2014年02月27日

「闘争」――『昭和語広辞苑』は忘れたころにやって来る

 今年は久しぶりに「春闘」という文字を目にすることが多い。
が、「春闘」が始まる以前に経営者側からベアの提示があって、「春闘」まで盛り上がることなく「しゅんと」しちゃうかもしれないなぁ、と“わしばっぱ”(本人未公認)みたいなダシャレをかましてみました。

 私らが学生の頃は、ストライキという古典的な闘争はもちろん、国労・動労の遵法闘争(「じゅんぽう」と訓むのだよ)や全逓の「合理化反対闘争」(郵便番号の枡目に「合・理・化・反・対」と書きこんだのだよ――その頃の枡目は5つでしたね)なんてのがあった。

 今で言う「ボランティア」もほとんど「闘争」だった。
大阪の釜ケ崎で正月に炊き出しをするのも「越冬闘争」、夏に南京虫を駆除するのも「南京虫駆除闘争」、空港建設に反対する三里塚の農民、四国電力の原発建設に反対する伊方の農民の農作業をお手伝いするのも「援農闘争」。

 そのほか、いろいろ「闘争」がありましたが、いつのころからきれいさっぱり「闘争」という言葉が消えてしまいました。
なぜ「闘争」という言葉が消えてしまったのか?
逆に言えば、あのころ、なぜボランティア的な活動も「闘争」だったんだろう?
みんな、闘争心の塊だったのでしょうか?
そして、現在、みんなから闘争心が無くなってしまったのでしょうか?
そのわりにはネットでの攻撃というのはえげつないものになっています。

なぜなんだろう?と考えていましたが、ウクライナの大統領官邸占拠のニュースを見て、こうゆうことかなと思い当たりました。

「大統領ほとんど独裁」という体制からヨーロッパ的民主主義という体制への変革がめざされる場合、人々はその行動を「闘争」と呼ぶ(もっともウクライアのデモを組織したのは右寄りの人たちらしいですが)。
日本で「あのころ」、いろんな社会活動を「闘争」と呼んでいたのは、資本主義体制から社会主義への変革が目指されていて、その資本主義の矛盾との戦いを「闘争」と呼んでいたのではないか。

 そこから考えると、現在の「ボランティア」は何も社会の体制を変革しようというものではありません。
たしかに、「ボランティア」は、資本主義体制が「儲けにならない」と放置している現状、つまり資本主義の矛盾を解決しようという活動で、その意味では反資本主義的な活動です。
しかし、派遣労働者が仕事にありつけないから、いつまでも震災からの復興が実現できないから、この資本主義体制を打破し社会主義の建設へなどと言う人はいません。
資本主義に対するオルタナティヴであった体制が消えちゃったからです。
というわけで、「復興闘争」ではなく「復興ボランティア」なのでしょう。
ひょっとしたら「戊辰戦争以来の恨みはらさでかぁ」と薩長政権の変革を目指して「東北独立闘争」を唱える人がいるかも知れませんが・・・(これ、わりと「あり!」だと思います)。

 現在の社会活動では、そのような体制の変革ではなく、むしろ人間と人間のコミュニケーションのあり方が模索されているというような感じがします。
それはそれで大事なことだけれども、しかし、そろそろこのあたりで資本主義とは違う、また社会主義とも違う社会のあり方というのが目指されねばならない時期なのでしょう。
ボランティアなどの活動からそんな社会像が出てくる頃のような気がします。

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2014年02月25日

不良少年 まじめにつとめて50年――ザ・ローリング・ストーンズの弁証法

 いよいよザ・ローリング・ストーンズのおそらく最後の日本コンサート・ツアーが始まる。
あらゆる物を質に入れてでも行きたい!が、質に入れられないものばかりなので今回は涙をのんで断念。

で、その腹いせに昨年のロンドンはハイド・パークでのコンサートのDVDを購入。
ストーンズ結成50周年のコンサート。
ミック・ジャガー1943年生まれ。
キース・リチャーズ1943年生まれ。
チャーリー・ワッツ1941年生まれ。
そしてロン・ウッド1947年生まれ。
70歳前後の爺さんたちの野外コンサート。
あんまり期待しないで見始めたのだが、これがメチャメチャいい。
今までのコンサート・ヴィデオのベストと言ってもいいくらい。

もともとみんな、『サンダーバード』の人形みたいに大きな口に大きな目の人間ばなれしたご面相だけど、深い皴でそれに磨きがかかって(?)、異様な爺さん面で舞台を動き回る。

ミック・ジャガーはいつものヘンテコなステップで動き回る。
キースは相変わらずカッコつけてギターを刻む。
チャーリーはキースの動きを追いながら、静かにドラムをたたく。
身体に悪い不良生活を50年続けてきたはずなのに、メチャメチャ元気だ。
ロケンロールへの腰の入り方が違う。

 もちろん、そこがハイド・パーク、つまり44年前に最初のリーダーのブライアン・ジョーンズの追悼コンサートをした場所であった、ということも、腰の入り方に影響しているのであろう。
ブライアンのガイストがストーンズを導いている。
というか、ロックがロックでいられるのは、若くして死んでいったブライアンやジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョップリン、ジム・モリスンらのガイストが生き延びた者たちを見つめているからであろう。
気の抜けたロックなどやろうものなら、奴らが化けて出てくる。

 それに、ストーンズがストーンズとしてここまで転がり続けられたのは、「たかがロケンロール(だけど俺はこれが大好きなんだ)」と言えたからである。
ロケンロールが最高!ではない。
それを否定して、たかがロケンロールと言いきることができたということ、しかしそのたかがロケンロールが何よりも好きだということ、この弁証法がストーンズをいまだに転がり続けさせている秘密なのだ・・・なんて事を、「It’s only Rock’n’roll(but I like it)」を聴きながら思う。
ちょいと涙ぐんじまったぜ。
たかが人生さ、でもこいつがオイラは大好きさ。
 
 日本ではこんなコンサートはできまいて。
合唱団を舞台に挙げての「You can’t always get what you want」なんて日本で聴けるわけがない。
それにハイド・パークからはもう半年以上も経っている。
爺さん度もそろそろ限界だろうて・・・と自分を納得させるが、でもやはりちょっと悔しい。
[追記:東京でも、ハイド・パークと同じくミック・テイラーが登場し、合唱団も舞台に上がったみたいですね。たいへん、悔しい。わたくしは、東京のコンサートとちょうどおなじ時間に、京都の下宿でヴィデオを見直しておりました。]
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2014年02月13日

西田幾多郎「『国文学史講話』の序」は、なぜ「『国文学史講話』の序」なのか:改訂版――実は「『国文学史講話』の序」は「『国文学史講話』の序」ではなかった

 2010年の7月に「西田幾多郎「『国文学史講話』の序」は、なぜ「『国文学史講話』の序」なのか」という記事をこのブログに書いた。
しかし、このほどレポートの採点をしていて、この記事の間違いに気がついた。

 ある学生が、西田幾多郎の「『国文学史講話』の序」という短いエッセイが最初に掲載された『国文学史講話』(藤岡作太郎著、1908年明治41年)を図書館で探しだし、そのときのタイトルが「『国文学史講話』の序」ではないことをレポートしてくれたのである。
私はずーっとこのエッセイのタイトルは「『国文学史講話』の序」だと思っていて、直接に『国文学史講話』に当たる手間を怠けていた。
その怠け者の教師の怠惰を、その学生は指摘してくれたのである。
もちろん、そのレポートはSが付けられた。
 
 以下、その指摘を受けて、先の記事の改訂版。


 西田幾多郎の『思索と体験』に収められた「『国文学史講話』の序」は、西田の中学以来の友人・藤岡作太郎の『国文学史講話』の「序」として書かれた文章である。
西田も藤岡も幼きわが子を亡くし、悲哀の念を同じくしたことが書かれてある。
が、それは前半だけで後半は専ら西田自身が、わが子を亡くしたこと(1907年、明治40年)に対する喪の作業の中で、親鸞の言葉によって「無限の新生命」に接したということが書かれている。

 だからこのエッセイは「無限の新生命」とか「わが子の死」というようなタイトルがふさわしいのだが、西田は「『国文学史講話』の序」というタイトルで『思索と体験』に収録している。

 それは、まずは藤岡作太郎のこの『国文学史講話』が「人情」に基づく仕事であることを強調したいためだと言えるだろう。
西田は、述べている。

「しかし人間の仕事は人情ということを離れて外に目的があるのではない、学問も事業も究竟の目的は人情の為にするのである。而して人情といえば、たとい小なりとはいえ、親が子を思うより痛切なるものはなかろう。」

 藤岡作太郎の仕事はそのような仕事と言いたいのである。
もちろん西田自身の仕事も。
同じころに「先頃遂に鬼籍に上った病児の介抱片手に」その第二篇が書き始められ、4年後の1911年(明治44年)に刊行された『善の研究』の序文には次のような言葉がある。

「この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。」

 ここでは「人情の為」という表現が、「人生の問題」という表現に変わっている。
西田といえば「絶対矛盾の自己同一」などの難解な言葉遣いで敬遠されるが、しかしいつまでも読者が絶えないのは、その中心に「人情」「人生」がリアルに「体験」され「思索」されているからであろう。

 だがしかし、それでも、「『国文学史講話』の序」というタイトルは、『思索と体験』への収録に際しては、変えられてもいいような気がする。

 しかし、西田にはやはりこのままのタイトルで出さねばならない事情があった。
このエッセイは、明治40年11月(1907年)に書かれ、翌明治41年3月発行の『国文学史講話』に掲載された。
この時のタイトルは実は「『国文学史講話』の序」ではなかった。
考えてみれば当たり前である。
予想されるタイトルは「序」だけのはずである。

 この本には、作太郎自身の「序」を含めて三つの序文がある。
その三つの序文は、すべて作太郎が亡児の記念にこの本を出版するということについて述べた文章である。
すべて涙で綴ったような文章である。
日露戦争に「勝利」して2年後の文章とはとても思えない「女々しい」文章なのである。
その二番目が西田幾多郎の「序」なのであるが、そのタイトルは「東圃学兄が其国文学史講話を亡児の記念と出版せらるゝに當りて、余の感想を述ぶ」というものだったのである。

『思索と体験』はそれから7年後の大正4年3月(1915年)に刊行されている。
ところが、西田に自著の「序」を要請した藤岡作太郎は、その書を刊行して2年後の明治43年(1910年)に、東京帝国大学助教授の任なかばで死去しているのである。
西田が京都帝大へ移った年、『善の研究』発刊の前年であった。

 ゆえに、この「『国文学史講話』の序」は、藤岡から「今度出版すべき文学史をば亡児の記念にしたいとのこと、及び余にも何か書き添えてくれよ」と要請されて書かれた文章である、ということにとどまらず、『思索と体験』においては、藤岡作太郎自身への追悼・「記念」の文章にもなっているのである。
ゆえに、上の長い長いタイトルから『国文学史講話』は外すわけにはいかなかったのである。

 鈴木"大拙"貞太郎とあわせて「加賀の三タロー」と称された、そのうちの一人を亡くした当時40歳の西田の悲しみはいかばかりであったろうか?

 その喪の中で、藤岡の『国文学史講話』に添えた自分の文章を西田はどのような思いで読み返したであろうか?

「しかし翻って考えて見ると、子の死を悲しむ余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、悲しむものも悲しまれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風鳴虫のあるあり、いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。」

作太郎が亡くなった年に詠まれた歌は、その悲しみと無関係ではあるまい。

「我死なば故郷の山に埋れて昔語りし友を夢みむ」
         (『西田幾多郎歌集』上田薫編・岩波文庫)

 西田は、わが子の死の喪の作業の中で「無限の新生命」に接した体験を、わが友を亡くした体験の中で「我死なば」と繰り返すのである。

posted by CKP at 18:17| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月12日

昔の名前で聴いてます――今さらながら去年のベスト

 自慢ではないが、わたくしは人の名前を覚えるのが苦手である。
「だいたい合ってればいい」という感じでテキトーに覚えるので、漢字二字の苗字が一字でもあってれば(藤)先生に「おお凄い、一字、合ってるじゃないですか」と褒められる。
還暦前にして最近ますますこの傾向は強まりつつある。

 そんな私だから、最近話題の人の苗字が覚えられない。
「万能細胞を発見した、ほら、オギクボさんとかいう・・」
「小保方さんのこと?」
「ほれ、都知事選に出ている元自衛隊のタモモダというおっさん」
「田母神のこと?」
4字の漢字の名前などはもう無理。
「ゴーストライターに作曲させていた、ほれ、サウチコウチとか言う男」
「ああ、佐村河内?」

 というわけで、本を読んだりCDを聴いたりする時も、ついつい覚えている名前に手が伸びる。
昔から知っている人の作品ばかりを読んだり聴いたりしている。
であるから、昨年は、いちばん今まで親しんだ名前、つまり門脇健の『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』をいちばんよく読みました。
何度読んでも面白い。
ホント、よくもまあ、こんな本、書けたよなぁ、と感心する。
ただし、現象学的な肌理の細かい考察が展開される鷲田清一『〈ひと〉の現象学』『おとなの背中』『パラレルな知性』や、エッジの効いたロジックで構成された内田樹『修行論』『内田樹による内田樹』『街場の憂国論』などとは比べないでくださいね。

 そんなわたくしが初めて接した人の本で、皆さんに是非ともお薦めしたいのが、西川勝『となりの認知症』(ぷねうま舎)。
認知症の人と接する時の具体的なノウ・ハウというよりも、そこに展開されるコミュニケーションの豊かさに気付かせてくれる本。

 ふつう、「伝わる」「理解できる」ことを目標にしてコミュニケーション技術を獲得しようとするが、西川さんはむしろ「伝わらないこと」「理解できないこと」の豊かさ・面白さを、この本で「伝えて」くださっているように思う。
私にとっては、大変、刺激的な本で、四条河原町でスピカ―で「ご通行中の市民の皆さん!」と声を大にしてお薦めしたい本でした。

 西川勝氏は、長らく看護師をしておられ現在は大阪大学のコミュニケーション・デザインセンターの特任教授。
と聞けば、匂って来ます。
ハイ、そうですね。
読んでゆくと「私の師匠、鷲田清一」というフレーズに出会います。
ホント、神出鬼没のわしばっぱ(非公認)であります。
もっとも、この本、鷲田本・内田本の編集をなさっている晶文社の安藤聡氏のツイッターを通して教えていただいた本でした。

 というわけで、音楽の方も、昔の名前ばかり聴いていました。
ライ・クーダーのライブやニール・ヤングの『サイケデリック・ピル』なんかは、CDがあんまり良かったのでLPで買い直したくらい。
CDでも十分いいですけど。
またこれも古い名前ですが、アルバート・アイラーの『ゴーイング・ホーム』というのが心にしみました。
「破壊せよ、とアイラーは言った」(@中上健次)のあのアルバート・アイラーが、黒人霊歌や「ゴーイング・ホーム」(ドボルザークのあのメロディ)をまるで葦笛を吹くように素直に歌いあげます。
ちょっとジーンときました。

 あと、はじめての名前では、ハイチ出身の女性でチェロをギターのようにかきならしながら歌うレイラ・マッカラという人の『VARI-COLORED SONGS』というCDをよく聴きました。
「ラングストン・ヒューズに捧げる」というサブタイトルに惹かれて買ったのですが、生活の喜怒哀楽が静かに歌われているのが気持のよいアルバムです。

 若手の女流ヴァイオリニストもそれなりに聴きましたが、イブラギモーヴァとかコパチンスカヤとか名前が長くて、まだしっくりきていません。
やはり、ジャニーヌ・ヤンセンとからヴィクトリア・ムローヴァという昔の名前で聴いてしまいました。
この二人、それぞれバッハのヴァイオリン協奏曲のCDを出しましたが、私がよく聴いたのはジャニーヌ・ヤンセンの方。
ムローヴァもきりっとしていていいのですが、ヤンセンの方がなんだか明るくてついついこちらの方をよく聴きました。
この人のライブに一度行ってみたい、と思う演奏でした。

 初めてだったけど名前が「モジリアーニ弦楽四重奏団」ということで、知ってる名前だったのでついつい買ってしまった、「ドビッシー・ラベル」もよく聴きました。
このメンバーとルイサダのピアノのシューベルトの「ます」も溌剌としていてよかったです。

 最後にこれも「昔の名前」で、イリーナ・メジューエワのピアノ。
シューベルトの最後のソナタを含むアルバムが、丁寧だけどさらっとしている感じがいいなぁ、と思って聴きましたが、年末になってブラームスの後期のピアノ作品集が出てびっくり。
これはグレン・グールドの名盤があって、あれこれ聞いたけどこれに勝るものはないと思っていましたが、メジューエワのピアノは、グールドとはまた違う魅力が溢れておりました。
ブラームスの晩年には「諦念」という形容詞がふつう語られますが、メジューエワさんは「不機嫌」という言葉をライナーノーツに述べておられます。
なるほどなと、えらく納得して彼女のピアノを聴いてます。

 ほか、まだいろいろ聴き、またこれいいですよ、というようなCDなどもあるのですが、もう2014年も2月半ばなので、これくらいにいたしましょう。

 あ、あとひとつだけ。
モノラルのLPを聴くには、やはりモノラル用のカートリッジにすべきです。
私はこの夏、いちばん安いオーディオ・テクニカのモノラル用のカートリッジを購入し昔のLPを聴き直したのですが、その安いカートリッジでも音の元気が全然ちがう。
今まで、チャーリー・パーカーの40年代の録音なんてどこがいいのか分らなかったのですが、モノラル用で聴くと、音が二歩も三歩も前に出てくるんです。
御同輩、モノラルにはモノラルですぞ。
去年のベストは、このモノラル用カートリッジと言ってもいいくらいです。
ということで、また来年。
posted by CKP at 14:21| Comment(2) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月04日

となりのオドオドーー『ネイチャー』のオジサンたちはなぜ「愚弄している」と怒ったのか?

 西川勝著『となりの認知症』(ぷねうま舎)という本の冒頭、初詣で、首から大きな名札を下げたおばあさんを見かけた、という話が出てくる。
認知症で迷子になった人かどうか、声をかけようとした。
結局、家族が脇についていたのだが・・・

「迷子に対するようには、簡単に声はかけられない。認知症の人が、うまく話がかみ合わない対人的なストレスから逃れるために、「自分は困っていない」、「助けは必要ない」とその場を離れようとするのを何度も経験してきました。自らの弱さに敏感な人が他人からの助けを受け入れる気になるには、ある程度の信頼や親密な関係が必要になります。」(14頁)

 この認知症のおばあさんの反応に、私は自分自身のヨドバシカメラでのふるまいを思い出しました。

 ヨドバシカメラのほとんどの売り場は、60歳にならんとするオジサンには見知らぬ未知の世界です。
オロオロ歩くばかりです。
困っているのを見透かされはしないかとオドオドしています。
「困っていない、困っていない、ただ分からんだけ」
いわば擬似認知症状態なのでした。

 世間では一人前の大人としてそれなりにふるまってきたオジサンは、ちゃらちゃらした若者店員の前で、「困っている」「助けてほしい」などという弱みを見せることはできません。
ただ、分からないところを説明してもらえばいいと、あくまでも自分の世界を維持しようとします。
したがって、やたらと威張って「分からん」オーラを発していた、というわけです。

 「分からん」ところが「分かる」ということになれば、ヨドバシカメラで喪失しかかったオジサンの世界は回復するのです。
オジサンはひたすら「分かる」世界だけで生きていたいのです。

 ところが、若い女子は平気で「困ってるゥ」「助けてェ」オーラを出すことができます。
若いあんちゃんの店員は、当然、「わからんぞ!」オーラの威張ったオジサンよりも、「助けてェ」オーラの若い女子のほうに行く。
私が店員なら、そうする。

 そして、その女子たちは、よく分からんなりに新しいパソコン世界に出会っていくのでありした。
いつまでも「分からん、ちゃんと教えろ」オーラのおじさんには、旧態然とした世界が続いていくのであります。

 なんとなく、あの今度、万能細胞を発見したカッポー着理系女子の発見が、最初ネイチャーに「これまでの生物学の歴史を愚弄している」と掲載を拒否されたエピソードを思い出します。
これまで理性的に考えてきた生物学の歴史をナメてんのか、というわけです。
そりゃ、「細胞を30分(?)、酸性の液に浸しておきます。はい、こちらが30分たったものです」とまるで料理のように万能細胞が差し出されたら、学者先生方は怒るわな。
これまで生物学の世界にしがみつく威張ったオジサンたちの顔を見えるようです。
きっと、ヨドバシカメラでの私のような顔をしていたのでしょう。

 それに対して、あのカッポー着女子(スミマセン、名前がどうも覚えられない)は、とにかく困ったら何かをやってみる、理屈に合わなくてもやってみるということだったのではないでしょうか?
というか、あの万能細胞、理屈そのものは分かってるのでしょうか?

とにかく、最近、とみに記憶があやしくなっているので、「わからんぞ」オーラよりも「困ってる、助けて」オーラを出す練習をしたいと思います。
みんな、助けてね。
posted by CKP at 13:35| Comment(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする