2012年11月30日

これって犯罪?――フロイト的にはどうなんでしょう?

 ある情報筋から兵庫県の「防犯ネット」に次のような記事が出ているとの情報をゲット。

11月28日(水)午後3時10分ごろ、たつの市新宮町栗町付近の路上で、声かけ事案が発生しました。
徒歩で下校中の児童たちに対して、車で近づき、「君らあんまり勉強したらあかんで」と声をかけ、帽子を取り、はげ頭を見せた後、そのまま車で走り去りました。
声をかけたのは、年齢40歳から50歳くらい、青色キャップ型帽子着用、黒色普通乗用車使用の男1名です。

 これって、「防犯」の対象となるでしょうか。
この人、やはり「不審者」ということなるんでしょうか?
「車で」というのが問題ということでしょうか?
新たなタイプの「露出症」と言えば言えないこともないですが。
なんかで悩んで円形脱毛症にでもなってしまった人でしょうか。
やむにやまれぬ行為なんでしょうから、「あなた!何しているんですか!」と目くじら立ててとがめるのはあまりにも気の毒という気もする。
しかし、フロイトでもよう分析できんとちがうやろか。

「ヘンテコなおっちゃんに会ったでぇ」
「えっ、どこで会えるん?」
ということではだめなんですかね。

そうゆうのって、子どもたちにとって、コミカルだけど「大人っていろいろ大変なんだ」というちょっと苦い思い出になるんだろうと思います。
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2012年11月26日

こ、声が出ない・・・――時という他力

 この連休はひたすら檀家さんの秋廻り(檀家さんで親鸞聖人の命日を記念する「報恩講」をお勤めすること)。
大学の報恩講を欠席してひたすら檀家さんでお勤めする。
大谷大学ごめん。
一日に5軒から7軒の檀家さんを廻る。
二日目の24日、7軒の檀家さんを廻った後、夜は寺の本堂で地元のおばちゃんが集まる「お講」(室町時代から続く「講」とか「結」とかいうアレです)。

 そこでお勤めしていたら後半部で声が出なくなってしまった。
これまでこんなくらいで声が出なくなるということがなかったのでちょっとショック。
60歳も近くなると声帯も弱ってきたのかな、とガックリ。

 が、よくよく考えてみたら、午後4軒廻ったうちの三つのお宅で大声で会話したのを思い出した。
いずれも老人の夫婦のお宅で、とりわけばあさんがまあ愚痴る愚痴る。
やれ「近頃は物忘れがひどい」だの「歩くのが辛い」だの「医療費がきつい」だの「若いもんが働くのがたいへん」だの、だの。
そして話が長い。
そのうえ、昨年に比べて一段と耳が遠くなっている。
よって、こちらも大声で相槌を打つ。
一軒ならまだ良いが、これが3軒続くとちょっと辛い。
その後、息が白くなる本堂で大声でお勤めしていたら、最後の盛り上がるところの高い声が「こんばんわ森進一です」になってしまったのであった。

 しかし、婆さん爺さんたちの身体が年々弱ってゆくこと、つまり「お迎え」が近くなってくる不安に耳を傾け、「ほうやのう(そうですね)」と坊主臭い相槌を打つことは大切な法話である。
対話で形成される法話なのである。
昨年より良くなった、という話は誰もしない。
年々確実にみんな爺さん婆さんになってゆく。
自力ではどうすることもできない。
時の進行に抗うことはできない。
寄る年波に乗っかって、「愚者になりて往生す」という時節を待つしかない。
松ノ木ばかりが、マツじゃない、時に乗っかってその時節を待つとは他力なのであった。

 というわけで、愚僧、この三日間、爺さん婆さんたちからありがたいご法話をいただいたのでありました。
ただし、一晩、ぐっすり寝たら声はもとにもどりました。
まだまだいける。
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2012年11月17日

『グレン・グールドへのオマージュ』ギドン・クレーメル――論文執筆のおともに

 ただいま、論文のようなものを暇を見つけてはシコシコと書いておる毎日です。
まだまだ前途遼遠なのであります。
はあ、まだまだだなぁ、と疲れちゃったとき、集中力を高めるために音楽を流しながら書いたり調べ物をしたりします。
最近、わがCDトレイにのっかっているのは、ギドン・クレーメルとクレメラータ・バルティカの面々による『グレン・グールドへのオマージュ』。
もうグールドが50歳で亡くなって30年もたつんですね。
ついこないだだったのに・・・
クレーメルのお友だちが新たに創ったり編曲したバッハ風の曲やグールドがかつて弾いた曲が弦楽合奏で奏でられています。

 弦楽合奏というのは、どこか不安定なところがあるんですね。
それが、なんていうか空中の一点に向かって集中してゆくような感じが気持ちよい。
油断すればすぐバラバラになってしまうような危うさが気持ち良いのです。
死後30年たっても、グールドのバッハが気持ちいのも、グールドの演奏がそんな集中と危うさのバランスの上になりたっているからなのかなぁ、なんて思います。
こちらの集中力も高まるのような気がして、最近は、こればかり流しています。

 グールドのように危うくて、ディランのようにひりひりしていて、モーツァルトのように愉悦に満ちて、ジュリーのようにエロティックな文章が書けたらいいなぁ・・・って思いながら。
あ、ストーンズも結成50周年でなんか出すみたいですね。
ストーンズみたいに不良っぽいとこも文章には必要かな・・・

 なこと悩んでないでとっとと書かねば・・・・シコシコ・・・
と言いたいところですが、今から指定校推薦の面接です。
どんな高校生と出会えるでしょうか?
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2012年11月15日

W.ジェイムズの『明日に向かって撃て』――フライングする意志

 W.ジェイムズの「The will to believe」を読んでいたら、ヘンテコな文章に出会った。
列車強盗に対する旅客者たちの態度について述べたものである。
ヘンテコでしょ?

「列車に乗った客たち全体は(個々人は勇敢であっても)2,3人の列車強盗に略奪されるのだが、それは列車強盗たちが互いに信頼し合っており、それに対してお客は「もし抵抗しようと動いたら、誰かが助けてくれる前に撃たれるだろう」と恐れているからである。
もしお客全員が一斉に反撃すると我々が信じているならば、我々はそれぞれ反撃に立ち上がるはずである、そうなってしまえば、強盗たちは、列車を襲おうとさえしないであろう。」(p.24)

もちろんここでの眼目は「もしお客全員が一斉に反撃すると我々が信じているならば」という箇所である。
つまり、ある未来を「信じる」という問題。
列車のお客全員が強盗に立ち向かうという未来をフライングして信じることができて、その信念に飛び込むように反撃すると、圧倒的に少数の列車強盗たちはなにもできない。
しかし、列車のお客たちにはそのような相互信頼はない。
たいして、強盗諸君はお互いの行動を信じて、略奪行為を完遂しておるではないか・・・とまでは賛美していないが、強盗の相互信頼を評価してはいるのであるジェイムズ先生は。
列車の客たちのあいだにはこの相互信頼がないから、列車強盗が絶えない・・・
(そこから考えると明治の廃刀令というのは凄い法令でしたね。)

 なんでこんな例が出てくるのかと考えたら、ジェイムズがこの講演をしている1890年代後半、まだまだ列車強盗が盛んにおこなわれていたのですね、アメリカでは。
その頃もっとも有名であったのがブッチ・キャシディ(1866〜1908)とザ・サンダンス・キッド(1867〜1908)。
つまり、映画『明日に向かって撃て』(原題「Butch Cassidy and The Sundance Kid」)に取り上げられた二人。
石川五右衛門とか鼠小僧のように有名なんでしょうね、この二人。
ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの絶妙のコンビが誕生した1969年の映画でした(監督はジョーヒ・ロイ・ヒル。4年後、このトリオで『スティング』)。

 なるほど、と思ってこの映画を見直したのです、私(そんなヒマでもないんですが)。
すると、この二人の信頼関係、友情が見事に表現されている映画だな、と改めて感激しました。
策略家のブッチと早撃ちのキッド(でも泳げない!)。

 1908年、彼らは逃げ延びたボリビアで軍隊の総攻撃でハチの巣になって死んでいます。2008年には、彼の壮絶な死の100周年を記念してイヴェントがあったとか。
映画でも、ボリビアで軍隊に囲まれて攻撃されて死んでゆく場面がラスト・シーン。
軍隊に取り囲まれているとはつゆ知らない二人は、満身創痍ながらも「こんどはオーストラリアだ」と未来を信じて、外へ飛び出してゆくのです。
すると、軍隊の「ファイアー」の号令のもと幾千の弾丸が彼らを襲います。
が、映像は飛び出した場面のストップ・モーション。
総攻撃の爆音が、二回、三回と響く中で、二人は未来に向って銃を撃つ姿勢のまま動きません。
二人の友情・信頼が永遠のものとして刻印される見事な見事なラスト・シーンでした。
『明日に向かって撃て』という邦題も、見事な訳でした。

 久しぶりに見た「雨に濡れても」の名シーン、今でも新鮮でした。
posted by CKP at 19:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月09日

馬鹿は死ななきゃなおらない?――詩「ばかにつける薬」

 友だちで詩人の神尾和寿君から詩の同人誌『ガーネット』が届く。
神尾君はプロの詩人である。
何冊も詩集を発表し、砂子屋書房の現代詩人文庫にまとめられてもいる。
だからプロということもできるが、それよりも、詩を書くために金銭的に出費をしているからプロの詩人なのである。
谷川俊太郎以外のプロの詩人は詩では生活できないはずだ。
よく知らないけど。

 こうゆう行為はある種の人たちからは見れば、馬鹿な行為であろう。
金銭的に損までして詩を書くというのは、かしこい行為とは見えないだろう。
少なくとも「あのような人物になれ」と期待される人間像ではないだろう。
そのうえ、神尾君はハイデガーやらヴィットゲンシュタイを研究する哲学者でもある。
私も研究対象は違うが、いくつか同じ学会に属している。
毎年かなりの額の学会費を払い、たまに学会誌に論文を載せたり、学術大会で発表したりする。
世間的には、不思議な行為であろう。

私の場合は、発表するとコテンパンにやられるので、さすがにわざわざそうゆう場所には出かけなくなった。
それくらいの知恵はついてきた。
神尾君はいまだにそうゆう場所で発表しているのだろうか?

 その神尾君の最新の詩のひとつに「ばかにつける薬」というのがあった。

   *   *   *

  ばかにつける薬

ばかにつける薬があった
アマゾンの奥地で発見された
ひと儲けしようと
商事会社が目をつけた  その
結果として
さっぱり売れない
なぜだか分からない
社長はきっと憂鬱だろう
パイプを緩くくゆらせながら
ガラス窓越しに往来を見つめる
ワシも含めて
こんなにもばかが生きているというのに
なぜだか分からない
本当にばかだからだろうか

   *   *   *

くっくっくと笑いながら読んだが、しかしその後でなんだか底なし沼に落ち込んだような気分になってきた。
そういえば、神尾君は薬屋のせがれだったなぁ、ということを思い出した。
posted by CKP at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月05日

仰向けのコミュニケーション――「テツガク入門(その4)」

 受験生向けフリー・ペーパー『大学ジャーナル』101号に掲載した「テツガク入門(その4)仰向けのコミュニケーション」をお贈りします。
あの暑い暑い夏、オリンピックを猫になって観ながら書いたものですにゃー。
どうぞ!
     *     *
テツガク入門(その4)「仰向けのコミュニケーション」

 猫の目から見ると、人間の行動でもっとも不思議なのは仰向けに寝ることである。
あの背中を下にして腹を上に向けて寝るという姿勢は、吾輩ら猫族にとっては、実に不安定で苦しい姿勢なのである。
なんといっても、吾輩らの背中は猫背であるからね。
たしかに吾輩も一瞬あのような姿勢になることもあるが、それは喧嘩に負けて降参するときか、主人の子どもらとじゃれあうときぐらいのものである。
 
 人間の二足歩行もたいがい不自然ではあるが、これは人間以外でも猿クンたちがこれに近い姿勢で行動しておられるから、まあ分からんでもない。
しかし、仰向けに寝るというのは、理解しがたい。
あんな姿勢では敵に襲ってくれと言っているようなものである。
それが証拠に、この夏のオリンピックとかいう世界的な競技会での柔道だのレスリングなどの格闘技を見ていると、この仰向けの姿勢になった者が「負け」ということになっておった。
 
 そのような「仰向け」という不自然な姿勢を、人間は生れ落ちるとすぐにとる。
そして、毎晩眠るときにもとる。さらには、死んだときにも仰向けに寝かされる。

 中原中也という詩人はこんな詩を書いている。

「死の時には私が仰向かんことを!
 この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
 それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
 罰され、死は来たるものと思うゆえ。
 
 あゝ、その時私の仰向かんことを!
 せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!」(「羊の歌 T祈り」)

 死んでしまえば何も感じないはずであるのに、なぜこれほどまで「仰向け」を願うのか。人間という動物は、まことに不思議な生き物である。

   ●    ●    ●

 人間は直立することによって手が自由になり道具を使い、また脳も発達して知性を駆使するホモ・サピエンスとなったというのが20世紀の人間観でした。
たしかにこの道具使用と知性によって人間は動物と区別されます。
しかし、その人間も生まれていきなり直立するわけではありません。人間の赤ちゃんは、生まれると母親の横に寝かされます。
もちろんまずはお母さんに抱っこされますが、すぐに離されて仰向けに寝かされます。そして、しばらくするとお父さんや兄さんや姉さん、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんに顔を覗き込まれます。そのように赤ちゃんの顔を覗き込む人びとが「家族」を形成します。
チンパンジーの赤ちゃんは母親のおっぱいにしがみついているだけで、ほかのチンパンジーとface to faceに見つめあうことはありません。

 この人間の独特なコミュニケーションの始まりを、チンパンジー研究の世界的な権威である京都大学霊長類研究所々長の松沢哲郎先生は、次のように述べておられます。

「人間は、生まれながらにして親子が離れている。そういうなかで赤ちゃんは仰向けで安定していられる。その姿勢が、見つめ合う、微笑みあうという視覚的なコミュニケーションを支え、声でやりとりをするという音声聴覚的なコミュニケーションを支え、それが後には発話につながっていく。そして、生まれながらにして自由な手で物を扱い、多様な道具使用に結びつく。」(松沢哲郎著『想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心』岩波書店、2011年、54〜55頁)

 赤ちゃんはお母さんから離されて仰向けに寝かされることで、見つめ合い微笑みあうという視覚的コミュニケーション、そしてお母さんを泣いて呼ぶという音声的コミュニケーションを開始します。
そして、その姿勢で自由な手を使ってガラガラなどを振って道具を使い出すのです。

 このように「仰向け」という姿勢は、人間が人間的成長をしていく上で極めて重要な役割を果たしています。
その姿勢は、ネコ氏が指摘するようにきわめて無防備な姿勢です。生物的生命を維持するという観点から言えば、きわめて危険な姿勢です。
しかし、そのように生物的生命を危険にさらしてまでも、人間は周りの人びとと視覚的・聴覚的なコミュニケーションをとるという道を選んだのでした。
いや、むしろそのような道を歩んだサルが人間になったという言うべきかもしれません。

 そして、人間は死者を葬るときも、遺体を「仰向け」にするようになりました。
死者が悪霊となって生者にたたると信じられる場合には、死体は折り曲げられたり首を刎ねられたりして埋葬されました。
しかし、死後も死者とコミュニケーションをとろうと人びとが考えるようになるにつれて、仰向けの姿勢で埋葬されるようになったのです。人間は死者ともコミュニケーションをとろうとするのです。
また、中原中也のような詩人は死にゆくとき、すべてと交流しようとして仰向けを自ら願っているわけです。これはほかの動物には決して見られない行動です。

 ヘーゲルという19世紀のドイツの哲学者は、この生者だけでなく死者との間に成立するコミュニケーションのうちに「精神」(ドイツ語ではGeist、英語ではspirit)という集団的な心の動きを見出しました。
それは死者とも関わりますから「歴史」を洞察する知性でもあります。
皆さんが教室で日本史や世界史あるいは古典を学ぶとき、そこには「精神」が働いているわけです。
つまり、多くの死者たちとコミュニケーションをとっているのです。
ワクワクしますね。
posted by CKP at 12:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月02日

意志はどこから来るかしら――ウィリアム・ジェームズ先生にコン活の極意を学ぶ

 先週の大学院ゼミでウィリアム・ジェームズの「信ずる意志(the will to believe)」の発表を聴いた。
そして、意志ってどこから来るのだろうということがしきりに思われたのであった。

 その昔、「朝はどこから」という歌があった。
二人の姉がときどき唄っていたのである。
その歌は、朝は「あの空こえて雲こえて光の国から来るかしら」という問いに対して「いえいえそれはありませぬ」と否定して見せて、あっと驚く答えを提示するのであった。
「それは希望の家庭から、朝は来る来る朝は来る」なのであった。
目もくらむような展開に子ども心ながら感心したものである。

 であるからして、「意志」などもどこから来るか分かったものではない。

ジェームズは「信じる意志」という講演でのテーゼを次のように提示している。

「二者択一が、その本性から言って知的な根拠によって決定できない純正な二者択一である場合には、私たちのpassionalな本性が決定するのは合法的であろうし、また決定しなければならないのである。というのは、このような状況において「決定しないで、問題は未解決のままにしておけ」と言うことは、それ自体、ちょうどイエスかノーと決するのと同じく、passionalな決定であり、したがって真実を取り逃がすのと同じ危険に身をさらすことであるからである。」(William James, The will to believe, Dover ,1956, p.11)

 この場合、「純正な二者択一」というのは、死んでいるのではなく生きた(つまり今の自分にとって切実な)選択、未決定が許されない強制された選択、そしてありきたりでない重大な選択、つまり「生きて、強制的で重大な」選択ということである。
もっと簡単に言えばせっぱつまった時の選択なのである。
しかし、科学的には決することができない。

 そのようなときには、私たちのpassionalな本性が決定するのが法に適っているとジェームズは言う。
また、そのとき決定しないというのも、同じくpassionalな本性の決定なのだという。

 神を信じるか信じないか、ということで追い詰められて決断する―そんな情況が想定されているのだろう。
故に、「信ずる意志」というのは、その「passionalな本性」と関係するのだろう。

しかし、そのような情況というのは、じつは想像しにくい。
それで、ゼミの時、私は「この人と結婚するかどうか、という情況も同じような『純正な二者択一』ではないか」と例の如くテキトーなことを申しあげた。
うん、この例はムチャクチャ分かりやすいぞ。

 まず「この人と結婚すべきか否か」なんて問題は、絶対に科学的に決定できない。
また、この選択をネグレクトすることは、結婚によって訪れるかも知れない「真実」を永遠に放棄することである。
そこには、何かを恐れるpassionalな何かがある。

 と「信ずる意志」と「結婚する意志」というのは並べてしまったが、こんなテキトーなことをしてジェームス先生に叱られないかと不安になって、その講演を後ろの方まで読んでみる。

 すると、諸君!ジェームス先生も、ちゃんとこの問題を結婚問題としてパラフレーズして、21世紀のコン活への指針を与えておられるではないか。

ジェームス先生は、この講演の最終章で、ある宗教への入信に踏み切れない状況を次のように説明する。

「これは、ある男がある女性への結婚の申し込みにおいて、結婚したら彼女が最良の伴侶にあるかどうか完璧に確信することができないからという理由で、いつまでもためらい続けているようなものである。
(そのようにいつまでもためらうならば)、彼は、まるでかれがべつの女性と結婚するのとおなじくらい決定的に、眼の前の女性の「特別な伴侶」の可能性からひきはなされることになるのではないか」(p.26)

 ほらね、ジェームス先生も結婚というのは切羽詰った重大な選択と考えておられるのである。
ただし、「まるでかれがべつの女性と結婚するのとおなじくらい決定的に」というのはいかにも19世紀末のアメリカである。
つまり、人は結婚するのが当たり前、という時代の譬えである。
今の日本なら「一生誰とも結婚できなくなってしまうのと同じく決定的に」、彼女がよき伴侶であるという可能性から引き離される、と言うべきかも知れない。

 ただ、この場合は、彼女が伴侶にふさわしいかどうか、と言うよりも「結婚という真実」を掴む決断をするか否か、というところに重点が移ることになるだろう。
いやー、ホント、結婚はしてみると、人間の真実が見えてきますよ、どうぞ是非!

 と、なんだか、話がどんどんそれている。

 意志はどこから、という問題であった。
実は、ジェームス先生、この講演のタイトルに「信ずる意志」を挙げてはいるが、中身にはこの言葉、ほとんど出てこないのである。
ということは、先ほどの決断する「私たちのpassionalな本性」が、その「信ずる意志」に通じているものと考えられる。
となると、ジェームスがpassionnalという言葉をどういう意味で使っていたのか、という問題になる。

 また、「信ずる意志」という日本語は変である。
信じるぞ!信じるぞ!と決意するのは意志ではないだろう。
おそらく日本語の「信心」あるいは「信心決定(けつじょう)」が対応するでありましょう。

(ということは、この問題は『歎異抄』の第二条の「よき人をおおせをかぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり・・・すかされまいらせて地獄におちたりとて後悔すべからくそうろう」と並べて読むべきである。
つーことは、結婚も「騙されて地獄に落ちても後悔しない」という決断で臨むべきものだという、カラフルな展開が予想されます。)
 
 また、重大な選択が生きて強制されている情況を考えると、ジェームズの「意識の流れ」説から「意志」を考えるべきかもしれません。
夏目漱石先生が『文学論』で言及しておられるアレです。

「もしJamesが説くが如く情緒は肉体的状態の変化に伴うものにして、肉体的状態変化の因にあらずと仮定すれば、悲しきが故に泣くにあらず、泣くが故に悲しとの結論に達す。」(岩波文庫版、上、98ページ)

 あの人が素晴らしいから結婚するのではなく、結婚するから素晴らしくなるのである――ちょっと強引かもしれぬが、それなりの真理はあるのではありませんか、同志のみなさん!

というわけで、かような「希望の家庭」から朝は来るのでありますが、意志のほうは今少し考えましょう。
posted by CKP at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする