2012年05月30日

Waiting on a friend――鷲田家の二人の柴犬のこと

 鷲田先生の新聞での二つの小ぶりな連載が完結しました。
一つは読売新聞の「交遊録」(4回)、もう一つは日本経済新聞の「こころの玉手箱」(5回)。

 「こころの玉手箱」は、そのタイトル通り、「玉手箱」の中のさまざまなモノを通して人々の出会いを語られたもの。
「交遊録」は、鷲田家の二人の娘さんの左近(さーちゃん)・右近(うーちゃん、ただしお二人ともお犬さまです)について語られたもの。
こちらの方については、連載が掲載される前から、「こんど、うーちゃんとさーちゃんのこと連載するからね」と、子煩悩というか犬煩悩というか、たいへんうれしそうに楽しそうに予告しておられました(ネットでも読めるようです)。

 初回は、いつの間にかさーちゃんが「主人」になっていたという話で、一瞬、「ご主人さま」と応対する鷲田先生が頭をよぎって焦りました。
が、その後は、二人(匹)の微妙な関係とか、その二人と先生との交流が温かい筆致でつづられています。
とりわけ、最終回の二人が近所のおばあさんを「待つ」話には、ぐっと来るものがありました。

「不在の未来や過去ではなく、現在のただなかで不在にふれている。」

Wait!で始まるPlease Mr. Postmanじゃなくて、キャロル・キングのYou’ve got a friendを思い出します。
現在完了形ですね(でも、私宛の郵便をじっと待っているという感じもしますが)。

Winter, spring, summer or fall
All you have to do is call
And I’ll be there
You’ve got a friend

猫というのは、こうゆうふうには待ってくれませんものね。

が、ここはローリング・ストーンズの「友を待つ」の動物のお友達がいっぱい出てくるビデオをご紹介しておきましよう。
http://www.youtube.com/watch?v=QPuDLs8vxDA

で、おばあさんは今日は来なかった。でも
「待っていたこともさらりと忘れて……。引きずるということを知らぬ、これはもう感情の賢人(犬人)と言うほかない。」

 この文章で4回の連載が閉じられています。
賢人=犬人、おそらくこれを思いつかれた時、ふふふと喜ばれたのだと思います、鷲田先生。
河合隼雄先生の駄洒落を思い出しました。
posted by CKP at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月29日

聖俗革命の果てに――荒ぶるカミの再登場

 この土曜・日曜、ご門徒さん方の本山参拝旅行の引率。
一日目は、東西両本願寺を参拝する。
ちょうど法要に重なり、後ろの方でお参りする。
二日目は、嵯峨野あたりの「拝観料」が必要な有名寺院を回る。
最近、個人的に庭のつつじの剪定に励んでいるものだから、各寺院の庭の剪定の具合を点検。
う〜んマンダムに格が違いすぎる・・・
比べるなどと身のほど知らず行為におよびスミマセンでした。

 塵一つ雑草一本も生えていない国宝級の庭の維持は、そりゃ「拝観料」を取らんと維持できんわなぁ・・・と思いつつも、土産物屋が並ぶ境内にはやはり違和感は残る。
こちらも立派な襖絵を見るとき「なんでも鑑定団」的な目で見ている。

 寺院という聖なる空間が俗化しているのである。
と思いながら、本日の宗教学概論は、村上陽一郎先生の主張される「聖俗革命」の紹介。

 17世紀、ガリレイの望遠鏡で月が地球上と同じ凸凹であることが発見される。
ニュートンの万有引力の発見で、天上界の天体の動きも地上の物体の落ちるのと同じ法則で動いていることが説明される。
今まで聖なる世界であった天上界も、な〜んだ、地上と同じ世界だったんだ!というわけである。
そのようにして、聖なる世界が俗化され消滅してゆくのである。

 18世紀になると百科事典なるものが登場して、「カミ(Dieu)」よりも「イヌ(chien)」の方が先に説明されることになる(英語だとdogをひっくり返してGod!)。
そして、産業革命により、神聖なる夜も、そして安息日も無視されてゆく。
キリスト教は、もともと空間的には俗化しやすい「世界」観を持っている。
17世紀終わりにジョン・ロックは次ぎのように書く。(『統治二論』加藤節訳、岩波書店、2007年、第5章、26節、211ページ)

「人間に世界を共有物として与えた神は、また、彼らに、世界を生活の最大の利益と便宜とになるように利用するための理性をも与えた。大地と、そこにあるすべてのものとは、人間の生存を維持し快適にするために与えられたのである。」

 世界は人間の利益と便宜のためのものなのである。
作者である神は畏れ多いのであるが、「世界」とはその神が人間に「ちゃんと利用しなさいよ」と支配権を渡してくれたものなのである。
であるから、ここからは、山岳や森林、川河や大海を神々の住まう聖なる場所として畏怖するという生き方は出てこない。
トトロの住まう場所はないのである。
世界は、エネルギーや食糧を採取したり育てたり、あるいはスポーツの場所でしかない。
だから、登山家は山を「征服」したりするのである。
ああ、畏れ多いことじゃ・・・
山の神の祟りがあるぞ・・・
恐ろしいことじゃ・・・
だから、山や海に生活する人々は今でも山の神、海の神に捧げ物をしている。
日本では山開き、海開きに神主さんが登場するのである。

 しかし、科学技術は世界をどこまでも俗化してゆく。
神の創造した「世界」さえ作り変えてゆく。
原子核や遺伝子にまで手を出したのである。
聖俗革命・第二章への突入である。

 その結果、原子力は新たな荒ぶるカミとして登場してしまった。
すべてを俗化しようとする人間に、新たな聖なる場所が出現したのである。
これはもう「荒ぶるカミを鎮める」ということが要請されていると考えるほかない。
現場の技術者たちは、おそらく、「荒ぶるカミ」に対処するように接しておられるのだろう。
どうか、よろしくお願いします。

 一方、遺伝子レベルの操作というのは大丈夫なのだろうか?
そのうち、アンドロイドの反乱なんてことになるのではないか――SF映画を観すぎた人間のくだらない空想で終わればよいが・・・

 しかし、その聖俗革命・第2章を牽引しているのが、結局は「お金」。
やはり、2000年ほど前、イエスが神殿の物売りや両替商人に乱暴狼藉をはたらいたのは正しかったのではなかったか。
わたしは、一昨日、嵯峨野の有名寺院の境内の物売りに乱暴狼藉をはたらくべきではなかったか・・・逮捕されるだけですけどね。

 なんで人間はこんなに「お金」が好きなんだろう?

 しかし、嵐山で買った「ラブレ入り」のラッキョウの漬物(@西利)は、たいそうおいしくてそしてお腹の調子が大変良くなる、なかなかのお土産でありました。
「発酵」はよろしいなぁ・・・
posted by CKP at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月25日

むずかしい信心―レヴィナスと親鸞(その2)

真の信仰を得れば、エゴイズムが克服できこの世から人間の犯す災厄が一掃できるのだろうか?
ときどき、「できる」と言わんばかりに説教する宗教者がいるし、そのようなことを宗教に期待する人がいる。

しかし、親鸞の「歎異抄」の
「いずれもの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
という言葉は、そのことの不可能性をはっきりと示している。
あるいは「正信念仏偈」のなかの
「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
などからもそのことは推察される。

しかし、涅槃というのは煩悩が消滅した寂静の境地をいうのではなかったか?
親鸞には「煩悩具足」とか「煩悩成就」とかいう言葉もある。
それでいて涅槃を得るというのはどういうことか?

という問題を考えるとき、レヴィナスの『タルムード四講話』(内田樹訳、国文社、1987、Emmanuel Levinas, Quatre lectures talmudiques, Les Edition de Minuit, 1968, Reprise,2005)の中の「誘惑の誘惑」の次の部分が私にはヒントを与えてくれるように思える。

 モーゼに率いられてエジプトを脱出したユダヤ民族はホレブ(シナイ山)でトーラー(教え)を神から授かる。
しかし、同時にそれ以降はそのトーラーへの背信の歴史を歩むことになる。
ユダヤ的な末法の歴史である。
そしてバビロン捕囚の後、シナイ山でもトーラー授与から1000年あまりも経てようやくトーラーの受け取りなおしに至る。
そのとき、トーラーを、「行うこと」を「聞き従う」ことに先行させるというやり方で受けとることになる。
つまり、教えを理解し信じる前に行ずるのである。

 この事実をタルムードの博士たちは、教えの拝受と堕落の問題として論じ合う。
その3世紀から5世紀ごろのタルムードの律法博士の議論である。
一読しただけでは何のことやらさっぱり分らない。
そのタルムードの議論の箇所をレヴィナスは次のように註解する。

「ユダヤ人は身を飾るためにホレブ(シナイ山)に至りますが、身を飾ると同時に飾り物を引き剥がされます。つまり私たちは誘惑される存在という状況に関して寛大であることを警戒はしていますが、同時に悪に誘惑されすでに屈服してしまっているのです。
「行うこと」を「聞き従うこと」に先行させるという卓越した選択は没落を妨げはしません。というのはこの選択は誘惑に抗して備えているのではなく、誘惑の誘惑に抗しているからです。罪それ自体は完全無欠の純潔、「テミムート(清浄心)」を破壊することはありません。
(この「テミムート」は「私たちは行います」が「私たちは聞き従います」に先行する順序の中に表現されています。)
問題になっている罪は確かにある誘惑の後に犯されたものではありますけれども、誘惑によって誘惑されておりません。
つまりこの罪は善いことと悪いことを見分ける確信そのものを問題にしたのではなかったのです。
冠はなく、勝利を知らない悲痛な罪ではありますけれども、良心の咎めと改悛の気持ちがなかった科によってこの罪を受けることになったのですから、罪を犯した者には立ち直る道があります。
「私たちは行います、そして私たちは聞き従います」と言う者たちにとって善を奉じることは善と悪との間の選択の結果ではありません。善悪の選択に先んじて善を承認していたからです。
善の無条件承認。
悪はこれを蝕むことはできますが、破壊することはできません。
・・・・
先ほど問題にした定式の中での「行うこと」は単に「観照(テオリア)」も対する「実践(プラクシス)」を言うのではありません。
そうではなくて、可能なところから始めることをせずに現実化すること、自由な選択という特権を介せず暴力を脱すること、の一つのしかたを言うのであります。
つまり善か悪かという二者択一に先立つような善との契約が存在するのであります。」(106〜08ページ/p.94f.訳は少し手を加えてあります。)

 教えをよく吟味もせずいきなり「行う」という受容の仕方では、誘惑されて堕落・没落してしまうことを阻止することはできないレヴィナスは述べる。
つまり、地獄への道は開いたままなのである。
しかし、そのような受容のは「誘惑の誘惑」に抗しているのだと述べる。
誘惑の挑戦に自分を試そうとする主体のあり方に対抗しているのである。
そのような主体のあり方、知のあり方が「ヨーロッパ的な知」「哲学」なのだとレヴィナスはこの註解の前に延々と述べている。

 単に無自覚に誘惑されて地獄への道を歩む者には、「立ち直る道がある」。
まず教えを「行う」者は、善を「無条件承認」しているのであるから。

 このような「誘惑されて悪に堕する者」と「誘惑に誘惑される(試される=誘惑におのれを試す)者」と区別は、浄土教の伝統では五逆の罪を犯す者と正法を誹謗する者との区別において現れている。

タルムードと同じころ成立している曇鸞の『浄土論註』では次のように論じられている。

「たとえば、仏もなく仏の法もなく、菩薩もなしという見解を自らに抱き、また他から教えられた考えにしたがって、その誤った見解を心にきめてかかるのを、すべて正法を謗るというのである。」
「そなたはただ五逆の罪の重いことをだけを知って、その五逆の罪が正法のない、法(ダルマ)の否定の見解から生じていることを知らないのである。だから正法をそしる人の罪は、もっとも重いのである。」(『浄土論註』「八番問答」より、神戸和麿訳、『無量寿経優婆提舎願生偈註』、東本願寺出版部、2006年より)

 そして、「歎異抄」の親鸞の次の言葉は、あきらかに、たとえ地獄への道にあろうとも念仏の行を行うことを優先する者の救いつまり涅槃寂静を述べている。

「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかは別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはべるらん。総じてもて存知せざるなり。
たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏申して、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。
いずれもの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

 煩悩に身を焼かれる人間を救うのは仏の差し向けた絶対善である念仏のみである。
その念仏を点検・理解しようという試みは、仏を無視した邪見・驕慢なる振る舞いであって、「正法を誹謗」することである。
それはレヴィナスの文脈で言えば「誘惑に誘惑」されておのれを試そうとするヨーロッパ的知ということになる。
全てを点検して自分の知のもとに知行しようとする知である。
そのときその主体自体は変容することはない。
(おそらく、すべてを「同一性」の元に包摂する自己完結的ヘーゲル的な知がイメージされている―もちろんそのようなレヴィナスのヘーゲル理解に異論はあるがそれはまた別の話である)

 しかし、一念を喜びそれに愛着する心は、煩悩を断ぜずとも、涅槃を得ることができるのである。
仏という他者に開かれているからである。
そのとき、その教えを差し出す者への有責性つまり応答する者としてはじめて主体が形成される。
親鸞でいえば報恩的主体の誕生である。

 親鸞とレヴィナスは同じ問題を論じている。
教えを前にした主体の問題である。

 冒頭に引用した「歎異抄」の「よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の仔細なきなり」という箇所で、「主体」を考えるとき、我々は二通りの主体を考える。
「無邪気な主体」と吟味・理解をもってはじめて行動する「知的な主体」である。
親鸞は「法然上人に騙されても後悔しない」と述べる。
このとき我々は、この主体はあまりにも無邪気すぎないか、という思いに駆られる。
もっと教えを吟味し、そして理解した上で受け容れるかどうか決断すべきではないか、と思っている。

 しかし、親鸞もレヴィナスも、そもそも教えが与えられる以前の主体の成立を認めない。
教えを行じてはじめてそれを信じる主体が成立するのである。
他者に対しての有責性の担い手として、報恩の実行者として、はじめて主体が成立するのである。
ちょうど我々が、言葉を授けられることで始めて「わたし」となったように。
もしもそれ以前に主体があったとしたら、その主体は変容し忘れ去られてしまっているはずである。

 ゆえにそのような主体は優れて倫理的な主体である。
だから、この世においても他人のうちに他者を見出して行くことが要請されるはずである。
そこに世俗における倫理の可能性があるはずだ。

 しかし、そうだからと言って、その宗教=倫理的主体にとってすぐさま娑婆が浄土化されるわけではない。
この世は、そらごと・たわごとが満ちた火宅無常の世界である。
そこでは煩悩具足の一市民として行動することになるのであって、一念喜愛心があるからといってすぐさまエゴイズムが克服されているわけではない。
ところがそのようなそらごと・たわごとの充ちた火宅無常の世界を棄てて、急ぎ浄土へ行きたいという心が起こるわけでもない。
歎異抄の親鸞のように「浄土は恋しからずそうろう」と言ってしまうのが人間なのである。

 そういうことを忘れて、信仰を持てばエゴイズムが克服されるかのように説教してはいかんなぁ、とお坊さんの私は激しく反省するのでした。
今までそんなことを言ってたら、スミマセンデシタ。
posted by CKP at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月23日

15,16,17と・・・・徳永英明いよいよ昭和歌謡曲へ

60歳前後のオジサンに
「15,16、17と・・・」
とふると、オジサンたちは、パブロフの犬のごとく即座に
「あたしの人生、暗かった」
と応じます。
これはもう、太陽が東から昇る如く確実なことであります。
わん、わん、わん。

 ほんとはそれほど暗くはなかったのだけれども、1970年、藤圭子の絶唱「圭子の夢は夜ひらく」の二番の歌詞で、オジサンたちのアタマには「15、16、17と私の人生暗かった、過去はどんなに暗くとも夢は夜ひらく」と刷り込まれているのでありました。
わん、わん、わん。
(ちなみに藤圭子とは、あの宇多田ヒカルのおっ母さんでありますね。)

 その「圭子の夢は夜ひらく」を徳永英明さんがいよいよカヴァーなさいます。
今までユーミンとか中島みゆきらを中心としたいわゆる「ニュー・ミュージック」系の女性歌手のカヴァーで「ヴォーカリスト」シリーズを4枚発表して来られた徳永さんが、ついに保守本流・昭和歌謡曲のカヴァーに突入されるのであります。
5月30日のアルバム発売に先駆けてシングル盤が発売になりました。

 しかし、昭和風に言えば、A面は何と予想を裏切って「人形の家」。
う〜ん、渋い! 
どこがどう「期待を裏切って」なのか、どこがどう「渋い」のか、ご説明したいのは山々なれど、いかんせん、そんなものどなたも興味ない(よね)。

 弘田三枝子がこの曲を唄ってカム・バックしたときの衝撃とか、何とも言えぬヨーロッパ風の曲調とか、「人形の家」というタイトルにみんな「???」となったこととか・・・
それに、今、この曲をカヴァーするセンスの絶妙さとか・・・・
興味ないと思うので書きませんけどね。

 そしてB面、ついに「夢は夜ひらく」。
ナイト・ライツまたたく夜の新宿の雰囲気(たってよく知らんのだが)が懐かしうれし!

 今まで、この曲のベスト・カヴァーは山崎ハコでありました。



 1994年『十八番』(「おはこ」と訓ませる、ちょっとトホホなタイトルですけど)に収録。
もともと暗い歌を、暗い歌を唄わせたら抜群であった山崎ハコが唄う。
が、浅川マキほどの底なし沼ではないところがミソです。
荒木一郎の「今夜は踊ろう」とか堺正章の「さらば恋人」などはさらっと可愛く唄っていてとてもいい感じです。
が、鹿内孝の「本牧メルヘン」のカヴァーは、もう夜の絶望へまっしぐら。
なにせ「本牧で死んだ娘はカモメ」になっちゃうんだから。
「ジョニーもスミスも海鳴りに向かって」叫んじゃうんだから。
自慢じゃないが、わたしはこれを聴けばいつでも泣けます!(どうせオイラは泣き虫さ!←なんだか居直ってますけど・・・なんかあったんか?)



というわけで、この山崎ハコさんのアルバムは昭和歌謡のカヴァー・アルバムでは、ベスト3に入るものです。
あとの二つは、雪村いずみ+キャラメル・ママの『スーパー・ジェネレーション』(これは同時に服部良一のトリビュート・アルバムです)と近田春夫とハルオフォンの『電撃的東京』(平山三紀「真夜中のエンジェル・ベイビー」のカヴァーがベスト)でありませう。

 その牙城を脅かすのが、今度の徳永英明さんの『ヴォーカリスト・ヴィンテージ』!
ザ・ピーナッツの「ウナ・セ・ラ・ディ東京」あたりが収録されていると感涙にふるえるのでありますが・・・
基本的には女性歌手の唄った1970年前後の昭和歌謡カヴァー集のようです(池上タヌキ先生はすでに曲目をチェック済み!)。
「バス・スットプ」(ホリーズじゃなくて平浩二)とか「雨のバラード」(スウィング・ウエスト→湯原昌幸)とか「私鉄沿線」(野口五郎)とか男性歌手もカヴァーして欲しいですね(←たんなるカラオケおやじのラインナップであるな、これは)。

 いずれにせよ、「スタンダード」として、保守本流・昭和歌謡の名曲が、いろんな形で唄われるのはうれしいことです。
「同じ」曲が「違う」歌唱で歌われて、そのいろんな側面が味わえるというのは楽しいことです。

と、たんなるカラオケおやじになってカヴァー・アルバムを考えるときでさえ、「同じ」と「違う」の対立概念で考える私は、『哲学してみる』を今日も離さないのでした!

 ま、単純に、なんであれ、昔のものを大切にするというのは、これからの時代、大切なことですね。
ああ、なんだか、浴びるようにムード歌謡コーラス、ロス・プリモスとか東京ロマンチカとかが聴きたくなってきたぞ。「七色の虹が消えてしまったのぉ〜」って。
posted by CKP at 19:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月21日

同じだ!――さっそく哲学してみた

 金環日食、見ましたか?
やはり、ちょっと興奮しましたね。
あたりが妙な明るさになって来て太陽が欠けてゆくというのは、古代の人なら、ほんと、びっくりしただろうな、と思いました。

 さて、話は昨日のこと。
昨日は午後から境内のつつじの剪定。
また来年もきれいな花を咲かせてねと、剪定バサミでチョキチョキと刈り込んでゆく。
ぐいぐい伸び瞬く間に葉を茂らせたつつじを刈り込み、風通しを良くする。
つつじ君たちもふうーっと一息入れたように、涼しげになりました。

 剪定しながら、去年は剪定する時間がなく夏に植木屋さんにたのんだなぁ・・・と思いながら、「同じ」と「違う」ということを考えた。
対立する概念を考えたのでした。
さっそく『哲学してみる』を実践してみたわけである。

 剪定の時期は去年と違う。
しかし、つつじは去年と同じように花を咲かせ、にょきにょきと枝を伸ばし葉っぱを茂らせてゆく。
太古の人たちは、そのような季節の変化を見て「これはかつて見た風景だ。ワシは体が弱ってきて、子どもたちは大きくなったが、この風景は今まで何回か見たぞ。違うけど同じだぞ」と季節やその一回りの「一年」を発見したのだろう。

 おそらくはじめに「同じだ!」という発見があった。
しかし、それは「違う」を背景にした発見だった。

 いったい何についての「同じだ!」が最初に来たのだろう?
季節だろうか?
食べ物だろうか?
この獲物は昨日獲った獲物と「同じだ!」
それとも人物だろうか?
あの大きな男は、ひょっとして隣の部族のウンガガではないか?
小さな男の子だったのに、大男になった。
違っているけど、同じウンガガだ!とか・・・

 あっ、ワンワン!いいえ、あれはニャンニャンよ。
なかなか「同じだ!」というのは難しい。

 そんな中で「同じだ!」と確認できるのは、どこか安心する。
が、確認される対象にとっては「味噌も糞もいっしょにするな」と言いたくなる場面もある。

 音楽も、「同じ」が繰り返されると安定する。
「同じ」が「違う」を交えながら、繰り返されると楽しい。
ソナタ形式とは、その「同じ」と「違う」が絶妙の形になったものだろう。

 同じと違うがいいバランスで繰り返される安定した日常で、太陽が突然欠けだしたら、びっくりしただろうと思う。
こ、こんなことは今までなかったぞ。
いや、爺さんが子どものときその爺さんからそんなことを聞いた、とか言ってたぞ。
その年は、獲物が獲れなんだそうじゃ・・・・

 というわけで、今日はいつもとは「違う」ことがおきて、みんな興奮したわけでした。
posted by CKP at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月19日

対立をイラストで考える――村山保史監修・訳『哲学してみる』発刊!

Brenifier001.jpg

 我が大谷大学哲学科の村山保史先生が監修と翻訳をなさった、「哲学絵本」と言ったらいいのか、「哲学イラスト集」と言ったらよいのか、『はじめての哲学 哲学してみる』が発刊されました。
もう一人の訳者は藤田尊潮氏。

文を書いているのはフランスの哲学者で教育者オスカー・ブルフィエ。
イラストはジャック・デプレという人。二人はこの本でいろいろな賞を受けている。

 文は「一と多」「自由と必然」「わたしと他者」などの対立概念をシンプルに記述して、そして読者にグイッと問いかけるというもの。
答えが書かれているのではなく、哲学的な問いが日常のいろんなところに潜んでいるのを呼び出し、読者に突きつけるスタイル。
はっきり言って子供向けの絵本ではない、と思う。
少なくとも高校生以上。

 イラストは、さすがフランスの絵本。
洒落ています。
が、ロートレックとかローランサンの方向に洒落ているのではなく、花の都にニョッキリ建ったエッフェル塔とか、やっとできた国民車だったCV2とか、チョッとメカニックな感じで洒落ているのである。
そして、文とイラストの関係を「なんでこのイラストなわけ?」って考えねばならない仕組みになっています。

 世界文化社より1,900円で発売中!
posted by CKP at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月17日

誘惑の誘惑――レヴィナスと親鸞

 一昨日は、真宗教学学会の福井大会というところで一席お伺いをした。
仏教学の小川一乗先生や真宗学の安富信哉先生など錚々たる方々の前で、真宗や親鸞に関することをお話せねばならないのである。

そこで私は考えた。
武蔵のように考えたのである。
若い時なら、自爆テロの如く、新説・奇説を唱え仏教学・真宗学なにするものぞ、と勇ましく突っ込んでいったであろう。
しかし、私も耳順もまぢかの58歳である。
不用意に突っ込んで行って、地雷を踏んで自爆するなどという愚かなまねはできない。
地雷を踏むことなく親鸞あるいは真宗について語るにはどうしたらよいか?
無い知恵を振り絞って考えた。
う〜ん、う〜ん・・・・

 というわけで、仏教学徒、真宗学徒のほとんどの方がご存じない、レヴィナスの、それも哲学ではなくユダヤ教に関する思想をご紹介して、それを親鸞の思想と並べるという反則の大技を採用することにしたのである。
レヴィナスの『タルムード四講話』の中の「誘惑の誘惑」という、トーラーがシナイ山で授けられる場面を註解する「タルムード」をこれまたレヴィナスが註解する講話を延々と引用するという荒技である。
みなさん「こやつは、いったい何をはじめたんだ?」と怪訝な顔で聴いておられる。

 しかし、これを『歎異抄』の第二条の「法然上人にたとえ騙されても後悔はしない」という教えを受け取る場面と並べて読むと、あら不思議、両方の難所がくっきりと浮かび上がるのですね。
話していて大変面白かった。
なるほどなぁ、と思いながらお話したのでした。

 幸いなことに、お聞きいただいた方々も、それなりに喜んでくださったようで、打ち上げの会で「天使の誘惑」(@黛ジュン)を唄うべきだ、とマイクを回してくださいました。
20年前にカラオケで失敗してそれ以来カラオケを封印していた私ですが、ついついI楽先生やO田先生にのせられて唄ってしまいました。
が、やはり「教えは勅命によって授けられる」という発表の趣旨からは、「俺の話を聞けい!」とクレイジー・ケン・バンドの横山剣さんが唄う「タイガー&ドラゴン」を唄うべきではなかったかと後悔している私です(←「いやだいやだ」と言いながらマイクをいったん持つと離さないタイプです、わたし)。

(なお内田樹先生が訳された『タルムード四講話』は現在、アマゾンの古本市場で見ると18,000円くらいの高値になっています。再販の予定は今のところなさそうですので、発表の時に引用した部分だけも整理してボツボツとこのブログで紹介してゆきます。)
posted by CKP at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月14日

なぜ牛はわらじを履いたのか――タダオおじさんのドナ・ドナ

 昨日、ある檀家さんのご法事の後での食事のとき、タダオおじさんから昔の農作業のことを聞いた。

 私が小学生のころは、村の若い衆であったおじさんだ。
うちの庭にお隣の牛が逃げ込んできたり、お馬さんが道にぽっとんぽっとんと馬糞を落としたり、学校に行く道すがら生まれだばかりの子豚を見に行ったり・・・
それからもう50年余り。
私も58歳にもなっているのだから、タダオおじさんはもう80歳に近いお爺さんである。

 タダオおじさんは7歳でお父さんを亡くされ、その後お祖父さんから農作業を仕込まれた。
勉強したくても出来なかったから、自分の子どもたちには、どんな無理をしてでも勉強させてやりたかった――それくらい幼いときから働いたそうだ。

 春といってもまだ田んぼに氷が張っているころから、田起こしが始まる。
牛と一緒に冷たい田んぼに入る。
あまりに冷たくて、田んぼにつけた足を思わず引き上げるとお祖父さんからどやされたそうだ。
そうやって何日も牛と一緒に朝早くから田起こしをする。

 しかし、一日中、田んぼにつかった牛のひづめは柔らかくふにゃふにゃになる。
田んぼから上がって砂利道を歩こうとすると痛くて歩けない。
だから、田んぼから上がると牛にわらじを履かせたのだそうだ。
「わらじを履かせてくれろ」と牛は自分から4本の足を順番に上げる。
オー、よしよしとわらじをはかせたそうだ。
翌日、田んぼに入る前は「わらじを脱がせてくれろ」と足をあげるのだそうだ。
「よう働いてくれた」とタダオおじさんは懐かしそうに、愛しそうに語る。

 しかし、働き者の牛も何日も続く農作業で疲れきって、朝起き上がってこないことがある。
そんなときには、そのころは貴重な玉子酒を作って、寝る前に牛に漏斗で飲ませる。
すると、翌朝はしゃきっと牛は起き上がってくるのだそうだ。

 その後、そういえばあのころは残飯は豚を飼っている家を持っていった、その糞は肥やしにした、ゴミなんか出んかったなぁ・・・などというエコロジーな話になった。

 電気器具もガソリンを使う農機具もクルマもほとんどなかった。
ほんの50年ほど前の話である。

――という話をブログに書き付けるのもなんですけど・・・
posted by CKP at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月10日

レイ・チャールズはR&Bの旧約聖書です――ウィリー・ネルソン&ウィントン・マルサリスfeaturing ノラ・ジョーンズのレイ・チャールズ奉賛アルバム『Here We Go Again』

 58歳の誕生日の自己言及的祝賀的贈与として諏訪内晶子さんのアルバムの他に、もう一枚購入。

 アウトローなカントリー歌手ウィリー・ネルソンと
ジャズ界の貴公子と呼ばれ久しいトランペッターのウィントン・マルサリスが
今をときめくアメリカの歌姫ノラ・ジョーンズを迎えてのライブ・アルバム。
それもレイ・チャールズを偲んでのライブ。

あのUnchain My Heart も Hit the Road Jack(旅立てジャック)もそして What’d I Sayも唄われる。
2009年のライブ当時76歳のウィリー・ネルソンのヴォーカルが中心。
往年のレイ・チャールズの迫力を期待するとちょっと肩透かしをくう。
しかしそれとは違う何とも言えぬウィリーの脱力ヴォーカルが気持よい。
それにマルサリスの折り目正しいトランペット、ノラのおきゃんなヴォーカル。
一曲でもいいから映像も観たくなるライブです。

 「旅立てジャック」をはじめて聴いたのは、小学生のころだったろうか。
Hit the road jack, and don’t you come back no more no more no more という出だしのコーラスを「モノ・モノ・モノ」と唄ったのを思い出す。
もちろん、恋に破れて旅立つのだが、今回、聴き直してみて気がついた。
この旅立ちには、やはり旧約聖書のアブラハムの旅立ちが遠くこだましている。
「やはり」というのは、レイの歌の基盤には黒人霊歌があるからだ。
どこへ行くのか、帰って来られるのか分らないが、神の命令に従って旅立つアブラハム。
そんな姿がジャックに重なるのである。



ふられた女性から解放を意味するUnchainという言葉にしても、苦難の歴史を歩むユダヤ民族とアメリカの黒人の歴史か重なり合っているのが明らかだ。
レイの活躍した50年代60年代というのはまだまだ黒人ミュージシャンの地位もひどいものだった。
そして、コール&レスポンス・ソングの古典What’d I say。
「ヘ〜イ(ヘ〜イ)ホ〜オ(ホ〜オ)ヘイ(ヘイ)ホオ(ホオ)ヘイ!(ヘイ!)ホ!(ホ!)What’d I say!」ってやつ。
Responsibilityてことですね。



というわけで、レイ・チャールズというのはどこか旧約聖書的なのである。

 それに対して、次の世代のスティーヴィ・ワンダーの場合は、誇り高きアフロ・アメリカンとして愛を唄う。
同じ黒人霊歌を基礎にしているにしても、どちらかというと新約的なのである。
それがどうしたと言われると困っちゃうけど、なんかひどくいろんなことが一挙に納得できたのでご報告まで。

 ちなみに、この組み合わせ、日本で言えば、アウトローな演歌歌手・小林旭とジャズ・トランペッターの近藤等則に坂本冬美が加わって坂本九を偲んでのライブといったところでしょうか。
ほんとに、よく分かる例えですこと!
posted by CKP at 18:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月08日

顔の輝き――あるいは本の買い方

 私たちはどうやって未知の作者の本を買うのだろう。
信頼する人の薦めによって。
講義のときの指定によって。
新聞や雑誌の書評によって。
しかし、ときに何かの拍子に誰の薦めにもよらず、装丁や作家の顔写真に何かを感じてふらふらと買ってしまうことがある。
ひどい時には「私を読め」という声が聞こえたりして買ってしまう。

 津村記久子さんの場合。

「シモーヌ・ヴェーユのことを初めて知ったのは、ネットの人名辞典を閲覧していた時のことだった。著名人を享年ごとに整理しているそのサイトに載っていたヴェーユの写真は、よく見かける、帽子をかぶって長いコートをきているぼやけたものだった。間抜けな所感かもしれないが、わたしはその写真を見て、今の人みたいだ、という感想をもったのだった。この人はかわいいし、いいコートだなあとも思った。それでなんとなく本を買いに行った。そこから今に至る。なんら思想的な所からの導きはなかった。そのヴェーユを読むことは、今のわたしの中で、大きな部分を占めている。」
(2009年『春秋』8・9号、「ひどく寒い日の光」。以前のこの文章の全文を写したのをアップしている。http://tetsugakuka.seesaa.net/article/129040695.html

 「今の人みたいだ」「かわいいし、いいコートだなあ」というのは確かに「間抜けな所感」である。
メガネの奥の目には深い英知がたたえられていた…とかいうのではない。
なんだかぼんやりと「いいなあ」と惹かれた、ということであろう。
そして、すぐに「なんとなく本を買いに行」という行動がある。
そして、いつも手元に持っている。

「読むわけではないのだが、ヴェーユの考えたことが鞄に入っているというだけで、いくらか安心した。これでいつでも失望できると思っていた。・・・自由になるのだ。幸福か不幸かも、強いか弱いかも一切問わない、本当の自由が自分の中を通って行く。」

「本当の自由が自分の中を通って行く」

 よい表現ですね。

 私という主体があって、その主体がヴェーユを読んで自由にふるまう、というのではない。
ヴェーユを読むことで、自由がやってくるのだ。
それはふつうの「自由な主体」というイメージからすると、ヴェーユに縛られているだけで自由でもなんでもない、ということになるかもしれない。
そもそも、「いいなあ」と思って、「なんとなく」本を買う、というところから、主体性が放棄されている、とも言えるのである。
自分で内容をある程度検証し、読むに値するという判断のもとで購入に及ぶべきである。
そうゆうのが、望まれる「主体的な人間」であるし、今の社会では「賢い消費者」である。

 しかし、そのような「自由な主体」に、本当に本が読めるのだろうか?
購入に値するという自分の判断は正しかったか、この著者の書いていることは正しいか、そんなことばかりを考えながら、本は読めるのだろうか?
読めたとしても、自分の判断基準は変化するのだろうか?
成長はあるのだろうか?
もちろんいつも読者はいつも成長せねばならい、ということはない。
自分の判断基準を寿ぐ読書というのもあっていい。

 しかし、自分の判断基準の固まる以前、あるいはそれを差し置いて、本を読もうというのはどういうことなのだろう。
それは、「呼び掛けられる」としか言いようがない事態なのだろう。
顔を通じて声が聞こえるとしか言いようがない事態。

 いきなりの「仏説無量寿経」で恐縮であるが、阿難が説法を聞く前に立ち上がり「世に尊いかたよ!今日のあなたのお顔はキラキラと輝いておいでです」というようなものである。
説法の内容を聞く前に大絶賛しているのである。

 いきなりのレヴィナスで恐縮であるが、

「真理との直接的関係は、真理の内容、真理の理念に関する先行的検証を排除するものであり――つまりこれが啓示の迎え入れということなのだが――それゆえ一個の人格、すなわち他者との関係以外の何ものでもありえない。トーラーは一つの顔の「輝き」のうちに与えられます。他者との公現とはただちに他者に対する私の有責性へと通じます。」
(『タルムード四講話』内田樹訳、国文社、1987年、116ページ、Quatre lectures talmudiques,Les Edition de Minuit,1968,p.103f.)
 
 「有責性」というとなんだかしんどそうだが、元の言葉は「responsabilité」つまり応答する能力である。
呼びかけに「ハイ」と応じること、そしてそのような呼びかけとして顔が出現すること、それは「自由な主体性」が形成されるはるか昔の出来事である。
その呼びかけは、母の顔から発せられたか、父だったか、おばあちゃんであったか、兄ちゃんであった・・・・
あるいはモーセであったか、法然であったか・・・・

 その呼びかけに応じ、その教えに聞き従うことで、「わたし」になってきた私は、大人になっても、ときにその物語を反復するのである。
しかし、ヴェーユとかレヴィナスとか、ちょっと読んだだけではさっぱり分からないものから呼び掛けられるというのは、不思議と言えば不思議。
当然と言えば当然。
しかし、「タルムード講話」なんていうのを訳そうなどという「応答可能性」というのは、やっぱり異常です。
ふつう少し訳して、「わ、わ、わからん」って放りだしますもの。
つまり、内田先生は、レヴィナスに応答しながら、その応答のよって来たる所以をカリカリと訳しておられたことになるわけです。
ヴェーユにしても、「なんとなく」『重力と恩寵』買ってきても、2,3行読んだら「わ、わからん」と放り出します、ふつう。
しかし、心の糧を求めるようにヴェーユを読むことで、津村さんも心の糧が何なのかを読み取っておられるように思います。

 と、こうゆうことを書いてきて、なんだけど、わたくし、このあいだ58歳になったお祝いに、つい諏訪内晶子さんのCD(ブルーレイ付き!)というのを衝動買いしまいました。
そしたら、諏訪内さんのお写真が印刷されたクリア・ファイルもおまけで貰いました。
うれしはずかしオジサン買いです。
これも「顔に対する応答」でしょうか?
それともCKP58カドワキは、単に美人に弱いということなのでしょうか?

posted by CKP at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする