2014年06月30日

古代ギリシア本流の「哲学入門」――朴一功訳『プラトン・エウテュデモス/クレイトポン』刊行!

 我らが朴一功大谷大学教授の翻訳されたプラトンの『エウテュデモス/クレイトポン』が京都大学学術出版会の西洋古典叢書の一冊として、6月の始めに刊行されました。
7月にならないうちに、ご紹介いたします。

 わたくしCKPカドワキは、この二つの作品のことは、今まで知りませんでした。
しかし、この二つの作品、とりわけ「エウテュデモス」は、プラトンによる「哲学のすすめ」つまり「哲学入門」と、朴先生の解説にあるではありませんか!
『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』などという世間をなめきった本とは違う、哲学本流の入門書であります。
襟をただし、首を洗って、精進潔斎して拝読しましたがな。
朴先生の翻訳で100ページくらい。
読みやすい量です。
しかし、読んでみて、ビミョー・・・?って感じになりました。

 なるほど、こりゃ「哲学=高尚=難しい」とイメージされている日本なんかでは有名でないはずです。
この作品、どちらかというと喜劇なんです。
朴先生も「楽しい作品」と解説されています。
もちろんソクラテスによる「哲学のすすめ」の部分はまじめでわかりやすい議論が展開されているのです。
ところが、タイトルになっているエウテュデモスというスポーツ万能選手とその兄弟がソフィスト的議論を展開するのですが、これがどうもプラトンによって「当てこすり」というか「おちょくり」の対象として描かれているとしか思えないのです。
彼らの議論、その最後など、私は池乃めだか師匠の「これくらいにしといたる」を思い出してしまいました。
あるいは「したっかぶり」をおちょくる落語の「酢豆腐」(関西では「ちりとてちん」)を思い出してしまったのです。

 どうもソクラテス、プラトンの昔から哲学というと知ったかぶりをして、訳のわからない議論をするヤカラがおったのでしょう。
「哲学を《知ったかぶり》と取り違えたらあかんよ」
そうプラトン先生は、朴先生を通じて、はるか未来の私たちに警告してくださっているのでしょうか?

 と同時に「知恵を用いる」ということをさかんに強調するソクラテスは、生きることを離れた議論に陥ることを戒めているように思います。
議論に勝つことが哲学ではない。
知恵をよく用いることが哲学の目的だ、というわけです。

 が、一度、じかに読んでいただきたい。
古代ギリシアの「笑い」が伝わってきます。
ソクラテスやプラトンって、懐が深いぞ。

哲学って、やたらと小難しい顔をして読むだけじゃないいんだ・・・朴先生のクリアな翻訳が、この大切な事柄を教えてくださいます。
もちろん、注や解説はかゆいところに手が届くがごとく、親切です。
ああ、そこそこ、って感じてありがたいです。
古典叢書としては、珍しく3,000円を切って2,800円。
元はじゅうぶん取れます!
なにせ、哲学本流の哲学入門です。

 また、もうすぐ世界思想社から発刊される『プラトンを学ぶ人のために』も合わせて、どうぞ!
これにも朴先生が書いておられます。

 この頃、今まで通い詰めた「綱道」を裏切り、1楽にそそのかされて「あいおい」での昼食を主張する朴先生ですが、この二冊の本に免じて許しましょう。

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2014年06月24日

吉永進一先生ご講演――2014年度大谷大学宗教学会「大拙忌」記念公開講演会

 今年も大谷大学宗教学会「大拙忌」記念公開講演会が開催されます。
「大拙」とは、生前、大谷大学で教鞭をとっていた世界的仏教学者鈴木大拙のこと。
その大拙の命日(1966年7月12日)前後に、大谷大学宗教学会では公開講演会を開催することになっているのでした。
今年は、7月3日に舞鶴高専の吉永進一先生をお招きして、大拙も西田幾多郎に大推薦していたウィリアム・ジェームズについてのお話をしていただくことになりました。

 吉永先生は、学界では、明治期の仏教研究において最近は著名な研究者でありますが、その研究視点の根本にはジェームズ研究があったのでした。
で、今回は、そのジェームズの主著である『宗教的経験の諸相』について、「再考」するというお話になるそうです。
「再考」は、「最高!」でもあるようです。
きっと、最高!なお話になると思います。
多くの皆様のご来場をお待ちしております。

第33回「大拙忌」記念公開講演会
講師:吉永進一氏(舞鶴工業高等専門学校准教授)
講題:「宗教的経験の諸相、再考」
日時:2014年7月3日(木)午後4時20分より(6時には終了)
会場:大谷大学 尋源講堂(赤レンガ2階)
申し込み不要、聴講無料
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2014年06月17日

出でよ!日本のドログバ!!――サッカーも大切だけど政治もね

 いやー、すごかったですね。
コートジボワールのドログバ選手。
彼が登場するだけで、ピッチの雰囲気がガラッと変わりましたね。
「存在感」というのは、あのような選手のことを言うのでしょう。

 コートジボワールの選手たち、サポーターたちにとって、ドログバという選手は絶対的に信頼できる存在。
それば、テレビで見ているだけでもビンビン伝わってきました。
40歳に近くなり90分はとてもピッチに立てないということで、後半の途中からの出場となったのでしょうか。
しかし、そうして途中から登場したほうが、ガラッとと試合の流れを変えてしまうから、よけい効果でした。
ホント、あっという間に変わってしまいました。

 このドログバという選手、そんなにサッカー・テクニックが凄いのか、と調べてゆくと、サッカーだけではないんですね。
ドログバという選手は、サッカーばかりでなくコートジボワールの政治においても重要な発言をしている。
北と南がにらみ合って内戦続く祖国に停戦を呼び掛けたり、開発の遅れた北部でサッカーの国際試合を行って、北部の指導者から「平和」を目指す発言を引き出しているんですと。
そのような活動とと脅威のサッカー・テクニックが一緒になって、ものすごい存在感・信頼感を醸し出しているんですね。

 日本にもこんな選手、いてほしいです。
良い成績をとると、首相と一緒ににこやかに写真に収まるだけでなく、ガツンと物申すような選手・・・
「こうやってスポーツで思いっきり戦えるのは、政治の世界が平和だからこそです!」くらいは言うべきでしょう。
そんなこと言うと、その世界で叩かれるのでしょうか?
(私もこの場所では政治的発言をおそるおそるやっているので、大きなことは言えませんが・・・)

 しかし、ワールド・カップのあいだに、日本の政治もえらいことになっています。
この時期を狙ったのでしょうか?
サッカーも大事ですけど、今の日本の政治も大切です。
ホント、サッカーに夢中になれるのも平和なればこそ、ですもん。

 ドログバが入ると、敵は泥沼やね・・・などとダジャレを言っている場合ではありません。

 なお「風邪は治りかけが肝心」とエラソーに説教たれたバチが当たったのでしょうか。
この土・日は風邪がぶり返し、サッカーは見ねばならないわ、政治の心配はせねばならないわ、檀家さんへお参りに行かねばならないわ、寝ていなければならないわ、で大変でした。
posted by CKP at 16:13| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月12日

人生、下り坂最高!――風邪は治りかけが肝心!!

 絶不調から「絶」が取れて、ただの「不調」まで来ました。
しかし、風邪は治りかけが肝心です。
そして、「人生、下り坂最高」と自転車を駆る火野正平さんの「にっぽん縦断こころ旅」という番組が最高です。

 火野正平さんが視聴者からの手紙に綴られた想い出の場所を自転車で訪ねるという番組。
ただそれだけの番組なのですが、これがなんだかジーンとくるというか、ひたひたと胸に迫るものがあるというか、とっても佳い番組なんです。

ふつうの人々のふつうの人生にも、忘れられない場所がある。
その場所を「人生、下り坂最高」と火野正平さんが訪ねる。
あの「女たらし」で有名、というよりそれだけで有名だった火野正平さんが、そういう場所を訪ねるのが静かな感動を引き起こすのでしょうか?
ふつうとはちょっと違った人生を歩んで来られた火野さんが、ふつうの人生を自転車で辿る、そこがいいのでしょうか?

 道中の人々とのやりとりを見てると、この火野正平という人がなぜあんなに異様に女性にもてたのかが分かるような気がしています。
ほんと、中学生のころから、なんでこの小柄なサル顔のあんちゃんがいろんな女優さんにもてるのか、不思議でした。

 その長年の謎が解けてきたのです。
火野さんは、誰にでも、ホントに気軽に声をかけます。
オネエちゃんにもオバちゃんにも、自然に声をかける。
しかし、妙にべたべたしない。
さらりと分け隔てなく声をかけます・・・ああ、これができたら、オイラの人生ももう少し華やいだものになったかも。
別に今の人生に不満があるわけではありませんが・・・

 それに、しょーもないダジャレでも、臆面もなくさらりと言ってのける。
「オレも65歳になって高齢者、高齢者はコレ!」

 となってくると、どこかわしばっぱと火野正平さんが重なってきます。
わしばっぱもダジャレはもちろんのこと、わりと誰にでも声をかけます。
両者ともちょっと「おばさん」的なんですね。
だから、女性にもてる――わしばっぱの講演会というのは、どうゆうわけが妙齢の女性が妙に多い。
別に妬んでいるわけでないですけど。
あ、もちろん女性だけでなく、地下鉄で行儀の悪い小学生もキチンと叱りますけどね。
しかし、小学生はあんまり講演会には来ない。

 しかし、火野正平さんは「女たらし」という人生のけもの道をこれまで登って来られたからこそ、「人生、下り坂最高」ということになるんだろうし、わしばっぱの場合は、ファッション哲学とか臨床哲学という哲学のけもの道を切り開いて登って来られたから「人生、下り坂最高!」ということになるのでありましょう。
この間の講演で、火野氏と同い年だといっておられたそうです。
しかし、まだライフ・ワークの「所有論」が完成していない(?)から、まだ「下り坂」にはなっていない。
胸突き八丁といったところでしょうか?

 私の場合、まだボーっとしているから、今歩いている道が上り坂なのか下り坂なのか分からない。
まさか、マサカではないでしょうね・・・う〜ん、もひとつでしたね。
posted by CKP at 16:10| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月11日

メンドクサイの練習――他者の考えを理解するのはメンドクサイぞ!だから面白いぞ!!

 絶不調、継続中であります。

 このような状況で何がメンドクサイと言って、他人の書いた文章を解読する、それも異国の言葉で書かれたややこしい文章を理解するほどメンドクサイことはない。
印刷されたアルファベットが、単なる模様にしか見えない。
なんでこの模様が、意味を持つ文章になるの、不思議である。
ただ茫然と眺めるだけである。

他人の考えを理解するというのは、実はものすごく体力を消耗させることなのであった。
しかし、少しぐらい熱があっても休むわけにはいかないと、本日もハイデガーの『存在と時間』の原書講読の授業をやってきました。
学生諸君は「そんなに無理せず休講にすればいいのに」という顔をしていました。
みんな優しいのであります(と思います)。

 で、何が言いたいのかというと、学生時代にこのようなメンドクサイことをやっておくと、世の中に出たときに、メンドクサイことのどこから手をつけると面白くできるかが、体得できますよ、ということであります。

この状態では、とてもハイデガー君の思想は理解できんが、この文章の主語はこれで、対応する動詞はこれだな・・・んで、このdochってのはなんだ、なんか力こもってるな・・・こーゆのは体力のあるときに勢い付けて読まんと分からんなぁ・・・ハイデガーってけっこう勢いでよましよるなぁ・・・なんでこんなに強引に話をすすめよるんかいな・・・ハイデガー、元気やな・・・
問題はこの元気の素やな・・・面白いな・・・

 しかし、この風邪、しんどいぞ。
昨夜は、安倍シンゾウ君が、駅で寝転びながらむずかる幼児と一緒にごろごろ寝ころんでその子をあやして、そのあとおいらに近づいてきて「今の見てた?」という感じで挨拶する・・・というシュールな夢を見ました。
よけいに風邪が悪化した感じです。
posted by CKP at 16:07| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月10日

メンドクサイを面白がろう!――「立憲デモクラシーの会」面白派結成!!

 ただいま絶不調であります。
先週の中頃から頭がぼーっとしてきて変だなぁとは思っておったのですが、土曜日あたりから喉が痛くなり熱が出てきました。
そんで、昨日はお医者さんに行って「風邪!」という有り難い診断をいただいて、薬をもらってクルマで帰宅中ラジオをつけたら、ニュースで「立憲デモクラシーの会」の記者会見のことが流れてきた。
わしばっぱの名前も聞こえてきたような気がする(さだかではない・・・あとでネットで確かめた時に見たのかも知れない・・・ぼーっとしてるからよく覚えていない)。

 このブログは共同ブログなのであまり政治問題は扱わないのですけど、ことは憲法つまり国の基本的体制のことなので、頬かむりするわけにはいかない。
その国の基本体制つまり憲法を一内閣というか一個人の「解釈」で変更しようというのは、無茶過ぎる。
そして、それをやろうとしている本人が「無茶」を自覚していないのが怖すぎる。

 このブログでタヌキ騒動記をあれやこれや書いていられるのも、戦後の日本が平和な基本体制を維持してきたからである。
「平和ボケ」という罵倒の言葉があるが、ハイ、その通りであります。
戦争で痛い目に合うよりも、「平和ボケ」でいたいっす。
が、それにはデモクラシーというめんどくさいことを憲法の枠内で進めてゆかねばならない。
となったら、そのめんどくささに面白みを発見して、過剰に面白がるほかないではないか…というようなことまで「立憲デモクラシーの会」は言いませんけどね。

立憲デモクラシーの会、6月9日記者会見および基調はこちら↓
http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/

が、「面白派」というのはあんまり面白くないなぁ。
「皆でわぁわぁゆうてますうちに」派とか「その道中の賑やかなこと」派というのはどうでしょ?
posted by CKP at 13:46| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月05日

「義とされる」とは?――救われるということ、ついでにジェームス・ディーンのこと

 先々回の宗教学概論の授業で、メル・ギブソンが監督をした『パッション』の最後の場面を見ました。
『リーサル・ウェポン』などのアクション俳優メル・ギブソンが描く「十字架にかけられるイエス」の場面です。
ほとんど「起こり」がなくいきなりパンチを繰り出すメル・ギブソンのアクションはとっても気持ちがいいのですが、そのギブソンが描くキリストの受難はひたすら痛い。
もうイエスの全身が血まみれでひたすら痛い!

 ほんとにひたすら痛いだけなのですが、これを見ると、なぜイエスの手や足そして脇腹に釘や槍の跡がいろんな画家によって描かれてきたのがよく分かります。
この痛みの中で、イエスは人間の罪を背負って「罪を償う供え物」(「ローマの信徒への手紙」3,25)となったというパウロの解釈がよく分かります。
また、その「供え物」の血と肉を拝受するという礼拝のあり方もリアルに伝わるのですが、ある学生から「それを信じて義とされるってどういうことですか」と質問されました。

 ユダヤ教が「律法によって義とされる」のに対しては、キリスト教では「信仰によって義とされる」を説明するのが、その授業の眼目でしたが、さて、では「義とされる」とはどういうことでしょう?
私自身も、キリスト教徒の方々に訊いてみたい事柄ですが、大きく分けて二つの流れがあるように思います。

 ひとつは、信仰によって義であるつまり正しい人間になると解釈する方向と、
それまでの正しくなかった自分も神の前に許され受け入れられていると解釈する方向です。
私としては、あとの方が分かりやすい。
というのは、その解釈のほうが、なぜ聖書に登場する人間たちがあれほど情けなく描かれているのか、が分かりやすいからです。

 最初の人間、アダムとエバは、知恵の木の実を食べて神にとがめられて、いきなり言い逃れを試みます。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」
アダム、見苦しいぞ!
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
ずるいぞ!エバ!

 ほんとに、なぜ聖書は最初の人間をこんなひきょう者、自分の行動の責任も取れない人間として描いたのか?
そして、その子供カインは弟アベルを殺してしまいます。
そしてカインは「エデンの東」に追放されたのでした。

 うそつきの親に、兄弟殺しの子どもたち。
なにが悲しくて、このような物語を語りつたえたのでしょう?
こんな人間になったら、あかんよ・・・ということだったのでしょうか?

 おそらく逆なんだと思います。
人間とは自分の行動の責任もとれない何をするのか分からない存在で、それを受け入れるということ、それが「義とされる」ということの具体的な内容なんだろうと思います。
そう考えると上のような聖書に登場する人々、新約ではイエスを裏切ったユダとか「知らない」と否定した弟子たちが登場する意味も分かるような気がします。

そう、この醜く情けない自分も「わたし」なんだ、というわけです。

 というか、信仰をもったり哲学したりして、自分のみが正しいと思う人がいたり、逆に、自分の弱さを自覚して優しくなる人がいたりする二つの流れがあるのは、どの宗教、哲学でも同じでしょうけど・・・

 ところで、「カインとアベル」を説明するのに、ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』の一場面、ジェイムス・ディーン演じるキャルのプレゼントが父親に拒否される場面を授業で見たのですが、DVDでは画面が斜めにならないんですね。
むかし映画館(懐かしの祇園会館!)で見た時は、ジェームス・ディーンの気持ちがねじれてしまったときは、スクリーンが斜めになったんです。
すると、観てる方も気持ちが斜めになって、ジェームス・ディーンのように上目づかいになって反抗的になったのでした。
ってなことを説明しましたが、学生諸君はポカンとしていました。

ジェームシ・ディーンって過去の人なんでしょうか?
こう、眉毛を八の字にしてディーンの顔真似をする、なんてことを近頃のヤングはやらないんでしょうか?
大切な「青春」の通過儀礼だと思っていたのですが・・・
posted by CKP at 14:28| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月03日

ボーズが『ジョーズ』で恐怖をじょうずに証示した――ハイデガーの「まんじゅう恐い」

 ハイデガーは『存在と時間』の40節で「不安Angst」を分析するとき、「恐れFurcht」と「不安」を区別しようとします。
日本語の語感では不安と恐れはずいぶん違うような気もしますが、ドイツ語の場合はごく近い言葉らしいのです。
そのとき、「恐れ」を次のように、簡潔に定義しています。

「恐れを情態性として解釈することによって、恐れられているものというのが、それぞれひとつの世界の内部に在るもの、近くに在ってその中で特定の方面から近づいてくる、危害を及ぼしかねない、しかし、やってこないかもしれない存在するものであることが明らかになった(←これは第30節を受けています)。(『存在と時間』高田珠樹訳←分かりやすい!!)

 「情態性」というのが少しわかりにくいですが、それをここでは「心もよう」ぐらいに読んでおけば、あとはハイデガーの「恐れられているもの」についての分析が手にとるように分かる訳文です。

 原書講読の授業でこの部分を読んだとき、「これってジョーズですね」と言ってしまいました。
あのスピルバーグの『ジョーズ』。
あのズンズン、ズンズン、ズンズン、ズンズンパラパーというサウンドトラックで「出るぞ、出るぞ」と迫ってくる人食い鮫のジョーズ。
「世界の内部」に存在し、海水浴場という「近くに在る」海のどこか「特定の方向」から「近づいて」「危害を及ぼしかねない」、しかし「やってこないかもしれない」ジョーズって、怖かったですね。

 ただ、『ジョーズ』の原型があの運転手の「顔」の見えない大型トラックが迫ってくる『激突』だったということを考えると、スピルバーグの場合は「顔が見えない」ということが「恐さ」の構成要素としては重要な役割を果たしていると言えそうです。
鮫も「顔」が、無表情という点では「顔が見えない」といえます。
「貞子」さんも、髪の毛で表情が隠されていなかったら、あんなに怖くないと思われます。

 ハイデガーの場合は、「顔の見えない」つまり「得体の知れない」という要素はあまり考えられていないようです。
「顔が見えない」となると、「世界の内部」とは言えなくなるのでしょうか?
おそらくハイデガーの念頭にあるのはジョーズ的な恐怖ではないのでしょう。
都会文化が大嫌いで田舎大好きのハイデガーは映画なんか観ようともしなかったでしょうし。
いったい、ハイデガーにとって恐怖をもたらすものは、どのような「顔」をしていたのでしょうか?
まさか「饅頭」ではありますまい。

 ひょっとしたらジョーズ的な恐怖というのは、映画特有のものかもしれません。
というのは、映画というのは「顔」が見えるというのが大きな功徳ですから、「顔の欠如」が恐怖の表現になり得るのです。
逆に言えば、落語やラジオなどは、映画やテレビに対抗して、顔が見えないこと逆手にとって恐怖を演出できるということです。

 しかし、わしばっぱのように、小さい頃に観た怪談映画の天井からのぞく猫の「顔」が怖かったのがトラウマになって、今でも猫が苦手で岩合光昭さんの「世界ねこ歩き」が見られないという人もいますから、「恐怖」の分析というのは難しい。
わしばっぱの猫嫌い(というより猫ニガテ)はトラウマじゃなくて、トラネコですね、と鷲だ洒落をイッチョかまして今日はおしまい。
posted by CKP at 13:35| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする