2013年12月18日

夢を諦めるとき――歌謡曲は「諦め」教育の学校でした

只今、教授能力向上のために教員がお互いの授業を参観するということが、わが大谷大学で行われている。
わたくしカドワキの授業を参観した某(藤)先生から、
「意外に格調高い講義をされてるんですね」
とビミョーな感想をいただく。
たしかに昨日の授業は「愛をつぐなうとなぜ別れになるか」という問題を考察するために、テレサ・テンを唄う、という暴挙には出なかった(と思う、たぶん)。
西田幾多郎の『善の研究』の核心を講義するという、我ながら怖れを知らぬ講義をしていたのであります。

 が、そこで確かにテレサ・テンは唄わなかった(たぶん、記憶が曖昧)けれど、このほどACミランに入団が決まった本田選手の話はしました。

 本田選手は、小学校の時にすでにACミランに入団するという「夢」を文集に書いていたという。
だから、本田選手が日ごろから日本のサッカー少年への「夢を諦めないで」と送っているメッセージは、この夢の実現によって、より強力なものとなる。

 夢を実現した本田選手は凄い!偉い!
ホント凄いと思う。
が、すべてのサッカー少年が本田選手のようになれるわけではない。
すべての野球少年がイチローになれるわけではない。
どこかで、自分の才能に見切りをつけて、夢から残酷な現実に目覚めて、夢を諦めなければならないときがある。

 この「夢の諦め方」ということが、最近の教育ではおろそかになっているのではないか?

「いつまで夢みたいなことを言ってんだ!」という叱り言葉、最近、あんまり聞かない。
「およばぬことと、諦めました」などという歌はまったく聴かない。
「とかくこの世はままならぬ・・・」なんて歌も過去の彼方。

 確かに、学校で「いい歳になったら、いつまでもチャラチャラした夢を見ていないで、しっかりと地に足をつけて生きなさい」ということをストレートに言うことは難しい。
それでも、以前は世のため人のため何ができるか、というのが教育の基本だった。
つまり、何をやるかは、「世の中」とか「人」という、あちらの方から問われていたのである。

 しかし、80年代以降は教育の現場で「自己実現」」などと盛んに言われるようになった。
となると、いったいどのように夢から覚めて、現実を生きていいのか分らなくなる。
夢に挫折し諦めるというのは、きわめてマイナスの人生模様となる。
みんな勝ち組に乗ろうと必死になる。
それに乗れない場合には、あくまでも自分の好きなことをやるということで自己実現を図るということになる。

 恋愛の失敗も認めることが難しい。
だから、最初から恋愛しないか、するとしても失敗つまり失恋を認めないということになる。
ストーカーというのは、あれはあれで、いつまでも「夢をあきらめない」という一つのスタイルである。

 思えば、「夢を諦める」教育というのは、学校以外の場で行われていたように思う。
大人の「いつまでも夢みたいなことを言ってんだ!いい加減に目を覚ませ」という叱咤は、今思うと貴重な人生のアドヴァイスであった。
歌謡曲に溢れる失恋ソングに、人々はどれだけ慰められたか知れない。
あの沢田研二の(あのイントロも含めて)名曲中の名曲「危険な二人」でさえ、諦めきれない恋を諦める歌であった。

「僕にはできないまだ愛してる
 あなたは大人のふりをしても別れるつもり〜」

ストーカー直前の危険な状態ではあるが、しかし、「あなた」の立場をなんとか理解して別れを受け入れようとするジュリーのすがるような唄い方がたまりませんね。

 テレビを見れば「プロジェクトX」(今は「プロフェッショナル」?)とか「情熱大陸」とか「成功者」の話ばかりである。
たしかに「私はこれで人生、棒にふりました」というのでは番組にならない。
しかし、失敗した人生も味わい深いものですよ〜というメッセージをなんとかして届けることも必要であろう。

 その点では『あまちゃん』は画期的であった。
と、またその話かよ〜と言われるので、多くは語りませんが、あのドラマ、みんな挫折を抱えながら生きているのが、なんだかほっとするという側面でありました。

 ところで、何で『善の研究』の解読に、本田選手の夢の話が出てくるのか?
はい、それが知りたい方は、正月明けの宗教学概論の授業を覗いてみてくださいね。
posted by CKP at 16:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月14日

東日本大震災復興支援大谷大学教職員有志ボランティア 第12便出発

学生と教職員の有志ボランティア便が仙台に向かいます。
今回の支援活動は、仙台の仮設住宅での食事会や餅つき、抹茶提供などです。

はじめてボランティアに行く学生、何度も参加している学生、活動や準備にかかわる教職員。みんなが懸命に体を動かして、今回もバスが出発しました。

震災から1000日を越えたところですが、被災した方々の経験や思いに耳を傾ける活動は、これからも続けていく必要があります。

活動の様子は(いままでの活動の記録も)、こちらのfacebookで見られます。
https://ja-jp.facebook.com/otani311
posted by (藤) at 04:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月13日

なかの綾『へたなうそ』――CKPの「今年のベスト3」にノミネート

「連絡しないで喪中なんだから」(@「暦の上ではディセンバー」)という便りが続々と届きます。
今年のベスト3は何を選ぶかと思案していたところに、なかの綾というお姐さんの『へたなうそ』というCDが届きました。
CDの帯の表には
「夜と お酒と 男と女……
 京都・西陣出身の現役ホステス・シンガー!」
とあります。
また、裏には
「幸せな女性は決して聴かないでください。」
とあります。
しかし、ワタクシCKPは幸せだけど、オッサンなのでいそいそと聴くのであります。

一曲目は「ラヴ・イズ・オーヴァー」
にぎやかなラテンのリズムに乗って、ストレートで少しハスキーな小気味よい声が気持ちよく届きます。
ワタクシにとって、ど真ん中のストライクです。

以下、「私はピアノ」や「つぐない」などなど、そして「恋に落ちて」など、昭和的な切ない別れ歌が続きます(全部が昭和ではありません)。

 藤圭子の新宿的暗さではなく、
大西ユカリのナニワ的えぐさでもなく、
CKBの横山剣さんの横浜的バタ臭さでもなく、
西陣と青山のちょっとおしゃれなラテンの香りに乗った悲しい歌が、いいネ!であります。

 わたしらの世代だと、ラテン・アレンジの昭和的歌謡の向こうには、ロス・プリモスやロマンチカなどの60年代ムード・コーラスのチープで淫靡な世界が広がってしまうので、もう、たまらんのであります。

 このアルバムではじめて知った、元は島津ゆたかという人のド演歌の女唄「ホテル」という曲(作詞はなかにし礼)。
「ホテルで逢ってホテルで別れる
小さな恋の幸せ」
元唄をきちんと解釈して再構築しているから、唄われている情況が非常にクリアになっているのであります。
そんな情況、クリアになってもしょうがないですけど・・・。

 近田春夫がグラム・ロック風にアレンジした名曲「東京物語」を、このなかの綾さんのラテンなストレート・ヴォイスで聴いてみたいものです。

 またテレサ・テン「つぐない」の
「愛をつぐなえば 別れになるのよ
 こんな女でも 忘れないでね」
という表現のすごさに改めて気づきました。

 お分かりでしょうか?
何故、愛をつぐなうと、別れになるのか?
ちょうど西田幾多郎の「知と愛」という文章についての講義の後だったので、最初は「なんで愛をつぐなうと別れになる」のかと自分でも「????」でした。
おそらくカントに訊いても、ニーチェに尋ねても、わからんでありましょう。
下宿のお姐さんにふらふらといけない関係になってしまったヘーゲル先生なら「それはね・・・」と説明してくれそうです。
「そうか、そういう愛なんだ」

が、ちょっと不安だったので、テレサ・テンを聴きこんでおられる池上タヌキ哲司先生にお尋ね申し上げたのです。
「なんで愛をつぐなうと別れになるわけぇ?」
タヌキ先生は間髪入れず即答あそばしました。
「不倫の愛だろ。それをつぐなうと別れるという選択しかないじゃないか」

 我が哲学科の倫理学・人間関係学コースでは、このような日常的な愛の問題も学ぶことが出来るのです。
愛に悩む受験生の皆さん、大谷大学哲学科へどうぞ!






posted by CKP at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月10日

あれ?こんなところに大谷大学推理小説研究会――週刊文春「ミステリーベスト10」のミステリー?

 「暦の上ではディセンバー」(@あまちゃん)というわけで、はや週刊文春の「ミステリーベスト10」の季節。

 ちなみに国内部門のベスト3は、
『教場』長岡広樹
『祈りの幕が下りる時』東野圭吾
『ノックス・マシン』法月綸太郎
というわけで、私の『死ぬのは僕らだ!』は入っていませんでした。
最終章など、「魂の不死」をどうやって書こうかと、けっこう、ハラハラドキドキしながら書いたんですけどね。
書き手がハラハラドキドキしてどうする!?

 国外ベスト3は、
『11/22/63』スティーヴン・キング!!!
『緑衣の女』アーナルデュル・インドリダソン
『遮断地区』ミネット・ウォルターズ

スティーヴン・キングの分厚くしかも上下巻ある本が一位。
これは卒論・修論の口述試験が終わるまで読めないな、とサンダーバードの中でペラペラ「週刊文春12月12日号」をめくって各小説へのコメントを読んでいたら、
「大谷大学推理小説研究会」
という活字が目に飛び込んできた。

 へぇー、このベスト10に、作家や本屋の店員さんに交じってうちの大学の研究会もコメントを寄せているんだ、と感心しながら、ほかにどんな大学のクラブが参加しているんだろ、と調べてみると

筑波大学推理小説研究会
同志社大学ミステリ研究会
立命館大学ミステリー研究会
東京大学新月お茶の会
慶応義塾大学推理小説同好会

 このラインナップだと「大谷大学」を「大阪大学」と空耳ならぬ「空目」した読者もいるのではないでしょうか。
しかし、何度見ても「大谷大学推理小説研究会」!
ミステリー研究では(も?)、うちの大学のクラブは上の大学のクラブと互角に発言しているんですね。
では、SF研の立場はどうなる?

 というわけで、推理小説ファンの受験生諸君!
大谷大学哲学科に入学し、推理小説研究会やSF同好会に入部しませう!
posted by CKP at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月07日

西洋哲学倫理学会秋季公開講演会のお知らせ

下記の通り、公開講演会を開催いたしますので、
ご案内申し上げます。奮ってご参加ください。

西洋哲学倫理学会秋季公開講演会

講題:九鬼周造における永遠回帰の思想
            ー押韻論の観点からー
講師: 小 浜 善 信 氏
      (神戸市外国語大学名誉教授)

日時 12月12日(木)午後4時20分より
場所 尋 源 講 堂(尋源館二階)


posted by pada at 12:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月04日

ノンフィクション作家・石井光太さんの渾身のノン・ノンフィクション――『蛍の森』がすごい!!!

 以前、大谷大学の大拙忌でご講演いただいたノンフィクション作家石井光太さんの『蛍の森』が新潮社から発売。
さっそく購入して、ムリョ412ページの長編ミステリーを、途中で止められず一晩で読んでしまった。
気がついたら、午前4時過ぎでしたが・・・
あんまり、ウィークデーに読まない方がいいです。
あすは朝寝ができるゾ!という晩におススメです。

 石井光太さんと言えば『物乞う仏陀』でデビューし、『遺体』などのノンフィクション作品で知られる作家ですが、この『蛍の森』は石井さんはじめてのフィクション。
しかも、ミステリー。
そして社会派。
しかし、綿密な取材をもとにした作品なので、単なるフィクションというより、ノンフィクションをいったんくぐったノン・ノンフィクション。

 解決される事件の背景には、ハンセン病患者たちのお遍路さんが、表の遍路道とは違った裏の遍路道を歩きそして寺に集っていたという事実がある。
隔離を逃れて隠れ遍路になったハンセン病患者たちへの壮絶な差別がリアルに描かれている。
読んでいると辛くなる壮絶な差別、人間の醜さ。

それを描くにはどうしてもフィクションが必要だったとのこと。
また、このテーマに石井さんは学生時代、宮本常一の『忘れられた日本人』で出会ったこと、などなどは石井さん自身のブログに詳しいのでそちらで。

http://kotaism.livedoor.biz/

 ミステリーなので、内容については書きませんが、私は読み終わって親鸞の「悪人正機」ということを考えました。
人は生きるためにどんなに悪くなれるか。
どれほどひどい差別が存在するのか。
どれだけ人間は醜悪になれるのか。
そして、そのような生涯を「よし」と本当に肯定できるか。

 アジアの貧困地域を丹念にルポして来られた石井さんしか書けない作品です。
その石井光太さんのほんとうに「渾身」の第二のデビュー作です。
『蛍の森』というタイトルは、どこか『火垂るの墓』を思い出させますね。
posted by CKP at 16:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月03日

秘すれども色にでにけり――秘密のひ・み・つ

古代、天皇が国を「お治めになる」ことを「知ろしめす」(@『古事記』)と言いました。
民の状態を「知っておられる」「承知しておいでになる」ということが、まつりごとを司るに一番大切だったからでしょう。
したがって、民主主義の世の中で「しろしめす」ためには、民がお互いのことを「知っている」ということが必要になるはずです。
が、どうも今の政治家たちは、民が知って政治に口出すことを鬱陶しいと考えているようです。

 隠せば隠すほど、表に出てしまう――秘密をめぐる法案の隠された意図つまり秘密保護法案の秘密をポロッと出してしまったのが、軍事通として知られる某政治家のブログでの発言でしょう。
ちょっと騒々しいデモをテロと見なすような人物が「軍事通」ということで、この日本は本当に大丈夫なのでしょうか。

 「軍事」とは、いかに戦争を回避し、もし戦争になったらいかにして最小限の犠牲で終結に導くかを考えることです。
少しぐらい元気なデモをテロ呼ばわりしていたのでは、戦線はダダ広がりです。

 いま、真剣に国防とか軍事とかを考えている人は、人的交流を継続しつつ、あらゆるチャンネルからいかに他国の秘密情報をゲットするか、そして同時にいかに外からのインターネット攻撃に対するセキュリティを確立するかを考えているものだと思っていました。
秘密を漏らしたら罰するぞ、などという制度に安心しようというのが政治家も官僚も堕落して一番危ない、と考えているものだと思っていました。
国家機密に対するそういう情報戦を考えている人って、この日本にも絶対いると信じたい。
そういう人がいないと、このままでは日本は戦前へと逆戻り。
ホント、ぞーっとすします。

 ポーの『盗まれた手紙』をひもとくまでもなく、秘密を他人に握られると人は身動きが取れない。
また同時に、その秘密をばらしてしまうと秘密を握っている人の安全は保障されない。
これは国家間でも国家と個人の間でも同じでしょう。

 ウィキリークスのアサンジ氏や元CIAのスノーデン氏が、それなりに身の安全を確保できているのは、おそらくアメリカやロシアの決定的秘密を握っているからでありましょう。
スノーデンのばらしている秘密って、各国首脳のケータイを傍聴していたという「それは言わない約束でしょ」(@シャボン玉ホリデー)程度のもの。
そんなことより、ロシアのあのイギリスで殺された人物の死の真相などをばらしてもらいたいが、そんなことをする気配を見せたら・・・・ということでありましょう。

 しかし、国家にせよ個人にせよ、いちばんの秘密は当人にも知られていない、その人の行動のパターンを律する秘密。
これが「色に出てくる」秘密。
つまり、トラウマであります。
それを「知る」ことが、外交ということでしょう。
何でもかんでも毅然とした態度をとることが外交ではない。
なんたって、治めるというのは「しろしめす」ということなんですから。
posted by CKP at 17:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする