2014年05月29日

大谷大学西洋哲学・倫理学会春季公開講演会のご案内――脇坂真弥准教授「なぜ〈私〉なのか―カントからヴェイユへ――」

 あらら、もう来週に迫ってきました。
大谷大学西洋哲学・倫理学春季公開講演会のご案内です。
今回は、この春、東京理科大から大谷大学哲学科に赴任された脇坂真弥先生のお話です。
講演タイトル:「なぜ〈私〉なのか――カントからヴェイユへ――」
日    時:6月5日(木)午後4時20分
場    所:大谷大学尋源講堂(赤レンガ二階)

脇坂さんは、大学院の頃はカントを専門的な研究対象としておられましたが、その後、時々アルコール中毒の患者さんに関する研究や田中美津に関する研究(安藤泰至編『「いのちの思想」を掘り起こす』2011年、岩波書店)を発表して来られました。
私などは「いったい脇坂さんはどこへ向かっているんだろう」と怪訝に思っておりました。
そして、ついにシモーヌ・ヴェイユの研究へ。
なんか「しんどい人たち」を次から次へと研究対象に選んでゆきます。
しんどくないのかね。

 久しぶりに脇坂さんにお会いして、彼女が「今までの研究は「なぜ〈私〉なのか」という関心で進められてきたんだと気がつきました」とおっしゃるのを聞いたとき、バラバラに散らばっていたパズルのピースが一気に形になったように思いました。
なるほど、そうゆうことだったんだ。

おそらくその「そうゆうこと」を、カントの研究からどのようにして現在のシモーヌ・ヴェイユの研究へ至ったの化を具体的に、「なぜ〈私〉なのか」という視点からお話してくださる、ということでしょう。

「なぜこの私が・・・」とお悩みのあなたに、何かのメッセージが届けられるお話となるでしょう。

基本的には、学生・院生諸君対象の講演会ですが、一般の方々の聴講も歓迎します。事前申し込みも聴講料も要りません。

ところで、おいらの関心はいずこにあるのでありましょうや。
ヘーゲルと親鸞と昭和歌謡曲史とタヌキ騒動を専門にしている私の関心は?
みなさま、そんなことに関心はないでしょうが・・・

 そんなことを考えていたら、京大の杉村靖彦先生が、このブログの少し前の記事「オリヴィエ・アベル教授講演会―正しい記憶の哲学的諸条件」に次のようなコメントを寄せてくださいました。

「門脇さん、いつも宣伝して下さって有難うございます。持つべきものはよい先輩、ほんとうに助かります。ちなみに「正しい記憶(une juste memoire)」ですが、"juste"は英語のjustと同じで、「ちょうどいい」という含みもあります。つまり、全てを留めておこうとする「記憶の過剰」と、過去を一新していつも新たなものを求める「忘却の過剰」の間で、記憶の作業と喪の作業が均衡できるような「困難な中庸」を探ろうという志をこめた言い方です。個人的には、門脇さんの関心にとても近い問題だと思っています。」

 アベル教授の「正しい記憶」という言葉に現れた「困難な中庸に到ろうという志」が、わたしCKP60の関心に「とても近い問題」と杉村先生はおっしゃいます。

 そうか、そうゆう関心で私は動いていたのか・・・・と、まるで映画「柳生武芸帳」を見て、「そうか、柳生武芸帳とはこのような小説であったか」と驚く五味康祐のように驚いているのでありました。
なにしろ、京都賞を受賞するポール・リクールの前でリクール哲学の紹介をして、リクールをして「彼は私よりリクールのことが分かっている」と言わしめた杉村先生です。
私のろくでもないタヌキ騒動記などから、「困難な中庸を探ろうという志」という私の問題関心を読み取ってくださったその目に狂いはないはずです。

 だけど、アリベ先生の講演に参加できなかったので、杉村先生に噛んで含めるように教えていただいても、もひとつよく分かりません。
杉村君、また教えてね。
持つべきものは賢い後輩です。
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2014年05月27日

よし!メンドクサイを楽しもう!!――『街場の憂国会議』からH5MNSP会議へ

 内田樹先生が編集して、「わしばっぱ」(本人未公認)こと鷲田清一先生らが執筆されている『街場の憂国会議』(晶文社・犀の教室)を読みました。
それで、腹をくくりました。
「よし!メンドクサイを楽しもう!!」って。

 この本は、これを読めば日本の未来はスカッと明るくなるという種類の本ではない。
なんといっても「憂国」である。
国を憂うるのである。
未来に向けて対処せねばならない課題がクリアに提示されて、ある意味ではスッキリするけれど、しかし、スカッと明るい未来を提示して欲しいという願いは満たされない。 それでよけいに暗澹たる気分になる・・・という効果を狙ってこの本は出版されたのか?

 いや、そうではない。
この本を読んで教えられたことは、そのような「スカッとしたい」という欲望こそが、この国の未来を暗澹たるものにするのだよ、ということであった。
一発逆転で景気を良くしたい。
一気に世界の国々を睥睨する偉いニッポンになりたい。
気に入らない奴は一掃して、気に入った奴だけで暮らしたい。
といような欲望が、事態を一層ややこしい方向へと導いてしまう。

 意見の合わない人間と暮らすのはメンドクサイ。
昔のことをウダウダ言ってくる隣国と付き合うのはメンドクサイ。
未来の為に今の楽しみを我慢するのはメンドクサイ。
地道に働いて小さな儲けを得るのはメンドクサイ。

 このメンドクサイを回避していると事態はドンドンメンドクサイ方向へと進んでゆくのである。
だから、ここはもう腹を決めて、メンドクサイは面白い、とメンドクサイを楽しむという方向に舵をとると腹をくくるしかないんじゃないの・・・そうこの本は問いかけている、と私は読みました。

 しかし、そんなメンドウなことを大規模には始められない。
先ずは、自分の生活の半径5メートル以内から始めるしかない。
つまり、「半径5メートルをなんとかすっぺ」会議、H5MNSP会議の結成です。
(もちろん、我がモデルと仰ぎ見るのは「北三陸をなんとかすっぺ」すなわちK3NSP会議です。「めんどくせぇなぁ」を合言葉に皆さんがなんだかんだと動いていました。)

 こーゆー展開になるとは、書いている本人も予想がつきませんでした。
「じぇじぇじぇ」というより、ここは「テッ」と山梨弁で驚きましょう。
花のおトウも、美輪さんに言われるまでもなく「万国の労働者よりもまずは家庭の問題」ということに気がついたみたいですしね。
では、ごきげんよう、さようなら。
posted by CKP at 18:09| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月22日

何もかもうまくゆかなくてさ〜――CKP60、浅川マキになるの巻

 みなさま、またまた我が下宿の給湯器が壊れてお湯がでなくなりました。

 ブログで高校生諸君に「高校生のうちはせいぜい愛想よくしておくよーに!将来の同窓会で何が起きるか分からないから」と説教たれたバチがあったのでしょうか。
下宿に帰り、うだうだして10時半ごろお風呂のお湯をはって、服を抜いて洗濯機に投げ入れ、スッポンポンになって湯船に入ろうとしたら、そこは水!
お湯であるべき湯船にはられた液体は冷たい水!

「わっ」と、思わず「じぇじぇじぇ!」と驚くのも忘れて手を引き抜きました。
スッポンポンのままで給湯器のスイッチをいじったり、ブレーカーをいじったり、しかし、水はやはり冷たい水。
茫然自失のまま、脱いだものの洗たくを始める。
コンロでお湯を沸かし、アタマを洗ったり身体をごしごし拭いたりした頃に洗濯も完了。
しかし、見るとこまかくちぎれたティッシュペーパーが洗濯物にこびりついている。
ジーパンのポケットに入っていたティッシュも一緒に洗濯しちゃったのですね。
しかし、ここはかろうじて「じぇじぇじぇ」と驚く(というかため息)。

「何もかもうまくいかなくてさ〜」と私は「ガソリン・アレイを唄う浅川マキ」になってしまいたした。
しかし、この時点ではさすがに、パジャマを着ていました。

そんで、午前中に授業のない日に、不動産屋さんに助けを求めて電話する。
するとそのフラット・エージェンシーの対応が大変親切で、あれこれと手配してくださって、午前中のうちになおりました。
わざわざフラットさんの名をあげるのは、大変に対応がよかったからです。
ほんと「地獄でホトケ」という感じでした。

というわけで、下宿の給湯器が壊れたら、取り合えず助けを求めて、フラット・エージェンシーに電話をするのでした。
浅川マキになって「なにもかもうまくいかなくてさ〜」と唄っているよりも、ビートルズになって「HELP!」と叫ぶべし、というありがたい教訓をここで垂れてると、またなんかバチがあたるかも知れません。
posted by CKP at 14:31| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月20日

「できなくなってはじめてできること」――鷲田清一先生公開講演

来たる5月26日(月)午後一時から大谷大学講堂で開催される大谷学会春季公開講演会で鷲田清一先生(大谷大学哲学科教授)が講演されます。
講演タイトルは
「できなくなってはじめてできること」
です。
「弱い」とか「できない」というふつうネガティブにとらえられる事態を、別の角度から考えるというお話かと思います。
講演は、2時半ごろまで。

そのあと、ゲスト・スピーカーとして玄田有史(げんだゆうじ)東京大学社会学研究所教授が
「挫折が希望にかわるとき」
というタイトルでお話されます。
先生は「希望学」を10年前、40歳のころに始められましたが、それは「挫折学」だったというお話になるそうです。
お話は、4時10分まで。

入場無料、事前申し込み不要。
一般の方の来聴も大歓迎だそうです。

posted by CKP at 13:34| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月15日

オリヴィエ・アベル教授講演会――「〈正しい記憶〉の哲学的諸条件」

 京都大学の宗教学研究室の杉村靖彦教授から、今度講演会があるからみんなに知らせてね!とメールがありましたので、お知らせします。

パリ・プロテスタント神学院教授・オリヴィエ・アベル教授講演会
タイトル:「〈正しい記憶〉の哲学的諸条件」
日時:2014年5月24日15時〜18時
場所:京都大学文学部第2講義室
講演はフランス語でペーパーが配布され通訳がつくそうです。

1953年生まれのアベル教授は、ポール・リクール研究者。
ポール・リクール研究の世界的権威である杉村先生とのやりとりも面白そうです。
が、それにしても〈正しい記憶〉ってどういう記憶でしょう?

 杉村先生からは、ポスターもメールに添付され送られてきているのですが、そこはそれ、アナログオジサンの悲しさで、ハイテクを駆使してここにアップするなどという芸当などは、とてもできません。
はい、そうゆうことに関しては、ぜんぜん向上心がないCKP60なのでした。
ごめんね、杉村先生。
posted by CKP at 10:06| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月14日

おいらのメガネはまんまるメガネ まーるいお顔を見てたから・・・メガネでちょっと知的です(?)

 本日も、途中から同窓会ネタになります。
スミマセン。

 わたくしのメガネは、まんまるメガネで、福井県は鯖江市の辻岡眼鏡という小さな工房でつくっていただいているものです。
「tomorrow classic」を合言葉に、懐かしくも現代的なメガネ枠を、こつこつとご夫婦でつくっておられます。
昔はでっかい工場だったらしいけど、不況で工場をたたんで、今の工房スタイルになったんですと。

ホントは「知的なメガネ」と形容したいのですが、ハイ、わたしがかけているメガネですから、自信を持って「知的」とはよー言いません。
はい、わたしは自分を知っております。
ぼーっとしたわたしの顔も、このメガネのせいで、ちょっとは知的に見えてるかもしれないと言えないこともないかもしれない・・・?

 昨年、その「やじろべえメガネ」がグッド・デザイン賞に選ばれたのですが、今度は、「日本の技が光る逸品・10選」というランキングに選ばれたそうです。
おめでとうございます。
http://www.rankingshare.jp/rank/uwazhyggpw

 思えば、辻岡ご夫妻との交流は、この前のわが武生高校55歳同窓会から「復活」したのでありました。
「復活」といっても、高校時代はクラスが違っていたから、何回か言葉を交わした程度。
学生時代は、お二人はそれぞれ京都で美術を学んでおられた。
私も同じ京都にいましたが、まったくお会いすることはありませんでした。
ましてや、お二人が結婚したのも知らなかった。

 それが、この前の同窓会で声をかけられて、その後、私のメガネの面倒をみていただくことになり、写真もプロ級だから、この前の『死ぬのは僕らだ!』の私の顔写真も撮っていただいたというわけです。
おかげで、私の顔と内田樹先生の顔を取り違えるという「悲劇」を阻止できました。

 旦那の正美さんは、もう一昨年前になるでしょうか、とつぜんの大病で死にかけて、奇跡的な回復後に「浄土への土産」(?)にとグッド・デザイン賞に応募したということです。

 人生って、どこで何かが待っているか、ほんと、わかりませんね。
現役の高校生のみなさん、将来の同窓会の時に備えて、それなりに愛想よくしていましょうね。

http://56995471.at.webry.info/
http://tuziokamegane.blog108.fc2.com/

 シモーヌ・ヴェイユがかけていたメガネも試作したことがあるはずです。
ヴェイユ・ファン(?)の方もどうぞ!
posted by CKP at 18:14| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月13日

お浄土まであと何マイル?――武生高校還暦同窓会、出席しまぁーす!

 最初に確認しておくと、この「哲学科教員ブログ」は大谷大学哲学科の複数の教員で書いている(はずである)。
わたくしCKPカドワキの個人ブログではない。
したがって、あまり個人的なことを書くのはご法度なのであるが、よく考えたら、個人的なことばかりを書いているので、書いちゃいますけど・・・

 先日、わたしが42年前に卒業した福井県立武生高校1973年(昭和48年)卒業の「還暦同窓会」の案内ハガキが来ました。
学年全体の同窓会。
8月16日夕刻(たしか5時から?)ベルナールというところで開催されるそうであります。
3年10組の門脇、出席しまぁーす。
実行委員長のМ村くん、事務局のМ好くん、よろしく!

5年前にも同窓会をやっているので、みんな、そんなに変っているとは思えないが、それでもみんなの顔を見たいと思うのです。
この5年の間に死にかけた人もいるし、実際に死んじゃった人もいるかもしれない。
3年1組なんか、この前の時でさえ、40数名のクラスのうち10人が既に亡くなっていました。

若いころは同窓会なんかで昔を語りたくないなぁ、なんて突っ張っていたけれど、この歳になると、還暦同窓会でみんなに会えたら、それだけで「よかったね」ということになるのです。
60歳の8月16日まで命のあったことを、共に寿ぎたいのであります。

 ところで、5年前の同窓会の時、隣のクラスで(たしか3年5組あたり)
「君のことが、好きだったんだ」
「え〜っ!今ごろ言われても」という会話が交わされていたが、その後どうなったんかしら?
(実際は強烈な福井弁で「うら、おめぇのこと好きやったんやざぁ」「え〜、ほんなこと今ごろ言われもお」でした。)

「君のこと好きだったんだ」という37年目の55歳のおっさんの告白は、どこか胸キュンであるが、それに対する「今ごろ言われても」という55歳の女子の反応はいかがなものでしょうか。
ちょっと、危なすぎはしませんか。
そこは、「あらぁ、ありがとう」ぐらいで返すべきではありますまいか。
よけいなお世話ですけど・・・
しかし、「あまちゃん」以降では、まずは「じぇじぇじぇ」で返すべきでありましょう。
と、いまだに「あまちゃん」的世界で生きているのはCKP60だけか・・・?
posted by CKP at 17:18| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月07日

池上タヌキ『傍らにあること』、村上春樹をおさえ堂々の1位に!――そしてオイラは還暦を迎えて、目指せ「大器晩成」!

 大谷大学の傍らにある大垣書店本店の先週の一般書売上で、池上哲司(大谷大学名誉教授)の『傍らにあること 老いと介護の倫理学』(筑摩選書)がついに村上春樹の新刊を抜き去り、堂々の1位!

傍らにある大垣書店本店で『傍らにあること』が1位・・・このような「棚からボタモチ的」状況を「わっしい」(鷲田清一氏公認)こと「わしばっぱ」(本人未公認)が見逃すはずがない。
上空から一気に舞い降りてウサギを襲う鷲の如く「やっぱ『傍らにあること』は傍らの本屋でよう売れるなぁ」と渾身のダジャレをイッチョかまされたのであった。

 そうやってわぁわぁゆうてるうちに、わたくしCKPカドワキは60歳つまり還暦を迎えてしもうたがな。
えらいこっちゃ・・・
こんな軽い60歳でええんやろか・・・と本人も自覚しているが、まわりから見るとホントに軽い60歳なんだろうな、と思います。
にじみ出る人格、老成した落ち着き・・・といったものが微塵もないということで良いのでしょうか?
と、問うてみても、ないものはないのだからしょうがない。
軽くてどーもスミマセン、でいくしかない。

 しかし、「老い」そのものは、わしばっぱからの「アタマ、てっぺんあたり、薄うなったね」との捨て身の指摘を待つまでもなく、否定しようもない。

『傍らにあること』で、池上タヌキの介は「自らの老い」について書いている。

「能力の下降は否定しがたい。駅まで全力疾走すれば息が切れてしまうし、自信のあった記憶力も低下して、人の名前は忘れてしまう、下手をすると昨日の夕食に何を食べたかさえ思い出せない。それらのことがかつて出来たという記憶があるがゆえに、われわれにとって能力の下降は受け入れがたい。さらに、それが自らの老いである場合、能力の下降は他者の場合よりも鋭く感ぜられる。というのは、われわれは自分の能力のピークを自分本来の能力であるとみなすからである。」(124頁)

 もちろん、この本では「老い」を「能力の下降」とする否定的な見方とは別の見方が展開されてゆく――それは実際に読んでのお楽しみなのであるが、私の場合、問題は「自分の能力のピーク」「自分本来の能力」である。
いったい、「能力の下降」の基準となる「能力のピーク」というのは、このわたしにあったのだろうか?

 小学校の図画コンクールで表彰された時?
中学・高校で生徒会長してブイブイいわしてた時?
学生時代、デモでピッピッと笛を吹いていた時?
教員になって、学生さんにドアを開けて差し上げていた時?(コメント欄参照)
 
 学生時代、すでに「早熟の天才だったんだね」と過去形で言われたりした。
ちがう!おいらは大器晩成だ!と答えていたが、その大器はなかなか完成しないまま還暦を迎えてしまった。

いったい、いつ頃、わたくしCKPカドワキの「能力のピーク」があったのか?
池上タヌキには、そうゆうピークがあったのだろうが、私の場合、どうもそのようなピークは見当たらない。
なぜなんだろう・・・・

 きっと、今まで「本気出してねぇーし、オレ」ということだったんだと思います。
本気出したら、おいら、こんなんじゃないっすよ・・・
「自分本来の能力」を全開にするには、やっぱ、本気出さなきゃ・・・
というわけで、CKP還暦カドワキ、これから本気出しまぁーす。

posted by CKP at 16:43| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月01日

村上春樹がライバル――『傍らにあること』が大垣書店で惜しくも2位

 大垣書店本店の4月20日から26日の一週間のバストセラー・ランキングで、池上哲司先生(大谷大学名誉教授)の『傍らにあること 老いと介護の倫理学』(筑摩選書)が、村上春樹の新刊に続いての2位にランク・イン!
その前の週は、たしか8位か7位でしたから、着実に順位を上げている。
来週は村上春樹を抜いて1位かも。

 池上先生の学生時代からの友人・鷲田清一先生も「あの本、ええ本やねぇ」と感想をもらしておられた。
池上先生を直接に知らない読者も、あの本を読んで「生老病死を、まるで五月の風のようなさらさらとした文体で、深くしかし軽やかに論じるいい本だな」と感じられたと思う。
そして、この池上哲司という御仁も、この本の通り、さわやかないい人なんだろうな、と思った人も少なくないと思われる。

 が、しかし、である。
それは短見というものである。
あのタヌキ池上の日常は、そんなすがすがしいものではない。
身近に過ごした私が言うのだから間違いはない。

 たとえばである。
あのタヌキは、京都の下宿や研究室を引き払うとき、とてもその大量の本を東京の実家に運び込むことは無理ということに気がついた。
これは、別にタヌキの性格の悪さを表す事柄ではなく、タヌキの先見のなさを表すだけの話ではある。
ま、微笑ましい話と言えなくはない。
しかし、そこであのタヌキは悪だくみを思いついたのである。
実家に運び込めない本を、まわりの仲間の研究室に運び込もうとしたのである。

 しかし、みんな、もう研究室は本でパンパンである。
唯一、着任まもないわしばっぱの研究室ノ本棚はわりとスペースがある。
そこへ50年前のガロなど大量に運び込む。
わしばっぱも先見の明のないことではタヌキと同断であるから、「おもろい本があるねぇ」とうれしそうに受けとっていた。
6年後になって、タヌキと同じように慌てるにちがいない。

 そして、もう古本屋状態の私の研究室にも、あのタヌキはろくでもない本を運び込もうとする。
それも、妙に恩着せがましく運び込むのである。
五味康祐『小説 長嶋茂雄』を手に持って研究室にやって来て、
「君は、この本をもっているかね」。
五味康祐先生が描く長嶋茂雄。
不覚にしてその本ノ存在を知らなんだ私は、もう喉から手が出るほどその本が欲しい。
その喉から出ている手を見透かして、
「いや、別にこれを貰ってくれというわけじゃないんだよ」
などとタヌキはうそぶくのである。
クソッと思いつつ、もう本を置くスペースもないのに、喉から出た手が、
「その本ください」
とお願いするはめにいたるのである。
ああ、今思い出しても腹が立つ!

 とそのような調子で、ずいぶん昔のろくでもない本を恩着せがましくわが研究室に大量にあのタヌキはおいていったのである。
あのタヌキはとんでもない古ダヌキなのである。

 というわけで『傍らにあること』がいい本だからといって、著者の池上哲司が「いい人」というわけではないから、気をつけるよーに。

 そのタヌキが大垣書店に注文している本が次から次へととどいて、棚から溢れそうになっとります。
相変わらず先見の暗いタヌキであります。
posted by CKP at 14:20| Comment(2) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする