレが終わって立ち上がると自動的に流れるようにしていたのです。
すっかり忘れていました。
ああ、せっかくあんなどこへ出しても恥ずかしくない立派なウンコだったのに・・・

 しかし、ウンは我を見放しませんでした。
再び、便意をもようしてきたのです。
しめしめと、自動洗浄の「入/切」のスイッチを押して自動的に流れないようにして、さすがに量は少ないけどそれなりのウンコを採取しようとそのときです。
またもや、ゴーという音が聞こえてくるではありませんか。
私は思わずウンコに向かって
「何でやー!!!!!?????」
と叫んでしまいました。
しかし、決死の叫び声もむなしく、我がふたたびのウンコは、あっけなく流れ去っていってしまいました。
よく調べてみると、「入/切」のスイッチを機能させるもうひとつ別のスイッチがあったのです。
しかし、今頃気づいても後のカーニバルです。
下半身すっぽんぽんの間抜けな姿でCKP60は便所の中で途方にくれるのでした。

 ところがぎっちょン、あくまでもウンは我を見放さず、三たび、便意が襲ってきたのです。
いったい、どれだけ出てくるのでありましょうや。
というわけで、何とかウンコ採取に成功し、無事検便を提出することができたのでした。

 なお、人間ドッグの結果は、相変わらず、少しコレステロールが高めといったところで、ほかは異常なしでした。

 しかし、ウンコに「何でや」と問いかけても、ウンコも困ってしまいますね。
問いかけるべきは、TOTOの便器のほうでしたね。
posted by CKP at 22:45| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月13日

死は悲しいだけじゃない――教員免許更新シンポ備忘録

 8月末の教員免許更新のシンポのレポートの成績付けがやっと終わりました。
「いのちの教育」「いじめそして自殺の防止」という問題に関して、参加された先生方が生徒の顔を思い浮かべながらレポートを書いておられるので、たいへん読み応えがありました。
皆様、お疲れ様でした。

で、忘れないうちにシンポやレポートの感想を書いておきます。

「いのちの教育は可能か」というシンポのときのフロワーからの発言。
「母が亡くなったとき、なんだかほっとしました」
この発言に対して、私はお坊さんの立場から、「中陰のお参りの時には、そのような感覚を抑圧せず、むしろ引き出すようにしています」と応じました。
しかし、あとで考えたのですが、死を看取ったことのない生徒に、教室でこのような感覚を伝えるのは難しいなぁ、と思います。
下手すると「お母さんが死んだことが良かった」ということになりかねません。

 お坊さんとして七日ごとの中陰のお参りをしていると、
「これ以上看病していたら、こっちが先に逝ってしまうとこでしたわぁ。いやー。ええときに逝ってくれましたわぁ」
というようなお話を、しばしばお聞きします。
「ほんとに、ご本人もご家族もたいへんでしたね」
と応じます。

 看病でくたくたになっている家族を子供たちが間近で見ていないと「母が亡くなってほっとした」などという発言は理解できず、むしろ「いのちの大切さを軽んじる」発言に聞こえてしまいます。
しかし、こういう感覚を子どもに伝える、あるいは理解できる大人に育ってもらうというのは今後ますます難しくなってくるように思います。
死者に対するいろんな感情が抑圧されてややこしいことが起こりやすくなるような気がします。

 どうしたらいいのでしょう。

 次は、レポートを読んでいて気づいたこと。
シンポのお相手の桶谷先生の講義に対して「いじめというのは人間の心の傾向として最初からある、と考えるべきというお話にびっくりしました」という感想が多かったこと。
先生方は、「いじめはなくすことが可能」と思って真剣に「いじめ防止」に取り組んでおられたようです。
そこに、いじめはいわば人間の本性と言われてびっくりなさっている。

 桶谷先生は、傍観者をどのようにして仲介者にするかと課題を立ててお話されたようですが、もうひとつ、どうしたら「いじめられてもへーっちゃら」という感性を育てられるか、という課題を立てられるように思います。
ただし、この課題の立て方も、「じゃ、いじめを容認するのか」という発言を引き出しそうです。

 先の「母が死んでほっとした」も「死が良いことか」と言われかねないのと同じような問題がここにあるのでしょうか?
なんか、ありそうですね。
posted by CKP at 20:24| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大谷大学有志震災復興ボランティア第15便出発!

大谷大学有志震災復興ボランティア第15便が出発しました。

今回の活動は、岩手県八幡平市で300名規模の親子キャンプ「子どものつどい」の運営をお手伝いするとのことです。昨年も大学ボランティアはこのつどいに参加(第11便)しましたが、主に福島の子どもたちを迎えて、思いっきり体を動かして遊んでもらうという趣旨のものです。

いつも活動している宮城県よりもさらに遠くまでのバス移動ですが、みなさん元気に帰ってくることを願っています。
2014-09-12 18.36.31.jpg
活動の様子はFacebookで随時アップされます。
https://ja-jp.facebook.com/otani311
posted by (藤) at 01:03| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月09日

タヌキ恋いしやほーやれほ――CKPは謝罪する

 えー、池上哲司タヌキ之介さま及び読者のみなさま。
わたくしCKPは、このブログにおいて誤報を掲載してしまいました。
池上タヌキ之介先生の集中講義は8日からではなく本日9日からでありました。
誠に申し訳ありませんでした。

 この誤報には悪意などはもちろんなく、ただただタヌキ之介先生のお姿を一日も早く拝見したいというわたくしCKPの切ない願望から発した「あやまち」であります。
しかし、「あやまち」があったら「つぐない」がある。
これは、我々が昭和歌謡から学んだ人倫の真理であります。
よって、タヌキに対する「つぐない」は個別にするとして、ここに読者の皆様に、お詫び申し上げる次第であります。
どこぞの新聞社のように頬かむりするようなCKPではございません。
ところで、タヌキが頬かむりしている図というのは、なかなか味がありますなぁ。
posted by CKP at 15:50| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月07日

愛は雨の降るごとく――なかの綾『わるいくせ』イイ〜ネッ!!

「アナログレコードばかり聴いています」と言ったその舌の根のかわかぬうちに、先日購入したCDのご紹介であります。
以前このブログでご紹介した西陣の出身のホステスさんのなかの綾さんのニューアルバムです。
昭和のちょっと淫靡で切ない恋歌が綾姐さんのストレートでちょっと蓮っ葉なハスキー・ヴォイスで実に丁寧に唄われています。
妙な思い入れを排してさらっと声を投げかけるように唄うことで、こちらに歌がしっかりと伝わるのです。
気持ちいいっす。

そのうえに驚いたことに、冒頭からの三曲は「雨」の歌の三連発。
「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」「別れても好きな人」「雨の慕情」。
ラテンテイストにアレンジされたこれらの歌で、愛の不可能性が雨のように私の心に沁みるのです。
「雨の慕情」なんて、もとの歌より、雨に託された絶望感が伝わってきます。

それに我らがCKBの横山剣さんとの「別れても好きな人」がいいね、いいね、イイ〜ネッ!!であります。
別れた渋谷で別れた人に出会っても
「ここでさよならするわ 雨の夜だから」
という歌詞が説得力を持って唄われるのです。

もうすべてが良いのでありますが、「セカンド・ラブ」が、中森明菜とは違った魅力があってびっくりしました。
明菜のベスト盤とどちらを買おうかと一瞬迷ったのですが、この『わるいくせ』で大正解でした。
それに、ジャケットが大友克洋画伯の描き下ろし。
はいこれです↓(アルバム全曲のダイジェスト付き!)



ラストが「ちょっと待ってください」。
むかしむかし流行ったハワイアンの片言日本語と英語のチャンポン・ソング。
この曲は、アナログ・ドーナッツ盤でシングルカットされて発売されていて、それで聴くと
Never leave me KUDASAI
という歌詞が切なく響いて、綾姐さんの中にうぶで素直な少女の可愛らしさを発見してドキドキしてしまいます。
もちろんCDでも素敵です。
ようするにおじさん、もうメロメロです。
posted by CKP at 19:22| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月06日

アナログレコードはメンドクサイ――だから、とっても楽しい

 このごろアナログレコードばかり聴いている。

 今年の3月ごろ、レコードを聴いていたら、猛烈なハム音がしてきて、もう25年前のレコードプレーヤーだから寿命かな、と買い替えを決意しました。
が、その前にモノは試しと、接点復活剤というのをアンプの接続部分に塗ってみたのです。
そしたらビックリ!
高音はぐっと伸び、低音はぐっとしまり、中間部分はぐっと厚みが増して聴こえてきたのです。
こんな音がレコードの音溝に刻まれていたのか!

 それ以来、レコードばかり聴いています。
そして、スピーカーの下にブロックを敷いたり、ターンテーブルのゴムシートを変えたり、スタビライザーというレコード押さえを買ったり・・・

 音が微妙に変わるのです。
それが楽しい・・・五味康祐への道であります。

 古いレコードにはカビが生えたりしています。
ですから、タオルをよく絞ってゴシゴシきれいに磨いて聴きます。
手がかかります。
が、手がかかる分だけ、愛しいのであります。

 高校生のとき買ったピエール・モントゥーのモーツァルト。
このレコードについて吉田秀和がどこかで「雪解けの風」とか何とか書いていた意味がやっと分かりました。
キャロル・キングにジェイムス・テイラーとジョニ・ミッチェルがつけるコーラスのさりげなさがストレートに伝わります。
ソニー・ロリンズのサックスの力強さが迫ってきます。
「危険なふたり」のジュリーの必死さがたまりません。
しかし、一番びっくりしたのがホロヴィッツのピアノの音。
スカルラッティのソナタ集。
学生時代に買った日本盤の廉価盤だけど、ピアノの音のなんともいえない陰影が聴き取れるのです。
こんな音がしていたのか。

 アナログレコードというのは、わしばっぱ風に言えば音楽の「肌理」が伝わってくるのです。
もちろんレコードについた傷やホコリの音を拾ってパチパチちりちりという音もするのですが、それでもアナログのほうが、なんか、そのノイズ越しに音楽がよく見えるのです。

 もちろん、昔買ったレコードばかりではあきてしまいますから、新たにレコードを買います。
復刻高音質盤などもこの頃はアマゾンで買えるようになって来ました。
けっこう高いのもありますが、カルロス・クライバーがドイツ・グラモフォンの残した4枚のシンフォニーのアルバムが6,500円で買えたりします(←これは大正解の買い物でした)。
また、中古レコードを探すのも楽しいです。
京都は四条の十字屋さんでも中古レコード市というのがあって、ときどき掘り出し物があります(今までの一番の掘り出し物はショルティの『春の祭典』800円!でした)

 しかし、欧米の中古レコードというのも面白そうなので、ついに勇気を奮って、「ラ・ヴォーチェ京都」というクラシック専門の中古レコード屋に行ってきました。
はい、そのご報告はまたいつか。
なかなか味のある店で、以来、けっこう通っています、とだけ言っておきましょう。
posted by CKP at 20:42| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月04日

池上哲司先生の集中講義は8日から――「傍らにあること」

 池上哲司タヌキ之介先生の集中講義が来週の月曜日9月8日から始まります。
講義テーマは「傍らにあること」
筑摩叢書『傍らにあること』と同じです。
ただし副題が違っていて、集中講義では「私と他者の関係をめぐって」となっており、「老いと介護の倫理学」よりも広いお話になるのかも知れません。
いや、「私と他者」というのは、このブログで池上先生をタヌキ扱いしているこのカドワキとそのタヌキの関係をめぐる話なのかも知れません。
「カドワキはおれのことを邪悪なタヌキと書いているが、本物の池上は善良な好々爺である」という話に終始するかも知れません。
そこは実際に聴講してください。

 また、そのタヌキがホントに善良かどうか、ホントは邪悪なんじゃないと確かめたい方は、大垣書店本店二階に私の『哲学入門 死ぬのは僕らだ』と仲良く並んでいる『傍らにあること』を、両方とも購入し、タヌキの本にサインを求めてみましょう。

 いったいタヌキはサインに応ずるでしょうか?
「なぜサインしなきゃいけないわけ?」
というような反応が期待されます。
いや、退職してちっとは人間まるくなって、ホイホイとサインしまくるような気もします。
ここはちょっとタナゴコロ指すように想像できませんので、実際に試してみて報告してください。
posted by CKP at 17:35| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月02日

問題は今日の雨――「雨の哲学」はありか?

 昨日、雨の歌を思いつくままに並べましたがが、大切な歌を忘れていました。
井上陽水の「傘がない」です。
この歌に関しては拙著『死ぬのは僕らだ!』でカミュの自殺論の関係で扱いましたが、そのとき「雨」に関しては、あまり論じませんでした。
が、この歌、雨なしには成立しない歌です。
晴れの日に「傘がない」という情況は出現しないからであります。

 しかし、この歌もいきなり出現したのではなく、陽水さんの耳の底には、
「雨が降ります、雨が降る、遊びにいきたし、傘はなし・・・」
とか
「あれあれあの子はずぶ濡れだ、キミキミこの傘さしたまえ」
なんて童謡が響いていたでしょう。
そして何よりもボブ・ディランの「激しい雨が降る」「雨の日の女」なども影響しているのでありましょう。
その後は陽水さんは「氷の世界」へ行っちゃいましたけど。

 ユーミンでは「12月の雨」とか「雨のステーション」。
RCサクセッションでは「雨上がりの夜空に」で雨はあがっていたか・・・
『ザ・ロング・バケーション』は「雨のウェンズデイ」ってのがありました。

演歌・歌謡曲も、「小糠雨降る御堂筋」などと、いっとき雨のオンパレードでしたが、そのあと「雪」に行ったようでした。

 文学方面はいかがでしょうか?
モームのずばり『雨』。
読んだことないけど『雨の朝、パリに死す』っていうのフィッツジェラルドでしたでしょうか?
日本では井伏鱒二の『黒い雨』しか、今は思い浮かびません。
村上春樹に雨のシーンってあったでしょうか?
わたしらが幼し頃よくコントで使われていた「月様、雨が」「春雨じゃ、濡れていこう」ってのは、いかなる作品に出てくる台詞なのでしょうか?

 映画では『七人の侍』の猛烈な雨とか、『ティファニーで朝食を』のラストシーンの雨なんてのが印象的です。

 では哲学では?
ワタクシの乏しい知識では「雨の哲学」というのは思い浮かびません。
『パンセ』ぐらいにありそうですが、どうでしょうか?
ここは『おとなの背中』の鷲田先生に『雨の日のおとな』というのをひとつ書いていただきたいものです。
霧雨、小糠雨のようなシルキーな文体で、おとなの哀愁を哲学していただきたいです。
いやいや人生相談で「もてる男は聞き上手」と若い男の子を諭しておられるから『相談室は今日も雨』ってのはいかがでしょう。
posted by CKP at 21:36| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月01日

子ども顔が多すぎる――Have you ever seen the rain?

 夏休みの終わりに、『団地ともお』の木下ともお君や磯野カツオ君それにちびまるこチャンに心から共感している私が言うことではないが、最近、「子ども顔」の大人が多すぎるように思う。
号泣会見の兵庫県の県会議員や女子中学生をラインで脅していた大阪府議はもとより、国会議員や政治評論家などにも「子ども顔」が多い。
そんな感じがし始めたのは、M下政経塾の議員が増え始めた頃からだろうか?

 この前の自殺してしまった笹井氏も年齢のわりには顔が幼かったように思う。
それにアベシンゾー君なんかも、どちらかというと「子ども顔」だ。
この二人の「子ども顔」に関しては、久しぶりにうちの奥さんとも意見が一致した。
よかった!
安保大臣にはなりたくない!とダダこねていた御仁も歩く姿が小学生みたいだ。
討論番組で相手の意見を聞かず怒鳴り散らす評論家もそんな感じ。

 皆さん、大人になるのを忘れてしまったのかしら。

 昔の政治家、例えば後藤田某とか大平首相、政治評論家では藤原ナントカとか細川ナントカとかいう日曜の朝に放談していた方々の「顔」は、苦虫をつぶしたというか味があるというか、なんとも大人な顔をしておられました。
今、あんな顔をあんまり見ませんね。
なぜか?

 それは雨の歌が唄われなくなったからである。
「城ヶ島の雨」「雨降りお月さん」という古典流行歌は言うに及ばず、「たどり着いたらいつも雨降り」「長崎は今日も雨だった」、ジュリーだって「雨がしとしと日曜日・・」「小雨降ればひとり待つニーナ・・・」と唄っていた。
「雨の外苑、夜霧の日比谷・・」は新川次郎(二郎?)
いくらでもでてくるなぁ。
洋楽でも「雨にぬれても」「悲しき雨音」「雨に消えた初恋」「ウォーキン・イン・ザ・レイン」、それにジリオラ・チンクェッティのずばり「雨」。

「ベンチもブランコも、メリーゴーラウンドも、みんなみんな雨にぬれてねずみ色・・」
この童謡のタイトルが思い出せない。
子どもが「雨にぬれてねずみ色・・・」なんて唄っていたのである。
人生、晴ればかりじゃないよ・・・と幼心に感じていたのである。

 広島の大災害のあとではちょっと言いにくいが、『聖書』などでは、雨、洪水というのは人間の限界を強烈に提示する表象となっている。

「雨」というのは、何かを諦めるときの表象。
つまり、自分の限界を明確に自覚するときのイメージなんだろうと思う。
だから雨と失恋というのは、ぴったり合う。
ユーミンの「くもり空」なんていうのは、その予感でありましょう。

 あの苦虫をつぶしたような顔のおじさんたちは、どんな雨を見たのでしょう。
アカシヤの雨?
そういえば「雨をみたかい?」なんて歌もありました。
Have you ever seen the rain?
posted by CKP at 20:36| Comment(2) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする