2014年03月31日

鷲田清一『「自由」のすきま』など――怒濤の出版ラッシュの大谷大学哲学科

 先に池上哲司先生の『傍らににあること 老いと介護の倫理学』の発刊をご紹介しました。
発売日は4月14日(筑摩選書)。
1600円に消費税!

 池上タヌキに気を取られて見落としていましたが、わしばっぱ、またはわっしい鷲田清一先生の『「自由」のすきま』が、角川選書からすでに発売になっております。
まだ、手元にないので内容は分かりませんが、同じ角川選書の『おとなの背中』のようなエッセイ集と思われます。
これも1600円に消費税。
今日中に購入すれば、5%の消費税。
アマゾンの場合は、どう処理されるのか?

また、大谷大学の元助教で現在非常勤講師をしていただいている長谷川琢哉さんの参加した翻訳:ジャン・ルフラン『19世紀フランス哲学』(文庫クセジュ)も4月5日発刊!
1200円プラス消費税。

なお朴一功先生のプラトンの翻訳ももうすぐ京都大学学術出版会から刊行の予定!
というわけで、大谷大学哲学科関係の先生方の出版が目白押しであります。

もっと言えば、先に紹介されている『清沢満之 その精神にせまる』というパンフレットも、ほとんどがPilz村山先生のお仕事。
能ある鷹は爪を隠すの諺どおり、村山先生は一言もそんなことを書いておられませんが。

 というわけで、能のない昆虫脳の私は爪をむき出しにして申し上げますが、『哲学入門 死ぬのは僕らだ』(角川SSC新書)の新学期キャンペンーンが始まります。
本日中に購入いただければ、消費税が5%で済みます。
大谷大学横大垣書店の2階入り口あたりに平積みになってます。
できるだけ本日中の購入をおすすめします。
posted by CKP at 14:05| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月25日

『大谷大学初代学長 清沢満之―その精神にせまる―』発刊

kiyo01.jpg
標記のものを発刊しました。ご希望の方は200円(2014年4月1日以降は205円)切手で郵送してくれるそうですので、
こちらをご覧ください。
posted by pilz at 23:07| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月20日

池上哲司著『傍らにあること 老いと介護の倫理学』――いよいよ四月刊行!

 ついに、池上哲司先生の『傍らにあること 老いと介護の倫理学』が、筑摩書房から筑摩選書の一冊としてこの四月はじめに刊行されることになりました。
ネットでは、まず以下のサイトで予約が開始されていますが、順次、いろんなところで告知されてゆくはずです。
http://www.honyaclub.com/shop/g/g16049741/

そこには
「老いを生きることは、どういうことか。きわめて理不尽であり、また現代的な老いの問題を『ひとのあり方』という根本的なテーマに立ち返って考える思索の書」
と紹介されています。
「思索の書」というのが池上先生らしいですね。

 倫理学界では、早くから、根本的な問題をクールに分析しそれを叙情的に表現できるエッセイの名手として知られていた池上先生です。
たしか日本エッセイスト・クラブから「ベスト・エッセイ」に選ばれたこともありました。
おそらくこの本でも、日常的な何気ない出来事から問題をクリアに取り出し、私達に静かで深い思索の場所を与えて下さるでしょう。
もう少し、待ちましょう。
posted by CKP at 16:15| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月19日

それでもまだまだ『あまちゃん』は続く――大友良英とニーノ・ロータ

 しかし、なんで「あまちゃん」の音楽を聴いて涙ぐむのであろうか?
それはアンタの特異体質と言われてしまえばそれまでだが、不思議と言えば不思議である。

 それでもって、昨夜、またまた大友良英&「あまちゃん」スペシャルビッグバンドのファイナル・コンサート(昨年12月)のDVDを観ながら涙目で考えました。

 あの音楽を聴くとドラマのその場面が浮かんできて泣けるのだろうか?
いやいや、ドラマはどちらかというとドタバタ。
制作のくるべ氏などは、最初からクレイジーキャッツや森繁の駅前シリーズなどの喜劇的なものをイメージしていたという。
大友さんご自身も、鈴鹿ひろみのイメージソングは、シャボン玉ホリデーのラストの「スター・ダスト」、ザ・ピーナッツがハナ肇に肘テツをくらわす場面のイメージで書いたという。
それなのに、そのサウンド・トラックを聴くと、ぐすんと来てしまう。
困ったもんですね。
別にそれほど困るわけでもないけど、なんなんでしょう。

 なんだかね、劇中でドタバタそしてジタバタやっている登場人物たちへの温かい眼差しというのでしょうか、愛情というのでしょうか、そんなものがジワーッと伝わってくるのです。
けっして、高みから人間の生き方を批評するのではない。
ドタバタそしてジタバタやっている人間と同じ地平で一緒にドタバタそしてジタバタする、そんなドタバタそしてジタバタに巻き込まれることの心地よさ、それがぐすんと目の奥を刺激するのですね。
そして、自分も含めた人間たちの馬鹿さそしてけなげさを俯瞰するように眺めると、鼻の奥がツーンと来るのです。

 そんなことを考えていたら、突然、ああ宮藤官九郎×大友良英って、フェディリコ・フェリーニ×ニーノ・ロータだ、と気がつきました。
フェリーニといっても『道』と『81/2』ぐらいしかきちんと観たことないけど、その映画に付けられたニーノ・ロータのどこか懐かしいサウンド・トラックを聴くと、ジタバタとけなげに生きている人間への限りない共感を感じる。
その感覚が、クドカンのドラマに付けられた大友さんの音楽に共通しているように思うのです。
特に道化的な場面に付けられたサーカス的な音楽と大友さんが「チャンチキ」と呼ぶ音楽が重なるんですね。
あるいは、『道』のジェルソミニーナの抒情的なテーマとアキのテーマ、あるいは「海」。

それは、クドカンやフェリーニ、ニーノ・ロータや大友良英さんが、どこかで「人生はドタバタでジタバタの悲劇の喜劇だ、お祭りだ」と思っているからではないか、そんな感じがします。

そうやって人生も『あまちゃん』もまだまだ続くのでした。

「……ほっこりしないでよ勝手に!なにこの空気、最終回?!冗談じゃない!人生はまだまだ続くの!」
と春子さんも言っております(第23週「おら、みんなに会いでぇ!」、136回←完全シナリオ集も買っちゃいました!)。

posted by CKP at 14:13| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月18日

けなげに果敢にチャンチキにーー卒業にあたってfrom CKP

 本日は大谷大学の卒業式。
卒業生の皆さん、おめでとうございます。

 そんで、ハナムケに一曲。
今までは、ロックの歌詞を紹介することで「ハナムケの一曲」としてきたのですが、今年はインスト。
そう、もうこれ以外は考えられません。
もちろん、大友良英&「あまちゃん」スペシャルビッグバンドによる「あまちゃんのテーマ」。

 あのドッレミファソラシドで元気に始まるあのテーマ曲にのって、三陸の田園の中を、けなげに果敢にそしてチャンチキに走る北鉄。
「まだ『あまちゃん』かよぉ」の非難にもめげず、わたしはこのテーマ曲を聴くと涙ぐんでしまう特異体質のおっさんになりました。
↓のヴィデオに一緒に収録されている「行動のマーチ」でも泣けます。
「海」とか「灯台」なんかだと号泣です。

卒業生の皆さんに、そのような特異体質になれ、というのではありません。
しかし、皆さんにも、あの北鉄のように、けなげに果敢にチャンチキに生きていって欲しい。
そうやって生きていると、「わしばっぱ」じゃなかった「夏ばっぱ」の「海さ潜るときはな〜んにも考えず飛びこめぇ」という台詞を思い出すかも知れません。
「ダサイくらいなんだよ。そんなもの我慢しろよ」というアキの言葉が身にしみるかもしれません。
いずれにせよ、チャンチキに何でも面白がって頑張ってください。

皆さんのじぇじぇじぇな人生をお祈りいたします。

追記:祝賀会のときに、ゼミの卒業生の皆さんから寄せ書きと寄せ花ポットをいただきました。うっうっうっ・・・うれしゅうございましたよ。
小汚い研究室に枯れないように飾りました。
みんな元気でね!
posted by CKP at 13:07| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月17日

うれしはずかし――読者からのお便り

 我が『哲学入門 死ぬのは僕らだ』が発刊されてはや半年過ぎました。
発売当初は、ツイッターでささやかれたいくつかの評判を編集部から伝えていただいておりました。
もちろん悪評ではなく「この著者の次の本を早く読みたい」とか「ふつう哲学者がポップ・カルチャーを語るとさぶいことになるのに、この本にはそれがない」とか。
あるいは「この著者を発見したことは、編集者の大手柄」とか。
なんだか珍獣の発見みたいですけど。
悪評もあるかも知れませんが、そうゆうのは教えてもらっていません。
ありがたい。

 で、もう半年もたつと、そうゆう評判もきかなくなったなぁ・・・と思っていたら、編集部に届いた一読者からのお葉書がこちらに回ってきました。
あの新書には読者カードはついていない。
わざわざ官製はがきに感想を綴ってくださっています。
「もっとも大事でむつかしいことをとてもわかりやすくたのしく」というフレーズがありました。
わたしにとってはど真ん中のストライク。
「わかりやすくたのしく」というのは、編集の内田さんとともにもっとも工夫したところだからです。
「これでは素人にはわかりません!」と何度も原稿を突き返されました。
これでどうだ!と何度書き直したことか・・・
第二章のアウグスティヌス論なんて、最終段階で「もうこの章はカットしましょう」というところまで追い詰められました。
しかし、なんとかユーミンを残したかったので全部書き直し(動機がちょっとへんですが)。
最初は「やさしさに包まれたなら」を取り上げていたのですが、最終的に「ひこうき雲」になりました。
その苦労をきちんと読み取っていただくのは、著者冥利に尽きます。

 また、ある喫茶店では、あの本をテキストに読書会をしてくださっているという話も伝わってきています。
なんだか冷汗が出ますが、ありがたいことです。
なかなか大評判とはいきませんが、少しずつ少しずつ口コミを通じて多くの方々に死を考える時間を提供することになればうれしいです。
 
追記:大谷大学の同窓会のある支部の会報で紹介されているという情報もいただきました。
お寺の住職さんがご紹介してくださっているのですが、どういうシチュエーションなのか分かりませんが、子供会の5年生男子が「死ぬのは僕らだ!」というタイトルをみて「こわい本や」と言うのを聞いて「妙な感心」をしてしまった、と書いておられました。
考えてみれば「死ぬのは僕らだ!」って、ひどいと言えばひどいタイトルですね。
しかし、このタイトルで買って読んでくださる方もおられます。
面白いですね。ありがたいですね。
posted by CKP at 16:10| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月11日

身体で考える――ごめんね胃袋

 三月というのに雪の日が続きます。
そんな雪の日、池上タヌキ哲司先生は下宿と研究室を引き払い東京へと引っ越されました。
ああ、この雪は「なごり雪」か、などとちょっと感傷にふけって古い歌を思い出しておりましたが、ついでにそのタヌキから「キミの脳は虫の脳じゃないか」と言われたことも思い出しました。

 その「虫の脳」で人間関係のややこしい問題を考えねばならぬことがあり、胃が猛烈にもたれて胃カメラをのむハメになりました。
肛門の次には胃袋です。
還暦近くなると、口から肛門にいたる管が次々と故障いたします。
が、胃がんということではなくピロリ菌がうじゃうじゃ繁殖しているということでした。

 わが「虫の脳」に無理やり全精力を注ぎ込んだため、胃袋にスキができピロリ菌の天下になってしまったのでしょう。
「腹をくくる」というからだ全体で考えることをせず、アタマだけで問題を処理しようとしたバチが当たったと思われます。

 内蔵という宇宙と同期している我が内なる自然を無視してアタマで物事をコントロールしようとするとこうゆうことになるのでしょう。
原発に典型的に見られるように、自然をアタマでコントロールしようとするのが、現代の問題の根源なような気がします。
今、話題のサムラなんとかとかいう人物の「音楽」にひっかかってしまった方々は、身体ではなくアタマで音楽を聴こうとしたからかも知れません。
なんだか胡散臭いなぁ、と身体で受け止めれば、あんなに見事に騙されないはずです。

 そう言えば、タヌキ先生が置き土産にくださった小冊子の中に、ある思想家とは「肌が合わない」という表現がありました。
その思想家と肉体カンケーでもあったのでしょうか。
このタヌキ先生、思いのほか、身体全体で考えておられるようです。
ちなみにその思想家の全集は私の研究室に移りました。
私の「虫の脳」では、そのアタマの鋭利すぎる思想家とは肌以前にアタマが合わないような気がします。
立派なアタマで考える人はメチャメチャ高く評価している思想家ですが・・・。

 ということは、「虫の脳」という言葉は、自然に基づいて考えるという褒め言葉だったのかな?
あのタヌキは、優しいタヌキだったのかな?
posted by CKP at 18:40| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月08日

復興ボランティア第13便です。

初めてiPadで書いています。
仙台市は晴れていますが、雪が舞っています。
慣れない機械なので、言葉少なに。
活動の様子はFacebookでどうぞ。
https://ja-jp.facebook.com/otani311
posted by (藤) at 08:46| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月05日

おじん公論(その2)――「切ない事情」への共感(鷲田を内田で解釈する)

 昨日、鷲田清一先生の『婦人公論』のインタビュー記事から、「無防備に気持ちをポンと」目の前に出して語りあうというコミュニケーションの成り立ちについて書いた。
そして、それはどこか現在の日中関係、日韓関係にも通じるものがあるなぁ、と思いその事も少し書いた。
しかし、国と国との関係において「無防備」なんてことはあり得ない。
しかし、「こちらは悪くない、悪いのはあちら」という防御で凝り固まっていては、対話は始まらない――と思っていたところに、内田樹先生が、偶然にも、毎日新聞のインタビューに、この対話への理路を実に明晰に語っておられたので、ご紹介。
まずは、もう一度、鷲田先生のインタビューの引用から。

(少し長い引用)
 「気持ちを語るというのは、どこか、自分を無防備にするところがあります。形が定まらない自分を二人の間に置く、と言い換えてもいいかもしれません。とくに迷っているとか、ふさいだ気持ちでいるという場合は自分の状態をさらしてしまうわけですから、ある意味危ないことでもある。
 僕が思うのは、そういう場合に、「わかってほしい」とか「わかってくれない」とか、正面からボールを投げたり受けたりしないほうがいい、ということ。そうではなく、ボールを自分の前にポンと出して、二人でそのボールを一緒に見ながら、ふうーんと考える。そんな会話が一番心地いいし、安心できるのではないでしょうか。
 自分の中でもやもやした思いがあり、それをポンと出せば、相手が「こういうことじゃないの?」と言い換えてくれます。お互いに言葉の歴史が違うから、同じことを言ってもちょっと言い方が違う。すると「あっ、そんな考え方もあるのか」と少し視野が広がる。お互いに向き合うより、そうやって一緒に見つめる時間が大切なのです。
 そのためには、自分がまず無防備になること。お互いに無防備になったとき初めて、本当の意味での会話、本当のコミュニケーションが始まるからです。」
(引用終わり)

 人と人との間でも、この「無防備」というのは難しい。
ついつい防御体制に入って、お互いの非難の応酬になる。
ましてや、国と国のあいだでは「無防備」なんてありない。
今の日中・日韓はまさに「わかってほしい」「わかってくれない」と正面からボールを投げ合っている状態と言える。
そんなところで「無防備」なんてあり得るのだろうか?
そこを、内田先生はこのように述べておられます。

(ブログ「内田樹の研究室」2014年3月5日から引用)
「内田 どこの国のリーダーも「立場上」言わなければいけないことを言っているだけで、自分の「本音」は口にできない。その「切ない事情」をお互いに理解し合うリーダー同士の「めくばせ」のようなものが外交の膠着状況を切り開く。外交上の転換はリーダー同士の人間的信頼なしには決してありえない。相手の「切ない事情」に共感するためには、とりあえず一度自分の立場を離れて、中立的な視座から事態を俯瞰して議論することが必要だ。自分の言い分をいったん「かっこに入れて」、先方の言い分にもそれなりの理があるということを相互に認め合うことでしか外交の停滞は終らない。」
(引用終わり)

 やはりここでも基本は「リーダー同士の人間的信頼」。
その上で、自分の立場・言い分をいったん「かっこに入れる」。
そこで今の問題を俯瞰的に眺めて議論する。
これは、鷲田先生の「無防備に気持ちをポン」と同じ構造でしょう。
おふたりとも現象学にその思考の根っこがあるから、このような「かっこに入れる」というスタンスが出てくるのかしら?
それはともかく、国と国との間での「無防備」は、「相手の『切ない事情」への共感」という形をとる。
しかし、そのためには長いスパン、広い視野で考える胆力がいる。
武道家・ウチダは次のように語る。

(同ブログからの続きを引用)
「内田 外交でも内政でも、敵対する隣国や野党に日頃から「貸し」を作っておいて、「ここ一番」のときにそれを回収できる政治家が「剛腕」と呼ばれる。見通しの遠い政治家は、譲れぬ国益を守り切るためには、譲れるものは譲っておくという平時の気づかいができる。多少筋を曲げても国益が最終的に守れるなら、筋なんか曲げても構わないという腹のくくり方ができる。大きな収穫を回収するためにはまず先に自分から譲ってみせる。そういうリアリズム、計算高さ、本当の意味でのずるさが保守の智恵だったはずが、それがもう失われてしまった。
最終的に国益を守り切れるのが「強いリーダー」であり、それは「強がるリーダー」とは別のものである。」
(引用終わり)

すごいリアリズム。
「多少筋を曲げても国益が最終的に守れるなら、筋なんか曲げても構わないという腹のくくり方ができる。大きな収穫を回収するためにはまず先に自分から譲ってみせる。」
この文章の「国益」を「家庭の平和」とすれば、それはそのまま「無防備に気持ちをポン」の文章につながる。
問題は「腹のくくり方」。
わたしが鷲田清一先生を勝手に「わしばっぱ」と呼ぶのは、その「腹のくくり方」が、「夏ばっぱ」のようにびしっと決まっているからです。
いまだに『あまちゃん』的世界に生きているのは私です。
posted by CKP at 16:59| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月04日

おじん公論――「無防備に気持ちをポン」

 今月の『婦人公論』に鷲田清一先生ことわしばっぱのインタビュー記事が載っている。
同じ中央公論でも、あのハイブラウなファッション誌『マリー・クレール』ではなく、『婦人公論』である。

『婦人公論』って、いつのころからか離婚と不倫とかの「どろどろ」を女性週刊誌とは違った視点で論ずる不思議な立ち位置の雑誌になっている(それ以前はどんなんだったか、忘れるくらいに)。
その『婦人公論』に、こくびをちょっとかしげてアタマをかきながら登場したわしばっぱの写真から「ふきだし」風になっているタイトルは、
「大量の言葉を消費する時代に 無防備な心をポンと出して相手と眺めてみよう
というもの。
おそらくわしばっぱを訪問した女性インタビュアーにとって、いちばん印象に残った言葉なんだろう。
虚をつかれたのかも知れない。
この雑誌の基本は男女間のどろどろを「婦人」の立場からスッキリさせることなのだから。
つまり、「婦人」の立場を「防御」することだから。

 ところが、わしばっぱは「そもそも『わかりあえる』というのは、ひとと同じ気持ちなったり、同じ考えになったりすることではなく、相手と自分が『こんなに違う』ということを知ることだ」という話から始めている。
そして「無防備なポン」である。

(少し長い引用)
 気持ちを語るというのは、どこか、自分を無防備にするところがあります。形が定まらない自分を二人の間に置く、と言い換えてもいいかもしれません。とくに迷っているとか、ふさいだ気持ちでいるという場合は自分の状態をさらしてしまうわけですから、ある意味危ないことでもある。
 僕が思うのは、そういう場合に、「わかってほしい」とか「わかってくれない」とか、正面からボールを投げたり受けたりしないほうがいい、ということ。そうではなく、ボールを自分の前にポンと出して、二人でそのボールを一緒に見ながら、ふうーんと考える。そんな会話が一番心地いいし、安心できるのではないでしょうか。
 自分の中でもやもやした思いがあり、それをポンと出せば、相手が「こういうことじゃないの?」と言い換えてくれます。お互いに言葉の歴史が違うから、同じことを言ってもちょっと言い方が違う。すると「あっ、そんな考え方もあるのか」と少し視野が広がる。お互いに向き合うより、そうやって一緒に見つめる時間が大切なのです。
 そのためには、自分がまず無防備になること。お互いに無防備になったとき初めて、本当の意味での会話、本当のコミュニケーションが始まるからです。」
(引用終わり)

 ふつう、男女間の「どろどろ」は、「悪いのは相手」ということを明らかにしようとして自分を防御しようとするところに発生する。
「私はわるくない!」という防御姿勢が話をどろどろにする。
(現在の日韓、日中のようなものである。)
そこを、わしばっぱは、「すまなかった」と春子の前で言った夏ばっぱのように(まだ言うか!)、「無防備に気持ちをポン」を提唱する。
しかし、この「気持ちをポン」という「無防備」というのが、けっこう難しい。
ある程度、練習しないとなかなか「無防備に気持ちをポン」というのはできないような気がする。

 この文章を拝読して私のアタマに浮かんだ絵柄は、『東京物語』で兄弟姉妹がこくびをかしげながら母親の遺体を眺めているシーン。
無防備な遺体に無防備な言葉を投げかける。
そんなシーン。

 あるいは、お墓とか仏壇の前で故人や仏さんに話しかけて、問わず語りに相談する絵柄。
「どないしたらええんやろ」
すると、故人の言葉が返ってきて、「そんな考え方もあるのかと少し視野が広がる」。
そういう場面で練習していないと、なかなか気持ちをポンというわけにはいかないかもしれない。
お墓や仏壇の前での合掌という姿勢は、「無防備」の最たるものである。
「無防備」になるには、何かに対する大いなる信頼が必要な気がする。
男女の間では、そのような信頼を「愛」というのだろう。

 それにしてもわしばっぱ、夫婦問題に造詣(?)が深い。

「あのときああ言ったじゃない」
「私はこういう気持ちでいたのに、あなたは全然わかってくれなかった」
「都合が悪くなると、そうやってすぐ黙る」
「おまえはいつも、そうやってツンケンもの言う。だから、何も言いたくなくなるんだ」

 ダンナを質に入れてもという勢いでこの『婦人公論』を買ってきた奥さんが、この橋田寿賀子的なせりふ展開にいたく感心しておりました。

posted by CKP at 14:47| Comment(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする