2013年09月30日

ほんとに『あまちゃん』が終わってしまったけど、おらたちには“わしばっぱ”(本人非公認)がいる――鷲田清一『おとなの背中』を読めば大丈夫!

 ついに『あまちゃん』、「おしまい」となってしまいました。
未解決の問題は山積みのまま。
潮騒のメモリーズは今度どうなるのか、ミズタクは今後どうするのか、鈴鹿ひろみは本当に音痴だったのか。それに何より「琥珀の勉さん」の過去が分からないまま・・・

 アキとユイが灯台に向けて走るのをカメラが俯瞰で追って、そこにあのチャンチキなテーマソングが流れてくる。
何度見ても泣けるラスト・シーンでしたね。
「また観て、また泣いてんのぉ」と家人に呆れられていたのは私です。

 アキとユイが一緒に海に飛び込むのかな、と一瞬思いました。
こちらは、勢いあまって、難解の海に飛び込んでしまいました。

「くりかえすが、考えているじぶんからじぶんを隔てて、距離を置いてじぶんを見るというのは至難のわざだ。それに、考えれば考えるほど、いろいろな補助線が見えてきて、問題は複雑になる。思考は一筋縄ではゆかなくなる。けれども、答えを急がず、そうした複雑性の増大に耐えて思考をつづけることこそ、そもそも知性の体力といわれるものではないのか。再浮上するまでにどこまで潜水をつづけられるかという、いってみれば思考の「肺活量」(鶴見俊輔)が、そこで問われているのだとおもう。」(鷲田清一『おとなの背中』91ページ)

 夏ばっぱは、アキに「潜るときは何も考えるな」と言っていました。
それは、言ってみれば、目の前の問題を簡単に自分の知的枠組みにはめ込まない、ということでしょう。
これはこうだと簡単に決めつけない。
どこまでも事柄に沿って潜ってゆく、つまり「答えを急がず、そうした複雑性の増大に耐えて」潜ってゆくことです。
それが「思考の肺活量」なのだと思います。
現実は甘いのかしょっぱいのかにわかに決定できない「まめぶ」のように、簡単に割り切れないのです。

 ですから、私たちは『おとなの背中』の「まめぶ」のような文章で「思考の肺活量」を鍛えながら、現実という難解の海にもぐる練習をせねばならないのです。
 『<ひと>の現象学』では肺活量不足を痛感した方も、この『おとなの背中』という短めのコラムが集められたエッセー集で潜る練習をして現実に向き合えば、少しずつ「思考の肺活量」が鍛えられるはずです。
コーヒーの昼下がり、夜更けに布団にもぐったとき、あわてず少しずつ少しずついとおしむように読んでゆけば、自然と肺活量が鍛えられます。

 ただし、本を読むために鍛えるのではありません。
あくまでも、複雑怪奇な現実に向き合うために、鍛えるのです。

posted by CKP at 18:33| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月22日

たとえ『あまちゃん』が終わったとしても、おらたちにはわしばっぱがいる――鷲田清一先生のこの秋の出版・講演予定

 「わしばっぱ」とは、私カドワキが使用している鷲田清一先生非公認のニックネ−ム。
正式に公認されているのは「わっしー」あるいは「わっしぃ」です。

 で、その鷲田先生のこの秋の出版そして講演について私が把握しているものについてお知らせします。

 まずは、出版に関しては、この9月20日に角川学芸出版より『おとなの背中』がすでに発売されております。
「おとなになるとね、背中の皮膚が乾燥してカユイんだな、これが」というような話ではありません。
「生きていくうえで大事なことはおとなの背中の佇まいから伝わる」という哲学的エッセイ集です。
表紙の写真からして「カッケー」本です。

 10月に入ると、晶文社の「犀の教室」というシリーズ(内田樹先生の『街場の憂国論』ト同時発売)から『パラレルな知性』という本が刊行されます。
帯には「『専門的知性』と『市民的知性』をつなぐ鍵はどこにあるか?危機の時代における知性のあり方を問う哲学的考察」とあるようです。

(追記:この「犀の教室」シリーズ刊行の記念も兼ねての内田×鷲田対談が10月11日の午後6時半から朝日カルチャーセンター中之島であるそうです。有料ですけど。)

 私なんぞは一冊本を出して息もたえだえです。
こうして着々と本を書かれる鷲田先生や内田先生のアタマの中というのはどうなっているのでしょう。

 次にご講演ですが、まず、9月28日「岩波書店創業百年 記念シンポジウム これまでの100年、これからの100年」という催しが京都のシルクホールで午後の2時から開催されます。
鷲田先生は、第二部のパネリストとして登場されます。
申し込み締め切りは9月7日なのですが、どうなんでしょう。
興味ある方は、ネットで検索して京都新聞の係りに問い合わせてください。

 次には東京方面でのシンポジウム。
10月5日土曜日の12時から14時、東京は豊島区の大正大学で開催される、仏教系大学会議という団体(大谷大学も所属)主催のシンポジウム。
下のホームページに鷲田先生のコメントが掲載されています。
参加費無料、一般来聴大歓迎ということですので、東京方面の方は是非。

http://buddhism.cocolog-nifty.com/

 11月に入ると、9日土曜日に、大谷大学の赤レンガの建物の100周年のイヴェントとして鷲田先生のご講演があります。
4時20分から最初、水島教授の講演があり、そのあと鷲田先生が「変わるものと変わらないもの――〈大学〉の未来――」というご講演をなさいます。
こちらも無料で一般来聴大歓迎。
日程をあけておきましょう。

 ご講演、他にもあるかと思いますが、まずこれだけご紹介。

 いよいよ『あまちゃん』が終わって、「これから、いったいおらはどう生きたらいいんだべ」とお悩みのあなた、わしばっぱのお話を聴けば、元気100倍!
posted by CKP at 17:42| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月14日

大谷大学オープン・キャンパス哲学科コーナーで会いましょう――ウチダの名前で売れてます

 明日、9月15日は大谷大学オープン・キャンパスです。
 哲学科の相談コーナー担当は、CKPカドワキです。
大谷大学に興味がある高校生のみなさん、よろしくお願いしまーす。

 というわけで、『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』の予告編を終わらないうちに発売日の9月10日が過ぎてしまいました。
予告編が未完のわりには、売れ行きは好調のようです。
アマゾンでは、発売日から品切れ状態が続いています。
よっぽど売れないと思われていたか、予想以上に売れているのか。
とにかくご迷惑をおかけしています。
もうすぐ何とかなると思います。

 ぜんぶ読んだ!という方々からは、「面白い!」とか「すごい!」とか「好著」とかのお褒めのお言葉をいただいております。
中には「帯がすごすぎ!」という苦言(?)もありますが、まあ、私の名前だけではいきなり売れないですから。
まずは内田樹先生のお力をお借りして、多くの方々に目にしていただき、「お、なかなか読ませるでないの」とじわじわ読者が広がってゆくとうれしいです。

 現在モデルをやっておられる我がゼミの卒業生「ちひろ」さんのブログでは、哲学者の順番が哲学史の順でないことが指摘されていました。
さすが「ちひろ」さんです。
http://ameblo.jp/venus22clover/entry-11612119573.html
(「ちひろ」さん、お祝いありがとうございます。
また、お買い上げのうえ、ブログで紹介ありがとうございます。
お友だちのモデルの皆さんも、読んでくれるとうれしいです。)
そうなんですね。
いったいこれどうゆう順番なんでしょう?
必然性はあるのですが、うまく説明できません。
目次を見て考えるのもまた面白いでしょう。

 大谷大学横の大垣書店では私の似顔絵がポップとなって売られているので、前を横切るときつい顔を隠してしまいます。
木曜日には売り切れになっていました。
お買い上げありがとうございます。
(追記:15日日曜日に大垣書店本店を覗いてみたら、ド~ンと音を立ててつんでありました。
 今が、買い時、読み時です。
 おいしいうちにどんぞ!)

posted by CKP at 18:58| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月09日

もう一度言う――「地元に帰ろう」は物凄い怒りを秘めたプロテスト・ソングだ!

 『あまちゃん』のアキは、GMT5ともにうたった「地元に帰ろう」に送られて北三陸に帰りました。

 「地元に帰ろう」は、宮城出身の宮藤官九郎が詞を書き、福島で育った大友良英がSachikoMという人の力を借りて完成させた『あまちゃん』の挿入歌。

地元に帰ろう 地元で会おう
あなたの故郷 私の地元
地元 地元 地元に帰ろう
好きです 先輩 覚えてますか?
朝礼で倒れた私
・・・・・・
駅前 コンビニ 駐車場
地元 地元 地元に帰ろう
・・・・
 少し寂しげな、しかし素直な感じでうたわれるこの曲だが、最初、「地元」という言葉の連続にとまどったものだ。
しかし、昨日、首相の「東京はずっと安全」「汚染水は完全にコントロール」という言葉を聞いたとき、地元に帰ることのできない人たちが、この「地元に帰ろう」をどんな想いで聴いておられるのか、ということを考えた。

 この曲をつくった大友さんは、去年も今年も福島でコンサートというか、地元の人たちと音楽活動をなさっている。
「昔はいやだった盆踊りなんかも手伝っている」
そこには、地元に帰れない人々も参加している。
そんな大友さんがつくった「地元に帰ろう」の根底には、地元に帰れない人たちの悲しみと怒りがうたわれている――改めて聴きなおし、そう思った。

この曲の最後では、GMTのメンバーが「地元に帰ろう」とうたいながら、「埼玉」「仙台」「佐賀」「沖縄」「ブラジル」そして「岩手」というそれぞれの地元名を叫ぶ。
しかし、そこには「福島」はない。
岩手、仙台(宮城)と来て「福島」が欠けている。
この欠如は、クドカンと大友さんが意図的に仕掛けたものだと思う。
そこに、福島のことを忘れようとしている人々への強烈なプロテストがあると思う。
もちろん、はにかみやのお二人はそんなことは正面きっては言わないだろうが。
posted by CKP at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月08日

いつか来た道――「地元に帰ろう」はプロテストソングだったのか!

 なんだか気が重いです。

 いやいや、昨日の『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』のキャンペーンをかねた講演会はうまくいったのです。
まとめ買いしますよ、なんて方もおられて販売促進は絶好調なのですが・・・。
 
 発見してしまったのでした。
誤植。
私の書いた文章に誤植というか誤記がないのが不思議なのですが、やっぱり見つかると気が重いっす。
第3章の中頃にあります。
「あれ、読みにくいな」って感じのところが、その箇所です。
他にもあります、自慢じゃないけど。
適当に想像で補ってお読みください。
すみません。
なお、すでにアマゾンでは販売が開始されています。
ヨロシク。

 それに、今朝のIOCでの首相の演説。
「汚染水は完全にコントロールしている」
「東京は今までもこれからも安全」
この発言を聞いて、朝、どっと気分が重くなりました。
完全にコントロールしているのなら、なんで、「問題」が報道されるのか。
今まで安全だったのか?
原発も絶対安全であったはず、それが今の状態。
「絶対安全」と言ってしまうと、それと矛盾する現象に目を背けることなってしまうのというのが、あの事故の教訓ではなかったか?

 同じことを、福島のふるさとに帰れない人に向かって言えるのだろうか。
福島育ちの大友良英さんと宮城出身のクドカンがつくった「地元に帰ろう」というのは、その底にものすごい怒りを秘めたプロテスト・ソングであることに気がついた。
あの「地元に帰ろう」と唄う、少し寂しげなメロディ、原発事故で地元を離れている人は、どんな想いで聴いてるのだろう。
posted by CKP at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月06日

(‘jjj’)/ ――9月7日は福井で『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』(角川SSC新書)のキャンペーン(10日発売です)

 昨日、哲学科の会議が終わったとき、わしばっぱがコム・デ・ギャルソンの大きな封筒を、
「辛いことがあったら、これで涙ふげ」
とおらに差し出した。
封筒から出てきたのは、なんと「(‘jjj’)/」の顔文字が印刷されたスリージェイ・プロダクションのタオル。
しかも「あまちゃん」マーク付き!
おらぁ、思わずそれで涙ふきそうになっちまっただ。
「今でねぇ」
「わしばっぱぁー」
と「あまちゃん」「潮騒のメモリー」の名場面が、大谷大学の会議室でも演じられたのでありました。

 いきなり話は変わって、では、なぜ角川SSC新書の編集者が「哲学科教員ブログ」の記事に目をとめたのか、という問題が出てきます。
よっぽど暇でネット・サーフィンをしていて、我らがブログにたどり着いたのかも知れませんが、いちばん蓋然性が高いのは、「大谷大学ってどんな大学」という調査の過程でたどり着いたという可能性です。

 というのは、この編集者、わたくしカドワキのことをわしばっぱじゃなかった鷲田清一先生に問い合わせしているふしがあるからです。
たぶん、次のようなことではなかったかと推測しています。

 以前から、鷲田先生と交流のあったその編集者は、鷲田先生が大阪大学から大谷大学に移られたとき、ネットで大谷大学のことを調べた。
そのとき、妙なブログを見つけた。
このCKPって名乗っている人物の書く文章が面白そうだ。
で、鷲田先生に「このCKPってどこの馬の骨ですか」と尋ねた。
そしたら、鷲田先生が「それなりの馬の骨やよ。鹿の骨も混じっているかもしれへんけど」と応答してくださった。
それで、去年の8月、鷲田先生を大谷大学に訪ねたとき、カドワキにも「新書どうよ」とアプローチしてこられた。

 その話を鷲田先生経由でいただいたとき、いったいブログのどんな記事を編集して本にしてもらえるのかなぁ、と期待していたのです、じつは。
ところが、哲学入門ということで、一冊、書き下ろせといわれる。
てっきり、内田先生のようにブログのコンピ本で「楽勝!」と思っていた私は、じぇ×10ぐらいで驚きました。
アタマ抱えました。
サラリーマンにも読める哲学入門書。
そんなもん書けるかなぁ・・・。
で、どうせ書けそうもないのなら、哲学のいちばんに深いところの問題、死そして「魂の不死」について書いてみて、自分自身がちゃんと死ねるようなものを書いてみようと無茶なことを考えてしまったのですね。
棚からぼた餅みたいな話だから、書けなかったら、この話、なかったと思えばいい。

 それで、ゼウスの雷撃も怖れず、『パイドン』の魂の不死、永遠のいのちの問題に突撃したのでありました。
これは、鷲田先生がどこかで言っておられた「死ぬと分かっている人間がなぜ生きることができるか」を考えることでもありました。
また、これは、阿弥陀つまり無限とか無量寿の問題ですから、坊さんの私としても、きちんとしておきたい、ということで、ホント、死ぬ気で書きました。
だから、書いてる本人は、しんどかったけれども、とっても面白かった。
「魂の不死」を完璧に説得しきったとという自信はないけれど、なぜこれを哲学者たちが基本的な前提としているのかはすごく腑に落ちた。
というわけで、この本、本気で書いてます。
ブログも本気といえば本気だけど。

 それで、明日は、福井で午前は浄土真宗各派のお坊さん方、昼からは各派の善男善女の皆さんに、この『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』のキャンペーンをかねて、一席うかがうことになってます。
キャンペーン歌手のように「哲学入門 死ぬのは僕らだ!」というタスキをかけてやりたい。
が、角川は用意してくれませんのでかけませんけど。
午後の部は、1時半ごろから福井市の浄土真宗本願寺派福井別院(西別院)で開催されます。
2時から3時半までが、私の持ち時間です。
つかみはやっぱり「圭子の夢は夜ひらく」かなぁ。
「我こそは善男善女」という方、どーぞ。
posted by CKP at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月03日

『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』――いよいよ見本版がやって来た!

 今朝の『あまちゃん』、あのチャンチキなテーマ・ソングにのって、けなげにそして果敢に走る北鉄の映像を見ているだけで、涙ぐんでしまうオッサンは、私だけでしょうか。
がんばれ!北鉄!
がんばれ!大吉!
進め!ゴーストバスターズ!

 そして、昼前、角川マガジンズから『哲学入門 死ぬのは僕らだ!』の見本版というのか、パイロット版というのか、完成本が届きました。
角川SSC新書のライト・ブルーの表紙にタイトルと私の所属と名前「大谷大学文学部哲学科教授 門脇健」が印刷されています。
(アマゾンなど通販サイトでも表紙が発表され、それなりに予約もいただいているようです。ありがとうございます。) 
小さな本ですけど、はじめての単著ですから、うれしいです。
内田樹先生の推薦文が、先生のモノクロ写真とともに印刷された帯もついています。
(これは通販サイトでは見れません。)
もう既にその推薦文がアマゾンに公開されているので、ご紹介します。

門脇先生は哲学を
ポップスや映画と
同じレベルで語る。
どんなものであれ、
自分の身体を「震わせた」
経験には等しく正面から対峙する
この潔さに私は深い敬意を寄せる。
             内田樹

 ビミョーな褒め方のような気もするけど、とにもかくにも内田先生から「深い敬意」を寄せられて、うれしくないわけがない。
「震わせた」と「内田樹」が赤で印刷されて、それで「内田樹」という文字が表紙の中でいちばん大きな字で印刷されている。
内田先生の本と間違って買ってくださる方もいるかも知れません。
ありがとうございます、とあらかじめ申し上げておきます。

 で、内容についてですが、この本を貫く大きなテーマは、「どのようにして自分が死ぬということを納得するか」ということです。
このような問題を、私が陰々滅々と述べていっても気がめいるだけですから、哲学のテキストの「決めゼリフ」というか「殺し文句」を「ポップスや映画と同じレベルで語る」というスタイルを採用して、8章にわたって展開してみました。
自分で言うのもなんですけど、出来上がった本を読み返してみると、よくもまあ、こんなアイデアが出てきたもんだ、と自分で感心するくらいスリルとサスペンスでわくわくドキドキしながら読める面白い本だと思います。
このブログに書いた話を展開した部分もあります。
それだけに、専門の方々からはお小言を頂戴することになると思います。
大目に見ていただくとうれしいのですが、ま、もともと学的権威とは無縁ですからあんまり関係ないですけど。
そのあたりが、内田先生が「深い敬意」を寄せてくださっている「潔さ」なんだろうと思います。

 まず、序章と終章は、プラトンの『ソクラテスの弁明』と『パイドン』を扱っています。
そこから「死を知っているものは誰もいない」(『弁明』)、「哲学は死の練習」(『パイドン』)というフレーズを取り上げ、いったいこれでソクラテス‐プラトンは何を問いかけているのかを、考えています。
が、ギリシア語なんて文字通りIt’s Greek to meの私が論ずるのですから、ほとんどゼウスの雷撃に自分から突入してゆくようなものです。
その自爆の様子を楽しんでいただければ本望です。

 朴先生には、ときどき寝込みならぬ食べ込みを襲って質問させていただきました。
正式刊行になったらいの一番にお届けいたしますが、出来上がった文章を読んだ朴先生から雷撃を食らうかも知れません。
その雷撃で焼け焦げたタメゴローな私が「見もの」になるかも知れませんが、ま、あのカドワキの仕事だからと大目に見ていただければうれしいです。

 あとの第1章から第6章については、また今度。
少しずつ小出しにしてゆく予告編です。

 ところで、今まで一冊の単著も出していないカドワキが、なんでいきなり新書なんか出すんだ、という疑念をお持ちの方もおられると思います。
ホント、自分でもびっくりです。
きっかけはこのブログです。
このブログに目を留めてくださった編集者の方が、「新書を書きませんか」とアプローチしてくださったのです。
世の中、何が起るかわかりません。
で、ブログを書くようなつもりで書き出したのですが、「ブログと新書は違います!」とダメだしされて、新書の文体、話体にするのに、そうとう時間がかかりました。
ですから、ブログののりで読んでいただくと、「あれ?」という感じになるかも知れません。
そのあたりの「違い」もお楽しみいただければうれしいです。

 ただいま流れているのは『あまちゃん、歌のアルバム』から、「いつでも夢を」であります。
しかし、キョンキョンの唄う「潮騒のメモリー」、やっぱ凄いです。
posted by CKP at 19:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月02日

がんばれ!大吉――今こそ、ゴーストバスターズ!

 『あまちゃん』、ついにその時が来てしまいました。
トンネルの出口を目指し、「ゴーストバスターズ」を口ずさみながら歩む大吉君のストップ・ショット。
そのトンネルの出口で津波に破壊された線路を眺めならぼう然と佇む大吉とユイの美しいショット。

 まるであの『ゴーストバスターズ』でマシュマロマンに破壊された街のような北三陸。
大吉!
今こそ、ゴーズトバスターズの出番だ!
大震災という最大のトラウマを、抑圧された過去にせず、バスターせよ!

 ヘイ!ゴーストバスターズ!

「ゴーストバスターズ」についてはこちら。
http://tetsugakuka.seesaa.net/article/362571698.html
posted by CKP at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月01日

どう咲きゃいいのさ、この私――追悼・藤圭子

 木曜日は、大谷大学同窓会高岡支部を訪問。
もちろん『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』のキャンペーンをしっかりやってまいりました。

 金曜日は、『同朋』という東本願寺での雑誌の対談記事で内田樹先生の凱風館を訪問。
『死ぬのは僕らだ!』の帯文を書いていただいたお礼もそこそこに、「死を想う」というテーマで、内田先生に私がインタビュー。
先生の少年時代の話や現在のグローバリズムと死の関係など興味深いお話を引き出すことができたと思う。
それは、10月に発売予定の『同朋』11月号のお楽しみ。

 ただ、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」についての話をうまく展開できなかったのが心残り。
内田先生にとって、「新宿の女」の藤圭子は「新宿ゴールデン街的臭み」を代表する歌手らしく、藤圭子の話を出すと、「人の胸ぐらに手を突っ込んで、どうだ俺たち悲しい者同士、と擦り寄ってくる感じが嫌だ」と予想以上に激しく反応されて、私もこの感覚はよく分るだけに、この反応をとっさにうまく引き取って展開できなかった。
もちろん、内田先生は、こちらの動揺を優しく受け止めてくださって、「村上春樹は『朝日堂』で藤圭子のことを好感を持って書いていたよ」と言ってくださっていた。

 私としては、仏説阿弥陀経の系譜としての「圭子の夢は夜ひらく」という話を考えてみたかったのだが、そこまで話を持っていけなかったのが心残りであった。

「赤く咲くのは芥子の花、白く咲くのはゆりの花、どう咲きゃいいのさ、この私」という歌詞は、まだきちんと調べてないが、おそらくどこかで仏説阿弥陀経とつながっていると思う。
つまり、阿弥陀経の「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」、
つまり、「極楽浄土の池の中で蓮が車輪の如く大きな華を咲かせて、青い華は青い光を、黄色い華は黄色い光を、赤い華は赤い光を、白い華は白い光をそれぞれはなっている」という歌詞(?)とつながっているのではないかと思うのである。

 この歌詞は、昭和の歌人にとっては、何より斎藤茂吉の『赤光』という歌集のそのタイトルの出所としてインプットされていた。
斎藤茂吉が、彼の母の死を詠んだ歌集のタイトルだった。

 「圭子の夢は夜ひらく」の作詞者・石坂まさをは母子家庭で育った母思いの人だったから、おそらくこの歌集のことをよく知っていたと思う。
その人が、「赤く咲くのは芥子の花 白く咲くのはゆりの花 どう咲きゃいいのさ この私」と書くとき、おそらく『赤光』を通じて阿弥陀経の一節が意識されていただろうと思うのである。
五木寛之あたりが既に言っているかも知れないが・・・

 そう唄った藤圭子があのようなかたちで亡くなったのは、残念の一言。
60歳ならば60歳なりの「咲き方」があったろうにと思う。
それなりの養分とそして光がどこからか差し伸べられれば、それなりの咲き方があったのではないか。
彼女自身は、ロックのセンスもあった人だという。
エディット・ピアフやビリー・ホリディも、同じような貧しさを背景に唄った人だが、そして同じようにボロボロになっていった人だが、最後まで唄うことをやめなかった。
藤圭子にはそれがかなわなかった。
「新宿ゴールデン街的イメージ」の犠牲になってしまったのかも知れない。
合掌。

posted by CKP at 14:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする