2012年06月29日

あんたのバラード――梅ちゃん先生の先生

 今朝の「梅ちゃん先生」の世良公則、カッコよかったですね。

「人を助けてやっているというのは、医者の思い上がりだ。
医者はなあ、ただそこにいるだけでいいんだ」

 そして、大陸から戦争末期、卑怯にも患者を見捨てて逃げ帰った過去を語る。
その過去があるから、今は場末の診療所からは絶対に逃げない。
かつて「あんたのバラード」を唄った世良公則だから、あれだけカッコよく言えたんだろうと思う。

 池上哲司先生の「存在の傍らで」という論文タイトルを思い出します。
島根大学の朝ドラ・ウォッチャーA藤先生はどのように見られたでしょうか?
これまたけっこう朝ドラファンではないかとにらんだKW本隆史先生は、どう見られたか?
『カーネション』は観ておられた鷲D先生は、このドラマをどう観ておられるか?
けっこうメンクイのMイケル・Pイ先生(元国際宗教史学会会長)も熱心な朝ドラ・ファンだが、このシーンをどう観られたか?

 という訳で、哲学・宗教学関係の方々にはけっこう朝ドラファンがおられます。
わたくしの場合、今週の最初、ミムラ演ずる姉娘の婚礼に際して、便所の中からの「幸せになれよ」という父親のせりふに涙ぐんだのであります。
今日も、当然「医者はただいるだけでいいんだ」のせりふに涙ぐんだのであります。
グシュン。
posted by CKP at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ふりむかないで」――追記

 前の記事でふれた双子のザ・ピーナッツの伊藤エミさん、一時期ジュリーと結婚されていたお姉さんのほうが15日に71歳で亡くなっておられたという記事に接し、ショック。
合掌。

ビージーズのこれまた双子のギブ兄弟の、こちらは弟さんのロビン氏も5月に亡くなったとか。
こちらは62歳。
 
クラシック界ではフィッシャー=ディースカウ氏も、畑中良輔氏そして吉田秀和氏も亡くなった。
みんな、死んでゆくなぁ。
合掌。
posted by CKP at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月27日

「ふりむかないで」×2――たわむれにサンデルはすまじ(その2)

「たわむれにサンデルはすまじ」ということは分かっている。
分かってはいたが、ついついやってしまって、今再びこの箴言の正しきを知るのであった・・・というお話。

 昭和の名曲に「ふりむかないで」という同名異曲がある。
一つは、1960年代、ザ・ピーナッツの唄う「ふりむかないで」
「ふりむかなッはァはァいでぇー、いぇいいぇいいぇいいぇ〜」というアメリカン・ポップな曲である。
が、「今ね、靴下なおしてるのよ、あなたの好きな黒い靴下」という歌詞を聴いて「黒いソックスが好きなあなた」の趣味がよく分からん…と悩んでいた小学生は私です。
(もちろん、今ならよく分かります。靴下ってストッキングのことだったんですね。網タイツでもわかります。私としてはそちらの方が好きです。)

もう一つは、1970年代初頭、エメロン・シャンプー&リンスのCMソングのアロー・ナイツ唄うところの「ふりむかないで」。

「泣いているのか、笑っているのか
後ろ姿の素敵なあなた
ついてゆきたいあなたのあとを
ふりむかないで東京のひと」

という今なら完全なストーカー・ソングである。
たしか「大阪のひと」のところでは「抱きしめたいな」であった。
完全アウトであります。
(ところで、我々はこのエメロンで初めて「リンス」という概念を知ったのでした。また、このエメロンのリンスは、キャップ一杯のリンスを洗面器のお湯に溶かして、それに髪を浸す形式でしたね。あの形式はいつ頃すたれたのでしょうか。ひょっとしたら今でもあの方式でリンスしている人がいるかもしれませんね。「エッ?違うの?」って。)

 で、この二つの曲が同時にやってくる、という状況がある朝、私に訪れたのである。
どうゆうことかというと・・・

 大学にテクテクと歩いてゆくと、ロング・ヘアーでミニスカートの女性が、脇の道から颯爽と現れて、私の目の前をクイクイ歩いてゆく。
わたしはその女性の1メールあとをほぼ同じ速度で歩くハメとなる。
少しきつめのリンスの匂いが漂ってくる。
足もとに目を落とすと、黒いストッキングのはちきれんばかりのふくらはぎに、5ミリほどの穴があいている。
その上下にもデンセンが走りかけているのである。
注意すべきや否や?

 しかし、その後ろ姿は「なに?この後ろのオヤジ!」というオーラを強烈に発散している。
そんなところで「もしもし、そこゆく娘さん、ストッキングに穴が・・・」と声をかけたらどうなるか?
声をかけた瞬間、叫ばれるような気もする。
そのような状況は避けたい。
しかし、自己保身に走り、いま目の前の人の苦難を見て見ぬふりをしてよろしいのか?
人としてそのような「見て見ぬふり」は許されるのか?
正義は、この私に、いかなる行動を要請するのか!
かくして、私はテクテク歩きながら、サンデル的状況に陥ったのでした。

 それで、結局その娘っ子に声をかける勇気をもたなかった私は、一回生のゼミで学生諸君に「正義の話をしよう」とばかりその状況を説明したわけである。
そして「さぁ、君たちならどうするかな?」とサンデル先生のように尋ねたわけです。
「ハァ?」
いきなりのサンデル的状況、それもきわめてせこいサンデル的状況に学生の皆さん怪訝な表情。
そうだよね、せこいよね。
もっと、大きな問題じゃないとね。
ホント、おじさんが悪かった!
申し訳ない。
学生諸君とサンデル大教授に謝ります。
「たわむれにサンデルはすまじ」

 しかし、あの女性はどこでストッキングの穴に気付いたであろうか?
気付いた時点で「くそ!あのオヤジ〜」なんて思っているような気もする。
要するに、注意しても注意しなくても「この中年オヤジ!」とみられるのであるから、そのようなときには、さっさと距離をとる・・・「君子危うきに近寄らず」というのが、おじさん的正義のような気がします。
以上、オジサンの正義の話をしよう、でした。

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2012年06月25日

なぜ火葬がひろまったのか――解説・一週間

 先週の月曜日は大阪の真宗大谷派教化センターで2時間ほどの講義。
タルムードを読み込むレヴィナスの手法を親鸞に応用する、ということをやってみた。
これが思いのほかうまくゆく。
話していて大変面白かったのだ。
が、聴衆のうちにどこかで見たことのある妙齢の女性がおられる。
もと学生さん?
だったらあちらから声をかけてくれそうなものだが・・・・
結局わからずじまい。
気になる。

 火曜日は授業を終えて東京は原宿の香山リカさんの事務所で、東本願寺の『同朋』という雑誌のための「対談」取材。
「対談」とは言うものの、構成を担当しているO須賀さんの心づもりでは、どうも私が聴き役らしい。
が、気がつけば、精神科医の香山先生に悩みを相談する患者の如く喋りまくっていたのはわたしでした。
どうゆう文脈か、私は香山さんに「なぜ日本では戦後あっという間に火葬がひろまったか」ということを説明していたのでありました。

 日本人は、蓮如さんの「白骨の御文」にあるように、潜在的には火葬を理想としていた。
土葬で見えないとはいえ、やはり土の中で肉親が腐敗してゆくのは忍びない・・・という感情があったのだと思う。
なにせ、『古事記』で、イザナミにウジ虫がわくさまを丁寧に描写しているお国柄である。
しかし、火葬は土葬よりも、ひと手間多い。
土葬なら葬式の後、土葬して終わり。
欧米の映画などでも、墓地でお棺を土に埋めて、そこで一族解散ってのがあります。
『第三の男』のラストシーンなんか。
ところが、火葬すると、そのあいだは待たねばならなず、そして焼き上がったらお骨を拾って墓に納めねばならない。
昔なら一昼夜かかった。
一晩中、死体をうまく燃やす人間を雇わねばならない。
燃料も必要。
となり村の古老の話では、昔は炭一俵は必要だったとか。
「それをけちる奴がおっての、すると生焼けの腕とか脚を犬がくわえていきよった」そうだ。
その村では、年寄りと若者の二人組で寝ずの番をしたそうな。
若者にとってはイニシエーションだったわけである。
 それはともかく、火葬はひと手間ばかりか費用もかさむ。
が、戦後、燃料も安くなり早く燃えるようになり、火葬が一挙に広まったというわけである。

 いったい何の対談だったのでしょう?
香山さんも呆れて聴いておられました。

 全体編集のF崎さんとO須賀さんとの反省会では「しゃべりすぎ!」と叱られました。
そして、8時半ごろの「のぞみ」に品川でとび乗ったら、新横浜で「静岡あたりの強風ですすめませ〜ん」とアナウンス。
1時間待つ。
2時間待つ。
「富士川の水位が上がって渡れません」
3時間待つ。
「富士川の水位が下がるのには相当時間がかかりますから、これの列車の運行は取りやめになりました」と意味不明のアナウンス。
「のぞみ」を降ろされる。
駅の待合室の椅子を死守して一時間。
午前1時ごろ「一番線に入った列車でおやすみくださ〜い」
で、列車の中でうとうとしていると、5時前に「列車を点検します。おりてくださ〜い」
降りて待つこと一時間。
ふたたび新横浜始発のその列車に乗ると、もともと指定席を取っていた人が「そこ私の席ですけど・・・」
空いている席を求めて難民状態。
そのようにして、なんとか京都にたどり着く。

 授業を終えて、会議を3つこなして「もう今日は死んだように眠るぞ!」と寝ることだけをたのしみにしているたらケータイがブルブルふるえる。
「●●さんのおばあちゃんが亡くなった。枕経に帰ってくるよ―に」
サンダーバードで10時過ぎに寺に帰り、ソッコーで枕経に向かう。
が、これが、離婚がからんだ複雑な家族関係のため何ともさびしいことになっている。
喪主さえ決まらない。
なんだかどっと疲れる。
こういうお葬式が、こんな田舎でも最近増えてきた。
というわけで、「家族葬」というわけではないが、親戚の方々が「できるだけ質素に」ということで、ふつうは役僧さんと二人で努めるお葬式を一人で勤める。
お骨は一応お墓に納めたが、遺影などは49日まで寺でお預かりする。
そのあとはどうなるのでしょうか?

 どっと疲れて寺の庫裏の天井仰げば、何やら小動物がドタバタ走り回っている。
それだけならまだいいが、おしっこしたりする。
ホント、滝のようなおしっこをするのである。
夜中じゅうドタンバッタン。
おちおち寝ておられない。
伝染病なども持っているらしい。

 「あらいぐまラスカル」によって、北米原産のアライグマが大量に輸入された。
しかし、成長したアライグマは「あらいぐまラスカル」で描写されていたように凶暴である。
が、ここは北米ではない。
日本の森で「元気でね」と放せば、たちまちに生態系を破壊するのである。
心やさしき人々の「元気でね」によって、どれだけの動物と人間が迷惑してることか・・・

posted by CKP at 17:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月23日

一週間――トゥリャトゥリャトゥリャリャー

月曜日は大阪へ出かけ
「親鸞とレヴィナス」の講義
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャラー
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャリャラー

火曜日は東京へ出張
帰りの新幹線でカンヅメ〜
(解説:台風で新横浜で新幹線が動かなくなったのね)
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャラー
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャリャラー

水曜の朝にやっと京都
夜は「枕経」で武生
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャラー
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャリャラー

木曜の授業を終えて
ソッコーでお通夜に帰る
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャラー
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャリャラー

金曜は一人で葬式つとめ
夜、天井裏でアライグマ騒ぐ
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャラー
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャリャラー

友だちよ、これがわたしの
一週間の仕事です
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャラー
トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャリャラー

【詳細は次回に譲る】
posted by CKP at 00:15| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月15日

位置のこと――ネコのこと

 昨日の川本隆史先生の講演会は、最初から質疑応答の最後まで、異常にテンションが高く刺激的な講演会でした。
何しろ講演のマクラにして実は本題、「大谷大学図書館に幻の同人誌『位置』を入れろ」からフル・スロットル。
池上哲司先生と鷲田清一先生が大学院生のころ3号まで発刊された『位置』。
両先生の思考の原点としての、しかし双葉より芳しかった文章を、今の学生諸君はじっくり味わうべきである。
大谷大学図書館に『位置』を入れるべし!

 そして、本当の本題である「『脱集計化』とケアの倫理」の整理された引用の提示と詳細な文献表のレジュメにそった講演は、ずっしりと考え込まねばならない重量級の講演でありました。
そして近隣の大学からも院生や先生方が聴講にこられ、充実した質疑応答が展開されたのでした。
(ということはわたくしCKPは沈黙していたということですね)

 で、未だうまく咀嚼しきれてないわたくしはもうしばらく沈黙の行を続けるのであります。
が、それでは芸がないので、この5月から「大学ジャーナル」という受験生向けのフリー・ペーパーに始めた連載の第一回目(98号)をここにアップさせていただきます。

テツガク入門(その1)
わたしの始まり

 吾輩はネコである。名前はもちろんない。「もちろん」というのは、吾輩、あの明治の文豪・夏目漱石の『吾輩は猫である』の名前のない「猫」氏の血筋にあたる由緒正しいネコだからである。なんだか、のっけから自慢話をする俗物のように読者諸君に思われるのも剣呑であるが、事実は事実として述べておかねばならない。というのも、これから人間とは何かということを考察する上において、この「猫」氏の血統というのは無視できない重要なる要素だからである。
 あの夏目漱石は辛辣なる人間観察によって明治のみならず近代文学を代表する小説家となったのであるが、その人間観察の基礎を作り上げたのが、ほかならぬ「猫」氏であった。猫の視点から、つまり非人情に考察された人間の日常を描写することによって、漱石は人間存在の滑稽と悲哀を見抜き表現することができたのである。ゆえに、読者諸賢も吾輩とともにネコ的視点からの人間観察をおこなえば、現代日本を代表する文豪になるやも知れんのである。
 というわけでさっそく始めるが、まずは人間というより猫氏の出生をめぐる問題である。
猫氏はこのように述べておられる。
「どこでうまれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめしたところでニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」
読者諸君は、これはネコだから「見当がつかぬ」ということになるのであって、人間ならば、どこでいつ生まれたかは誰でも承知しておる、と思われるであろう。しかし、それは短見というものである。人間においても、「わたし」の始まりのとはきわめて曖昧なものなのである。いったい、いつどこで「わたし」は始まったのか。わが猫氏の叙述は、この問題に人間諸君を誘うのである。
*       *       *
 受験生のみなさん、はじめまして。
これから何回かにわたって、「ネコ氏」の提出する問題を、受験生の皆さんといっしょに考えてゆきたいと思います。
と、いきなり「皆さんといっしょに考えてゆきたい」って出てきたお前は何ものなんだ?ちゃんと自己紹介しろよな!――こんなふうに思った方がおられると思います。当然ですね。人と人が何かをいっしょにやるとき、まずお互いの自己紹介から始まります。学年が上がって新しいクラスになったとき、「自己紹介」のLHRで始まった、というあれですね。たまたま電車で隣に乗り合わせた人とは自己紹介はしません。いっしょに何かをやるつもりはありませんからね。
新しいクラスでの自己紹介では、これから一年間同じクラスでいっしょに勉強したり遊んだりしてゆくために必要な「わたし」を他のみんなに提示しました。つまり、これからの一年間の未来を過ごすために、自分の過去のある部分を示して「自己」を紹介した訳です。自分の過去の全部を紹介するわけではありません。これからの一年間のクラス生活に必要な自分の過去の一部を提示したはずです。
というわけで、私、申し遅れました名前は門脇健、その私の過去の必要な一部を欄外に示しておきました。年齢はこの5月で58歳。皆さんのお父さんと同じくらいかも知れません。お父さんというと、なんだかいっしょに考えようという気が失せてしまうかも知れません。ちょっと変わった伯父さん、くらいに思ってください。
しかし、読者の皆さんにいちいち自己紹介をしていただくわけにはいきません。一方的ですが、「大学での文系の学問って何をやっているんだろう」というようなことに興味を持っている受験生を読者として想定して話を進めてゆこうと思っています。もう理系に決めている人でも、大学では文系の学問とまったく無関係というわけにはゆかないので、「関係ない」と言わず、ちょっと付き合っていただくとうれしいです。
 さて「自己紹介」の話がずいぶん長くなってしまいましたが、しかし、「自己紹介」というのは、「わたしとは何か」という哲学で扱う問題の日常的でシンプルなかたちです。もしそこに何か言いたくない過去、隠したい過去がある場合、そこから「わたし」をめぐる様々な問題が出てきます(近代文学の多くはこの問題をめぐって展開されます)。が、それ以前に「自分の過去」の記憶がない場合があります。記憶喪失といわれる現象ですね。自分の過去に関して記憶が失われているというときには「自己紹介」はできません。まわりの人がわたしに向かって呼ぶ名前、その名前と私が重ならないのです。アイデンティティがまったく成立しないのです。それほど、「わたし」と「過去の記憶」とは密接に関係しているわけです。
しかし過去の記憶が保持されている場合でも、その記憶は誕生日と伝え聞かされている日付けまでさかのぼることはできません。だいたい3,4歳の頃が一番古い記憶のようです。気がついたらわたしはわたしだったのです。そこから先は、お母さんやお父さん、お祖父さんやお祖母さんが幾度となく話してくれた物語を信ずるほかありません。しかし、そのような物語を聞かされ心安らかに信じられることが人間の幸福です。ネコ氏の場合は、その物語を語ってくれる人がいなかったのです。ですから、ネコ氏はわたしたち人間に辛辣ですが、その裏には寂しさが滲んでいます。その寂しさをそっと包みながら、これからもネコ氏の問を考えていきましょう。

ハイ、ここまで!
こんな感じのフリー・ペーパーです。
http://djweb.jp/(なんと鷲田先生の推薦文が読めますよ)
posted by CKP at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月13日

川本隆史先生と大谷大学――いよいよ明日、講演会!

 川本隆史先生の講演会がいよいよ明日に迫りました。
川本先生は大谷大学では初めての講演となるはずです。
わたくし(CKP)もはじめてお会いします。

 が、川本先生、実はこの哲学科教員ブログに登場なさったことあります。

 川本先生は『岩波講座哲学第12巻 性/愛の哲学』(2009年10月)の責任編集者でした。
我らが池上哲司先生もこの巻に執筆されておられますが、「原稿をとうに出したのになかなか発刊されない」ということがありました。
そのとき、テーマが「性と愛」だからじらせばよいというものではなかろう、でも池上先生の論文が「もう駄目、待てないわ」という方は、講演会へどうぞ・・・という例によって世間をなめきった記事を書いたのはわたくしCKPでした。
そしたら、この巻が無事発刊された時、川本先生ご自身がわがブログに本名でコメントしてくださったのでありました。

http://tetsugakuka.seesaa.net/article/124729943.html

このようなふざけた記事にもにこやかに対応してくださる太っ腹の先生ということであります。
ありがたや!

 なお、明日の講演は、同じ『岩波哲学講座』でも第1巻に書かれた論文「”不条理な苦痛”と『水俣の傷み』――市井三郎と最首悟の<衝突>・覚書」を手掛かりにお話されるようです。

 多くの方々のご来場をお待ちしております。
posted by CKP at 15:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月09日

講演会のご案内

2012年度大谷大学西洋哲学倫理学会春季公開講演会
の開催が迫って参りましたので、ご案内申し上げます。

日時: 6月14日(木)午後4時20分より

場所: 尋源講堂(尋源館2階)

講題: 「脱集計化」とケアの倫理
     −市井三郎とジョン・ロールズの「失敗」に学ぶ

講師: 川本隆史氏(東京大学大学院教育研究科教授)

川本隆史先生はジョン・ロールズ『正義論』の新訳、
『現代倫理学の冒険』や『ケアの社会倫理学』などの著書で
著名、奮ってご参加ください。
posted by pada at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月06日

問われて名乗るもおこがましいが・・・――『水戸黄門』は何故終わったのか?

 いろいろなことを考えねばならぬので、わたしのアタマは忙しい。

そのうちの一つ。
「時代劇はなぜ衰退しつつあるのか?」
ごくろーさん、わたしのアタマ。

『水戸黄門』が昨年の暮れに終了した。
なぜだろうということをずーっと考えていた。
いろんな理由があるだろうが、要するに人気が無くなった。
視聴率が取れなくなった、ということだろう。
では、なぜ視聴率が取れなくなったのか?
それをずーっとアタマの片隅で考えていたらしい。
名前のことを考えていたら、そうゆうことかと思い至った。

 時代劇の正義は「名乗り」である。
「ここにおられるお方を誰とこころえる。先の副将軍・水戸光圀公なるぞ!」
「天下御免の向こう傷!早乙女主水之介だ」
あと、桜吹雪の入れ墨の遠山の金さんとか、「桃から生まれた桃太郎」とか、「火付け盗賊改め方長官・長谷川平蔵だ!」といろいろあります。
その名乗りは、権威の象徴でもありましたが、同時に「顔を見せる」、Face to Faceの関係において義を通すということでもありました。

 ゆえに、正義とは、その名乗りのカッコ良さと一体となったものでありました。
歌舞伎では、弁天小僧でも石川五衛門でも、カッコよく名乗れば、それはそれで正義(法には背くが義にかなう)になったのでした。
 
 しかし、ネット社会の今日、正義は匿名になったのではありますまいか?
匿名で「悪い奴」をボコボコにする。
ホント、ひとたびバッシングが始まると止まらなくならるのはどうしてでしょう?
法には反してないが、義という点から見ると「ひでぇことしやがる」(@健さん)としか思えない。
「必殺仕置人」的匿名性とは、少し違うように思う。
(おそらく、「金」で仕事をするという「卑しさ」を常に自覚する、というのが「仕置人」のニヒルなダンディズムを支えているのでしょう。)

 そのようなネット的「正義」から見ると、いちいち見栄を切って大仰に名乗るという時代劇的正義というのは、もう古臭いのでありましょう。
というわけ、次なる問題は、正義は匿名において可能か、正義における「顔」という問題でありますね。
(時代劇では「正体を明かす」という形で表現されておりました。)
posted by CKP at 15:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月03日

ワシダジャレ――あみだくじ人生

 鷲田清一先生の日経新聞夕刊の5回連載「こころの玉手箱」(5月7,8,9,10,11日)は、さまざまなモノについての物語。

1回目、「ワニ博士」。
 大阪大学総長時代に、大学院向けの教養教育とコミュニケーション・トレーニングを推進されたときのシンボルのゆるキャラ的ぬいぐるみ。
2回目、「絵の具箱」。
 学生時代、美術部の活動で幅5メートル(!)の作品を褒められ、その後10年アトリエに通って絵画の勉強をされたときのもの。
3回目、「熱で反ったミニチュア車」。
 20年前、臨床哲学というさまざまな場所に出没しいろんな人と出会う「哲学のフィールドワーク」をはじめられ、北海道のさまざまな障害を持つ人たちのクループホーム・共同作業所「べてるの家」を訪ねられたときにもらったものが歪に反ってしまったもの。
4回目、「お猪口」
 伊丹国際クラフト展の審査委員長を務められているとき、委員長の「役得」でじっくり品定めして入札しながら、「ちょこちょこ集めたもの」。( 「駄洒落ではないが」とことわっておられるが、正真正銘の駄洒落です!)
5回目。「所有論ノート」
 ライフワークの「所有論」を完成するために書き溜めておられるノート。8年間の大学の行政職が挟まっても、つねに持ち歩いておられたため綴じがはずれてボロボロになったノート。

 第2回目を次のように書き出しておられる。

「『漁師生涯竹一竿(いっかん)』という言葉があるように、ひとは自分の生涯を後でふり返って一つにまとめたがるものようだ。けれども、だれかとの出会い、病気や事故など、思いもよらない出来事に遭ってくるくる回転するのが、人生というものではないだろうか。そう、まるであみだくじのように、人生はなんども曲折する。」

 つまり、この連載に挙げられたモノは、その「曲折」の物語を語るモノなのである。

 「出会い」というのは、何か幸運のように語られるけども、よく考えてみれば、その出会いは「事故」であったり、単なる「邪魔」であったりすることもある。

 新たな「出会い」を、事故とか邪魔としか思えない人がいる。
「なんで自分にはこんな不運としか言いようのない出会いしかないんだ!?」
おそらく、このように嘆くだけの人は、人生の目標への道が一直線にイメージされ、それに向かってひたすら努力する人なのであろう。
成功した自分を、イメージ・トレーニングまでする人もいる。
その一直線の行路をふさぐような出来事は、「邪魔」であり「事故」でしかない。
そのような邪魔や事故を乗り越えて、自らの目標を達成する、というのも大切なことかもしれない。
しかし、そのとき達成される目標は、自分のアタマが想像していたものでしかない。

 鷲田式あみだくじ人生は、あっち行ったりこっち行ったりで、なかなか思い通りに行かない。
「たら」「れば」の尻尾がいっぱいころがっているのかもしれない。
しかし、「事故」や「邪魔」にさえも、丁寧に付き合った結果、思ってもみなかった場所に出るという喜びがある。
自分の「思い」をはるかに超えたところに出る、という驚きがある。
なんたって「阿弥陀(!)くじ」なんだから。

 もちろん、そのような「出会い」に向き合うとき、その「出会い」が自分に何を要求しているのかを思案するとき、「いったい自分はどうなるのだろう」という不安もある。
しかし、先の不安よりも今現在の情況との対話に耳を傾けること、そしてその情況に自分を置いてみることで、思いもしなかった自分に出会える。
やりたかったことの別の側面が見えてきたりするのである。
そして、哲学とは、考えるとは、そのような「想定外」の情況で如何にふるまうかを考えることなのだと思う。

 しかし、眉間にしわを寄せて妙に深刻ぶるだけが、「考える」ということではない。
情況を別の側面から眺めてみるということもせねばなるまい。
おっ、こんな見方もできるぞ、と面白がるのである。
そんなときではないか、ワシダジャレが発せられるのは。
「賢人」=「犬人」とか、お猪口を「ちょこちょこ」集めるとか・・・
ちょと、とほほな駄洒落ですけど、硬直した事態をほぐすことはできるように思う。

 しかし、たかが駄洒落をそこまで読み込んでは、イケガミ?
いや、結構、インぱくトあるんじゃない?
いやいや、過度ハキケンです。
大谷大学哲学科にはWヤング・コースというのも裏メニューであるのかもしれません。
(最後の数行、とりわけ「Wヤング」が分からない人、分からなくてオッケーです。分からなくても、人生、不都合はありません。)

 Wヤング・コースでは、少なくとも、就職してからの上司のおじさんと付き合う能力は養えます、はい、これホント!
posted by CKP at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする