2014年04月25日

時という玉手箱――お釈迦さまと浦島太郎と訪問看護師さん

 大阪大学のコミュニケーションデザイン・センター特任教授の西川勝さんの『となりの認知症』(ぷねうま舎)に、「玉手箱」についての、妙に気になる記述があります。
もちろん、浦島太郎の玉手箱のことです。

 西川さんが石川県能美市の宮竹小学校の4年生28人と「老い」について考える授業をしたときの話です。
午前中は子供たちと、午後からは保護者や地域の高齢者も参加する授業です。

「「おじいさんになった浦島太郎が、この町にやってきた。さあ、どうしよう」という問いに、みんなが頭をひねります。たったひとつの正解があるわけではありません。答えの出ないことを、子どもと一緒に考える。ぼくは、玉手箱を開けてはいけないと言った乙姫さまのことを考えました。
 玉手箱の中には、老いという宝物があった。でも、村の人とともに苦労して生きる歳月を重ねたわけでもなく、竜宮城では老いることの意味を考えることもできなかった浦島太郎には、宝物を手に入れる資格がない。そのことを、乙姫さまは知っていたのかも知れません。」(21〜22ページ)

 面白い考え方だなぁとは感心しつつも、もひとつコトンと腑に落ちることがなくて、アタマの片隅に宙づりになっていた文章です。
「老いという宝物」「「老いることの意味を考えることができなかった」「竜宮城」という場所・・・・

 先日、滋賀県の訪問看護師さんたちの前で、お話する機会がありました。
いつもはお医者さんなどから医療に関する専門的な話を聞いておられるようですが、たまには少し変わった話を聞きたい、ということで私にお座敷がかかったようです。

 そこで、まずは導入として、お釈迦さまの「四門出遊」の話から始めました。
まだ王子様であった頃のお釈迦さまが、城壁都市の外へ出て、老・病・死に出会い、最後には出家者に出会って、生死を超える道を求めようと発心したという話です。
 この「四門出遊」という伝説は、もう二千年以上を人々に様々な問いを投げかけてきました。
そのような話が、訪問看護師さんたちにはどのように見えるだろう・・・そんなことを考えながらお話しました。

 お釈迦さまの時代も現代も、都市文明は「老・病・死」という人間の中を流れてゆく時間の流れを、都市の外に放り出して見ないようにしてきた。
お釈迦さまの伝説では、城壁の外に「老病死」を放り出し、現代は、病院や施設や葬儀会館に「老病死」を封じ込めている。
訪問看護師というお仕事は、この施設に閉じ込められていた「老病死」を日常の生活の中に開放してゆくお仕事なのではないか・・・というようなことをお話しました。

 そして、ごちゃごちゃと2時間近くお話して、感想を聞くのが怖くてそそくさと辞去して、ヨッコラショとサンダーバードの座席に座ったとたん、アッと気がつきました。
都市文明というのは竜宮城のことなんだ。
ああ、この話をすればもう少し分かりやすかったのではないか…としばし後悔の涙にくれたのでした。

 しかし、よく考えたら「都市文明は竜宮城」というのも、よけい分からない説明かも知れません。

 竜宮城では老いてゆくという時間の流れがありません。
もちろん,都市で暮らしていても人間は歳はとってゆきます。
しかし、そこに流れる時間はいわば人工の時間、つまり人間がアタマの中で設定した時間なのです。
スケジュールとか予定とか言われる人間の都合に合わせた時間なのです。
そこでは人間は「前のめり」(@わっしぃ)に生きています。
そんな所に、「老病死」は予定に入っていません。
私は、大学教師とお坊さんをやっていますが、突然、お葬式がスケジュールを乱すことが年に数回あります。
とても困ります。
アタマで考えていた「予定」という時間の流れが阻害されるからです。
お葬式の予約を受けて、それをスケジュール帳に書き込めると都合がいいのですが、残念ながら「死」は人間の都合を超えてやってきます。
都市の時間は、人間のアタマが創りだしている時間なのです。
そこには「老病死」という人間の自然の時間は流れていません。
原子力とか万能細胞なども、自然の時間の流れを無理やり人工化する試みでしょう。
文明というのは、自然の時間を人工化することなのです。
そこから考えると、「大老」とか「老中」とか、「老い」を役職名に入れ込んでいた江戸時代は、人工化された時間と自然の時間を融合させようという極めて斬新な取り組みだったのかも知れません。

 というようなことを、講演が終わった後、思いつくということはどういうことなのでしょう。
そこでも、結局は、予定通りの時間が流れていたということでしょう。
アタマにあったことが、ただ広げられたけの予定調和的な話。
もう少し余裕を持って話すことができたならば、看護師さんたちの反応を見ながら、少しだけ私も「老いる」ことができたはず。

 ですから、いつも一足遅れてアイデアはやってきます。
この一足遅れが、玉手箱ということなのでしょうか。
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2014年04月23日

タヌキ、京に出没すーーでも、STAPなんかどうでもいいや

 東京に去ったはずのタヌキ池上が、このあいだの日曜日、京の都は北大路あたりに出没したとの噂がある。
東京でおとなしくしていればいいものを、このブログの記事を見て、大垣書店にちゃんと『傍らにあること』が平積みになっているのか点検しに来たのであろうか?
それとも、私の『死ぬのは僕らだ!』と並んでいるのを確かめに来たのだろうか。
本と本のあいだをちょっとすかしたりして・・・
いやいや、あのタヌキ、あれで、根はけっこう優しいタヌキだから、私の為に「コーヒー豆買ってこようか」とでも言いに来たのだろうか(京に生息してた頃は、けっこう「おつかい」に行ってくれたのであった)。
日曜に来ちゃだめよ。

 それとも東京の住処が「いつのまにか大量の本の山に占拠され、そこで生活することもできなくなるといった状態」(『傍らにあること』29ページ)に立ち至ったため、奥さんにきつくとがめられ、いづらくなって京まででてきたのであろうか?
そのわりには、また大垣書店で本を注文して帰ったということである。
懲りないタヌキである。

 それはそうと、タヌキには全く関係がないが、いつまでSTAP騒動は続くのであろうか?
いいかげんに厭きてきたぞ。

 五月雨式に記者会見や文書発表するのは、もう、ただ目立ちたいだけじゃないのか?
ホント、週刊誌やワイド・ショーに話題を小出しに提供して、いつまでも「話題の人」でいたいと無意識に思っているとしか思えん。

 そもそもあの人たちは、いったい何のために研究しているんでしょう?
ただ有名になりたい!ノーベル賞とりたい!予算がもっと欲しい!・・・そうとしか思えない。
そんなお金儲けに直結するような発明・発見なんてもういいんじゃないのか?
ノーベル賞も、もう止めるか、「原発の後始末」に寄与する研究に限定するとかした方がいいんじゃないの。

 あの理研の連中には、不治の病を治すためとか、役には立たないが不思議な自然現象の謎を解きたいとか、そんな要素がまったくないように思えてきた。
先日、そんなことを、訪問看護師さんの集まりでの講演の時にお話したら、皆さん、大きく頷いておられました。
「凄い発見・発明による大儲けで社会を元気に」というのは、もうない。
一人ひとりが、きめ細かく繋がってゆくことで元気になってゆく、そんな時代なのだと思う。

たぶん、タヌキもそう思っていると思う。
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2014年04月16日

タヌキと仲よし――『傍らにあること』の傍らで

 池上哲司先生の『傍らにあること』が、筑摩選書の一冊としていよいよ発売となりました。
大谷大学のとなりの大垣書店では、一階入り口に「お待たせしました!」と平積みになっております。

また、トントントンと二階に上がって鷲田清一コーナーで「ほんとにぎょうさん書いてはる」とその著作の多さに驚いて、くるりと振り向きましょう。
すると、そこにも『傍らにあること』が並べられています。
そして、そのとなりには、ナント我が『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』が、まるで肩を組むようになかよしこよしで並んでおります。
なかなか微笑ましい図で写真をアップしたいのでありますが、いかんせん、そういうハイテクには縁のない私ですので、ひたすら書くのみであります。

「ワールドカップの試合の中継があるとしよう。
で、それを観るため、早めに帰宅しようとテクテク歩くわけだ。
そのとき、君のとなりをあるく私が、持病のシャクで腹を押さえてうずくまったわけだ。
いったい、君はどうする?」
「そりゃ、キミの病気よりもワールドカップの方が大事にきまってるじゃないか。
放置して帰る」
と言い放ったのは池上タヌキである。

 かようにこのタヌキは冷たいタヌキであるが、『傍らにあること』は冷静な論理に貫かれているにもかかわらず、ハートウォーミングな何かを私達にもたらしてくれる本です。
ところどころに自虐的ギャグが埋め込まれているのですが、これはタヌキのふだんの言動を知らないと分からないのが惜しまれるのでした。
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2014年04月15日

〈ひと〉的、あまりに〈ひと〉的な――〈ひと〉がハイデガーを読むと・・・

 私は、自慢ではないが、じぶんでも情けないほどスキャンダルが好きなゲスな人間です。
理研vs小保方問題でも、STAP細胞が実在するかとか、科学者の倫理はいかにあるべきかなどという問題よりも、理研内の人間関係、それも「男女の仲」的人間関係に興味があって、週刊誌をむさぼり読んでいるような人間です。
あるいは今週の「サンデー毎日」の「母校・早大を揺るがす「コピペ騒動」と総長選の不穏な関係=vという見出しに目が釘付けになってしまいます。

 そんな私が、哲学の原書講読の授業でハイデガーの『存在と時間』を読むことになってしまいました。
20世紀の最高の哲学書のひとつに挙げられるこの本を、今まで敬して遠ざけていたのですが、そうも言っていられないということになってしまいました。

しかし、ハイデガーというと、彼の教え子であったハンナ・アレントと「いけない関係」とか、ナチ入党というスキャンダルのほうが哲学書の内容よりも気になってしまうのがわたくしという人間です。
そんなスキャンダルは置いておいて、まずはまっすぐにハイデガーの哲学に沈潜すべきとは思ってみるのですが、そこはそれ、悲しいゲスな男のサガでしょうか、ハイデガーのそんなスキャンダルにどのような態度をとるべきか、それが決まらないと『存在と時間』が読めないような気がしてしまうのです。
ほんとに情けないほどのゲス野郎は、私です。

 ところが、篤実なハイデガー研究者である高田珠樹さんの『ハイデガー 存在の歴史』(現代思想の冒険シリーズ・講談社)は、けっこうこの二つのスキャンダルにページを割いているのです。
このほど、どの参考書が読みやすいか、いろいろ読んでみましたが、高田さんのこの誠実な研究書がいちばんしっくりきたので、学生諸君に推薦しました。

1954年生まれの高田さんがハイデガーに取り組み始めた頃は、まだこのスキャンダルはそれほど目だっていなかった。
私も1954年生まれなので、1970年代のハイデガーを取り巻く雰囲気というのはなんとなく分かります。
たとえば、戦後すぐ『存在と時間』が読みたい一心で哲学の道に進まれた木田元氏の1970年の『現象学』(岩波新書)や1983年の『ハイデガー』(今は岩波現代文庫)では、ハイデガーのナチスへの関わりは「エピソード」にすぎないと軽く片付けられています。
しかし、その後1990年ごろまでに、ハイデガーの予想以上に積極的なナチへの関わりとそれを誤魔化そうとする姑息な工作が明らかになってくると、木田氏は、ハイデガーは人間として好きになれないが、その哲学史家としての洞察力はやはりすごいという言い方に変わってきます。
おそらく、高田さんの場合も、ご自分が夢中で学生時代から読んできた思想家の、新たに明らかになってきた生き方にどう向き合うかを自問しながら、『ハイデガー 存在の歴史』を書かれたのでしょう。
「まえがき」には次のような文章が見えます。

「総じてハイデガーの文章には、内容が難しいというのとは違った独特の厳しさがあって、自分のもの見方や考え方を丸ごと受け容れるのか、そうでないなら自分について語るな、とでもいった二者択一を読む者に迫るところがある。よき理解者、真の読者であるためには、思想についての理解が深い浅いという以上に、何よりもまずハイデガーの姿勢、生き方への共鳴が求められる。少なくともそう感じさせる。多少とも冷めた見地、本人が望んだのとは違った視点からハイデガーについて語ろうとすると、それは、彼のよき理解者でありたいという思いと一致しにくいばかりでなく、自分がまるで裏切り者か脱落者のような気がする。ハイデガーについてはなかなかざっくばらんに書けないのだ。」

 そして「本書は、ハイデガーからいくらか距離を保ちながら彼を理解しようとする、筆者なりの試みである」と続けておられます。
つまり、高田さんご自分が「裏切り者か脱落者」のようになってしまったと感じながらも、しかし、そこからなんとかハイデガーを理解しようとする捨て身の試みなのです。
その高田さんが、昨年、『存在と時間』の翻訳を完成されました。
いったい、どのような翻訳になっているのでしょう。
原書講読の座右において、ハイデガーを「いくらか距離を保ち」ながら読んでみたいと思っています。

 で、問題はその距離の保ち方なんですね。
高田さんのように、ハイデガーの世界に一度は沈潜し、そしてそこから今度は距離を保って冷静に読む、というのはおそらく実りある試みとなると思います。
が、今まで、高田さんの言葉では、ハイデガーから「二者択一を迫られて」、とても丸ごとハイデガーさんを受け容れることはできません、と敬遠してきた私のごとき人間は、いったい、どのようにハイデガーを読めばいいのでしょうか?

 それはもう、ハイデガーとスキャンダルという視点から読むしかありません。
高田さんは、先に引用した「まえがき」の最初のほうで次のように述べています。

「・・・ハイデガー自身、著書や講義の中でアリストテレスやカント、ニーチェなどの過去の哲学者たちの思想について論じたが、その生涯に立ち入ることはほとんどなく、もっぱら彼らの哲学的な思索に関心を集中させた。
 おまけに、ハイデガーは、著作の中で、好奇心や空疎な噂話、皮相な理解といったものを、人間の「非本来的」な在り方として厳しく斥けた。」

 そうなんです。
ハイデガーは、私のようなスキャンダル大好き人間を「非本来的」な世間を気にする〈ひと〉的人間として、否定的に扱うのです。
(〈ひと〉というのは、ハイデガーが日常にずぶずぶ浸り込んでいる人間の非本来的な在り方を指して言うdas Manというドイツ語の高田さんや熊野純彦氏の訳です。最近、別の場面でも見たような気がしますが・・・)
あ、ハイデガーっておいらのような人間は軽蔑してるんだなぁ・・のそんな感じがしたから、私の場合、ハイデッゲリアンがまわりにたくさんおられたのに、敬して遠ざかってきたのでしょう。
私の「死ぬのは僕らだ」なんていうのは、どちらかというとハイデガーの言う「本来的」人間の在り方、つまり「死にいたる存在」の別の言い方と言ってもいいくらいなのに、どうもハイデガーの、世間の中でジタバタと生きている人間へのまなざしの冷たさが受け容れられなくて、あの本でハイデガーを取り上げることはできなかったのです。

 しかし、そのハイデガー自身が、めちゃめちゃ「世間の目」を気にする人間であったというのが、私の好奇心を刺激するのです。
アレントとの密会を何とかユダヤ人嫌いの妻に隠し通そうとする気づかい。
「シュピーゲル」対談でのナチとの関わりについての言い逃れ、しかもそれを死後に発表させるという姑息な配慮。
(この対談の発表後、その「言い逃れ」の多くが嘘であることが明らかにされて、木田氏などは、「ハイデガーという人間は好きになれない」ということになったようです。)
死に向き合うということは、この人も場合、死後ならウソもばれてもいい、くらいのことのようにも見える。
同じ哲学者の「弁明」でも、プラトンの描く『ソクラテスの弁明』とはあまりにも違いすぎるのに愕然としてしまいます。
いや、ソクラテスと比べること自体、ソクラテスに申し訳ない。
ごめんね、ソクラテス。

 そんなあまりに〈ひと〉的な人が、人間の日常をどうして「非本来的」などと呼んで、「本来的」な「死にいたる存在」という出撃基地から批判することができたのか。
それとも、自分があまりに〈ひと〉的だから、本来の人間たる「死にいたる存在」にあこがれたのか、そして、そのような本来的人間の民族共同体を夢見たのか。
しかし、人間のありように本来も非本来もなかろう――いろんな輩がおるから面白い、ということにはならなかったのか。
情けない自分もこの私なのである。
また、その二つの生き方の間に現れた世界の裂け目というか隙間というか、「不安」というのは何だったのか。
本来的な生き方をすれば、不安はなくなるのか?
「不安」をもう少し市井に生きる人々への共感へと回収することはできなかったのか。
そんなことを考えながら、今年は、ハイデガーの「不安」について読んでみたいと思っています。
要するに、ハイデガーといえども、煩悩の塊で、若い女性を見ればふらふらとなって、政治的にいろいろ姑息に立ちまわったりする、自分と同じふつうのおっちゃんではないか、という目で読んで、カニの甲羅を掘ろうというのであります。
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2014年04月09日

国語入試問題必勝法――設問の意図を読め!

『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』を高校入試の国語の長文問題に使いました、という報告をいただきました。
いまどき根性のあるじぇじぇじぇな高校ではありますが、受験生諸君にはなんだか申し訳ない。
冷汗が出ますね。
長文の最後の「『死ぬのは僕らだ!』より」という出典に「じぇじぇじぇ、この高校入ると死んじゃうの?!}と驚いた受験生も多いと思います。
(いまごろ、「じぇじぇじぇ」などと言ってるのはアンタだけ、という声は無視します。)

 ためしに解いてみました。
「次の文章を読んで、後の問いに答えなさい」
読まなくたって、こちとら著者である・・・と思って問題文を読むと、あちこちで接続詞やら長めの語句が「虫食い」の空白になっている。
けっこう読みにくい。
設問を見ると、著者がテキトーに書いた語句の意味を5択で訊いている。
けっこう迷ったり、なるほど私はそういう意味で使っていたのかと感心したりしている。
そのほか、設問が工夫してあり新しいタイプの設問もあったりして、けっこう難しい。
その問題には「正解」がついていなかったので、何割とれたのか分らないが、けっこう難しい。

 が、ここで、清水義範の名作「国語入試問題必勝法」を思い出す。

「君はその問題を与えられて、まず問題文を読みはじめたね。それが間違っている」
「でも、次の文章を読んで問いに答えよ、と書いてありました」
「そんなものは意味のない決まり文句だよ。その通りに受け止めてはいけない。試験というものには時間のワクがあるんだよ。その少ない時間で沢山の問題をこなさなければならない。だったら、受験者を悩ませようと用意されたややこし文章をいちいち読んでいる余裕はないはずだ・・・それから、もっと悪いのは、君は読んだ文章の内容を理解しようとした。違うかい」
「ええ・・・・」
「それが間違っているんだよ。その文章の内容を理解したって何の役にも立たないじゃないか。そんなことに頭を使うのは無駄だ」
「でも・・・・」
「ここで大切なのは、設問に正しく答えるということだ。そうだろう・・・」(講談社文庫版、1990年、38〜9ページ)

 身も蓋もないご指摘ですが、そうなんですね。
問題文をアタマ抱えて読んでも、国語の試験の点は取れません。
著者よりも設問者の意図を読み取って、要求されている答えを回答するのがキモ。

私は著者本人なので、著者の意図はよく分かっていて、余裕を持って設問者の意図を読み取りそうなもんですが、そんなわけにはいきません。
著者本人は、「著者の意図」を忘れてしまっているのです。
「いや、そんなタイソーな意図なんかないぞ、この文章は」と思っていたりもする。
「え〜っと、ここのところは・・」とそれを思い出そうしたり、「意図」をひねり出そうとして焦りながら回答するので、著者本人はほとんど点数がとれません。

 ですから、受験生の皆さんは、まずは設問者の意図を的確に読み取って、そののち余裕を持って、問題文を楽しんでいただきたく思います。
「国語入試問題必勝法」によれば、この必勝法に熟達すれば、問題文を読まなくても設問だけで正解を出せるそうですが・・・。
そこまで言われると「著者」はけっこう傷つきますが・・・。

ところで、この「国語入試問題必勝法」を、国語の入試問題にしたところはないのでしょうか?
posted by CKP at 17:33| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月08日

大谷大学、授業開始――鷲田清一先生の「人間学U」は、受講者が多すぎて教室変更です。

 昨日より、大谷大学の授業が始まりました。
わたくしCKPカドワキも午前中、宗教学概論1という講義で一席しゃべってきました。
教室満杯で立ち見もちらほら出て、思わず最初からフルスロットルで飛ばしてしまいました。

 鷲田清一先生は、本日午後の「人間学U−5・「哲学」という方法」という授業が最初の講義。
2回生以上の全学科の学生が受講可能な講義。
受講者が多いことは予想されていましたが、予定していた教室では入りきれないということで、もひとつ大きな教室へと、いきなりの教室変更。
さて、どんな授業になるでしょう。
posted by CKP at 13:50| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月04日

My Favorite Things ――鷲田清一『「自由」のすきま』のなかにyour favorite thingsを探そう!

 鷲田清一先生の新刊『「自由」のすきま』の最後の「マイ・フェイヴァリット・シングズ」という章の中に、「My Favorite Things」というタイトルのもとに7つの短い文章がまとめられている。

 My Favorite Things ――1965年のミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中の曲。
母親を亡くした子供たちの教育係りとして見習修道女のマリア(ジュリー・アンドリュース)が、トラップ大佐の家にやってくる。
それから色々あって、最後はトラップ大佐がナチスに支配されたオーストリア軍から離脱して国境を超える・・・というお話。
「ド・レ・ミの歌」がやたら有名なこのミュージカルだけど、この「My favorite things(私のお気に入り)」も、ジョン・コルトレーンが取り上げたりして、いろんなところで演奏される。

え〜っと、どんな場面で歌われた曲だったけ・・・とちょっとガソゴソしてサウンド・トラックのLPを探し出す。
懐かしい!
野口久光さんの解説で、「そうだ、雷を怖がる子供たちにマリアが唄ったのだった」と思い出す。
(その前の年の同じくジュリー・アンドリュース主演のミュージカル「メリー・ポピンズ」とごっちゃになっているのです、60歳にならんとするCKPカドワキのアタマの中では。)

こんな歌詞です。
「薔薇の花に降る雨粒に子猫のひげ
 ピカピカの銅のやかんにあったかい毛糸の手袋
 茶色の神に包まれ紐で結ばれた小包
 These are a few of my favorite things

 クリーム色のポニーにカリッと焼き上がったリンゴのパイ
 ドアベルとそりのベルにスパゲッティ付きのシュニッツェル
 月夜に飛ぶ雁の群れ
 These are a few of my favorite things

 白いドレスをブルーのサテンで結んだ女の子
 鼻とまつ毛にかかる雪
 シルバー・ホワイトな冬が春へと融けてゆくの
 These are a few of my favorite things

 When the dog bites
 When the bee stings
When I’m feeling sad
I simply remember my favorite things
And then I don’t feel so bad」

こうやって書き出してみると、なんだか『枕草子』みたいな歌ですね。

鷲田先生の場合は
「ワニ博士のぬいぐるみに絵具箱
 ひずんだミニカーにちょこちょこ集めたお猪口
 歪んだ酒盃に無印のノート
 折にふれて突き上げてくるカール・マルクスの著作
 These are a few of my favorite things」

 わしばっぱは、犬にかまれた時も、蜂に刺された時も、そして悲しい時も、これらを思い出して、「それほど悪くない気分さ」って、お仕事を精力的にこなしておられるのでありましょう。

 で、この『「自由」のすきま』という本ですけれども、短いエッセーをまとめた本ですが、短いから簡単に読める、という本ではない。
短いだけに、けっこう、問題が、いや「課題」が鋭く問いかけてくるという本であります。
だから、けっこう思考の「肺活量」が試される本です。

 が、いろんな場面から課題を取り上げておられますから、あれこれ読んでいけばきっとあなたにとってフェイヴァリットな文章、フェイヴァリットな課題に出会うでしょう。
それに、最後のほうの何枚かのわんちゃん達の写真もかわいいし・・・。

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2014年04月01日

Je te veux――アルド・チッコリーニ『ワルツ選集』でタヌキを想う

 アルド・チッコリーニというイタリア出身で89歳の現在もフランスで活躍するピアノ弾きが、けっこう好きなんです。
派手な技巧をひけらかすタイプではなく、バーの片隅でポロンポロンとピアノをつま弾いている雰囲気のお爺ちゃん。
若い時はエリック・サティのあのちょっとへそ曲がりな音楽の伝道師でありました。
高校生か大学生の時、1,000円の廉価盤のLPで、サティというヘンテコな作曲家を教えてもらいました。
そのチッコリーニ爺ちゃんが、有名無名の作曲家13人のワルツの小品集のCDを出しました。
これが、まことに佳いのであります。

 有名どころでは、ショパンの「華麗なワルツ・イ短調」、ドビッシューの「レントより遅く」、シベリウスの「悲しきワルツ」。
そして、ブラームスのワルツ変イ長調。
ウィーンの酒場の片隅から聴こえてきそうな懐かしいワルツ。
白血病で若くして亡くなったディヌ・リパッティが1930年代、彼の先生と連弾した古い録音がありますが、音もリズムもその演奏を思い出させます。

 そして、13曲の真ん中あたりに、チッコリーニの18番であるサティの「お前が欲しい(Je te veux)」.
もともとは1900年ごろに作曲されたシャンソン。
現在の日本でもいろんなところでBGM的に流れている親しみやすい曲。
これが、何と言ったらいいか、ゆ〜〜〜〜たりしたテンポでまことに味わい深いのであります。
若者の恋の唄というよりも、伴侶に先立たれたり、友人を亡くした老人が「我、汝を欲す」って感じで、つまりここにいない人を懐かしむという感じで、静かに静かに胸に迫ってくるのであります。
輸入盤しかないようですが、ヤマハのピアノを使っているせいでしょうか、日本語のライナーノーツ(チッコリーニ爺ちゃんへのインタヴュー)がついてます。

 つい、京都にいなくなったタヌキを想い出してしまうのが、ちょっとシャクですけれど。

 それにしても、ワルツというのは不思議なリズムだと思います。
二足歩行の人間は、基本的に二拍子とか四拍子の偶数の拍子でリズムをとるのが自然です。
日本の民謡には三拍子というのはあるのでしょうか?
朝鮮半島や中国大陸ではどうでしょう?

 もともとワルツは、中部ヨーロッパの男女がペアでくっついて踊る、その昔は「はしたない」などと禁止もされた舞踊曲。
男と女が一つになるということで三拍子なのでしょうか。
エイプリル・フールなので適当なことを言いますが、ヘーゲルの弁証法などというのも、この三拍子のリズムと関係があるのかも知れません。
「ここに薔薇がある。ここで踊れ」(法哲学・序文)とヘーゲルが言うとき、何となくワルツに合わせて踊れと言っているような気がするのです。
posted by CKP at 17:22| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする