2014年07月31日

なぜ『A LONG VACATION』は『A LONG V-A-C-A-T-I-O-N』なのか?――楽しい哲学のために

 池上タヌキの介とわたくしCKPの、数少ない共通のフェイヴァリット・ソングに平浩二の「バスストップ」という楽曲があります。
これです↓



つまり、タヌキもわたくしも「あやまち」系の歌たまらなく好きということでありましょう。
上の動画で静止しているお姉さんが好き!ということではありません、念の為。ま、嫌いじゃないっすけど。

 この「バスストップ」に関して、近田春夫氏が「歌謡曲って何だ?!」というラジオ番組で、「この曲の本歌は、プラターズの『オンリー・ユー』である」と指摘されていました。
これです↓



たしかに、フィーリングがおんなじです。
『アメリカン・グラフティー』のこの曲が流れる名場面を思い出しますね。

カーラジオで近田氏からこれらの二曲についての関連のご指摘を聞いて、なるほど、「バスストップ」はズブズブのムード歌謡の歌詞なのに、妙にバタ臭いのはそのせいかと、思わず膝を打ったのは、クルマを運転していたわたくしでした。
タヌキもわたくしもこの「バタ臭さ」が好きということでもありましょう。

 で、確かにポップスって、いろんな「本歌」を発展させながら繋がっているなぁ・・・
『A LONG VACATION』もフィル・スペクターやキャロル・キングそしてビーチ・ボーイズの「本歌」が曲の向こうに聴こえるもんなぁ・・・

 と考えているとき、雷鳴の如く、突然、なぜ大瀧詠一氏が『A LONG V-A-C-A-T-I-O-N』と表記したのかが理解できたのでした。
これ、1981年の発売以来、ずーっとアタマの片隅で謎となっていたのです。

「V-A-C-A-T-I-O-N」はヴァケイションなのですけど、ハイフンを意識して訓むと、そうですね、「ヴイ、エイ、スィー、エイ、ティアイオーエヌ」と発音せねばならないのです。
そう、コニー・フランシスの、そして弘田三枝子も唄った『ヴァケイション』であります。
このアルバムの全体の「本歌」にコニー・フランシスの『ヴァケイション』があったのですね。
いちおう念のため。これです↓



 ポップスって、このようにいろんな楽曲が絡まりながら、そして相互にリスペクトしながら展開されているのがよろしいなぁ、と思ったのです。

 それに比べると、哲学の世界って、どちらかというと先達の作品を罵倒することで、自己の優秀さを誇示する傾向があって、なんだか嫌な感じです。
ポップスのように、先輩方の仕事をリスペクトしつつそれを発展させるという具合になったら、楽しいだろうな・・・などと考えてしまうのでした。

 時間とありもしない能力をつぎ込んで、こんなことを考える暇があったら、せっせと哲学書を読んだり論文を書いたりすべきでありましょう。
もう千以上のブログを書いてきた労力を論文執筆に充てれば、いったいどれだけの論文が書けたでありましょうや。
そうしていれば、わたしもそれなりの学者になれるんでしょうけど・・・

 などと考えていたら、わしばっぱの「そうゆうクダランことに血道をあげるのが、カドワキさんのええとこやないの。それ取ったら、な〜んも残らんよ」とのたまう声が聞こえてきました。
最近は、タヌキばかりかわしばっぱのおっしゃりそうなこともタナゴコロ指すように想像できるようになりました。
posted by CKP at 13:17| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月29日

いのちは育むもの――教えるものではない

 長崎の女子高校生殺人事件に関するNHKの報道で、長崎県の先生方が取り組んでおられる「いのちの教育」について「実を結ばなかった」というニュアンスで報じられていた。
この報道に接して、なんだかとても嫌な気持ちになった。

 ひとつは、このような事件が起きると、学校の教育が問題にされること。
さまざまな要因が重なってこのような事件が起こるのに、なぜ学校の教育だけが問題にされるのか?
誰か悪者を探して、それを叩くのが報道の使命と考えている報道の在り方にウンザリする。
もちろん、今の段階で長崎県の先生方が取り組んできた「いのちの教育」を叩こうとしているわけではないが、とりあえずどこかに負の要素を探そうとする報道姿勢にとても嫌な感じがした。

 と同時に、「いのちの教育」に真面目に取り組んでおられる先生方の姿も、なんだか悲しいものがある。
その姿が真面目であるだけに、余計に悲しくなる。
先生方は、「いのちの大切さ」が、世界史や数学を教えることができるように、「教える」ことができると思っておられるのだろうか?
なぜ、「いのちの大切さ」は学校で教えられる、ということになったのだろうか。
なんでもかんでも学校ではできません!という声がなぜ上がらないのだろうか。

 当該の高校の説明会で、父母から「ショックを受けた生徒に対する「こころのケア」に高校が取り組むように」との要請があったという。
それは家庭でやってください・・・今の教育現場はそういうことが言えない状態に置かれている。
なんでもかんでも行政や学校任せにする・・・このような現在の市民の在り方を助長している原因のひとつが、報道の学校叩き・行政叩きだろう。
市民は悪くない、悪いのは教育だ、行政だ・・・このような報道が市民には心地いいということだろう。

 いのちが生まれ、そして死んでいくのは家庭や地域であろう。
そこで、個々のいのちが大切に育まれてゆくことが基本であろう。
そして、それは「いのちの終わり」をきちんと見送ることでもあろう。
posted by CKP at 18:24| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月26日

君のいない 夏もやっぱり A LONG VACATION――無茶

暑いです。
まだ大学は完全な夏休みにはなってませんが、あまりの暑さにあのプールサイドのイラストの「A LONG VACATION」のLPレコードを取り出して聴きました。

 ああもう大瀧詠一さんは亡くなっちゃったんだ、と思うと、もうレコードの溝に刻まれているどんな音も聴き逃すまいと耳を傾けてしまいます。
ホントにいろんな音が聞こえてきて、改めてこのアルバムの完璧さにびっくりしています。

 しかし、完璧すぎて息苦しいということがない、というところがたま凄いです。
完璧なんだけど、力がぬけている。
脱力感が気持ちいいのだけれど、すべての音はもうこれ以外にはありえないという形で配置されている。
しかし、もう大瀧詠一さんはいないんだなぁ・・・

 というわけで「君のいない」というのは、京都にいなくなったタヌキのことでありません。念のため。
posted by CKP at 11:23| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月23日

ナポレオン・ソロはやっぱり復活できないのか?!←―しつこさも、おそれイリヤのクリヤキン

 昨夜、一晩考えましたが、やっぱり、悪者がはっきりしない現時点では、ウクライナから中東へかけての状況をめぐるスパイ映画を構想することは難しいような気がします。
ヒットラーですら、ドイツの頂点に立った時には、アメリカの「タイム」誌の表紙になったり、ノーベル平和賞候補になっていたらしい。
現在の世界情勢も、帰趨が判明しないと、映画に出来るような悪玉が誰かは分からない。

 別に誰からもスパイ映画の監督しませんか、と誘われているわけではありませんが・・・

 まずはウクライナのスボボダという極右過激派の反ユダヤ主義団体を悪玉にできそうな気がします。
しかし、ウクライナ人の反ユダヤ主義というのも調べてみると、これがなんとも悲しい歴史でなんですね。
ウクライナというのは、ソ連崩壊で初めて国家になった。
つまり、それまでは、ポーランドやロシア・ソ連に支配され抑圧されてきたのでした。
その抑圧されてきたウクライナ人は、その悔しさの矛先を移住外国人なかでもユダヤ人に向けて生きてきた。
また、ユダヤ人の多かったソ連政府に飢餓政策でウクライナ人の4分の1が死んだ、と言われている。
そんな恨みから、ナチスが入ってきたとき、一緒になってウクライナ市民はユダヤ人を虐殺したという。
負の連鎖の結果としてのユダヤ人差別。

 だからといって、ユダヤ人差別が許されるわけはない。
しかし、現在のイスラエルの常軌を逸したガザ攻撃もひどすぎる。
どうしちゃんたんでしょう?イスラエル。

 ウクライナの反ユダヤ主義を欧米が見て見ぬふりをしているのにイスラエルは怒っている・・・あの攻撃に、そんな怒りが見えてしまいます。
また、世界中で反ユダヤ主義が台頭しているのを肌で感じていて、世界中の同朋に、「君たちの帰る場所は、私たちがどんなことをしても守る」とアピールしているようにも見える。
少なくとも、いつユダヤ人差別の嵐が吹き荒れるかも知れないと警戒しながら生きている世界各地のユダヤ人にはそのように見えるのではないか。
世界中で貧富の差が広がっている今、怒りの矛先がユダヤ人に向けられるといういつものパターンが繰り返されるのではないかとユダヤ人たちは怖れている。
また、イスラム勢力にも「君らが内ゲバをするのは勝手だが、イスラエルへの手出しは絶対に許さない」と牽制しているようにも見える。
が、それにしても市民への攻撃はひどい・・・

 あのあたり、まるで日本の戦国時代みたいになってしまいました。
まったく私たちの生活から遠いようですが、石油だの天然ガスなどを通じて、確実に日本にも関係してきます。
スパイ映画なんか構想している場合ではないのでしょうが・・・
憎しみの連鎖を断ち切るような「政治工作員」というのはいないものでしょうか?
posted by CKP at 16:55| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月22日

2020年代にスパイ映画は復活するか?――「悪者」は誰だ!?

 少し前の記事に連続テレビスパイ映画「ナポレオン・ソロ」のことを書いたら、コメントをいただいた方から、イリヤ(ことデヴィット・マッカラム)が、現在もお爺さんとなって活躍(?)していることを教えていただいた。
おられるんですね、ソロとイリヤの根強いファン。
貴重な情報のお礼に『ソロにボンドにクリヤキン。スパイだヨ!全員集合』というトホホなネーミングのCDがあることをお知らせします。
1960年代のスパイ映画のテーマ音楽を集めたCDであります。
「バークにまかせろ」のテーマもありますぞ!

 1960年代は、スパイ映画の花盛りでした。
なにせ第二次世界大戦後のソ連と冷戦という状況においては、「悪者」が明確でしたから、スパイ映画が作りやすかったのだろうと思います。
ナチスの残党とソ連を「悪者」にすれば、見る方はたいへん分りやすかったのであります。
また、いろんな秘密兵器が映像に花を添えました。

 しかし、冷戦終結以降、スパイ映画は難しくなっている。
トム・クルーズの『ミッション・インポッシブル』なんてスパイものがありますが、アクションは凄いのだけれど、いったい敵が誰だったのか、あとで考えるとよく分からなかったりする。

 現在の同じような経度で起こっているロシア―ウクライナ、イスラエル―パレスチナ、そしてイスラム諸国家の戦国時代的状況を見ると、いったいどの勢力を「悪者」にしていいのか分らない。
なかなか映画にはならないのではないか、と思います。

 しかし、一時は存在意義を喪失しかけた「秘密工作員」の方々が、あちらこちらで入り乱れ、情報を入手れたり流したり、あるいはいろんな政治工作をして混乱を作りだしているのだろうな、と想像いたします。
だもんで、いったい誰がワルモノで、誰が善玉なのかよくわからない。

 日本の戦国時代などもいろんなスパイがうごめていたのでありましょう。

 旅客機「誤射」事件では、ロシアおよび新ロシア派が、限りなく「誤射」した可能性が高い、
しかし、そもそもこの紛争、いっけんウクライナ=善玉、ロシア=悪者という図式ができそうだけど、そもそもなんでウクライナにロシア語を母語とする多くの人々がいるのか、分からない。
ソ連崩壊の時の国境の「線引き」が間違っていた、という話なのか?
それに、ウクライナの反ロシア勢力の過激な部分は反ユダヤ主義であるというのも事態をややこしくしているように思われます。
イスラエルの無茶な動きも、このことと関係があるんだろうか?

 というわけで、今のいざこざが第3次世界大戦に広がらないことをひたすら祈るのみである。
が、このいざこざが収まったとき、現状況におけるスパイ諸君の活躍が2020年代スパイ映画の百花繚乱という事態を招くことになるのでしょうか?
どこかの国が覇権を完全に握れば、その「敵」が「悪者」として決定されるのでしょうか。
そうなるには、現在の世界状況はあまりにも複雑すぎると思います。
もう「ソロにボンドにクリヤキン」などという分かりやすい時代は、もう戻ってこないのではないでしょうか?
posted by CKP at 18:08| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月21日

「秀吉はいつ知ったか」――山田風太郎が推理する「中国大返し」

 昨日の大河ドラマ『黒田官兵衛』では、本能寺の変での信長の死を伏せながら、毛利と和議の談判を進める黒田官兵衛の姿が感動的に描かれていました。
岡田准一クン、かっこいいっす!

しかし、山田風太郎は、この秀吉の毛利との和睦そして京都へと向かう手際よさに疑問を呈している(「秀吉はいつ知ったか」、同名書所収、筑摩書房、2008年)。

「二日信長の死、三日秀吉これを知る、四日(備中高松城を守る清水)宗治切腹という手際が、あまりにスムーズ過ぎるのではないか、というのだ。
 事件は京都と備中にわたる。電話も電信もない時代の話である。」(191ページ)

 京都と備中つまり岡山とは距離200キロ。
風太郎先生にしたがって時間の経過を見ると・・・
天正10年6月2日朝、本能寺の変
       午前10時ごろ、密使京都出発。
6月3日午後10時ごろ、秀吉、その密使より信長暗殺の情報入手(36時間で200キロ踏破)。
6月4日午前10時ごろ、清水宗治切腹。
   午後4時ごろ、毛利、信長暗殺を知る
   午後8時ごろ、高松城水責めの堰を切って姫路へ出発。
6月7日か8日、2万の大軍、姫路に到着(姫路と岡山80キロ)
6月8日午後11時ごろ、姫路を出発。
6月13日、山崎の合戦。光秀討たれる。

まず、ほぼ一日半で「信長、暗殺」の情報を秀吉が受け取っているということ、当時の道路状況と梅雨という天候を考えると、これは不可能だと風太郎先生はおっしゃる。
(風太郎先生、1967年にイギリス人のある兵隊が44時間で251キロを歩きとおした記録を参照しておられる。これとほぼ同じスピードで当時の道を検問体制をかいくぐって移動するのは不可能とおっしゃる。)
また、午後10時に「信長暗殺」の情報を得て、真夜中に毛利と談判し、翌朝に清水宗徳切腹というのはあり得ない、と推理される。
真夜中に、それまでの和議の条件を大幅に緩めて談判に来られたら、毛利はそんなものには乗らなかったであろう。ならば、その和議の談判はおそらく、4日の昼から行われたであろう…ということは、秀吉は事前にこの「本能寺の変」を察知し、連絡網を作っておいて、信長の死を確かめて毛利と和議を結び、京都に一番乗りをした・・・つまり、秀吉は光秀をそそのかし信長を暗殺させ、そしてその明智を討った。
そもそも、高松城の水攻めにしてから、いつでも京都に一番乗りできる場所でダラダラと膠着状態を作っているのがおかしい・・・・

・・・風太郎先生は、かくのごとく推理されているのである。
官兵衛の
「殿、お花見のときは来てござる。花の下で大ばくちをやる時が来てござるぞ」
という『川角太閤記』に見える記事を、風太郎先生はそのように読んでおられるのであります。
また、官兵衛だけの手柄ではなく、蜂須賀一党のスパイ活動の成果を風太郎先生は重く見るのでありました。

 もちろん、「本能寺の変」は秀吉が仕組んだ、などという記録は一切ない。
そんなものを残しておいたのでは、とても天下を取るなどという偉業は無理だった、ということでありましょう。
もちろん、真相は藪の中でありますが・・・

 まずは情報戦ですなぁ・・・などと思っていたら、さる情報大好き御大から電話がかかってきて、
「××クンて○○の親戚筋ちがうのぉ?・・・キミ、そんなこともしらべてないの!?あかんやないの」
と馬鹿にされたというか叱られたというか・・・。
はい、私はスパイにはなれん正直CKPです。

posted by CKP at 20:27| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月18日

ザ・タイガース、東京ドーム・ライヴ――そこは巨大な同窓会会場だった

 この前の土曜か日曜日、寝る前にテレビを見ていたら、ザ・タイガースの昨年の東京ドーム公演をやっていました。
もちろん、最後まで見てしまいました。
ピーもトッポも参加しての、久しぶりのオリジナル・メンバー揃い組。
岸部シローも車いすで参加していました。
みんな60歳をとっくに過ぎて、また見ているほうもおじさん・おばさんばかりで、東京ドームが巨大な同窓会会場になっていました。

 昔を懐かしがるだけではない。
60を過ぎて、こうして再開できるのを、ファンもメンバーも、いろんな思いで噛みしめているのが、なんともうれしゅうございました。
 
 あの頃の未来へと続く希望の橋は次々と焼け落ちてしまっていて、しかし、何とか今日の日までそれぞれ生きてきたことを言祝ぎ、そして、残り少ない未来をそれなりに生きていこうねとお互いに確認しあいながら、そんなそれぞれの「今」をじっくりと味わっている風情が、心地よいコンサートでありました。

 30代、40代のころの同窓会は、それぞれの「今」が違いすぎて、ひたすら「想い出」を語り合うことになりがちだけど、50歳を過ぎると、不思議なことに「今」を共有できるのです。

 しかし、でも、やっぱり、ひげ面の貫録十分のジュリーもいいけど、やっぱり昔のいろっぽいジュリーの「君だけに愛を」を聴きたくなって、というより見たくなってしまいました。
それに、ひっさ〜〜〜しぶりに「落葉の物語」を聞いて、その曲がヒットしたころ、タイガースが唄っていた、
「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートはめ・い・じ・・・・」
というコマーシャル・ソングのジュリーの甘い歌声が聴きたくなりました。

posted by CKP at 20:40| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月15日

親鸞の「告白」――これは「ポエム」なのか?  

 先週は週末は、愛知県は碧南市でお坊さんや門徒の方々の前で、金・土の二日間で合計すると10時間近くお話をしてきました。
これだけいろいろしゃべっていると、途中から何を話しているか自分でも分からなくなってきます。
それでも、熱心に聞いてくださる皆さんのおかげで、今まで考えていた問題のそのもひとつ先までお話しすることができたと感じたことが二度、三度ありました。

 そのうちのひとつに、親鸞が自分の悪を告白するのに、なぜ歌や対句などの詩的表現を用いるのか、という問題の向こう側に抜けられたということがありました。

 親鸞は、自分の煩悩具足の様子を次のように表現することがあります。
たとえば『教行信証』の「信巻」では

誠知、悲哉、愚禿鸞、
沈没於愛欲広海
迷惑於名利太山・・・

和讃では

悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑行なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる

 自分の否定的側面を叙述する時、なぜこのような対句とか和讃のような形式でまとめるのか――これが、私の長年の疑問でした。
自分が愛欲の海に沈んでいる、名利の山に迷っている、そんなことをこんな対句にまとめて、
「しめしめ、なかなかうまくまとまったわい」
と、満足していたのでしょうか。

 自分の「蛇やサソリのような心」を和讃にまとめて、
「うん、うまく五・七でまとまった」
とニンマリしていたのでしょうか?

 倉田百三などは、親鸞は形式など無視して自分の心の中をさらけ出した、などということをどこかで書いています。
形式は内面を抑圧すると倉田は考えています。
しかし、親鸞は、けっこう形式にこだわります。
いったい、なぜ、親鸞は形式にこだわるのか?

 そんなことをお話しているとき、アウグスティヌスの『告白』での「悪行の告白」のことも、ちょっと思いついてお話してみました。
お話してみて、なるほど、そういうことか、と膝を打ちました。

 親鸞も、アウグスティヌスが神に「告白」していたように、阿弥陀仏に告白していたのではないか。
それゆえ、自分の煩悩にまみれた姿を形式的に整えて、仏の前に差し出したのではなかろうか。
親鸞の詩的表現は、自己を超えた存在に自分をさらすということではなかったか?

 それは、たしかに詩的な表現だけれども、自己完結した「ポエム」ではない。
「ポエム」として読んでしまうと、親鸞を通じてひたすら自己を語る、という自己完結したブンガクになってしまう・・・
アウグスティヌスにしても親鸞にしても、そのようなブンガクという誰に語っているのか不明なものとして読むと、ひたすら空回りをしてしまうのではなかろうか・・・・
告白は超越者に開かれていなければならない。

 私としては「なるほど、そうゆうことか」という体験でした。
「思いつき」というのも、たまには言ってみるものです。
お前の話は、「思いつき」ばかりじゃないか・・・と言われれば返す言葉のないわたくしCKP60ではありますが。
 それともこのブログ、「ポエム」なんだろうか?

posted by CKP at 19:29| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月13日

あれま、懐かしイリヤのクリヤキン――長生きはするもんだ

 60歳以下の方にはわからない話です。

 アマゾンで探し物をしていたら下のページに出くわしました。
http://www.amazon.co.jp/0011%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD2-DVD-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%B3/dp/B00DQO1222/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1405257465&sr=8-1&keywords=0011%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AD

ハイ、うれし懐かしの『0011ナポレオン・ソロ』ですがな。
そう、ロバート・ボーン演ずるナポレオン・ソロとデビット・マッカラム演ずるイリヤ・クリヤキン。
秘密警察アンクルが悪の組織スラッシュと戦うスパイ物の連続テレビ映画。
番組中、ちょとした「お色気」シーンがあって、中学生の私は隣で見ていた父ちゃんと妙に気まずくなりながらも、ゴクリと生唾を飲みながらもしっかり見ておりました。
(かの橋本治に「ロバート本」と「デビット100コラム」という本がありました)
 
 しかし、日本語版はのちに作られた映画版のみ。
あのアンクルのおじさんも死んじゃって、ソロもイリヤも少し歳をとっている。
しかし、矢島正明と野沢那智の軽妙な吹き替えがたまりません。
この二人の吹き替えでなきゃ、「0011ナポレオン・ソロ」とは言えません。
 
 どんな絶体絶命の危機に際しても、スケベ心は失わず、かつ詰まんない冗談を言い合う、という危機対処法は、この吹き替えによるソロとイリヤに教わったのでありました。
ほんとにおそれイリヤノ・クリヤキンな番組でした。


posted by CKP at 22:34| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月10日

隠れた名著はなぜ隠れてしまったか?――加藤尚武『ヘーゲルの「法」哲学』

 今年は大学院生だけに開講されている授業で、ヘーゲルの『法の哲学』について講義をしている(というか、『法の哲学』を読みながら、解説している)。
そのとき、大いに参考にしているが加藤尚武先生の『ヘーゲルの「法」哲学』(青土社、1993年)である。

 この本が出た時は、ヘーゲルとシェイクスピアについて論じるということはヘーゲル研究において「あり!」なんだということを教えられて、「ヘーゲルとハムレット」をテーマにしていた私は大いに勇気づけられた。
が、今回、久し振りに読みなおしてみて、この本がヘーゲルの『法の哲学』を解読した論考として、非常にスッキリとして分かりやすくかつポイントをついた本であるということに改めて気がついた。
しかし、20年前に出版されたこの本は、現在絶版状態で文庫化もされていない。
言わば「隠れた名著」。
ところが、古本市場では500円ぐらいで手に入るようだから、その筋では「名著」認定を受けていないのかもしれない。

 しかし、ヘーゲルの権利についての、あるいは人格についての加藤先生の根本からの考察は凄いとしか言いようがない。
わたしは、この本を読んで、今までサッパリ頭に入って来なかった「法」を論ずるヘーゲルがはっきりとし像をむすびました。
そして、そのヘーゲル像が精神現象を論ずるヘーゲルと、私のポンコツ頭の中ではじめて結びついたのでした。
そ、そ、そうゆうことだったのか!!!!
(で、書いたのが「サッカーにおける『ゴ〜〜〜ル!』とは何か」だったんですけど・・・加藤先生、スミマセン。)

ああ、それなのに、なぜこの「名著」は隠れてしまったのでありましょうや。

 一つには、加藤先生の乾いた文体が読みにくいということがあるかも知れない、と思ったりします。
加藤先生は、おそらくヘーゲルを教祖様のようにありがたがるヘーゲル研究のあり方を意識的に拒否して、脱宗教的つまり世俗化された文体でヘーゲルを描こうとしておられるのではないか。
それが、妙にサバサバした文体で、はじめて読むと読みにくいかも知れない。
なんでこの人はこんなに不機嫌なんだろう・・・と思う読者もおられるかもしれない。
が、それはいつもの加藤先生の文体なのでありました。

 むしろ、加藤先生は独特のユーモア感覚の持ち主なのです。
この本の各章の前には次のような「男と女の会話によるそれまでのまとめ」があります。

「女―貴方、私を抱くことができるかしら」
 男―君の腰にこうやって手を回して、君の髪の毛が僕の肩にかかり、僕たちは耳と耳を寄せ合った形になる……
 女―このままの形で話を続けましょう。
  貴方はどうして私を抱いているって言えるの。貴方が今抱いているのは私の身体。それは私のものよ。私の存在は、その物である身体の所有主体なの。貴方は所有主体である私を抱くことができない。
男―僕が君を抱くとき、あるいは君と愛の営みをもつとき、ぼくはきみを所有しているとすれば、それは僕の身体なのだろうか。・・・・・・・」(58ページ)

といった調子です。
ちょっと、困りませんか?
私は、ちょっと困ってしまいます。

「あとがき」には、

「今回、単行本とするにあたって(『現代思想』連載時の)各回のまくらに当たる部分を、男女の対話に書き改めた。」

とあります。
単なる、前回までのまとめとしての「まくら」を、わざわざこのような「男女の対話」にした、と加藤先生、相当の自信で書いておられます。
が、いかがなものでしょう。
ヘーゲルを教祖様と崇めるヘーゲル研究者は、当然「何じゃこりゃ」と怒りまくるでしょう。
ここは加藤先生の狙い通りでありましょう。
しかし、ヘーゲルの法哲学をちょっと知りたいとパラパラめくった読者にも、少し違ったニュアンスで「何じゃこりゃ」でありましょう。
この場合は怒るのではなく、困るのであります。

 このようにして、この名著は隠されていったのではありますまいか。

 たしかに「あなたを抱く」とは、いったいどうゆうことか、というのは興味ある問題ですし、男女の対話にすれば、その問題の切実さ、生生しさが伝わってくる・・・そのような工夫であることはよ〜く分かる。
そのような問題がヘーゲルの法哲学で解けるなんて、素敵だと思う。
そうは思うのだが、中途半端というかあり得ないというか、何もこんな「男女の対話」にしなくても・・・と思うのは私だけでしょうか?

 加藤先生には、『ジョークの哲学』という著書もあって、ご自身、ジョークのセンスには相当の自信をお持ちのようなのですが、申し訳ないけど、どうも私のジョークのセンスとは合わない。
ま、授業で学生たちを白けさせるジョークを連発している私が言うのもナンですけど・・・

なんだか、他山の石を見て、大いに反省してしまう話になってしまいした。

加藤先生の『ヘーゲルの「法」哲学』は、各章の冒頭の「男女の対話」の少し残念なセンスをぐっと飲み込んで拝読すれば、その「男女の対話」に展開される考察も含めて、名著であると、わたくしは声を大にして主張するものであります。
古本でも買っておくべきです。

posted by CKP at 13:50| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月09日

オレって案外いい人なのかもしれない――先週の「こころ旅」に涙する

 先週の金曜日、火野正平さんが秋田県小坂町を訪ねる「こころ旅」を観ていて、涙ぐんでしまいました。
お父さんが退職する日、同じ職場で働いていた娘さんが、まじめに働いてきたお父さんにお茶を出す、という手紙を火野さんがよむのを聞いていて、グッスン、泣いてしまいたした。
こんなとき「オレって案外いい人だなぁ」と思ってしまいます(と、こんなことを書いてる時点で、その良さは一気に減点されますが)。

しかし、このようなことを言うと、あの池上哲司タヌキの介は必ずこういうのです。
それはもうタナゴコロ指すように、想像できます。
「なんで、火野正平が手紙を読むのを聞いて泣かなきゃいけないいんだ?それに、なんで泣くから《いい人》ってことになるんだ?そこに論理的な関係なんかないじゃないか」
こう言うに決まってます。
ホントに憎たらしいったら、ありゃしない。
ああ、そうでございます。
「泣くこと」と「いい人」には、何の論理的関係もございません。
・・・と書いているだけで、腹が立つ。

 が、このタヌキ、このブログで書かれている自分の記事は案外気にしていて、
「君のブログを読むと、まるで俺が邪悪なだけの人間みたいじゃないか」
などと抗議してくるのです。
まったく「どの口」が、そのような口を叩くのでしょうか。

しかし、このタヌキ、実は案外やさしいところがあるのです。

 大学からの帰り道、年老いた犬がしんどそうにしていると「よしよし」と近づいて行って、飼い主がそばにいると「何歳ですか」などと訊いたりする。
歩行器を押しながら信号を渡るのに苦慮している老人がいると「大丈夫ですか」と、何の躊躇もなく手を差し伸べたりするのである。

 まるで、凶暴な荒れ狂う心を制御できない不良少年が、ふとした瞬間に見せる底なしの優しさのようなものを示すことがあるのです。

 ま、たま〜〜に、のことですけどね。
あ、ふだんの池上タヌキが「不良少年」というのではないですけどね。

 で、私の方は、「こころ旅」の池田綾子さんが歌うテーマ曲を聴くだけでも泣けるようになって、「いい人」度が最近とみにアップしているのでした。
はい、池上タヌキが言うとおり「いい人」と「泣ける」は、何の必然的関係はありませんけどね。


posted by CKP at 12:23| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月07日

ヘーゲル的、あまりにヘーゲル的な――サッカーにおける「ゴ〜〜〜ル!」とは何か

 いよいよワールドカップもベスト4まで出揃いました。
しかし、ネイマールの勇姿がもう見られないのは痛恨の極みです。

 ところで、今回の大会の解説で「ポゼッション(possession)」という言葉が、やたらとつかわれておりました。
ボールを所有しているということですが、しかし、プレイしている間はたとえボールを敵から奪ったとしても、その所有権が認められているわけではありません。
メッシといえども、二人がかり三人がかりでボールが奪われることがあります(それをかわしながらドリブルで突進するメッシ、すごいですね)。
つまり、ピッチの中では、ボールは誰の所有物にもなっていないのです。
だから、奪い合いができる。

 ですから、「このボールは俺たちのものだ」と自陣に持ち帰ると勝利となりそうなものですが、そうならない。
ご存知のとおり、相手のゴールに蹴りこむとポイント1を獲得するということになります。
せっかく自分のものにしたのに、なぜ相手のゴールに蹴り込んで「くれてやる」のでしょうか?

 この奇妙な行為は、贈与ー反対給付という考え方から理解できます。
つまり、相手からボールの贈与を受けたならば、そこに負債つまり負い目が発生し、ポイント1を献上しなければならない。
ポイント1の負債を抱えてしまうわけです。
ですから、そのポイントを帳消しにするには、相手のゴールにボールを贈与しなければならない。
もらいっぱなしでは負けなのです。
年賀状のようなものです。

 出してない相手から年賀状が来ていると、そこに負債が発生します。
その負債を取り消すには、すぐさま年賀状を返さねばなりません。
そのとき「早々に年賀状ありがとうございました」と書くと、負債は完全に取り消せませんから、いかにも最初から出してます、という風情で返事を書いているせこいヤカラがおりますが・・・
毎年、年賀状のやり取りで、サッカーのような激しい攻防が繰り広げられているのでした・・・

 ところで、贈与が発生するには、そのボールが蹴りこむ側の所有物であることがそれ以前に承認されていなければならない。
そうですよね。
あなたの所有物をいただいた・・・だから、申し訳ない、お返しをしなければ・・・ということで「負債感」が発生するんですよね。

 ところが、ピッチ内では常にボールの所有は移動し、固定した所有権は確立されず、ときにはオウンゴールといって、味方のゴールに自分で「贈与」してしまうこともある。
それでも一点となる。

 あくまでも「ゴール=贈与」と考えた場合、その贈与されたボールの所有権はどこで承認されているのでしょうか?

 そこで、ヘーゲル先生の登場です。
ヘーゲルが生きていたとき、ドイツでサッカーが盛んだったという話は聞いたことがないし、ヘーゲルもサッカーについて論じている形跡はない(と思う)。
が、所有権ということについては、いわゆる「法の哲学」という著作で、くどくどと述べています。
例の「ここにバラがある、ここで踊れ!」とか「ミネルヴァのふくろうは夜になって飛ぶ」という有名な言葉が序文に出てくる本です。

 この場合、「法(Recht)」というのは、「法」というよりも権利それも所有権のことです。
しかし、所有権というのは、絶海の無人の孤島でいくら主張しても何の意味もないものです。
誰もいないの「このバナナは俺のものだ」と力んでみても、むなしいだけです。
他人が周りにいて、その他人に承認されて始めて「うん、たしかにそれは君のもの」ということになるわけです。
というわけで、この本ではこの他人がどんどん増えて市民社会そして国家まで論じられるのでした。

 が、ここではそこまで風呂敷を広げないで、「契約」つまり交換や贈与という二人の人間の間の所有物のやりとりについて、ヘーゲルが述べている文章を見てみましょう。

「私は所有を外的な物件として手放すことができるだけでなく、概念によって、所有を所有として手放さなければならない。そのようにして、私の意志は現に存在するものとして、私にとって対象化される。しかし、この対象化という契機によって、私の意志は、手放された意志であるのと同時に相手の意志である。ここで概念の必然性がリアルなものになるだが、これは区別された意志の統一であって、この統一において両者の違いと独自性は放棄される。」(第73節)

 ボールという外的物件を手放す――ゴールに蹴り込むというのはそういうことです。
しかも、それは「所有(物)」として手放さなければならない――つまり、あげます、このボールの所有権を放棄してあなたに贈りますということです。
このとき、私の意志が対象化される。
逆に言えば、私の意志を確認できる主体が成立する。
ボールを所有していたがそれを贈与する、と自覚しているというわけです。
絶対このボールは誰にも渡さない、と言っていたのでは主体は成立しないのです。
絶海の孤島では、「誰にも渡さない」とボールにしがみついても、誰も取りに来ません。
ましてや、誰にも贈与することでもできません。

 この贈与する主体の成立には、相手が必要なのです。
そこに、贈与の相手と「私」の関係が成立します。
むしろ、贈与の意志は相手の受諾の意志を前提にしています。
「これ、どうぞ」
「いや、そんな、いただけませんわ」
「まあ、そう言わず」
「いや、そんな悪いわ」
「そんなことおっしゃらず」
「そお?そんなら、いただいておくけど、今度またお返ししなきゃね」
とならなければ、私の手放す意志は宙に浮いてしまいます。
相手の受け取る意志によって、私の手放された意志はその意志とひとつの統一体を作るのです。

 私は君からの贈りものであるボールを受け取る。
受け取ることによって、私にはポイント1の負債が生じる。
なぜならば、このボールは君の所有物であるからだ。
私がこのボールを君の所有物であると承認してはじめてこのボールの贈与が成り立ち、ポイント1の負債を負うということが、共通の意志となる。

 つまり、ボールを贈与として認めた瞬間に、そのボールの贈与者の所有権が確認されたのでした。
ボールがキーパーの手をすり抜けて「ゴ〜〜ル!!!」となった瞬間に初めて、それ以前の所有も認められるのです。
そして、その放棄である贈与による負債つまり一点ビハインドという事態が成立したのでした。
そこに成立したポイント1の得点と負債に置いて、両者の共通の意志が確認できるわけです。

 この共通の意志が、概念の必然的な運動のリアルな結果なのです。
そして、これこそがヘーゲルの言う理性なのでした。
理性的なものが現実的であり、現実的なものが理性的であるということは、サッカーというボールを互いに贈与しあうゲームにおいて見事に成立しているのでありました。

 アタマの中でだけで理想的な「自分たちのサッカー」を描いて、現実には相手から贈与されっぱなしというのは、非理性的かつ非現実的なサッカーというべきでしょう。

 なんだか冗談みたいな話ですが、見事につじつまがあっています。
ワールドカップ全試合を見るという夢の退職生活を満喫しているであろう池上タヌキの介、そして暇を見つけて試合をチェックしているプラトン・パンダやナベちゃんが、サッカーに熱中するのは、実は彼らは「隠れへーゲリアン」だったからなのですね。
posted by CKP at 21:06| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月05日

伊福部ゴジラ参上!――7月6日午後11時!!

 前の記事で伊福部昭のゴジラの音楽について書きました。
昨日、NHKを見ていたら、明日(7月6日)午後11時からBSプレミアムで、伊福部昭とゴジラというテーマの番組が予告されていました。
佐野史郎さんが案内役ですと。
楽しみ!!!

それに昨日は「もののけ姫」をやってましたね。
しし神→でいたらぼっちって、ゴジラみたいだなぁ・・・とみていました。

というわけで、CKP60の「ブログでツイート」でした。

ああ、ネイマール!
posted by CKP at 11:06| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月02日

ゴジラのかなしみ――もの言わぬ原始

 久しぶりにCDを購入しました。
『これが伊福部昭だ!』
伊福部昭(いふくべあきら)といえば、泣く子も黙る、憤る大人もニッコリしちゃうあの『ゴジラ』の映画音楽の作曲者。

 というわけで、このCD、ゴジラの足音と咆哮で始まります。
そして、あのテーマ。
ゴジラ・シリーズの他の音楽と一体となり「SF交響ファンタジー」として演奏されています。
それに、他の代表的な「交響譚詩」と呼ばれる音楽や舞踏音楽、アイヌのイメージした音楽などなど(伊福部は北海道出身)。
武満徹の繊細で洗練された和的現代音楽とは違う、土俗的で力強く、野蛮な大地の力を感じさせる音楽。
しかし、どこか物悲しいんですね。

 とりわけ、ゴジラのぐんぐん迫ってくる合奏も、どこか悲しげな響きを持っている。

 ゴジラは、水爆実験で目覚めた恐竜。
放射能を身にまとい、人間と和解することなく、破壊の跡だけを残して、最後には海底に滅んでゆくゴジラ。
人間の文明の生活は、ゴジラの犠牲の上に成り立っている…などと考えると、伊福部昭の音楽が、ストラビンスキーの「春の祭典(春の供犠)」のようにも聴こえてきます。

 また、この物言わぬ怪獣が滅んでゆく姿を思い起こすと、宮崎駿作品に出ててくる物言わぬ巨大な生き物が崩れ落ちてゆくシーンを思い出します。
ズブズブと溶けて解体してゆくナウシカの巨神兵。
飛べなくて地上に落ちてしまう『魔女の宅急便』の飛行船。
『もののけの姫』の溶けてゆくでいたらぼっち。
言葉の世界に人間が飛翔するためには、これらのもの言わぬ原始が犠牲にならねばならない。
ゴジラの咆哮には、そんな悲しみが響いているように思うのです。

 ただ一箇所、サツキとメイをおぶった(というより二人がおなかにしがみついてる)トトロが飛びながら咆哮するシーン。
あのシーンには、ようやく人間と仲好しになって、飛ぶことができたゴジラの悦びの声が背後から響いてくる・・・そんなあり得ない場面のように感じます。
トトロの背後にはゴジラがいるような気がするのです。
(というようなことを誰かが言っていたような気がする。宮崎監督本人?それとも、おいらの空耳?)

 私の小学生時代の、今でも思い出す夢の一つに、ゴジラが近くの町を破壊しながら、うちに近づいてくる・・・という夢があります。
もちろん、あまりの恐さに目覚めましたが。
それは、私の中の物言わぬ原始との別れを表現している夢なのかな、とも思っています。

posted by CKP at 20:11| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする