2012年10月28日

講演会のご案内

 来る11月1日(木)、西洋哲学倫理学会2012年度秋季公開講演会を
開催いたしますので、ご案内申し上げます。
 講師はニーチェ研究で著名な須藤訓任先生です。
 今回はショーペンハウアーを中心にお話しいただきます。
 奮って、ご参加ください。

講題: 同情について
      ―ショーペンハウアーとニーチェ―

講師: 須 藤 訓 任 氏
      (大阪大学大学院文学研究科教授)

日時: 11月1日(木)午後四時二〇分より

場所: 尋 源 講 堂(尋源館二階)


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2012年10月24日

教職員学生有志ボランティア第8便の報告

 10月19日(金)の6限後19:40に大学を出発し、翌日の11:30に岩手県大船渡市に到着。

 20日(土)の活動は、念珠作りイベント、お抹茶席、そして牛丼作り&食事会。
 念珠を作り、お茶を飲みお菓子を頂き、そして牛丼を食べながら、震災のこと、今の生活のこと、本当に沢山のことを皆さんが語ってくれました。(食事会の後半はお酒も少し出て、お話しを聞きながらちょっと感極まった私は、飲み過ぎてしまった・・・)

 21日(日)午前は仙台市若林区で、津波をかぶった書籍の拭き掃除・整理。午後は宿泊所の東本願寺現地復興支援センターで、救援物資の整理。

 21日(日)の20:00に仙台を出発、22日(月)の08:00に無事大学に帰り着きました。
 東北の秋晴れの下、イベントに来てお話しをしてくれた皆さんは笑顔で楽しんでいてくれましたが、「皆さんも気を付けてね」と声をかけられて、今回の大震災が決して「自分ではない誰かに起きた事」ではないのだ、という思いを強くした次第です。

こちらのFacebookには活動の様子がupされています。
http://www.facebook.com/otani311
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たて板に文字――おしゃべりな禅宗のお葬式

 本日、大学に来る前に近所のお葬式にお参りしてきました。
禅宗のお葬式でした。
不立文字の禅宗ですが、導師を務められた禅宗のお坊さんが、まあ、しゃべるしゃべる。
お葬式が始まって30分の間、葬儀、禅宗の解説みたいなことを現代語でペラペラと喋るのである。
それも、棺桶と「南無釈迦牟尼仏」の軸の方向に向かって。
まるで、大きな声の独り言を言っているようでありました。
曰く「これはお別れの会ではなくて、戒を授ける儀式だ」(参列者は何をすればいいの?)
曰く「死んだ人は天国、極楽に行くと言われているが、仏性は不滅で法界浄土に行くのだ」(結局、浄土じゃん)
曰く「お釈迦さまから伝わっている、ナントカ水をおかけする」(嘘を言ってはいかんぞ!)
曰く「故人はお酒が好きであったから、これかはお釈迦さまのみもとでゆっくりと飲んでほしい」(受戒されてもお酒はオッケー?)
と、突っ込みどころ満載の葬儀解説をペラペラしゃべるのである。
途中で「喝!」とその坊主頭を殴りつけたくなりました。

 若いお坊さんですので、そのような若い坊さんたちが集まって葬儀のあり方を改革しようと工夫なさっておられるのかも知れません。
しかし、改革の方向が間違っています。
儀式というのは、日常的な意味では理解できない時間・空間が設定される場のはずです。
禅宗なんかだったら、それこそ「無」の時空をしつらえるということでしょう。
それをさも分かったようにすべて「意味付け」されると、ありがたくも何ともないのです。
(ある程度の「意味解説」をしたいのなら、お通夜の席や葬儀の前にお参りの方々に面と向かって解説すべきでしょう。)
その方の先代の坊さんは、何やらムニャムニャ唱えて突然「喝―っつ!」とやっておられて、それなりに感動的で、何となくあとで考えるところがあったのです。

 お前たちは悟ってないのだから、悟っている拙僧がすべての意味を明らかにしてやろう。
すべてを意味づけられると思い込んでいるそのところで、その坊さん、悟っていないんじゃないのでしょうか?
立て板に水の如くペラペラと意味付けする禅宗のお坊さん――不立文字のお師匠さまが泣いておられるぞ!
というわけで、禅宗のお葬式は「板立文字」なのでした。
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2012年10月23日

いつまで続くん?ボブ・ディラン――長谷川きよしで熱さまし

 この前の土・日は大谷大学大学院入試があったため、実家に帰らず、土曜日の夕飯は四条に出てト一食堂へ。
そのまえに十字屋をご訪問。
ボブ・ディランのコーナーを覗くと、昔の作品が再発売されてきれいに年代順に並んでいる。
CBSもノーベル文学賞を記念する準備をしていたようです。
(先ほどラジオで菅野ヘッケルさんが、1996年からディランは候補に挙がっている、と話しておられました。)
ノーベル賞を逃しても、こうして昔の作品がズラリと再発されるのはうれしい。
というのは、わたしの場合、70年代以降のディランのLP・CDはほとんど持っていないからです。
逆に言えば、まだ聴いていないディランの「新譜」が、これからいっぱい聴ける。
たいへんうれしい。
それで、学生時代から気になっていたザ・バンドとのライヴ・アルバム『偉大なる復活(Before the flood)』の二枚組みを購入。
二枚目のトップに入っている「Don’t think twice, it’s all right」から聴く。
この曲は生ギターとハモニカでディラン一人が唄っている。
すこしかすれた声で叫ぶように唄う。
「・・・・・
かつてある女性を愛した。
心も魂も捧げた。
でも、もう考えるな。それでいいんだ」
それは、フォークからロックに転身して「裏切り者」と罵られさえもした彼の過去に向けられているかのようです。
久しぶりに歌詞カードを見ながら聴こうとしたら、涙で文字が追えません。
まいったね。

 このままゆくとディラン・マニアになりそうです。
仏教者でディラン・マニア・・・これではまるでみうらじゅんです。
みうらじゅんで別に悪くはないのだけれど、そうなるとやはりサングラスにロング・ヘアーにならねばなぁ・・・と考えてしまう私は、南伸坊さんの顔真似が大好きです。

 それで、アタマのどこかに長谷川きよしのニューアルバムの情報がインプットされていたような感じがしたので、そのあたりのコーナーも見ました。
そしたら何匹かの蛙のイラストのジャケットのアルバムがありました。
『人生という名の旅』というタイトルがちょっと重いのですが、「別れのサンバ」「灰色の瞳」というデビュー当時のヒット曲も入っているし(ライヴ録音です)、「風のささやき」なんて曲も入っている。
私はミッシェル・ルグランのこの曲が好きで、この曲が主題歌になった映画『華麗なる賭け』のDVD買ってしまったくらいです。
(「ラジオ深夜便」で「夜はやさし」という曲が評判らしいです。私は、まだ「ラジオ深夜便」のお世話にはなっていませんが。)

 ディラン熱を少しさまさなきゃ・・・と長谷川きよしを聴きました。
なんだかほっとします。
この人の声は布施明のような美声ですが、歌の雰囲気がどこか荒木一郎なのです。
少し不安でどこか懐かしい。
この世とあの世のあわいから聴こえてくる・・・そんなやさしい感じが良いのです。

 ボブ・ディラン、みうらじゅん、南伸坊、長谷川きよし、ミッシェル・ルグラン、荒木一郎・・・
完全に若い方を無視した、おじさん・おばさんたちのお話でした。
posted by CKP at 22:17| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月15日

しにがとう――iPS細胞に関するブンガクブ的杞憂

 iPS細胞の発明(?)でノーベル賞をゲットされた京大の山中伸弥教授は、なかなかバランスのとれた人物のようにお見受けしました。
以前、この細胞の特許を各国に申請しまくっていると聞いたとき、「えげつなぁ」と思っておったのです。
しかし、今回の受賞のインタビューを聞くと「特定の企業に独占され、幅広い研究が阻害されることを防ぐため」と答えておられたので、「なるほどなぁ」と感心しました。
また、受賞後すぐに「研究所に倫理部門の設立」をマス・メディアを通してアピールされているのにも感心しました。
今まで「これ、倫理的にやばくない?」と思っておられたのでしょう。
しかし、専門的に議論する機関を作るにはお金がかかる。
が、レンホー(懐かしい!)的予算削減状態では難しい。
が、「ノーベル賞は日本が取った」今、文科省も民主党もこれに対しての予算をケチることはできない。
今まで予算獲得にいろいろ苦労されてきたのだろうなぁ、とお察ししました。

 しかし、どのような倫理問題があるのでしょうか。
山中教授ご自身、この細胞のどこが「やばくない?」とお考えなのでしょうか。
(この場合の「やばい」のダブル・ミーニングは、ピッタリですね)

 シロートなりに考えると、まずアタマに浮かぶのは、「臓器再生治療は誰に適用すべきか」という問題です。
難病に苦しむ人々には朗報です。
しかし、あらゆる難病が治癒するということになると困ったことになるのはないでしょうか。
私の生きている間には可能かどうかわからないが、例えば私の肺がイカレたらそれを再生して入れ替える、ということも理論上可能でしょう。
心臓が、血管が、肝臓がイカレれば入れ替える。
さて、いったいいつまでそうゆうことをすべきであろうか?
50歳まで?60歳まで?70歳まで?
これ以上の年齢の方は、臓器再生治療は受けられません・・・という問題が出てくると思います。
いつまでも治療していたら、ずーっとカドワキがこのブログ書き続けているのですよ!

 どうやって死ぬのか、これが人間によって選択できる、という事態にどう対処すべきか?
という問題を「倫理部門」で検討するということでしょうか?
脳の再生というのは難しいそうだから、再生治療をしたとたん認知症状態になるなんてこともあるかも知れない。
というのは、「からだが覚えている」ということがあるのだから、そのからだの一部がまっさらの新品になったら、住む場所が変わるときと同じように、認知症を発病するかも知れない。
たとえ脳が再生されても、「覚えている」ことを注入するのは難しいでしょう、きっと。
脳はうまく働かないが、ほかの臓器はやたらと元気ということになるかもしれません。
わたくし、そうゆう状態は望みません。

 どうやって死んだらよいのか?
ふつうに寿命で死ねたらラッキー!ということになるかも知れません。
このように存在するのが困難であるから、このように在るのを「ありがたい」というのならば、「このように死ぬのが困難であるから、このように死んでゆけるのを『しにがたい』と言うようになるかも知れません。
「ありがとう」に対して「しにがとう」。
そう言って死んでゆくのである。

 そして、最大の倫理問題は、何よりもクローンの製造の問題でしょう。
山中先生がおっしゃる「特定の企業」というのは、例えば『ブレードランナー』の「タイレル・コーポレーション」のようなアンドロイドを製造するような会社のことでしょうか?
いきなりそこまで考えておられないでしょうが、しかし、それほど遠くない未来にはそのような企業が考えられるはずです。
クローンとロボットのいいとこ取りできわめて高性能なアンドロイドを製造する。
そのようなことになれば、「自我」も危うくなるし、まだ人間のやりたくない仕事を押し付けられたアンドロイドの反乱ということも起るかもしれない・・・というSF的未来はまだまだ先であろうが、決して不可能な未来でなくなったということは事実。
『ブレードランナー』の世界が現実のものとなるのです。
そりゃ映画の観すぎだよ・・・ということではないと思う、たぶん。

 山中教授がどんな倫理問題を憂慮されているのかはわかりませんが、ブンガクブ的に考えると、とりあえず上のような問題が考えられるのです。
杞憂であると良いのだがね。

 ところで、わたくし、先週のゼミでボブ・ディランのノーベル文学賞を予想して見事外れました。
すみませんでした( と言っても、別にロンドンの行われている賭けを勧めたわけではありませんよ)。
ディランのことが気になって調べてみたら、昨年のオッズはディランが一位。
今年は、一位が村上春樹でディランが二位。
二位あたりが受賞に一番近いのではないか?
それにニューアルバム『テンペスト』を出して、いかにも「ノーベル文学賞、もらってもいいよ」というポーズがあきらかであるから、委員会も拒否される心配なしにディランに決定するのではないかと思ったのです。
いや、むしろ、発表直前に新作が出たのがまずかった?
ま、どうでもいいことですが、しかし、ディランを聴きだすと面白くて止まりませんのです。
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2012年10月11日

生活の中の仏教用語「アバター」――ただし「アジャパー篇」

 オジサンたちの愛読誌『文藝春秋』の11月号が店頭に並んだので、10月号の「生活の中の仏教用語」にわたくし門脇が書いたものをブログにオープンにします。
ただし、そのままではなく最初に書いたギャグ入りのものです。
あの「生活の中の仏教用語」はまじめな固定的な読者がいらして、中には「書き写している」というような熱心な方もおられるので「ギャグ入り」の原稿は自主規制しました。
ギャグと言っても「アバター」と「アジャパー」と取り違えるという単純なものです。
「アバターもエクボ」というのも考えないわけではなかったのですが、私としては平成の御世に何としても「アジャパー」を残したい、ということで「アジャパー」を採用した次第です。

 なお、ここに「アジャパー篇」をオープンにするからと言って、このブログの読者のみなさんが「まじめでない」と言っているわけではありません。
わたくしの昭和なギャグを、やさしい眼差しで許して下さる心広き方々であると確信しているからこその行為であります。
誤解なきよう。

 では、「生活の中の仏教用語・アバター」(アジャパー篇)をどうぞ!
    *       *        *
「アバター?そんな言葉は私の生活の中にはないぞ!アジャパーの間違いじゃないのか!」と読者諸賢がご立腹なさるのももっともである。
「アバター」なる言葉は、この世ではなくあの世の生活に関係する言葉だからである。
しかし、あの世といっても死後の世界ではなく、インターネットやゲームなどの「仮想世界」という別世界での用語である。
その仮想世界で、この現実世界の「私」の分身をつとめるキャラクターを「アバター」と呼ぶ。
現実世界ではさえないオヤジでもネットの中ではさわやかな若者のキャラをまとったアバターを操ることができる。
オネエチャンになることだってできる。
この「アバター」という言葉が、ジェイムズ・キャメロン監督の3D映画『アバター』や細田守監督のアニメ『サマーウォーズ』で使われていたのをご存じの方もおられるであろう。
小説でも、たとえば『吾輩は猫である』の苦沙弥先生と猫も作者・漱石の「アバター」と言ってもよいであろう。

 「アバター」(avatar)という「ネット社会言語」の単語は、サンスクリット語のavataraを語源としている。
このサンスクリット語は、仏教漢語の「権化」「化身」に対応する。
つまり、真の世界の存在が仮の世に現れる姿をアヴァターラと呼ぶのである。
ヒンドュー教では、この世に現れたゴータマ・ブッダもヴィシュヌ神の十のアヴァターラのうちの一つとしている。
つまり、生身のブッダはヴィシュヌ神のこの仮の世に送りこまれたアバターだったというわけである。
しかし、現在「アバター」の語がつかわれるとき、この世の現実が真実世界となっており、インド的世界とは逆転している。
あるいは、人間界が自らを真の世界だと主張して、そこから新たな仮の世界を構築したと言うべきかもしれない。
このように実と仮の区別があると、この私の住まう世界こそ真実世界だという覇権争いが起こる。
『サマーウォーズ』では、人工知能がインド的なキャラクターをまとうアバターとなってネット上の仮想世界OZから現実世界を攻撃する。
仮想世界と現実世界の間の覇権闘争が描かれていたのである。
そのときの最終決着はなんと「花札」。
インド的キャラだから「坊主めくり」かな、と予想されたが、そうではなく「コイコイ」によるものであった。
思わず手に汗握ってしまいます。

 おそらくそのような問題に気付いていた大乗仏教は、そこから空、中観そして一如ということを主張した。
親鸞は次のように述べている。

「すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり」(『教行信証』真仏土巻)。

真の仏土そして仮の方便化身土は一如なる大悲の願から展開されているというのである。
真・仮のどちらか一方だけが真実というのではない。
本願はこれらの二つを超え包んでいるのである。
ここでは、真仮の世界それぞれの意味があるから、覇権をめぐる「サマーウォーズ」は起こらないのである。
 
 なお、冒頭にて読者諸賢が怒りにまかせて発せられた「アジャパー」なる用語は昭和の名喜劇役者・伴淳三郎が驚いたときに使う感嘆詞的ギャグ用語。
であるから仏教とは関係がない、と思う、たぶん。
   *      *      *
 もう30年ほど前になるが、小野君が「あんたなぁ、『アジャパー』っていう伴ジュンのギャグ使うけど、あれ誰も分からんよ」と注意してくれたのを思い出します。
ホント、アジャパーに昭和は遠くなりにけり、であります。

 おっと、『文藝春秋』に掲載していただいた「まじめ(?)篇」の方は、大谷大学のHPで読むことができます。
一箇所の校正もれがそのままかも知れません。
「アバターもえくぼ」なんちゃって。

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2012年10月10日

ポスター、届きました。――国際シンポ「反時代的考察 ベルクソンと19世紀フランス哲学」

 10月14日・15日は東京・法政大学で、19日・20日は京都の京都大学で開催される国際シンポジウム「反時代的考察 ベルクソンと19世紀フランス哲学」のポスターやチラシが京大の杉村靖彦先生から届きました
(ただし19日は近衛通りの楽友会館、20日は京大本部の文学部新館ということです)。

 白いドレスにネッカチフーフをなびかせてこちらを振り向くおネエちゃんの絵をバックに日程が印刷された訳のわからないポスターです。
岩田専太郎の美人画(古ぅ!)をバタ臭くしたような、それなりにそそる絵です。
いったい何を考えておられるのでしょう?

このようなポスターを私に送ってくるということは、「どうのようにイジッテもらっても結構です」ということなのでしょう。
相変わらずいい度胸です。

 白いドレスのおネエちゃんが振り向けば「反時代的」とゆうことなのでしょうか?
「白いドレス」が19世紀とゆうことなのでしょうか?
ポスターの左端に切れてよく確認できませんが、この胸、ヘンテコなバランスです。
つまり大きすぎます。

 誰の趣味なんでしょうか?
まさか杉村靖彦先生?

 とゆうようなポスターを小さくしたチラシも数枚ありますので、必要な方は門脇研究室まで。
(私のパソコン技術では、絵をアップすることはできない。私も文字だけの人なのである。えばって言うことではないがね。)
posted by CKP at 15:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月09日

どうにも止まらんボブ・ディラン――71歳の最新アルバム『テンペスト』もよい!

 2,3コ前の記事で、カミュのことを書いていて、ついでにボブ・ディランの名前を書いた。
そして、ディランのLP『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』を久し振りに、ほんと10数年ぶり、ひょっとしたら20年以上ぶりに聴いたら、ディランが止まらなくなってしまった。

 最初はB面一曲目の「Don’t think twice, it’s all right」
改めて聴くとギターの伴奏がとても美しい。
いつまでも聴いていたい・・・
が、ひっくり返してA面。
「風に吹かれて」「北国の少女」「戦争の親玉」などと来て、最後の曲「A hard rain’s a-gonna fall」。
この最後の曲がアタマから離れない。
カントリー・ワルツと言ったらいいのか?
「青い目の息子」に「どこにいたのか」「何を見たのか」「何を聞いたのか」などと尋ねるところからはじまり、「私」が居た場所、見た物、聞いた事などについて述べる。
この答えの内容は象徴的でよく分からない。
また、この「私」が、問いに答える「青い目の息子」なのかどうかもよく分からない。
自問自答のようにも聞こえる。
が、ともかく「私」の答えのそれぞれの最後に「激しい雨が降りそうだ」とリフレインされる。
このリフレインがアタマから離れない。
朝からアタマの中で同じメロディーが鳴り続ける・・・そうゆうことってありますよね。

 大学生の頃はこの曲を「理解」しようと思って、歌詞カードをにらんで聴いたものである。
が、その歌詞は象徴的でよく分からない。
プロテスト・ソングかどうかもよく分からない。
で、何となくそれ以来ディランを熱心に聴くことから遠ざかっていた。

 しかし、今回、歌詞のことは考えずギターと歌詞の音韻だけを聴いていると、ディラン独特の韻を強調する唄い方がめちゃめちゃ気持ちいいことに気がついた。
声はしわがれたダミ声だけれども、伴奏と押韻の絡まりがめちゃくちゃカッコいい。
歌詞を完璧に理解してアタマで聴こうとするとディランはさっと遠くなる。
何を今さら・・・とディランを聴きこんで来られた方はお笑いになるかもしれませんが・・・。

 そうゆう耳で「Like a rolling stone」などを久し振りに聴くとたまりませんね。
投げかけるようなyouの繰り返しの発音にしびれます。

 このような音の魅力と霧がかかったような詩の内容があいまって、20世紀最大の詩人としていつもノーベル文学賞の候補に挙がっていたんですね。
今も挙がっているんだろうか?

 レコード・デビュー50周年の今年、71歳で出されたアルバム『テンペスト』。
ますます磨きのかかった、と言うか渋みの増したダミ声。
そして、淡々と繰り返されるメロディで、9分とか14分の曲も並ぶ。
が、退屈しないんですね、これが。
  
 で、歌詞カードがついているだろうとわざわざ日本盤を買ったのですが、どこを探しても歌詞の日本語訳はあるが、英語の歌詞カードがない。
よく見ると、訳詞の最後に「英語はアーティストの要請により割愛」となっている。

 こうゆうことになっているんですね、最近のディラン。
あんまり歌詞を細かく詮索されるのを嫌ったのでしょうか?
それとも、聴くときは歌詞カードを見ながら聴かないでほしいということなのでしょうか?

 が、それはともかく、さらっとしているけど、落ち着いたアルバムであります。
ディランにノーベル文学賞が与えられても不思議はないって感じがします。

 が、ビートルズ・レコード・デビュー50周年。
ディランも同じく50周年。
ビーチ・ボーイズも同じく50周年。
ローリング・ストーンズは結成50周年。
みんな東京オリンピック前なんですね。
日本だったら、現役のディランとストーンズはロックという古典芸能の先達としてとっくに人間国宝でありますね。
ちなみに、カミュの『異邦人』は1942年の発刊だから70周年。

 ついでユーミン、矢沢永吉そしていしいひさいち画伯はデビュー40周年であります。

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2012年10月03日

「反時代的考察 ベルクソンと19世紀フランス哲学」――10月14・15・19・20日と国際シンポジウム開催

 ボンジュール!同志諸君!
 10月14日、15日は法政大学で、19日、20日は京都の大谷大学じゃなくて京都大学で国際シンポジウムが開催されます。
わたしは何の関係もありません。
が、以前、大谷大学の日仏シンポでお世話をかけた京都大学の杉村靖彦先生が準備段階から大車輪で汗を流しておられるのをほっておくわけには行かないと、ここにご案内するものであります。
(しかし、杉村先生はそんな大変なこともサラリとかるーくやってしまわれるのですけどね。)

 テーマには上にあるように、「反時代的考察」と「ベルクソン」と「19世紀フランス哲学」という言葉が舞っています。
それにポスターがエラク過激なのです。
(わたしのテクニックではお見せできないので下のHPにアクセスして、それでプラグラムつーのをクリック!)


http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/events/%e5%9b%bd%e9%9a%9b%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%83%9d%e3%82%b8%e3%82%a6%e3%83%a0%e3%80%8c%e5%8f%8d%e6%99%82%e4%bb%a3%e7%9a%84%e8%80%83%e5%af%9f%e3%80%80%e3%83%99%e3%83%ab%e3%82%af%e3%82%bd%e3%83%b3%e3%81%a819/

 フランス語で学会は進められるようですから、フランス語の勉強にもどうぞ!
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2012年10月02日

「やじろべえメガネ」グッド・デザイン賞受賞!――おめでとうございます

 いつもこの「哲学科教員ブログ」を愛読していただいている福井県は鯖江の辻岡眼鏡さんが、今年のグッド・デザイン賞を受賞されました。
テンプルの端っこに木を使って「やじろべい」(じゃなくて「やじろべえ」でした)みたいに見える丸メガネ。
耳の後ろに木のぬくもりがやさしい、ひとつひとつ手づくりのメガネ。

 辻岡眼鏡は昔は何十人もの従業員が働いていた中小企業だったらしいのですが、メガネ枠産業は中国製の安いメガネ枠に押されて、日本のメガネ枠生産のほとんどを占める鯖江のメガネ産業もなかなか苦しいことになっていました。
辻岡眼鏡さんは、その不況の中、一大決意をされて会社を整理して、ご夫婦二人だけの手作りで「丸メガネ」をつくってゆくという道を選ばれました。
外から見ると「細々」という感じですが、ブログを見ると「トゥモロウ・クラシック」の名のもと、悠々自適につくっておられる姿がうらやましいご夫婦です。
いつぞやはシモーヌ・ヴェイユのメガネの復元に挑戦され成功(?)されておられました。

 わたしも、大学の運営に携わるとき、小さくても内容のある経営の心得についていろいろと教えていただいたものです。
グッド・デザイン賞受賞で全国から注文が殺到するかも知れませんが、今まで通りコツコツ手作りで、また休みの日にはゆっくりと自然に親しむ悠々自適の生活を続けていただきたいものです。
おめでとうございました。

 旦那さんのM美さんのホーム・ページをご紹介します。
去年の暮、一度死にかけたM美さんの「生きていりゃこそ」というタイトルが身にしみます。

http://meganeya.iza.ne.jp/blog/entry/2882239/

 ちなみに私の読書用の丸メガネは辻岡眼鏡製です。
よく読めます!
posted by CKP at 12:53| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする