2013年08月28日

お尻がとってもトチニシキ――『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』キャンペーン・ツアー

 先週の土曜日は教職免許更新の先生方を前に、「いのちの教育は可能か?」というテーマで、一席お伺い。
昨日は、北陸路は直江津駅に降り立って大谷大学同窓会上越支部の方々に一席。
両方とも、噺の内容は『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』の予告編のようなことになってしまいました。
反応は、自分のことながら、「きわめて」というか「予想以上に」という言うべきか、たいへんよいのでありますよ、これが。
どうも「死ぬのは、他の誰でもない、この私だ!」という発想に虚をつかれた、という感じなのであります。

 土曜日の小・中・高の先生方の感想文には、「いのちの教育が〈死〉の教育を基盤にするという発想に刺激を受けた」という反応を多く見られ、「こんな考え方が、そんなに刺激的なのか?」と私のほうがびっくり。
また、「儀式というのは、それまでの自分に死んで、それを土台として新たな自分に生まれる変わること」という儀式論にも、多くの先生方が反応してくださった(これは、あの本の第2章で取り上げています)。

 昨日の同窓会支部での公開講演会でも、孤独な晩年を過ごされている女性がひどく感激して聴いてくださったことを、あとで支部長さんから聞かされて、びっくり。
どちらかというと「笑い」をとりに行ってスベッテしまって、そんな「感激」するような話をしたとは思っていないのだが・・・。

 ひょっとしたら『哲学入門・死ぬのは僕らだ』という新書、とっても面白い本なのかもしれません。
もちろん、私にとっては読み返しみてみるとなかなかスリリングな展開で面白いのですが、今まで「私の面白い」と「世間の面白い」がズレテいたので、もひとつ自信がなかったのです。
どうもその「ズレ方」が、いい方向に向いたのかも知れません。

 というわけで、明日は、富山は高岡の同窓会支部をご訪問して、この本を売り込みます。
昔の歌手が、地方のレコード店をめぐってキャンペーンしているような気分です。
藤圭子も「新宿のおんな」や「圭子の夢は夜ひらく」の頃は、こうしてキャンペーンしたんだろうな、と思いながら・・・

 で、『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』がいよいよアマゾンで予約開始!
アマゾンでは、どういうわけか、他の通販サイトでは読めない内田先生の帯文が全文読めます。
http://www.amazon.co.jp/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80-%E6%AD%BB%E3%81%AC%E3%81%AE%E3%81%AF%E5%83%95%E3%82%89%E3%81%A0-%E7%A7%81%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E6%AD%BB%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%8D%E5%90%88%E3%81%86%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%8B-%E8%A7%92%E5%B7%9DSSC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%96%80%E8%84%87/dp/4047316172/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1377691566&sr=8-1&keywords=%E5%93%B2%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80%EF%BC%9A%E6%AD%BB%E3%81%AC%E3%81%AE%E3%81%AF%E5%83%95%E3%82%89%E3%81%A0

 ところで「お尻がとってもトチニシキ」というのは、夏の疲れか、お尻のほっぺたにおっきなオデキができて痛い!ということです。
栃錦というお相撲さん(のちの春日野理事長)は、現役時代いつもお尻にオデキをつくって、「栃錦はお尻が汚いから嫌い」という相撲ファンもいたくらいです。
現在、私のお尻がその「栃錦状態」であるということです。
お尻が栃錦でも、『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』、お買い上げのほどよろしくお願いいたします。
posted by CKP at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月23日

24日大谷大学オープン・キャンパス――『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』の予告をやるかも?

 明日、8月24日は大谷大学のオープン・キャンパスですが、午後から「いのちの教育は可能か」というテーマのシンポジウムで、不肖カドワキ少しお話することになっています。
これは、教員免許更新の講座のプログラムですが、オープン・キャンパスに来られた方にも聴いていただこうと公開になっているシンポジウムです(一般の方も受験生の父母あるいは兄弟姉妹のような顔をしてどうぞ)。

 そこで、「いのちの教育は死の教育」ということを、たぶんお話することになると思います。
「死ぬのは僕らだ」ということを通して「いのち」を考えるということで、『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』の予告編をやることになりそうです。

 とはいえ、文章で書いたものを、口頭で話すというのは、難しい。
前回のオープン・キャンパスのミニ講義で、今回の本の中のカミュの「自殺は認識の不足である」という章を紹介しようと思ったのですが、これがうまくいかない。
短い時間で話そうとするのもうまくいかない理由だけど、文章では可能な「理解できないけど腑に落ちる」という「理解」の仕方をうまく使えないのが主な原因であるように思いました。
私の話芸がそこまで達していないといえば、それまでなのですが・・・

 というわけで、『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』では、哲学者たちの死や生に関するぐっと来るフレーズを読み込んでゆくというかたちで、死の問題を考えています。
そのような8つのフレーズを選び出して並べたとき、正直言って、最初は、どう読んでいいのか、かいもく見当がつきませんでした。
だから、ホント、自爆する覚悟でそれらのフレーズに突撃しています。
が、何とか生きて帰って来れたので、何とかなったということでしょう。
私としては、スリルとサスペンスのハードボイルドな体験でした。

 そのうちのひとつがカミュ(哲学者というより作家ですが)の「死は認識の不足である」というフレーズでした。
 これを読み解き説明するのに、上田閑照、ボブ・ディラン、井上陽水という方々に登場していただくという、書いてる本人もびっくりの展開になりました。
ほんと、死ぬ気になると、妙なアイデアがどこからかやって来るのでした。
posted by CKP at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月22日

過去は逆回転できない――『あまちゃん』の教え

 太巻氏の前に、若き日の春子の幻影が現れました。
「悪いようにしないから」が決めゼリフの「悪者」太巻氏も、いよいよ自分の過去と向き合わねばならない、ということになったようです。

 過去の傷とどのように向き合うか、『あまちゃん』の圧倒的な面白さはここにあると、この時点で、わたくしカドワキは断言いたします。

 夏ばっぱにしても、その娘・春子にしても、その過去と向き合うということが今までの大きなテーマでした。
「地味で暗くてぱっとしなくて協調性も存在感もない」という過去を持つアキは、訛ることで今のところその過去を回避しているように見えます。
ユイちゃんの家族は、癒しがたい「過去」を持ってしまいましたが、過去にはもうもどれない、逆回転は無い、ということで、その過去を受け容れつつあります。

 おそらく「逆回転は無い」ということが、クドカンこと宮藤官九郎がこのドラマで実験してみようとテーマではないか、という気がしてきました。
つまり、3・11以前にはもうもどれない、逆回転できない、それならばどのように生きるか、ということです。

 ですから、過去の傷への復讐というというのとは、ちょっと違う。
アイドルになっていじめた奴らを見返すぞ、ということにはならないと思う。
ある意味では、忘れたい過去との和解ということでしょう。
過去の「傷」を含めて、自分を生きるということでしょうか。
そんなテーマが、どうしようもなく、魅力的なのです。

 と、いろいろメンドクサイことを言っていますが、要するに、面白いということです。

 がしかし、なんで、今日、アキの前に、若き日の春子の幻影が現れたのか?
これが、分からない。
種市先輩と「親不孝」なことに及ぼうとしているからなのか?

 というようなことを考えていたら、藤圭子の自殺のニュース。
ショックです。
中村とうよう、加藤和彦、今野雄二そして藤圭子。
どうも1970年前後に音楽シーンに登場し活躍した人に自死が多いような気がします。
あの時代を最高の時代とし、それを「本当」として、今の時代を「こんなの嘘だ」「生きるに値しない」としてしまうのでしょうか?
分かりません。
一度、60歳過ぎた藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」を聴きたかった。
合掌。
posted by CKP at 22:05| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月20日

夏だ!休みだ!ミケランジェロ!――CKPの夏休み日記(その2)

 夏休み2日目は、まず人間ドッグに行く。
どうゆうわけか、去年と体形は変わらないのに、今年はメタボ攻撃を受けなかった。
バリュームを飲んで、下剤を飲んで、昼食を食べて、異常なしの診断を受けて、クルマを運転していたら、下腹が激しく切なくなる。
あわてて、近くに見えた大きな総合病院に突入。
あ〜〜んとあえぎながら、トイレに直行。
無事、バリュームを排出。

 ほっと安心したところで、福井県立美術館でやっている「ミケランジェロ展」を観る。
ダビデ像とかピエタ像が来ているわけではないが、門外不出だった「階段の聖母」とか最晩年の「キリスト磔刑像」が展示されている。
日本初公開というデッサンもある。
それに、「最後の審判」のためのいくつかのデッサン。
それに美しい直筆の手紙。
なかなか見ごたえがありました。

 福井県立美術館がイタリアと交渉し企画をまとめ、資金を得るために東京方面に話を持ちかけ、TBSなどが資金を提供して9月からは国立西洋美術館で開催されるとか。
「階段の聖母」を国外に出すことをイタリアの文部省がオッケーしたのは奇跡だと、その筋では言われているそうです。
その筋の人に、マフィアとコネがあったんですか、と思わずきいてしまいました。
そうゆうことではないそうですが、しかし、きちんとした人間関係が最後には効いたということだそうです。
東京では何時間も待たされることになるだろうと、東京方面から福井に来られている人も多いらしい。
福井では25日までです。
よかったらどうぞ。
それなりに混んでますが、入場待ちということはありませんでした。
午後6時までやっているのが案外知られていないので、4時以降が狙い目だそうです。

 それにしても、ミケランジェロという人は、人間の、それも男性の筋肉がすきだったんだなぁ、とデッサンを観て思いました。
割れてる腹筋とか、ねじった腰まわりとか、ふくらはぎや太ももの筋肉とか。
「最後の審判」のキリストなんかそうとう腰が太いのに腹筋はきっちり割れている。
こんなところで、我がメタボ腹が糾弾されるとは思わなかった。
日本で言えば、運慶・快慶の彫刻の感じ。
しかし、最晩年の小さな磔刑像は円空仏のような素朴な一刀彫のような感じになっているのが面白かった。
が、全般的にとにかく筋肉がすごい。
メタボなおっさんなど一人もいないのです。
それらがリズミカルに乱舞するシスティーナ礼拝堂というのを、一度ナマで観たいと思わずにはいられませんでした(あのコンクラーヴェが開催される礼拝堂です)。

 しかし、男性ヌードのデッサンをよく観ると、局部つまりおちんちんがえらく手抜きになっているのが、他の部分がリアルな分だけ目立ちます。
そこには、キリスト教的な「裸は禁止」という規制がかかってしまうのでしょう。
ルネサンスのギリシア的ヌード美とネイキッド禁止のキリスト教倫理が微妙に交差しているのも、なかなか味わい深いものがありました。

 年表を見ると、ミケランジェロが教皇に依頼されて、システィーナ礼拝堂の天井画や壁画を描いたのは、宗教改革の前と後だったんですね。
つまり、カトリックの威信を賭けて、天地創造や最後の審判を描いていたのでした。
それが、イタリアだったから、あんだけヌードの大洪水で描けましたが、まじめなプロテスタントでは、わいせつ極まりないと否定されたんだろうなと思います。
というか、プロテスタントのほうは、まだまだ言葉にかかりっきりで、とても視覚によるプロパガンダという段階ではなかったのでしょう。
日本でも、運慶・の彫刻は奈良の旧仏教寺院です。
鎌倉新仏教はとてもそんな余裕はなかったということでありましょう。
経済面でも、プロパガンダの方法の蓄積にしても。

しかし、とまた話を戻しますが、ミケランジェロにしても、あれだけ肉体をリアルに描きながら、局部だけ妙に頼りなく描くというのは、どんな気持ちだったんだろうと考えてしまうのは、私だけでしょうか?
ああ、邪魔だ。なんでこんなものがぶら下がってるのだろう・・・とか考えていたような気がするのです。
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2013年08月19日

夏だ!休みだ!ロンヴァケだ!――CKPの夏休み日記

 やっと、夏休みです。
今年は、17・18日が土日となったため、お盆帰省のついでにご法事も、ということで昨日まで忙しい毎日でした。
そのうえ、このお盆期間中に『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』の最終校正をせねばならなかったので、テンテコマイのお盆でした。
それを昨日の午前一番で発送して、ご法事を二つお勤めして、そのあとははへろへろ。
というわけで、今日からがやっと「夏休み」。
うれしい。

 というわけで、日本ポップス史上の金字塔大瀧詠一『A LONG V-A-C-A-T-I-O-N』をターンテーブルに載せて、ゴキゲンな夏の一日を満喫しております。
『あまちゃん』も今日は、朝7時半のBSで観て、8時からの総合で観て、12時45分の再放送を観て、あと11時からのBSでの再放送も観る予定。
シアワセ。

 熱風のおさまらない夕方も、Stan Gets とJoao & Astrud Gilbertoの『GETS/GILBERTO』が流れれば、確実に気温は三度は下がります。
明日はビーチ・ボーイズを聴こうかな。
夏休みはこうでなくちゃね。

 
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2013年08月11日

お待ちかね、CKPが選ぶ今年の上半期CDベスト・ワン!――『あまちゃん』とジョージ・ベンソン

 2013年も、もう三分の二が過ぎようとしています。
遅くなりましたが、お盆の前に、上半期のCDベスト・ワンをご報告します。

 まず、これは別格として『あまちゃんオリジナル・サウンドトラック』。
元気なテーマ・ソングはもちろんのこと、ドラマのいろんな場面で流れているサウンド・トラックが堪能できます。
夏ばっぱと春子の和解のシーンで流れていた「家族」という曲。
これなんかが流れると、私はもう涙なしでは聴けません。
江藤直子という、大友良英さんの片腕とも言うべき人のピアノが泣かせます。
「暦の上ではディセンバー」のしっとりしたバージョンでも泣けます。
おいらの今の人生のサウンド・トラックはどれかなぁ、と思いながら聴くと楽しいです。

 それにしても、ほんと、あまちゃん、これからどうなってゆくのでしょう。
夏休みで実家に帰ったので、一日、うまくすれば4回観て、彼女の行く末を心配しています。
が、家人はそれよりも『あまちゃん』が終了してしまう10月以降の私が腑抜けになるのではと心配しています。
新書デビューは確実になったことだし、お祝いにDVDを買いましょう、という話がまとまりつつあります。
うれしい。

 で、何というか、ふつうのCDで何を一番聴いたかというと、これが、なんと、うれし恥ずかしのジョージ・ベンソン。
そう、あの「ブルージン」、いっとき、アール・クルーの「ダンス・ウィズ・ミー」とともに天気予報のバックグラウウンド・ミュージックの定番でありましたジョージ・ベンソン。
あの頃は、いかにも黒人のギター弾きのあんちゃん、って感じでした。
あのアルバムに入っていた「マスカレード」のぞくぞくする感じもよかったっす。 

 今年出たアルバムのジョージ・ベンソンは、やくざの親分みたいな大貫禄のソフトの似合うおっちゃんになっとりました。
『インスピレーション―ナット・キング・コールに捧ぐ』

 最初、8歳のジョージがウクレレ弾きながら「モナ・リサ」を唄う。
それが終わると、「そんな事なの(Just one of those things)」がゴージャスなオーケストラをバックに唄いだされます。
よいです。
ミラー・ボールがぐるぐる廻るダンス・ホールな感じ。
なんかたまりません。
メロウなギターにのってのハミングもあり、ブルージンをちょっと思い出します。
「アンフォゲッタブル」とか「トゥー・ヤング」など、ナット・キング・コールの名曲が、ナット・キング・コールそっくりに歌われます。
ちょっとフランク・シナトラも入ってます。
それほど期待しないで買ったのですが、これは大金星でした。
おススメです。

 あとは、LPばかり聴いています。
昔のLPをきれいに洗って、モノラルはモノラル用のカートリッジで聴くということをお覚えました。
1950年代のジャズやクラシックをモノラルで聴くと、その頃がレコードが一番勢いがあったのがよく分かります。
レコード製作に携わっているみんなが、すごいレコード創るぞ!と気合いが入っていたのがよく分かります。

 新しく買ったLPでは、フルトヴェングラーの1954年のルツェルンでのベートーヴェンの第9が、すごかった。
ベートーヴェンもフルトヴェングラーもなんだか「説教臭くて」という感じが先にたってあまり聴く気がしなかった(というより、それを誉めそやす人が説教臭いのだろうとおもいます)。
バイロイトの第9をまともに聴いたのは、高校生の頃。
大学に入って、生意気に「こんなの権威主義だ」とか何とか言って聴かなくなっていたんですね。

 しかし、評判がいいので買って聴いてみたら、新鮮で力強くて、やっぱりすごいなーと素直に感動しました。
歳はとるもんです。
この音楽のすさまじい推進力は、いったいどこから出てくるんだろうと考えてしまいました。
聴かず嫌いというのはよくないですね。

というわけで「あまちゃん」とジョージ・ベンソンとフルトヴェングラーのベートーヴェンの第9というカラフルなラインナップとなりました。
posted by CKP at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月09日

じぇじぇじぇじぇじぇ!!!!!――『哲学入門・死ぬのは僕らだ!』角川SSC新書9月10日発売

 このほど新書デビューいたしますCKPこと門脇健のその新書のタイトルがすったもんだのあげく決定いたしました。

『哲学入門・死ぬのは僕らだ!――私はいかに死に向き合うべきか』

9月10日、角川SSC新書から発売です。

 推薦の帯文は、内田樹先生。
内田先生が昨日のツイッターで〈「死ぬのは僕らだ」(仮)の帯文書きました。これいいタイトルでしょ?これに決まるといいな〉と書かれていますので、もう内緒にはできません。
内田先生からは、不肖カドワキ、身に余る推薦のお言葉をいただきました(泣き)。
その文章は、発売まで内緒です。
ほんと、そのお言葉をいただいただけで、この本を書いた苦労が報われました(もう一回泣き)。

 なお、内田先生のツイッターでは、まるでこのタイトルを内田先生が発案したように書かれていますが、発案したのはこのわたくしカドワキです!
ただ、帯文をお願いするとき、内田先生ならこのタイトルだと喜んでくださるだろうな、と思って提案いたしましたが・・・

 ところが、編集の会議では、「死ぬのは僕らだ」というのはインパクトがあるが、もっとかたいタイトルの方がいいのではないか、という意見が多く出されたそうです。
それに、この本をいたく気に入って読み込んでくださった校正の方も、このタイトル問題に参戦されて、すったもんだ情況に至ったようであります。
(私としては、校正の方が、思わず読み込んじゃったというのがすごくうれしいです。ここでも泣き!)

が、内田樹先生のツイッターでの発言と、編集の方が「あの内田樹が、こんな帯文を書いてきた」という驚きというか感動で、じゃ、書いてる本人(わたしのこと)もそう言ってることだし・・・ということで『哲学入門・死ぬは僕らだ!』に決定したようであります(細かい経緯はよくわかりませんが)。

 で、内容は?
これは、お盆があけてからぼちぼち、予告いたしますのでよろしく!
お盆の間に、最終の校正をいたします。
posted by CKP at 18:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月08日

「清沢満之生誕150周年記念シンポジウム」「井上雄彦氏作・屏風『親鸞』特別展示会」開催

大谷大学では、東京巣鴨に開校された大学
現在の地に移されてちょうど百年目を迎える10月12日(土)に、
「赤レンガ記念イベント」の一企画として、
いくつかのイベントを準備しています。

↓クリックしてご覧下さい。
PDF-0005-1308081434.pdf

そうしたイベントのなかから、
ぼくが関係しているイベントをご紹介します。

「清沢満之生誕150周年記念シンポジウム」です。
テーマは「清沢満之―その精神(にんげん)にせまる―」。
清沢はとてつもない振り幅をもった波瀾万丈を生きたひとですが、
その清沢の、ひとりの人間としての魅力に迫りたいと思います。

藤田先生は、哲学科の「西洋哲学・日本哲学コース」を開設時から、
長く出講いただいていた先生で、日本哲学や近代日本思想研究の権威です。
安冨先生は、日本の清沢研究ではもっともよく知られている方かもしれません。
同日と翌日に開催される「井上雄彦氏作・屏風『親鸞』特別展示会」
とあわせて、哲学科の学生諸君はこのチャンスを逃さないようにしてください。
posted by pilz at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月01日

「間違いはない!」は間違いはないか?――楽しいけどちょっとめんどくさい哲学科

 昨日、大谷大学大学院の哲学の演習を受け持つ教員4名に助教の先生からメールで問い合わせがあった。
それに対して、P先生が、さっそくお答えになられた。

それで、わたくし門脇が、
「P先生の言うことに間違いはない!」と賛同したのであった。
これで、他のW先生やI先生が賛同してくだされば、一件落着になるはずであった。

ところがギッチョン。
何事も、めんどくさくしてオモロクしようというW先生が、
「門脇先生の言うことに(たいていは)間違いはない!」
と応じたのである。
めんどくさいことをする御仁である。
となると、その「門脇先生が言う」ところの「P先生の言うことに間違いはない!」という言明自体が「(たいていは)」という限定であやしくなってくるのである。

ところが、そのあとに、今度はI先生が、
「私以外の教員の言うことには間違いはない!」
というもひとつめんどくさいことをその助教のT先生にメールしたそうな。
つまり、「私」が言明する「私以外の教員の言うことに間違いはない」という言明は「間違いはないのか?」と問題を起こしたのである。

下手に問い合わせるとすると、こうゆうめんどくさいことに巻き込まれるかも知れないから、助教のT先生、注意するよーに。

大学院の演習は、私のほかに、池上哲司先生、朴一功先生、鷲田清一先生で担当しています。
さあ、上の言明は、どれがどの先生でしょう?
posted by CKP at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする