2012年08月31日

余計なお世話――哲学する、考えるということ

 お盆でバテて、近所のショーちゃんの結婚式・披露宴で疲れて、同窓会の支部巡回で岡山・唐津・鹿児島と巡業してきてすっかりバテて、8月も今日で終わりです。

 初めて九州新幹線に乗りました。
アナウンスが、日本語・英語にくわえて韓国語・中国語もあるんですね。
九州は中国・韓国と近いんですね。
なんたって唐津というくらいですから。
韓国とも中国とも仲良くしなきゃね。

 昨日、このままでは馬鹿になりそうだから(←まだ馬鹿にはなってないつもりです)、橋本治『その未来はどうなの?』(集英社新書)を読みました。

 なんだか面倒なご病気だと聞いていましたから心配していました。
「あとがき」を読むと、橋本さんの病状は「これ以上よくなるなりようがない」という「低水準」で安定しておられるそうです。
なんだか日本のあるべき姿みたいですね。
橋本さんご自身もそう考えておられるのでしょう。
「しんどくてもあまりあきらめない方がいいですよ」ということばで「あとがき」を締めくくっておられます。

 本文の最後もすごい。
「自分のためではなく、みんなのためを考える――自分もみんなの一人なんだからというのは、結構新しい考え方で、これからのものだと思いますがね。」

 「がね」というちょっと嫌味な終わり方が気になりますが、なんだか目からうろこでした。

 今現在は、自分のためを考える時代ということでしょう。
自分のためを考える、というのは自分が絶対善であってそれを基準に発言するということです。
つまり、何も考えていないわけです。
感情的に発言・行動しているだけです。
自分についても、過去や未来の自分のためを考えていれば、現在のような罵倒が飛び交い、短絡的な行動に走るということにならないはずです。
ましてや「みんなのため」を考えるとなると、問題をもっとクールに分析し、額を寄せ合って意見を交換し、最善手を探すということになるはずです。
感情的に相手をバカヤローと罵倒していたのでは何も解決しないでしょう。

 いじめ問題から領土問題などが感情的に論じられるのに接するのは、夏バテのアタマをよけいに疲れさせます。
最近はクールというのが「いかしてるぅ」という感じで使われいるようだから、もっとクールになれんもんかいな、と思います。
というようなことを「みんなのためを考えながら」書いているわけです。

 そ、余計なお世話ということです。
哲学と書いて「余計なお世話」と読む。
ソクラテスなんて、それで死刑になっちゃいましたけど。
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2012年08月17日

石井光太さん、『情熱大陸』に登場!――8月19日日曜日午後11時15分(MBS)

 7月の大谷宗教学会の大拙忌記念公開講演会でご講演いただいたノンフィクション作家石井光太さんが、19日の『情熱大陸』に登場されます。
「大拙忌」講演会では、主に昨年の東日本大震災における遺体をめぐる人々の営みについてお話していただきました。
しかし、石井さんのお仕事はそれだけにとどまりません。
生と死が交差する世界のあらゆる現場を歩いておられます。
また時間的に遡るという歩き方もされていて、現在は戦争直後の日本の子供たちの様子のルポを連載されておられます。

 『情熱大陸』では、生と死の現場と文献を精力的に歩き回っておられる様子が活写されることでしょう。

 最初の予定では、「大拙忌」も取材する予定だったのですが、それまでに十分番組を構成できるフィルムが撮れたのでしょう、土壇場で「なし」ということになりました。
撮影クルーの責任者の方から丁寧な「中止のお断り」が来たときには、皆がっくり来たものです。
いや、妙に期待されてる空気を感じられて、断ってこられたのか?
どうも、大谷大の連中は、やたらとカメラを意識して、撮影にならないんじゃないか・・・・
かく言うわたくしも、「石井さんと控え室で談笑」という形で『情熱大陸』に出演!とわくわくしていたのです。
その空気が伝わったのか!?

 という訳で、19日の『情熱大陸』は落ち着いた映像で構成されたよい番組でありませう。
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2012年08月13日

Slavoj Zizek was born, writes books, and will die.――ジジェクの新刊の著者紹介

 ここ2,3年スラヴォイ・ジジェクにはご無沙汰をしていた。
ジジェクというのは、ラカン派でマルクス主義者のヘーゲル研究者である。
この三要素は順不同である。
私の場合、私もいちおうヘーゲル研究者なので、ヘーゲル研究者の本としてジジェクの本を読んだ。

 15年くらい前、ヘーゲル研究に飽きた頃、本屋でいきなり、「オレを読め」と声をかけてきたのが、ジジェクの『否定的なもののもとへの滞留』という本だった。
ジジェクなんて知らんぞ?
またどうせポスト・モダニストのヘーゲルの悪口だろう、と思って読み始めたら、ヘーゲルの読みにくいところを果敢に攻めているではないか。
なかなかいい奴じゃん!
だがしかし、そのヘーゲルの難所をラカンそしてヒッチコックで読むという反則の大技を繰り出しながら説明するというのには参った。
面白いのだけれども、分らない。
だもんでラカンと映画を論じる、もう少し分りやすい日本人の著書はないかいな・・・と探していたら、内田樹先生の『映画の構造分析』に出会ったのでありました。

 それはさておき、そのジジェクの本、最近は読んでいない。
なんだかんだと忙しかったもんで・・・
それに毎年毎年けっこう分厚い似たような本を書くので、初期の頃のものをじっくり読んでおけばいいか・・・という気もしていたし・・・
久しぶりに、最近もまだ一年に最低一冊ペースでかいているのかな、とアマゾンで検索してみる。

すると、書いてる、書いてる。
知らない名前が並んでいる。
最新刊らしきは「LESS THAN NOTHING Hegel and the shadow of dialectical materialism」と我がヘーゲルの名前が副題についている。
少しだけでも読まねばなるまいな、それに円高だし・・・ということで購入する。
本文だけでも1010ページ!
何をそこまで・・・

 いったい何をそんなに書いているのかと目次を見たりカバーの裏表紙を書評を見たりしていたら、カバーを折り曲げたところの著者紹介が目にとまる。
馬に乗るジジェクらしき人物の絵の下にチョロチョロと書いてある。
それが本日のタイトルに挙げた
「スラヴォイ・ジジェックは生まれた、(たくさんの)本を書く、そして死ぬだろう」
という文章である。
これだけが著者紹介。
電報じゃないんだから・・・

ジジェク先生、なんだか、悟りの境地にでも達したのであろうか?
それならば、本文ももう少しシンプルにしていただきたい。
それとも癌でも見つかって、もうすぐ死ぬということなのだろうか?
これは私の遺著ですって。

 それとも単純にめんどくさくなっちゃったんだろうか?
スロヴェニアのリュブリアナ大学の社会学研究所の研究員であるとか、ロンドン大学の人文学研究所の国際部門のディレィターだとか、「The Sublime Object of Ideology」などなどなどなどの著作があるだとか、そんなことを書くのがめんどくさくなっちゃったんだろうか?
1010ページの本文書くくせに・・・

  それともあんまり本文が長いので編集者が頭に来て、「もう、こう書いておきますよ!」と書きなぐったのだろうか?

 と、なかなか楽しめる「著者紹介」ではあります。
posted by CKP at 18:22| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月09日

「仰向け」という降参姿勢――私はただ漫然とオリンピックを見ているわけではないぞ!

 もうすぐお盆で、我が寺では12日に墓参り法要があるから、境内や本堂や庫裡の掃除で忙しい。
そのうえオリンピックもあるから体力的にたいへんきつい。
が、ただボーっとオリンピックを見ているわけではない。
哲学的に、それも「ライフ・フィロソフィー」という来年度からの我が大谷大学哲学科の提供する副専攻の視点から見ているのである。
我ながら偉い!

 で、何を見てライフ・フィロソフィーしているのかというと、柔道とかレスリングとかの格闘技種目である。
この二種目において、「負ける」ということはどういうことであろうか?
基本的に身体が相手にコントロールされる状態になったときポイントをとられたり、完全にコントロールされれば「負け」ということになる。
そして、完全にコントロールされいることを表現する姿勢が「仰向け」である。
レスリングで言えば、フォールということであるし、柔道であれば投げられた状態あるいは抑えこみの状態である。
この姿勢は、動物の場合、相手に降参したときにとる姿勢である。

 しかし、人間の場合、この仰向け降参状態は、赤ちゃんが最初にとる姿勢であるし、毎晩我々が寝るときの姿勢、さらには埋葬されるときの姿勢でもある。
そして、この仰向けにより、人間はコミュニケーションを開始し、道具を使うようになった。

 何度かこのブログでも引用した松沢哲郎先生の文章。

「人間は、生まれながらにして親子が離れている。
そういうなかで赤ちゃんは仰向けで安定していられる。
その姿勢が、見つめ合う、微笑みあうという視覚的なコミュニケーションを支え、声でやりとりをするという音声聴覚的なコミュニケーションを支え、それが後には発話につながっていく。
そして、生まれながらにして自由な手で物を扱い、多様な道具使用に結びつく。」(松沢哲郎著『想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心』岩波書店、2011年、54〜55頁)

 しかし、この仰向けという姿勢は、生物的生命を危険に晒すことである。
自然界で仰向けになっているシマウマがいたら、一発でライオンに食べられるであろう。
おサルが仰向けになるのは喧嘩に負けたときである。
仰向けはきわめて危険な姿勢なのである。

 しかし、人間は仰向けになることで人間になった。
生物的生命を危険に晒してまでも、視覚的・音声聴覚的コミュニケーションを開始して人間的生命を発展させたのである。
生物的生命の安全よりも人間的生命を優先させて、あえて「仰向け」というリスクをとったのである。

 母親から離れ、仰向けになって他の人間に顔を向けてにこにこ微笑むという行動はきわめてリスキーな行動である。
ゆえに、「汝、殺すなかれ」という神の声とともにその微笑は我らに向けられているのである。
ゆえに、人間のライフは「汝、殺すなかれ」という神の声と共に到来するのである。

 という訳で、決して私はただ漫然とオリンピックを見ているわけではないのである。

 他にも、ここ二、三日、平泳ぎの鈴木聡美ちゃんが夏目雅子に似てかわいい、ということで彼女の映像ばかりが放映されておるが、そして「夏目雅子に似ている」と思ったのはわたしだけではなかったのだな、と軽く感動したりなんかしているが、しかし「仰向け」泳ぎつまり背泳ぎの寺川綾ちゃんのほうが私は好みであるのになぜその映像が流れないのだ、という鋭い洞察をしていたりするのであります。
posted by CKP at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月08日

猫の名前――『ティファニーで朝食を』の猫は名付けられたのか

 『我輩は猫である』の猫は最後まで名前のないままであった。
『ティファニーで朝食を』の猫はどうだったかなぁ〜と、オリンピック観戦で寝ぼけたアタマで思い出そうとする。
映画ではオードリー・ヘップバーン演ずるホリー・ゴライトリーが雨の中で猫を抱きかかえ、ジョージ・ペパード演ずる青年作家とキスするラスト・シーンで、猫に名前がつけられたような気もする。
「ティファニー」なんて名前が。
が、記憶はおぼろげである。
よって、オリンピック観戦の忙しい中、ヘンリー・マンシーニのあの「ムーン・リヴァー」が流れる『ティファニーで朝食を』(1961年)を観る。

 50年以上も前の映画ですけど、やっぱり良い映画ですね。
田舎から出てきたヘップバーン演ずるホリー・ゴライトリーというニューヨークで根無し草のように生きる女性の「分からなさ」というのが、今でも新鮮である。
その「分からなさ」が、ホリーが一緒に暮らす無名の猫の「分からなさ」と重なって、不思議な魅力を発散している。
それに、あのヘンリー・マンシーニの「ムーン・リヴァー」。
『ひまわり』のテーマと共に、マンシーニの傑作、20世紀映画音楽の二大傑作ですね。

 しかし、映画では結局、あの猫の名前は付けられないまま。
そして、猫が無名であることが、ホリー・ゴライトリーというニューヨークで不安定な生活をする女性の生き方と深い関係があることに気が付いた。
それで、トルーマン・カポーティの原作に当たってみる。
村上春樹が訳しなおしていることだし。

 はじめて原作を読んだ。
話が微妙に違っていて、混乱する。
が、要所要所の会話は原作からほぼそのまま採られている。
で、猫が無名であることに関してホリーが語り手の作家に説明する場面。
    *      *      *
 彼女はまだ猫を抱きかかえていた。「かわいそうな猫ちゃん」と彼女は猫の頭を掻きながら言った。
「かわいそうに名前だってないんだから。
名前がないのってけっこう不便なのよね。
でも私にはこの子に名前をつける権利はない。
ほんとに誰かにちゃんと飼われるまで、名前をもらうのは待ってもらうことになる。
この子とはある日、川べりで巡り会ったの。
私たちはお互い誰のものでもない、独立した人格なわけ。
私もこの子も。
自分といろんなものごとがひとつになれる場所を見つけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。
そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。
でもそれがどんなところだかはちゃんとわかっている」、彼女は微笑んで、猫を床に下ろした。
「それはティファニーみたいなところなの」と彼女は言った。
                (新潮文庫版、63〜64ページ)
     *     *     *
 映画では、冒頭で、ジバンシーをまとったヘップバーンが夜明けのティファニーの前でパンをかじる、という形でいきなり「ティファニー」が出てくる。
原作で「ティファニー」が登場するのは、小説も半ばの上の会話。
だから、この猫の無名に関するホリー・ゴライトリーの説明は、この小説の重要な部分ということがわかる。
無名ということは、「独立」とか「(人格)を所有」するとかに関わる。
「私たちはお互いに誰のものでもない・・・」以下の数行の原文は次の通り。

We don’t belong to each other: he’s an independent, and so am I.
I don’t want to own anything until I know I’ve found the place where me and things belong together.

そして、the place where me and things belong togetherという場所がティファニーなのだという。
「心がいやったらしい赤」に染まるとき、ティファニーにゆくと彼女は落ち着くのだという。
京都の大丸のティファニーに行くと、ひたすらおどおどして不審な振る舞いしかできないわたしにはよく分からない境地ではある。
が、「その店内の静けさと、つんとすましたところがいいのよ」とホリー・ゴライトリーに言われると、わからないでもない。
ニューヨークのティファニーはそんなところなのだろう。

 しかし、「We don’t belong to each other」というあり方は、最後まで維持されるというわけではない。
それは、猫が見失われることによって変更を強いられる。
が、その変更が映画と原作では違っている。
もちろん原作のほうが、カポーティが言おうとしたことだろうけど、映画は映画でそれなりの説得力はある。
どちらも魅力的である。
しかし、両方とも、あの無名の猫にどんな名前がつけられたのはわからない。

 猫にはどこか「We don’t belong to each other」というところがあるのだろう。
小学生のころ、うちで飼っていた猫も、外で会うと、知らん顔していた。
ホント、お前なんか知らない、とでも言うように横目でちらと見て、どこかへ行ってしまうのである。
家の中では、喉をごろごろ鳴らして甘えてきたのに。
『100万回生きたねこ』も、ずーっと誰のものではなかった、ということだったと思う。

 漱石も、猫のそんなところを愛したのかもしれないなぁ、と思ったのでした。

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2012年08月02日

哲学科授業を体験して「哲学に慣れる」――8月4・5・6日は大谷大学オープン・キャンパス

 あさっての8月4日(土曜日)から3日間、わが大谷大学のオープン・キャンパスが開催されます。
哲学科でも、それぞれの日に豪華(!)教授陣によるの模擬授業(各40分)が開講されます。

8月4日 13時00分 鷲田清一先生「てつがく?」
8月5日 11時20分 藤枝真先生 「真夏にクールに考えるクリスマス」
8月6日 14時00分 村山保史先生「絵本を深読み(哲学)する」

 さりげなく鷲田清一先生の講義なんかが紛れ込んでいます。
ホント、贅沢なラインナップ!
わたくしCKPカドワキは、4日哲学科相談コーナー担当ですが、もちろん鷲田先生の講義の時間は相談コーナーは閉鎖です。

 皆さん、涼しげなテーマで涼しげな講義なさるようです。
これを機会に、多くの方々に「哲学に慣れる」ことをして欲しいと思います。
なんだか分からない用語が少しばかり出てきたとしても、ビビる必要はありません。
そこで何が問題になっているかしっかりつかめば大丈夫。
とにかく「慣れる」。
慣れてしまえば、哲学は一生モノ。
ホント、次から次へと考えることが出て来て飽きません。

 そんな哲学のドアを叩いてみてください。
posted by CKP at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月01日

それでいいのか、オリンピック――欽ちゃんの仮装大賞じゃないいんだから・・・

 暑くて何もできないとき、オリンピックというのはありがたい。
オリンピックをテレビで観戦していると、「サボっている」という自責の念から逃れられる。
なにしろ4年に一度である。
選手は血のにじむような練習をしてオリンピックに臨んでいるのである。
勝っても負けての選手たちの努力に敬意を表して感動してもバチは当たらない。
そのうえ、いろんな国に浮気はするものの、けっこう愛国者であることが確認できたりする。
よいことずくめであるから、オリンピックテレビ観戦は許されるのである。

 そうゆうわけでけっこう熱心にオリンピックを見ているのであるが、クレイマーに突っ込まれて判定をひっくり返す審判というのは許されるのか。
そおうゆうことでいいのかいオリンピック委員会。
と踏まなくてもいい韻を踏んでしまうのである。

 かの故ナンシー関女史ならば、どのようにテレビに突っ込んでおられたであろうかと、お盆も近いことだし、考えてしまった。
そうしたら、うちの奥さんが「なんだか『欽ちゃんの仮装大賞』みたい」と突っ込んでおれた。
正月とお盆、年に二度、素人が仮装を競うあの番組である。
4年に一度というわけではないが、出場する素人の人たちはけっこう涙ぐましい努力をして予選を通過してきている。
最近は玄人つまり芸能人も素人に交じって仮装して、「欽ちゃん」ファミリーの一員であることを確認している。
その仮装演技で合格点に達しない場合、欽ちゃんが出演している素人に苦労話なんかを訊いたりする。
するとそれを聞いた、これまた欽ちゃんファミリーの審査員がピポピポピポと点数を加算して合格。
今回のオリンピックでは、日本がらみで、二度、クレームに応じて審判の判断が変わったのであった。
まだまだあるかも知れない。
それを評して「まるで『欽ちゃん』の仮装大賞みたい」と言い切ったうちの奥さんの洞察についは、それ、欽ドン賞決定!とナンシー関も言うのではないか?
別にうちの奥さんはナンシー的体格であるというわけではないぞ、念のため。
消しゴムも彫らないし、うちの奥さん。

 もともとクーベルタンという、オリンピックでしか聞いたことない名前の男爵だか侯爵だかが言った「ファアプレイのオリンピック精神」というのは「運も実力のうち」ということであった、と思う。
日本語にすると身も蓋もないような気がするが、要するにそうゆうことである。
審判が「誤審」としか思えないような判定をしても、それは運であり、甘受すべきものであり、クレームをつけないというのがファエアプレイであろう。
なにせ審判だってアマチュアで手弁当なんだし…というのがアマチュア精神なのであろう。
誤審があっても、これからもっと訓練するから今回は運が悪かったとして諦めてくれろ、ということであった、と思う。

 しかし、オリンピックもこんだけ企業化するとそうゆうわけに行かないということなのであろう。
なにせもとでがかかっているのである。
クレームにちゃんと応じます。
そうゆうことなのである。

 が、誤審が誤審のままにあったにせよ、誤審がクレームでひっくり返ったにせよ、ワイドショーに出ている眞鍋かをりに発言の機会が与えられるのは、私として興味深いことである。
話が急に変わっているぞ。

 生前のナンシー関女史は川島なお美の動向に常に注目なさっておられた。
その女史が、現在生きておられたら、欽ちゃんファミリー的なものからは微妙な距離を取りつつチーズのソムリエみたいな資格を取ってちょっとインテリの道を歩く眞鍋かをりを、おのれの業の深さを丸出しにして観察しておられたのでないか、と妄想するのである。
眞鍋かをりが「眞鍋かを理」であったりしたら完璧であるが、幸いなことに、「かおり」でも「かほり」でもなく、「かをり」なのである。
名前にこだわりがあったりするインテリ・タレントを前にしたときのナンシー関のトラウマ的反復強迫には瞠目すべきものがあった。
とうぶん目がはなせないぞ、眞鍋かをり。


↓は、ナンシー関女史が川嶋なお美を論じたエッセイをネタにフロイトのトラウマを論じる昔のブログです。
「暑いときにはうっとおしいものを」というマゾな方にお勧めです。
http://tetsugakuka.seesaa.net/article/21761499.html
posted by CKP at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする