2013年02月28日

声はでかいが影は薄い――あのー、私、メガネを「やじろべえメガネ」に変えたんですけどぉ

 自慢ではないが、わたくし、CKPカドワキは声がでかい。
でかいだけではなく、よく響く。
昔でいえば、山村聰や佐分利信のように、地獄の底から響き渡るような声なのである。
学生時代、喫茶店で女子に「付き合ってくれ」と迫り、断られるところをねばったことがあった。
それを友人に話したら、友人どもは皆、その女子に同情していた。
「カドワキの喫茶店中に響きわたる声で、そんな話をされて、その娘はさぞ迷惑だっただろう。
それだけでフラレルに値する」
友だちとは、こんなものであるが、言うことはもっともなことではある。

 声だけでなく態度もでかい。
20年余り前、この大学に就職したとき、多くの人から「もう何年も前から居るみたいですね」と言われた。
自分では愛想がいいだけと思っているが、他人には態度がでかいとうつるらしい。

 そんな私であるが、昨日からメガネを変えた。
昨年、グッドデザイン賞を受賞した辻岡眼鏡の「やじろべえメガネ」にしたのである。
ところが、だぁ〜れも何も言わない。
今まではバディ・ホリーやエルヴィス・コステロのような黒ぶちメガネだったのを、金縁の丸メガネに変えたのである。
「あれ?なんだか感じが変わりましたね。あ、メガネが変わったんだ」ぐらいのことは言えんのか?!

 それほど、私の顔面の形状には皆さん興味はお持ちでないらしい。
つまり、声と態度はでかいが、顔面を中心とした存在感がない、ということなのだろうか。
それとも、もともと知的な面立ちであったところに、金縁丸メガネという、わが面立ちにふさわしい物が加わっただけだから、気付かないということなのであろうか。

 この記事のオープン以降は何を言っても遅い。
けっこう傷ついている。
還暦前になると、オジサン、けっこういじけているのであった。
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2013年02月22日

教職員学生ボランティア第9便が仙台に向けて出発

18:45に教職員学生ボランティア第9便が仙台に向けて出発しました。
今回の活動は、宮城県の仮設住宅で、粕汁作りや餅つきを通じての交流会をするとのことでした。

出発前の準備の様子
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気をつけていってらっしゃい!
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活動の様子については、facebookをご覧下さい!
https://www.facebook.com/otani311
posted by (藤) at 19:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月20日

「ここは地の果てアルジェリア」――アルベール・カミュの中庸

 まずはご報告。
この日曜日、「ビンボーダナオ」のキーワードでいつもの二倍近くのアクセスがありました。
ビンボーダナオに何が起こっているのでしょうか?
誰か、このブログにビンボーの呪いをかけているのでしょうか?

報告その2
実家の天井裏を走り回っていたのは、今回はアライグマではなくハクビシンでした。
出入り口をふさいで侵入をご遠慮願いました。
アライグマ君には、あらぬ疑いをおかけしてすみませんでした。

 では、カミュとアルジェリアのこと。
ちょっと、長いです。

 「ここは地の果てアルジェリア」という歌詞で55歳以上の方々には有名な「カスバの女」という歌は、1954年に始まったアルジェリア独立戦争をうたった日本の歌だそうです。
なぜこんな歌が日本で作られたのかはわかりません。
「アプレ・ゲール」などというフランス語で「戦争後」のことを言うのが当時の流行だったらしいので、そのころは今よりフランスが身近かだったのでしょうか?
なんとなく「星の流れに」なんかの戦争後のステバチというかヤケクソな雰囲気が感じられます。
1970年前後のさまざまな運動の「敗北後」にもはやりました(それで1954年生まれのわたしなんかも唄ったわけです)。

カスバというのはアルジェのアラブ人街の名前(直接的には「城壁」を意味するそうです。現在は世界遺産)。
フランスは花のパリから流れてきた酒場の女が、独立戦争を鎮圧に来たフランス軍外人部隊の男にはかない恋をした、という歌です。

 その「地の果て」アルジェリアに貧民街に育ったのが、今年生誕100年になるアルベール・カミュ。
彼は1960年に自動車事故で亡くなっていますが、そのとき鞄にあったのが未完の『最初の人間』。
貧しかった幼年時代のカミュとおぼしき少年が出てくる作品で、昨年映画化されました。
なかなかの評判で観てみたいと思っているのですが、まだ機会を得ていません。
とりわけフランス本国では、どうも、過酷な植民地政策が描かれているという理由からでしょうか、上映されていないと聞いています。
それだけによけいに観てみたいという気持ちです。

 カミュはアラブ人ではなく父はフランス系、母はスペイン系。
父親は第一次世界大戦で亡くなっていて、文字を読むことも出来ない家族の中で貧しい少年時代を過ごしています。
伝記を読むと、本も新聞もない文字通りの赤貧の家庭で育ったカミュがノーベル賞作家になるというのは20世紀の奇跡だと思います。

そんな彼でしたから、独立戦争で犠牲になる多くの貧しい人々に心をいためました。

カミュは、第二次世界単線中はレジスタンスに関わっていた左翼的な人物です。
また、1930年代後半のアルジェリア時代には共産党員でもありました。
しかし、クレムリンの方針に合わなかったため除名されています。
それもあって、背後にクレムリンの影が見えるアルジェリア民族解放戦線を支持することをためらいます。
クレムリン(ソ連の共産党本部のある宮殿)にとってアルジェリアの独立よりもソ連の勢力拡大のほうが大事だというのが自分の除名経験から身にしみていたからです。
ましてや、カミュとしては、アルジェリアの白人へのテロを支持するわけにはいかなかったのです。
しかし、その戦いを弾圧するフランス軍の行動も批判します。
アラブ人の友人の顔が目に浮かぶからです。
このような立場は右翼からは「国を裏切り、死刑にあたいする極左主義者」、左翼からは「醜悪なファシスト」と非難されています。
どっち付かずの中庸はどちらからも非難されるのです。
しかし、カミュはその立場を放棄しません。

 そこで何とかテロと弾圧の応酬を止めようとカミュは、55年、56年にアルジェに行って対話集会で双方の妥協点を探ろうとしています。
56年のときなどは、「カミュを吊るせ」という声の中、あるいはホテルに脅迫状の届くなか、集会に参加しています。
しかし、カミュの試みは何の成果も上げず、戦争は泥沼化してゆきました。
そして、カミュの事故死のあと62年にアルジェリアは独立を果たし、民族解放戦線の社会主義独裁政権が誕生します。
(ここから池上彰情報)
しかし、ソ連崩壊まぢかの88年、イスラム原理主義の声が大きくなり20年ほど早い「アラブの春」となり総選挙が行われています。
しかし、この選挙に負けた民族解放戦線政府は選挙で第一党となったイスラム原理主義組織の解散を命じ、独裁政権を維持します。
ソ連が崩壊した後、アメリカにとってはアルジェリアに民主主義を確立するよりもイスラム原理主義勢力の伸張を押さえ込む独裁が都合よかったわけです。
それで日本にも何の情報も伝わってこなかったわけです(同じくアルジェリア出身のジャック・デリダだと何か発言しているのか知れません)。
すると、さらに過激な武装イスラム集団が出て、アルジェリア各地でテロを行います。
それで20万人という犠牲者が出て1999年に独裁から多様な勢力による政府が出来ます。
この政府はイスラム過激派を押さえ込んでいたのですが、今回の「アラブの春」でリビアなどからアルジェリアに流れ込んできた過激派と武器によって今回のテロになったということです。
(はい、ここまで池上彰情報でした。)
 
 カミュが生きていたら、今のアルジェリアに対してどのような行動を起こしたでしょうか。
彼の『最初の人間』の執筆のころのメモにある「貧しき人々を救う」という言葉が重いです。

カミュは「反抗」ということを強調した人です。
(ふつう「反抗する」と訳されているse revolterは、カミュの場合は「抵抗する」と訳したほうがしっくりきます。)
それは、目の前の「不条理」を無視して未来の理想に飛躍することに「抵抗」することでした。
目の前の権威に抵抗するということではなく、「未来の理想」に飛躍して現状の悲惨を回避することに抵抗することでした。
つまり、正しい未来を主張して現状の悲惨を容認し楽チンな立場に安住することに「抵抗」するのです。
ですから、共産主義の未来のためにテロを容認することも、死後の浄福のために戦いを放棄することも、カミュにとっては共に「抵抗」の放棄だったのです。
このようなどっちつかずの態度はサルトルなどの左翼知識人からも右翼からも非難されたのでした。
中途半端とも言えますし、中庸とも言えます。

このような「抵抗の論理」からカミュ独特の自殺への見方が出てきます。
それについては、繊細な問題なので、もう少しゆっくりと考えて、別のところで論じたいとおもっています。

 ただ、カミュがノーベル賞を受賞のあとすぐに書いた小学校時代の恩師ルイ・ジェルマン先生への手紙はここに書き写してご紹介しておきたいと思います。
ジェルマン先生は、戦争から生還した人でしたから、クラスの戦争で父親をなくした生徒に対しては父親代わりをつとめようとした先生でした。
クラスでフランス語が一番のカミュを何とかしてリセ(中・高等学校)へやりたいと思いました(戦争で父を亡くした子供には奨学金が出ました)。
それで、自宅まで訪問してそのあまりの貧しさに驚愕しながらもカミュの祖母と母にリセ進学を穏やかにすすめてくださった先生なのでした。
ノーベル賞をとったとき、パリの文壇は少数を除いて「もう書けなくなったから」などという皮肉な反応を示していました。
カミュは、ちょうど、今の村上春樹のように、どうゆうわけか知識人から嫌われていたのです(そういえば、エルサレム賞の村上春樹のスピーチとカミュのアルジェリアへの発言というのはどこか似ているところがあるような気がします)。

 それはともかく、ノーベル賞の受賞後、貧しかった小学生にもどったカミュはジェルマン先生に書いています。

「母の次に私の心に浮かんだのは先生のことです。
先生がいらっしゃらなかったら、そしてあの貧しい小さな子供だった私に愛情のこもった手を差し伸べ、教えと手本を示してくださらなかったら、このようなことは決して起こらなかったでしょう。
私はこの種の栄誉を大仰には捉えていません。
それでも、これは私にとって少なくとも、先生が私にとってどのような存在だったか、そして今もどのような存在であり続けるかを先生に告げる良い機会です。
先生の努力、先生の仕事、そして先生がそこにこめた寛容な心は今も先生の小さな生徒の一人だった人間の中に生きています。
時を経た今も、私は先生に感謝を捧げる生徒です。」
(手紙と伝記は、ガリマール新評伝シリーズ世界の傑物6ヴィリジル・タナズ『カミュ』祥伝社より)
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2013年02月15日

「贈りもの」としての学問――「毎日がバレンタイン・デー」

 鷲田清一先生の2月9日の京都新聞朝刊の「だれかの代わりに」というエッセーを拝読していて、一瞬、ドキッとしました。

「研究者には、まるでお題目のように、効用や実利をめざすのは嘆かわしい邪道で、「学問の自由」をないがしろにするものだと言い放つひとがいる。学問は何に仕えるものでもない、と。」

 思わず、我が身を振り返り、学問で効用や実利を目指すのは邪道と「言い放って」いないかと自問いたしました。
というのは、「言い放つひとがいる」というところが、わたしには「言い放つバカモノがいる」と読めてしまったからです。
いや、実際、鷲田先生も最初筆の勢いでそう書かれたものの、校正のとき「う〜ん」とうなられて、「バカモノ」を「ひと」に和らげられた、ような気がします。
(追記:ここのところ、でっち上げにしてももう少しリアリティを追求するならば、先ず「言い放つアホがおる」と書かれて、「あ、アホ言うもんがアホやな」とあわてて「ひとがいる」に修正された、というのでどうでしょう?)
こりゃ、鷲田先生、怒ってるぞ。
ひょっとして、このわたしが怒らしちゃったのかな?と胸に手を当てて、記憶をたどりながら「言い放つわたし」をスキャンしたのでありました。

 たしかに、学問を、「効用や実利」を目指すものと考えたり、「効用や実利」から判断するのは間違っている、とわたしは考えているし、そう述べてきました。
「これを勉強すると何の役に立つのですか」という問いに、すらすらと答えるのではなくて、絶句するのが正しい対応であると思っています。
なにもやらないうちから、そんなことを訊くなよ。
はじめから「効用や実利」が分かっていることをやっても、面白くないよ。
自動車学校はそれでなくちゃ困るけど、学問はちょっと違う。
学問て、何が見えてくるか分からないからわくわくするんだよ。
だから「なぜ、そんなに楽しそうなのですか」と訊かれるように学問をすべきだと思っています。

 しかし、このようなことを「言い放つ」というような言い方は、私の場合、していないと思っています、たぶん。
「言い放つ」という表現によって、「どうせ、素人には分からないだろう」という学者の驕りが指摘されているように思います。
「効用や実利」は目指さないけれど、自己の知的威信の構築はしっかりとめざす閉じられた学問のあり方が言い当てられているように思います。
どうだ、私は偉いだろう。
この偉さは、一般人は分からんだろうね。
一般人はすぐに効用だの実利などと言い募ってくるから、困ったもんだ。

 このような閉鎖性が、アカハラ、パワハラなどの源泉です。
1969以前の大学のあり方です。

 鷲田先生も学問は「効用や実利」を目指すべきとおっしゃるわけではありません。
神谷美恵子の研究のあり方を紹介しながら、次のように書いておられます。

「学問がすぐに何の役に立つかは考えなくてもよいと、わたしもおもう。けれども、それがだれの役に立つかはつねに考えておく必要がある。幾分かは恵まれたじぶんの才能を他のひとのために使うのは「名代」という言葉にもあるように、「代りをやって」と何かを託され、それを引き受けることである。そしてだれかにあてにされているという感覚は、なにより研究の励みになる。」

 「名代」とか「代り」という言葉で思い出すべきはレヴィナスなのかも知れませんが、私は最近読んだカミュのあるメモを思い出しました。
カミュが、アルジェリアの独立問題で孤立したり、ノーベル賞を受賞してパリの知的サークルから排除されたり、そして何よりも小説が書けなくて苦しんで苦しんで、そしてやっと自らの貧しい幼年時代をふりかえるような小説、アルジェリアの貧しい一家の物語『最初の人間』に取りかかった頃のノートにある言葉。

「この貧しい一家を救うのだ。すべての貧しい人々が辿る運命、すなわち、跡形もなく歴史から消え去るという運命から。物言わぬ人々。彼らは昔も今も私より偉大だ。」(ヴィリジル・タナズ『カミュ』より孫引き)

 カミュは「書く」という彼の才能を、死んでしまえば「跡形もなく歴史から消え去るという運命」を生きている「貧しい人々」を救うために使うのです。
そのような人々を「救う」というのは、彼らにプロレタリアートの歴史上の使命を指示するということではありません。
パリの知的サークルでは自らの「左翼度」を誇示することによって、知的威信を高めてゆくゲームが展開されていましたが、パリの異邦人であるカミュには関係のないゲームでした(だからこそよけいに排除されます)。
カミュの仕事はそんな知識人に向けられたものではなく、「貧しい人々」、幼年時代の自分を含めた貧しい人々にまっすぐに向っていたのです。
そして、彼らの生活を描くことで彼らを救おうとしたのです。

 今で言えば、ロック・スターとして成功したブルース・スプリングスティーンが、もう一度原点に戻って、青春時代の自分を含めた貧しい都市労働者の生活を歌うことによって彼らを「救う」のに比することができるかも知れません。

 カミュは「書く」ことによって、プロレタリアートを開放したりそして「知的威信」を獲得したりするという「効用や実利」を目指しのではありませんでした。
「書く」という労働を「プロレタリアートの解放」や「知的威信」と「等価交換」しようとしたのではなかったのです。
カミュは、彼の仕事を「貧しき人々」への「贈りもの」と考えたのだろうと思います。
等価の見返りを求めない「贈りもの」。
その「贈りもの」によって、貧しい人々のそれぞれの人生も、それがどれほど苦しくても等価の見返りが望めない、しかしそれぞれを確実に「宛先」とした「贈りもの」あることを示したかったのではないでしょうか。

 鷲田先生の書いておられるのも、学問や仕事をするとき、それが誰を宛先とした「贈りもの」なのかを考えるべきだ、ということなのだろうと思います。
「宛先」がはっきりしていれば、たとえその仕事が結果的に「効用も実利も」産まなくても、そこにはある満ちたりた時空が到来します。
幼いわが子が父の日に贈ってくれたわけのわからない、つまり「効用も実利」も分からないトホホで不思議なオブジェは今も私の宝物です。

 哲学すらも「贈りもの」と考えるべきでしょう。
まずは今現在ある問題に悩んでいる自分自身への、そして悩みを同じくする人々への「贈りもの」。
おそらくそう考えることによって、問題が解けてゆくように思います。

 というわけで、チェット・ベイカーが唄うように哲学においても「毎日がバレンタイン・デー」なのでありますよ。
今日も明日も、チョコレート受け付けてます!
posted by CKP at 16:42| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月12日

「ここは地の果てアルジェリア」――池上彰氏から学んだこと

 この前の土曜日、テレビで池上彰氏がアルジェリアの問題を解説しておられた。
池上さんは『週刊こどもニュース』の時から、分かりやすい解説でご信頼申し上げている。

 このときもアルジェリア独立の経緯を説明なさる時
「“ここは地の果てアルジェリア”って歌、ご存知ですよねぇ」
と、わたくしにとっては「待ってました!」という角度からの解説を加えておられた。
アルジェリアと言えば「カスバの女」である。
これは常識でありませう!

 ところがぎっちょん!
8名ほどの生徒役のうち反応したのは大和田信也氏のみ。
物知りの伊集院光氏も「知らないなぁ、そんな歌」と反応されている。
もっと若い出演者は怪訝な顔。

 そうか、わたくしが講義などで分かりやすいと思って、昔の歌謡曲やら映画をひっぱてきて説明している、というのはこうゆう情況なのか・・・
自分の世代に分かりやすいいのと、皆さんに分かりやすいというのはちがうのだなぁ・・・と今さらなが、池上彰先生を反面教師にした次第。
(でもね、自分にとってはとってもリアルに感じられるんです、そうゆう例をもってくると。
話に、こう力は入るというか、「説得力」が増すはずなんですけど・・・)

 実は、「アルベール・カミュと『カスバの女』」ってブログ書こうかなと思っておったんですけど、ちょっと考えます。
以前、若い方に山口百恵の引退を原節子のそれで説明して、説明地獄に陥ったことがありまして…どうもそうなりそうですので・・・はい。
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2013年02月08日

大谷大学哲学会冬期研究会のご案内(2/13水)

 大谷大学哲学会冬期研究会のご案内です。
 「哲学会」と名はついていますが、哲学科、社会学科、教育・心理学科など、多分野の人々によって作り上げられている会です。
 例年、冬期研究会は、日頃の研究成果を「学会発表」のような形ではなく、他の分野の人も議論に加わることができるような「話題提供」的スタンスで披露するという趣旨で開かれています。そのために、ディスカッション時間を長めに取ってあります。
 今年も多彩な顔ぶれが多彩な研究を発表してくれます。お忙しい時期とは思いますが、多くの方々のご参加をお待ちしております。(研究会後は懇親会を予定しています)

1. 日 時  
      2013年2月13日(水) 13:00〜17:00
2. 場 所
      響流館3F メディア演習室
3. プログラム
  13:00~13:45 藤川弘美(哲学専攻修士2年)
        メルロ=ポンティの「生きられた世界」と「身体的実存」
  13:50~14:35 中村槇也(社会学専攻修士2年)
        現代タイ人の霊魂観と葬送儀礼〜タイ北部の農村の事例を中心に〜
  14:50~15:50 大草輝政(哲学科助教)
        プラトンの想起説について
  16:00~17:00 赤枝香奈子(社会学科講師)
        近代日本における女同士の親密な関係

posted by (藤) at 18:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月07日

思い出の場所――時のどこかへ

 近所で一学年下のヤッサンが交通事故で死んだという知らせを受けた。
檀家さんではないから、枕経に走ったりお通夜に駆けつけたりすることはないけど、お葬式にはお参りしよう。

 ヤッサン、死んだのかぁ・・・そういえば、うちの寺の境内の二股の木にヤッサンの身体が挟まって大騒ぎになったことがあったなぁ・・・と思い出していた。
これは、実は私は実際に見ていない、伝聞だけの思い出であった。
小学校から帰ってきたら、母親から「ヤッサン、大変やった」と聞いただけである。

 そんなことを思い出していたら、突然、この50年間、まったく忘れていたことを思い出した。
そういえば、夏の市内小学生ソフトボール大会でヤッサンとバッテリーを組んでいたんだっけ。
ヤッサンがピッチャーで私がキャッチャー。
こんな思い出、どこにしまわれていたんだろう。
完全に忘れていた。

 ヤッサンの投げる球は、調子がいい時は、手元でグイッとシュートした。
それをバシッと、暑い夏の昼下がりの校庭で、何球も受け止めた。
あれは川で泳いだ後の練習だったんだろうか?
小学生の僕らは元気だった。

 ま、それなりに呼吸の合っていたバッテリーだったと思う。
大会ではけっこういいところまで行った。
が、その後、私が中学校へ行ってからは、話もしないままだった。
そして、バッテリーを組んだことなど完全に忘れてしまっていた。
もう、そんなことを覚えている人など誰もいないだろう。

 こんなことを思い出して葬式なんぞに行くと泣いてしまうよなぁ・・・
ヤッサンの死というよりも、一緒にバッテリーを組んでた思い出がなんだかヤッサンと一緒に持っていかれるようで、何とも言えん気持ちになってくる。

 おそらく今後、このことを思い出すこともないだろう。
「いつかしら時のどこかへ置き去り」(@ユーミン「晩夏」)
なんて歌詞が思い出されます。

「若き日はや夢と過ぎ、わが友みなこの世を去りて・・・」
こんなときに「オールド・ブラック・ジョー」なんて聴いちゃいかんよね。
posted by CKP at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月04日

その後の銭湯物語――ご心配ありがとうございました

 えー、その後の私の下宿の電気温水器のことです。
メーカーのお兄さんに来ていただいて、きちんと直してい頂きました。
蛇口をひねると、ちゃんとお湯が出ます。
有り難いことじゃ・・・とひたすら「文明」に感謝しておりますだ・・・

 メールやコメント、あるいは面と向かって「どうなりました?」と心配してくださった方々、ありがとうございました。
かくの如く、ちゃんと治りました。
(と、面と向かって言ったら、「な〜んだ」とちょっと残念そうにしていた方もおありでしたが・・・さらなる不幸な展開を期待されていたのでしょうか?)

 しかし、まだアンプは治らず、またこの寒さでいなくなったと思ったアライグマが実家の天井裏をドタバタ走り回っております。

 以上、ご報告まで。
只今、入試の監督を終わって、レポートの採点中。
「出せば単位もらえるだろ」という「ナメタ」態度のレポートが2本続いて「いらっ」と来ているわたしです。
安宅の関を突破する「義経ー弁慶」主従のような鬼気迫るレポートを書いてこい!
posted by CKP at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月01日

卒論試問終わる!――ブレイク・スルーの経験

 修士論文および卒業論文の口頭試問がおわりました。
もう、ぐったりと疲れました。

 が、いやな疲れではなく気持ちのよい疲れでした。
こんなテーマで書けるのかという無茶なテーマに果敢に挑戦し、途中で破綻しそうになりながら、そこのところをエイヤッと乗り越えて、何とかそれなりの結論にたどり着いた――そういう論文というのは、読んでいて楽しいものです。
普段の顔を知っているだけに、途中の方向性が見えなくなるところなどは、泣きそうな顔が目に見えるようです。
しかし、そこを何とか乗り越え、はじめは予想もしなかった場所に出て来て、自分でも驚いている、というのがなんとも愉快・爽快なのです。
が、それだけに読むのはけっこう疲れます。
ああ、疲れた。

 しかし、途中の道を見失い破綻寸前に追い込まれたところから、未知の次元へと突破してゆく力というのはどこから来るのでしょうか?
時には、夢のお告げみたいなこともあります。
夢の中で「そうか!」ということがあります。
が、起きると訳がわからなくなります。
しかし、なんとなく進む方向が分かったりすることもあります。
誰かに泣きついて話しているうちに、突然、今まで並べていた材料が勝手に動き出して、別の道筋を作ってゆくのが見えたりすることもあります。
どうも、最初の構想がガタガタと壊れるということと同時に未知の次元が開かれるということが起こるようです。
つまり、ブレイク・スルーというやつです。

 自転車に乗れるようになるとか、逆上がりができるようになるという身体のブレイク・スルーと似ています。
今まで体をコントロールしていた仕方とはまったく違う次元に出る。
おそらく、今までコントロールの対象であった自転車や鉄棒が、新たな身体の一部となって、今までとはまったく違う身体の動きを「体得」するのでしょう。

 しかし、そのようなブレイク・スルーをもたらす力はどこから来るのでしょうか?
ほとんど絶望的な状態に追い詰められて、自己放棄というか今まで考えてきたこと、今までの身体能力をチャラにする状態において、どこからかその力はやって来るとしか言いようがありません。
それまでに知的負荷、身体的負荷をかけるということは必要条件ですが、その負荷を限界以上に大きくするというのとは違うように思います。
それは「コツをつかむ」というような言い方しか出来ない事態が到来することです。
その到来を逃さずさっとつかむ、そのゆるさが必要な気がします。
「ああもうダメだぁ」という脱力状態が必要な気がします。

 と、なんだか分からん話になりました。
卒論でのそのようなブレイク・スルーの経験は、これから生きていゆくいろんな場面で確かめられると思います。
とにかく、書いたほうも読んだほうも、お疲れ様でした。

 今度はレポートの祭典じゃなく採点です。
これも愉快にやりたいものですが・・・
posted by CKP at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする