2013年06月28日

すっかり忘れてた!――「生活の中の仏教用語」最終回

 三月・四月が忙しかったので、「文藝春秋」の広告ページに書いた「生活の中の仏教用語」をアップするのをすっかり忘れていました。
今回は「お彼岸」。
ちょうど三月発売の号でしたからね。
チョッと時期はすれですが、よかったらどうぞ。

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/index.html

ところで、長年続いた「生活の中の仏教用語」がこの回で終わりました。
多くの先生方がおよそ20年にわたって書きついでこられて、その最終回がわたくしカドワキ。
なんだか申し訳ない気持ちです。

なお新たなシリーズとして「人間・清澤満之」が始まっています。
入学センター長の村山先生がサクサクと健筆をふるっておられます。
こちらは、上のサイトから「読むページ」に行ってください。
posted by CKP at 12:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月24日

『小説トリッパー』でのわっしーと源ちゃん――絶対タコのイカ効果

 朝日新聞出版から季刊で出ている『小説トリッパー』の春号から鷲田清一先生と高橋源一郎さんの連載が始まっている。
鷲田先生、ついに小説まで手を出したか!?
いえいえ、ご安心めされ。
両者とも小説ではなく評論。

 鷲田先生は「素手のふるまい――アートがさぐる〈未知の社会性〉」というタイトルの連載。
2回目は「のびしろ――松井利夫との対話」。
松井氏は蛸壺を作る芸大の教師。
蛸壺を作って無人販売をして、タコの気持ちになろうとしているひと。
その人との対話で「絶対他者」というキーワードに「他己(タコ)」とか「イカ効果」(@ブレヒト)とか応ずるのは、もちろん鷲田清一氏であります。

 これだけでは何の話かわからないと思いますが、蛸壺で教育を考えるごっつうおもろい話です。

 高橋源一郎さんは「青少年のためのニッポン文学全集」。
第二回の冒頭は、なんと小林凛君の『ランドセル俳人の五・七・五』。
おそらくラジオでこの本を推薦したころに書いていた原稿なのでしょう。

 拝読してなんとなく不思議な感じがしました。

 というのは、源ちゃんがそこに引用している俳句が、私がいっこ前のブログに引用したものとぜんぜんかぶっていない。
見事にひとつもかぶっていないのです。
同じ本でも取り上げる視点がぜんぜん違うからこういうことが起こります。
そこが面白いです。
どのように視点が違うのでしょう。
それは、発売されたばかりのトリッパー夏季号でお確かめくだされ。
posted by CKP at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月21日

祝福を贈る――『ランドセル俳人の五・七・五』拝読!

 以前にこのブログでも取り上げた、高橋源一郎さんが「源ちゃんのゲンダイ国語」で推薦されておられた小林凛『ランドセル俳人の五・七・五』をアマゾンで購入。
予想以上に気持のよい本だったのでご報告します。

「予想以上に」というのは、最初、稟くんがいじめられている様子を読むのがつらいだろうと思って、購入をちょっとためらっていたからでした。
しかし、えいやっとアマゾンでボタンを押して、手元に届いた本を読んで、確かに「いじめ」の話を読むのはつらいものがありましたが、それ以上に、凛くんの俳句やそれに添えられたクレヨンでの俳画が楽しくそして力強く、改めて俳句の力が確認される気持のよい本でした。

 もちろん、お母さんやお祖母さんが報告している学校でのいじめの様子を読むのにはつらいものがあります。
「生まれたのが未熟児だったからそれで身体がまだうまく動かせないのだから、いじめないでね」、とお祖母さんがクラスで訴えると、それをネタにいじめられる。
子どもというのは残酷だなぁ、といまさらながら思います。
先生にもいろんな先生がおられて、いじめの相談を最初からモンスター・ペアレントの訴えとして身構えてしまう先生の様子には悲しいものがあります。
しかし、きちんと対処された先生もおられて、そしてその先生へのお礼の言葉もあって、少しほっとします。

 そして、凛くんの俳句。
わたしがまず感動したのは、次のおそらく続けて作られた二つ。
俳句に添えられた凛くんの文章も一緒に紹介します。

「蓮の花祖父を送りて沈みけり
――7月11日に祖父が亡くなりました。告別式が終わって家に帰ると、庭に蓮の花が咲いていました。数日後、その花が鉢に沈んでいるのを見て「おじいちゃんを送って役目が終わったんだな」と思いました。(11歳)

亡き祖父の箸並べけり釣忍(つりしのぶ)
――夕食のお手伝いをしている時、祖父の箸も出してしまいました。外では釣忍の風鈴が鳴っていました。(11歳)」

わたしがお坊さんだから、ついこういう句に目が行ってしまうのでしょうか?
しかし、いなくなった人をこのように表現できるというのは凄いなぁ、と思います。

「紅葉で神が染めたる天地かな」

という雄大な句もありますが、やはり凛くんの場合、小さなありふれた出来事を観察し表現するのが上手いように思います。
日常の小さな出来事ひとつひとつを「祝福」するのです。
「祝福」と言っても、べつに「ああめでたい」と鉦や太鼓をたたいてお祝いするわけではありません。
そのありふれた出来事の小さいけれど唯一無二のあり方に価値を見いだすのです。

「蝉の殻お払い箱となりにけり
 ――蝉は羽化すると、それまでお世話になった自分の姿を棄ててしまいます。(11歳)」

「苦境でも力一杯姫女苑(ひめじょん)
 ――車道の脇に白い花が咲いていました。排気ガスの凄い環境でも小さな花をたくさん咲かせていました。僕は今、学校でいじめられていますが「力一杯」という言葉が浮かびました。(10歳)」

 いじめられていることさえ、誰とも変われないつまりかけがえのない苦しみとして「祝福」しています。
そこには、いじめのヒエラルヒーとはまったくちがう新しい世界が広がっているのでした。
そこに「俳句の力」を感じたのでした。
posted by CKP at 13:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月14日

ゲンちゃん、カッちゃん、わっしーのごっつうええ話――6月9日の親鸞フォーラムはや動画アップです。

6月9日に東京は六本木で開催された親鸞フォーラムの動画です。
発言は、平川克美さん、高橋源一郎さん、そして鷲田清一先生の順。
それぞれの発言に対して議論が展開されます。
全部で2時間45分。
司会は木越康先生。
では、どうぞ。

http://www.otani.ac.jp/news/nab3mq000002ck49.html

このブログの記事で気がついてあわてて申し込んだ方?
チケット、どうでしたでしょうか?
駄目だったら、これでどうぞ。
posted by CKP at 22:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月03日

わっしー、ちょっといい話――お坊さんが可哀想・・・ではない

 鷲田清一先生の『〈ひと〉の現象学』の書評が、あちらこちらに掲載されている。
どの書評も、これは一気に読む本ではなく、じっくりと座右において読む本だというような言葉で結んでいる。
一気に読んでハイ読了という本ではなく、「顔」から「死」へと展開される問題をさまざまな角度からじっくり考える本ということだ。
考える手間を省いて、アタマを鷲田化しようなどという横着な読み方を拒絶する本なのであります。
つまり、最初から古典なんですね。

 で、書評というか書評的インタビューというのか、『週刊文春』というオジサン雑誌の読書欄の「著者は語る」というページで、鷲田先生が水玉模様のネクタイでにっこり笑っておられるのに出会って、ちょっとびっくりしたのでした。
『週刊文春』を読むオジサンだってテツガクするのだ。
現にワタクシCKPも読んでるわけだし・・・

 で、「あるものを見ると、それとは逆のものを同時にその背後に見てしまう感受性の癖」を「方法までに鍛え上げよう」というのが、この本のもとの連載の『可逆的?』の方向性だったということを、鷲田先生が最初に語ってられる。
これだけだったら、ようするにある意味「あまのじゃく」の方法論ということになる。
たしかに鷲田哲学にはその傾向がある。
これで話がまとまるのかなと思って読んでいると、突然、逆の方向に転調する。
しかし、それは意地悪な「あまのじゃく」ではない。
どこかはんなりとした柔らかな「あまのじゃく」なのである。
なんか、ひとつの結論に決め付て楽チンになろうとする思考の怠惰をサッとかわしながら、読者のアタマをひっくり返して別の側面を示してくださるのである。

 その起源として、鷲田先生の幼年期の思い出が語られる。
これがなかなか佳い話なのでわざわざブログするのであります。
(おそらく、このブログを読む方々は『週刊文春』など手に取ることなど無いのではと思うからであります。)

「京都は西本願寺近くの下町に生まれ育ちました。
まわりは寺ばかりで、商店街にも数珠屋さんや法衣店が並ぶ地域です。
ところが、商店街を抜けると、そこは島原の花街。
子どもながらに、若い修行僧の質素な姿と、芸子さんの豪奢な装いの落差を感じていました。
ある時、祖母に『お坊さんが可哀想』だと話すと・・・』

 鷲田少年はよほど芸子さんの姿に憧れていたんでしょうか?
ちょっとおませな少年だったようです。
が、お坊さんに同情するというところが、お坊さんのワタクシとしては、ま、なんだか心和むのであります。
しかし、お祖母さんはどう答えたのでしょう?
ワタクシは思わず「坊さんはあれで、裏でけっこう楽しいこともやっとる」などいうげすな答えを予想し、しかしすぐさまで我が身の生臭さを反省することになるのでありました。
お祖母さんは、鷲田少年にこう答えたのでした。

「『違うんや、お坊さんは我々の知らない浄土という幸福な世界を知っているんや』と言われた。
可逆的に見るというのは、そういうことを聞かされていうちに備わった癖なのかも知れません。
長じて思想書を読むようになっても、魅かれるのはパスカルをはじめ、人間のなかに対立するものが和解することなく相克していると考える思想家たちでした」

 そうか、こうゆうお祖母さん的な可逆的見方が、鷲田哲学のはんなりしたあまのじゃく性を形成しているのか・・・少しだけ鷲田哲学の秘密が分かったような気になりました。

posted by CKP at 21:37| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月01日

源ちゃんのゲンダイ国語――『ランドセル俳人の五・七・五』

 昨日、ラジオをつけたら、NHKラジオの「すっぴん」の「源ちゃんのゲンダイ国語」というコーナーにぶつかった。
「源ちゃん」とは、作家の高橋源一郎さんのことであります。
その「源ちゃんのゲンダイ国語」のコーナーで、小林凛著『ランドセル俳人の五・七・五』という本がとりあげられていた。
あとでその番組のブログを見ると、このコーナーでは珍しく「いま話題」になっている本を取り上げた、とのこと。
『ランドセル俳人の五・七・五』という本が「話題」になっていたなんて知らなんだので、「へぇー」と思いながら興味深く聴いた。

 小林凛とは、まだ「ランドセル」を担いでいる小学生。
その小学生がなぜ「俳人」になったのかといえば、小学校でいじめにあって、不登校になり、その生活の中で俳句を詠むようになった、ということらしい。
1000グラム未満の未熟児として生まれたため、からだの発達が少し遅れ気味で、そんなことでいじめの標的にされたらしい。

「生まれしを幸かと聞かれ春の宵」

 おばあちゃんに「生まれてきて幸せか」と聞かれて、お母さんも同じこと聞いていた、どうしてそんなことを聞くんだろう・・・という案外キョトンとした感じが「春の宵」に出ている。

 源ちゃんがえらく気に入っていた句はこれ。

「乳歯抜けすうすう抜ける秋の風」

 この時代にしかつくれない句、とやたらに感心していた。

 わたしも好きです、この句。
たしかに、あのグラグラと歯が抜ける感じ、ちょっと血のにおいがして、そのあとすうすうする感じ・・・小学生のときしか味わえません。
が、「秋の風」というところが、ちょっと寂しい。
「いーっ」として、友だちと「見せ合いっこ」するなんてことが無いのだろうか。

 が、このランドセル俳人は今は学校に通っているらしい。

 やはり、俳句というのがいいのだろうか。
身の回りの事柄を丁寧に観察する、これが俳句の基本。
そうすると、日常や季節の移り変わりの不思議が、どんどん目に、耳に飛び込んでくる。
学校での「いじめカースト」「いじめ偏差値」とは、違う価値観の世界が目に見えてくる。
いじめられないように自分の立ち位置を決めることにあくせくするのとは、違う生き方が見えてくる、ということではないだろうか。

 しかし、この本で目だってしまうと、またいじめの対象にならないかと心配してしまうけど、そうなったらまた学校休んで、楽しい俳句を作ればいい。

「すっぴん」のブログはこれ↓。
http://www.nhk.or.jp/suppin-blog/
「源ちゃんの現代国語」は月曜日ぐらいに更新されてホームページのどこかで聴けるようです。
posted by CKP at 17:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする