2013年03月29日

お金と哲学――大学ジャーナル「テツガク入門」

 大学受験生向けのフリー・ペーパー『大学ジャーナル』に書いた「テツガク入門」の最終回です。
久しぶりに読みなおしてみて、けっこう面白いです。
いま、必死こいてある文章を書いているのですが、それの参考になりました。
これを書いた頃の私はけっこう賢いような気まします。

前半が猫が書いていますニャー。
では、どうぞ。

お金と哲学

 『我輩は猫である』の語り手である猫氏の主人・苦沙身先生は、我輩の主人と同じく教師である。
してみると、教師というものは、昔も今も金持ちが嫌いらしい。
苦沙身先生などは近所のお金持ちの令夫人の鼻が少々高いからとの理由で「鼻子」などというあだ名をつけて、家に出入りするこれまた教師やその予備軍たちと、始終、金持ちは下品であるとかなんとか罵詈雑言を並べている。
吾輩などから見ると、このような悪口に興じている苦沙身先生たちの品性こそが子供じみて下劣に見える。
吾輩の主人なども暇があれば、仲間の教師と金持ちの悪口に興じておる。まことに嘆かわしい限りである。

 ところが、あれほど金持ちの悪口を言っておきながら、金が嫌いかというとそうでもないらしい。
吾輩をだしに使って書いた文章の原稿料が入ると、すこぶる機嫌が良くなるのである。
金持ちは嫌いだが、金は好きなのである。
人間は身勝手なものだというのは、かの猫氏の口癖であったが、まことにその通りである。

 が、実は吾輩、金というものがよく分からない。
いったい如何なる効能によって、金は人間を怒らせたり喜ばせたりしているのであろうか。
時にはこの金のために自殺までする人がいると聞く。
また、きらきらと輝くお金より皺くちゃの紙の札のほうがどうも値打ちがあるというのもよく分からない。
まあ、吾輩はかような剣呑なものとは無縁のまま生きるであろうから、関係はないけどね。
      *        *        *
 お金というのは、考えてみれば気の毒な存在です。
人間の生活に必要不可欠の物ながら、それを多量に持っていると、あまり持っていない人から非難されたりします。
お金のそのものには罪はないはずですが、ソクラテスの昔から「アテナイ人諸君!君たちは金や名誉ばかり気にかけて恥ずかしくないのか」と言われ続けているのです。
どうしてお金と哲学はこんなに仲が悪いのでしょう?

 それは哲学もお金も、具体的な現実を観念に「抽象」するところに成立するものだからです。
両者は同じ「抽象」を基盤とするライバルなのです。
 
例えばこんな問題を考えてみてください。

 まだ新品のコッミク本をブック・オフで売ればそれなりの値段で買ってくれます。
しかし、よれよれになった本を持ち込むと「これ、値段つきませんよ。どうします?」と言われてしまいます。
「それでいいです。処分してください」と泣く泣くこたえた経験がある人もおられるでしょう。

 ところが、ボロボロになった千円札もピンピンの千円札も両方とも同じ千円として通用します。ボロボロだからといって「これ、もう500円ぐらいにしかなりませんよ」なんてことは言われません。

 何故でしょう?考えてみてください。

 考えてみれば不思議なことですよね。
おそらくここのところが猫君たちに分からないことなのでしょう。

 つまり、お札やコインは人間の頭の中にある「価値」の指標でしかないんです。
具体的なお札やコインに値打ちがあるのではない。
人間の頭の中で考えられた値打ちが具体的な姿を持ったものになるとき、お札やコインが登場するのです。
ですから、その値打ちは、預金通帳やパソコンの中ではただの数字に「抽象」されています。
ここのところが猫君には分からないところなのでしょう(経済学では、これを具体的な物の使用価値と抽象的なお金の交換価値という二つの価値のあり方で考えます)。

 哲学でも、具体的な行動や事物が、頭のなかへ「抽象」されて、「真・偽」「善・悪」「美・醜」というように判断されます。
そのような判断の基準が「イデア」とか「本質」とか言われるものです。
具体的なひとつの行動が「善」と判断されたり「悪」と判断されたりします。
逆に、見た目はひどく違っている二つの事物が「美しい」と判断されたりします。
つまり、具体的な行動や事物が「抽象」されて、頭のなかでその値打ちが決められるのです。
したがって、哲学という抽象的な営みも猫君には難しいでしょう。

 しかし、同じような営みであるのに、お金を扱うこととイデアや本質を扱う哲学は何故このように仲が悪いのでしょう。

 おそらく、お金が欲望と直結しているからです。
はじめは健全な欲望を満たすためにお金を使う。
ところが、お金は腐りませんからお金をためること自体が過剰な欲望を喚起します。
これが、さまざまの場所で人間の生活を破壊していきます。
しかし、哲学も「自分を偉く見せる」という名誉欲の対象になることがあります。
デカルトはそのことを『方法序説』という「我思うに我あり」を宣言した有名な本で、チクリと指摘しています。

 となると、猫君たちのように、過剰な欲望は知らず、空腹になれば食べ(ときどき「お魚くわえたドラ猫」としてサザエさんに追いかけられますが)眠くなったら眠るという生活のほうが「足るを知る」ということにおいて、自説を固持して論争ばかりしている哲学者より立派かも知れませんね。
posted by CKP at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月15日

「転がる石のように」―― méprisによって乗り越えられぬ運命はない

 本日は、大谷大学の卒業式。
卒業生の皆さま、ご卒業、おめでとうございます。
が、これからが人生本番。
いろいろあると思いますが、哲学科卒業証書授与の会で先生方がおっしゃっていたとおり、くじけないでめげないで頑張ってください。

 というわけで、ハナムケに、一曲。
 
 昨年からのマイ・ブームからボブ・ディランの「Like a rolling stone」。
1965年、今からもう50年近く前の曲ですが、やっぱ、かっこいっす。
むかしオイラをふった女、むかし肩で風切ってたお姉ちゃんが落ちぶれてゆくのをからかう唄。
なんで、そんな歌がハナムケになるのでしょう?

 何度ものリフレイン、まるでシシュフォスの岩運びのように、何度も何度も繰り返される歌詞を聴いてると、なんだかね、よし、どんな場所でも生きてゆけるって気になるのです、これが。

How does it feel
       どんな感じ?
How does it feel
       どんな気がする?
To be on your own
       頼りは自分だけ
With no direction home
       帰る家はない
Like a complete unkown
       誰にも相手にされない
Like a rolling stone
       転がる石のようにっていうのは?

 何回も聴いてると、なんか、今まで、オレ、一つの価値観に縛られてたな、って感じになってくる。
もう、そんな家はないんだ。
誰にも知られないのに、何をくよくよしてるんだろ?

すると、すっごく、楽になる。

 カミュが「シシュフォスの神話」で書いてた「méprisによって乗り越えられぬ運命はない」ってのが、すっごくよく分かる。

(méprisを新潮文庫の翻訳の清水徹氏は「侮蔑」、内田樹先生は『日本辺境論』の「はじめに」のところで、「俯瞰」と訳しておられる。辞書的には「侮蔑」「軽蔑」が正解ですが、<既成の価値観から解放されつつ自分を眺める>という文脈では内田訳がぴったりきます。)

 ディラン自身、フォーク・ソング的価値の観点からはボロクソに批判され、裏切り者、ユダ!なんて言われていた時代に書いたロックの曲。
そんな曲に共感するような状況には陥らないことを願いますが、しかしそうなった時は、思い出してくださいね。

では、皆さま、ごきげんよう、さようなら。

[追記]歌詞だけじゃ分らないと思うので、ディランの歌唱をどうぞ。
ユー、とかウーの音の繰り返しがカッコいいっす。





posted by CKP at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月05日

『もの忘れと記憶の記号論』という本が二冊見つかってもいいじゃないか、還暦だもの――つみを

 研究室でパソコンでかちゃかちゃ文字を打つのに飽きたので、本の整理をする。
すると、先ほど別の棚で見たような本が発見される。
あっちに『もの忘れと記憶の記号論』。
こっちに『もの忘れと記憶の記号論』。
どこをどう見ても同じ本である。
よほど「もの忘れ」に関心があったと見える。
忘れないように購入せねば、と見つけるたんびに購入していたその時の自分がいじらしい。
が、「その時」がいつの時かは思い出せない。
読むのもすっかり忘れていた。

 あと一年余りで還暦。
このような世代が日本の出版界を支えるのである。
posted by CKP at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする