2012年01月31日

追悼・箕浦恵了先生――哲学とヴァイオリン

 昨年の暮れ、12月16日に哲学科の名誉教授箕浦恵了先生がなくなった。
癌を患われたというニュースを11月の末にお聞きしたばかりであった。
享年76歳。

 箕浦先生のご専門はギリシャ哲学。
ドイツではハンス・ゲオルク・ガダマーのもとで学ばれた。
原典の精密な読みを大切になさる先生であった。
著書に『ギリシャ語古典文法T』(文栄堂)
訳書に『古典期アテナイ民衆の宗教』(ジョン・D・マイケルソン著、法政大学出版局)
『哲学のはじまり――初期ギリシャ哲学講義』(ハンス・ゲオルク・ガダマー著、同上)がある。
が、厳しいだけの先生ではなかった。
ものすごい読書量で専門外のさまざまなジャンルの本も読んでおられた。
沢木耕太郎の『深夜特急』なども「面白いですね」とニコニコしながらさらっとおっしゃっておられたのにはびっくりした。

 ただ未だにうまく飲み込めないところがあったので、追悼の記事を書きたいと思いつつ、四十九日も近付いた今頃までぐずぐずしていたのである。

 先生の大谷大学での大きなお仕事にドイツのマールブルク大学との仏教とキリスト教の学術的対話の推進ということがある。
そのときどういうわけか私を助手に指名してこられた。
ドイツ留学の経験もなくドイツ語会話も満足にできず、仏教学の専門でもない私はただひたすら荷物持ちをしていただけであった。
が、とにかく第一回目のマールブルクでのシンポジウムが無事終わって宿で打ち上げをしているときであった。
少しワインなどを飲んで、「箕浦先生はヴァイオリンをとるか哲学をとるかと若かりしころ悩まれたそうですね」という話になった。
そのとき、「どのようなヴァイオリニストがお好きですか」とお訪ねしたのであった。
ヴァイオリンを捨てて哲学の道を歩んでこられた先生であるから、ヨーゼフ・シゲッティあたりの精神性の強いヴァイオリニストかなと予想していたのであるが、先生から出た名前は意外にも、
「ジノ・フランチェスカッティ」。
あのパガニーニの直系つまり超絶技巧と美音の系統のヴァイオリニストなのである。
たまたま私も好きなヴァイオリニストだったので( というか他をあんまり知らなかったので)
「私も好きです」
とお答えしたら、「おお」とうれしそうに握手してこられた。
そのときの手の感触が今でも忘れられないのであるが・・・

 そういう超絶技巧系のヴァイオリニストとギリシャ哲学というのがすんなりと結びつかないままであった。
それで、『古典期アテナイ民衆の宗教』を手にとって「訳者あとがき」を見ていたら次のような文章に出会った。

「ギリシャの悲劇詩人たち、そしてソクラテスはそれぞれどのような独自の宗教観、信仰を生きかつ死んだのか、その独自の思想を照明しようと考えるならば、かれらが生きた時代の市井の人々の宗教、その習慣を描き出しておくことは研究の手順として必須の前提であることは明らかである。
(中略)
 ギリシャの碑文(Inscriptiones Graecae)とか弁論作家の作品などを検討しながら本書の訳業を進めたため、完成に長い期間を費やした。・・・・」

「研究の手順」とか「作品の検討」とか学問の基礎的作業を大切にしておられた先生のお姿が思い出される文章であった。
学問の基本的な作業をないがしろにして精神性だけで論ずることを許さない・・・そんなところがファランチェスカッティというヴァイオリニストとつながるかなぁ・・・
つまり学問のスタイルとしてフランチェスカッティの演奏スタイルを受け継いでいる。
チョット無理やりかなぁ。
先生、間違っていたらすみません。

「そんな、無理やりくっつけんでもええよ」
と先生の声が聞こえるような気もする。

合掌。
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2012年01月26日

東大の秋――「一流」の思考法

 東京大学が秋入学をすると言っている。
世界の基準に合わせて、世界中から俊英を集めるのだという。
なんだかよく分からない話である。

 昨年この話が出てきたころ、たまたま中国の大学関係者とお話する機会があったので、「秋入学」について尋ねてみた。
すると、教員も学生もフンと鼻で嗤って言うのである。
「フン(とほんとに鼻で嗤ったのである)。入学時期の問題じゃないですよ。研究・教育の内容の問題です」
むしろ、入学時期がずれていたほうが、語学なのどの準備がしやすいのだそうだ。

 そうだろうと思う。
東大の世界的ランキングが下がって世界中からエリートが集まらない。
それならばエリートが学びたくなるような魅力ある大学にせねばならない。
研究・教育をどう改善し、それをどのように世界に伝えるか?
と考えるのがふつうだと思う。

 それがいきなり「秋入学」というのは不思議な思考回路だなと思うのである。
一流とは縁のないところで生きてきた私にはとても不思議な思考に思えるのである。
おそらくこのような思考回路なのであろう。

 東大は世界的にも優れた大学である。
しかし、世界中からエリートが集まらない。
なぜか?
それは入学時期が世界基準からずれているからである。
秋入学にすれば世界中からエリートが集まる。
めでたし、めでたし。

 しかし、「秋入学で世界中からのエリートが入学しやすい」ということは、「日本の大学が秋入学ならば、日本のエリートも国外の一流大学へ入学しやすい」ということである。
入学試験が3月までならばとりわけそうなる。
3月に東大入学の合格切符を得たならばそれだけで「日本ではエリート」ということが保証される。
ならば、入学が決まった春から秋までの間、国外の大学をいろいろ検討していきなり留学してしまう、という学生も出てくる。
遂に東大でも「定着率」を考えねばならなくなる。
MITにどれだけ逃げるでしょうかね?
ハーバードに何人行くでしょうか?
東大が「滑り止め」になってしまう日が来る。

 もちろん賢明なる東大の先生方はこのような可能性は検討されたでしょうが、「東大は一流大学」という前提のもとに「それはなかったこと」にされたのではあるまいか。
つまり「東大は世界では一流とは言えない」などということは、東大の先生方には考えられないのである。
そして、日本の一流大学ならば秋入学に賛同すべし、という論理が形作られてきている。

 グローバル化強迫症というのは、ひょっとしてきわめてローカルな病気なのではあるまいか。
それも、「俺は村中でいちばん!(@エノケン)」と思っている方々の、そしてそれが「村中でいちばん」でしかないということを「なかったことにする」方々の不思議な思考回路の症候なのではあるまいか?
一流だのエリートだのというステータスとは無縁に生きていると、「日本で一流」の方々の思考がよく分からないのである。
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2012年01月20日

卒論試問はカツオに学べ!?――叱られ上手も芸のうち

 京滋地区私立大学学長懇談会というところに学長の代理で出席してきた。
そういう場で、コール天のズボンにツイードのジャケット、ニット・タイという軽薄な服装は、見事、私だけでした。
私としてはネクタイをした、というだけでもフォーマルということでしたが。
皆さん、きちんと紺色のスーツの学長様方でした。

 本日は京都銀行取締役会長の柏原康夫氏の「京都銀行が求める学生像」というお話を拝聴するという会。
銀行の「取締役会長」というのはたぶん銀行でいちばん偉い人だと思う。
が、柏原氏はいばったところが微塵もなく大変フランクにお話をされておられた。
ご自分の生い立ち、入行つまり就職の経緯を交えて、どのような学生を求めておられるのかを具体的に分かりやすくお話されていた。

 私なりにザックリまとめてしまうと、大学で何学部であっても、きちんとその分野の古典を学び幅広い教養と自分で考える能力を磨いてきた学生、ということであった。
「即戦力」とか「専門的知識」などに関する言及はなかった。
かわりに「叱られることに対する免疫力」と強調されておられた。
銀行などだと、お客様とのトラブルを上司に報告するのを叱られるのを恐れてネグレクトして傷を大きくしてしまう、ということはあってはならないこと。
これはどこの職場でも同じことであろう。
どうも職場では今の学生のひ弱さに困っている、ということらしい。

 これをお聞きして、やはりもう少し「叱る先生」にならねばならないかな、と反省。
というのは、先日、ある先生のところに卒業生が訪ねてきて卒論試問でコテンパンに叱られたことを「感謝」していたからである。
その卒業生は、卒論試問で30分の割り当て時間を大幅に超えて1時間以上ネチネチと苛め抜かれたという。
そのおかげで、社会に出てどんな理不尽な叱られ方をしても耐えることができました、というのである。

 私の場合、卒論試問というのは「一人の学生に二人の教員」という贅沢なゼミ。
そのゼミで、論文で問いたかったことをクリアにしようね、とわりとフレンドリーなスタイルで試問に望んでいる。
だから、最初は緊張したけど、濃密な議論ができて楽しかった、という感想を聞くことが多い。
しかし、もう少し「バカモーン!こんな論文で卒業できると思ってるのか!」とカミナリを落したほうが、学生のその後の人生の為にいいのだろうか?と迷いのモードに入ってしまいました。
来週の火曜日から始まる卒論試問、どうしましょう?
是は是、非は非、という(春日イッコーという)のが落ち着きどころでしょうか?
*( )内はわかんなくていいです。

( それから、会長さんは就職に当たっては「コキ使われそうな企業」を選ぶべき、つまり、今がピークの大企業よりも、これから成長する中小企業を見究めるべき、ということも強調されておられました。
巨大な都市銀に対して京都銀行はまだまだ地方銀行として成長するため「コキ使うぞ」ということなのでしょう。
そういう場で、自分で考えていろんな人の助力も引き出して問題を解決してゆく、そのような基礎力を持った学生を求めておられるようです。)
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2012年01月17日

2011年に聴いたり観たり――クラシックとかヴィデオとか

もう一回、去年を振り返ります。
 
 クラシック関係のCDでよく聴いたのは、このブログでも5月に紹介したイリーナ・メジューエワのシューベルトのピアノ・ソナタ集(若林工房から第一集・第二集と発売されている)。
ブログに書いたときと同じく18番ト長調のソナタが、やはり今でも私にはいちばん沁みます。
このソナタを他のピアニストでもいろいろ聴いてみましたが、やはり私にはメジューエワのピアノの音がいちばん好ましい。
ファルテで強く弾いても静かなのですね。
シューベルトのピアノ・ソナタを多く録音したリヒテルのこのソナタの演奏がないのが残念です。
逆に、リヒテルと同じく、グレン・グールドとマルタ・アルゲリッチという20世紀後半を代表するピアニストがなぜシューベルトの録音を残さなかったのか?というのも興味ある問題です。
今の仕事が終わったら、シューベルトをじっくり聴いてみたいと思っています。

あとは、サイモン・ラトルがベルリン・フィルを指揮したシェーンベルク編曲のブラームスのピアノ四重奏曲とシェーンベルク自身の室内交響曲などが収録されているCDも面白かった。
19世紀も後半になると神様に見守られている世界の安定した秩序が壊れてきて「気分」つまり「調性」が混乱してくる。
気分を長調や短調で描くのが困難になってきて遂に調性がエポケーされてしまう事態を、ブラームス×シェーンベルクという絶妙の組み合わせが浮き彫りにしているのを面白く聴きました。
宗教やイデオロギーを剥ぎ取られた音楽が、エロティックそしてついには不安としか言いようのない無調の音の連なりになるのが、面白いなぁと聴きました。

 あとはこれと言って集中的に聴いたCDは思いつかないから、クラシックではCDベスト3というのは完結しない。
で、ジャズと合わせてのベスト3ということで、池上タヌキ哲司先生ご推薦のジョヴァンニ・ミラバッシというピアニストのソロ・アルバム『AVANTI!』( 澤野工房)を挙げておきます。
世界各地の抵抗運動などでうたわれた歌を透明なピアノソロでさらっと弾いている。
戦いの歌のはずなのだけれども自分たちを英雄化するような歌ではない。
むしろ戦わねばならない悲しさが歌われているような感じ。
しかしやたらと悲劇的でもない。
べとつかない哀愁が気持ちいいアルバムでした。

 最後にDVDのベスト3は、まずは1月に書いたパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマー・フィル・ブレーメンのベートーヴェンの交響曲全集。
時々聴き直し観直しなおしますが、ホント、音楽をつくりあげていく場の雰囲気が気持ちいいです。
自主運営団体としてのオーケストラの軽やかさ、これは「小澤征爾×村上春樹」の対談本でも話題になっていました。
次は、その本でマエストロ小澤のお友達としても登場していた20世紀後半最高の天才指揮者カルロス・クライバーの伝記的なヴィデオ『I am lost to the world』というのが面白かった。
完璧主義者でキャンセル魔であったクライバーの謎の一端が垣間見えるヴィデオ。
これを観ると、2巻本の膨大な伝記も読みたくなる、というチョット困ったヴィデオでもありました。
あとは無理やりの3本目。
廉価版で再発されたウディ・アレンの『世界中がアイ・ラヴ・ユー(Everyone says I love you)』。
内田先生に『うほほいシネマ』で「君はセックスのことしか頭にないのかね」と書かれていたウディ君でありますが、この映画でもその通り。
しかし、そのようなウディ君も優しく包まれるラスト・シーンがなんとも微笑ましく幸せな気分になれる映画でありました。

 というような2011年でありました。
これでやっと新しい年に突入できます。

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2012年01月15日

2011年に聴いたロケンロール――久しぶりのトム・ウェイツ

 2011年にこのブログで取り上げたロケンロールを並べてみて、いまさらながら驚いた。
J.D.サウザー『Natural History』、ライ・クーダー『Pull up some dust and sit down』、Brian Wilson『In the key of Disney』。
すべて60歳以上のおっさんなのである。
これではならじと、小野リサさん(隣のお姉さんみたいな感じなのでついつい「さん」付けで呼んでしまう)の、『ジャポン』をあわてて加えた。
が、これとても昭和の名曲のボサノバ・ヴァージョン。
もっと、若人のロケンロールも聴かねば学生諸君と話が合わないなぁ、と反省。
そしたら、Brian Wilsonについて書いたブログ記事をチェックしてくださった鷲田清一先生から「トム・ウェイツの新しいCDもええよ」というお言葉をいただいた。
しかし、トム・ウェイツも60歳以上。
事態はまったく変わらない、というかますます加齢臭が濃くなってゆく。
しかし、鷲田先生とトム・ウェイツという組み合わせに興味しんしんしん!

 まずは、久しく聴いていなかったファースト・アルバム(1970年ごろだっけ?)『Closing Time』の一曲目「Ol’ 55( 懐かしき55年型)」を聴いてみる。
よし、大丈夫だ、もう胸は痛まない。

 遠い遠い昔、この曲を「いい曲ね」と言った娘おりました。
そして、振り向いて私に言ったのです。
「あなたもいい人だと思う。でも、ただのお友達でいたほうがいいと思うの」
爾来幾星霜、トム・ウェイツは私には鬼門であったのでした。
が、今はその「Ol’ 55」を聴いても、懐かしい想い出がよみがえるだけで、もう胸は痛まない。
むしろ、この体験のおかげで「でも」という逆説の接続詞の働きが良くわかったということだけが残っている(本当に言いたいことは逆説の接続詞の後にくるという文献解読の基礎の基礎。受験に必須の基礎知識!)

 何の話であったか?

 そうそう鷲田先生ご推薦のトム・ウェイツの最新盤『Bad as me』。
ブルーの色が基調のCDジャケット。
「ン?」
昔の黒っぽいジャケットではない。
どうしちゃったんだろう?
とにかく、購入して聴いてみる。
そしたら、いきなりバス・クラリネットやサックスの野蛮な咆哮をバックに、トムがますます磨きのかかったシャガレ声で唄う。

「it’s brave for us to stay
Even braver to go
・・・・・
I say goodbye to all that」

おお、永遠のローリング・ストーンよ。
いったいキミはどこまで転がり続けるのか?
だから(?)、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズと一緒にささやくように唄う「Last Leaf(最後の一葉)」が泣かせる。

「俺はこの木にしがみつき続けている最後の一葉。
・ ・・・
もしこの木が切り倒されても、俺は歌の中によみがえるさ」

ふてぶてしいまでの叙情性をたたえて、しぶとく唄う。
この世で唄っているのか、あの世から呼びかけているのか分からないよれよれの声で。
よれよれなんだけど、ホントに60過ぎたジイサンたちはますます力強い。
なんなんだろう?このふてぶてしくしぶとい叙情性は?

 何かに怒っているのか?
たとえば世の中や、やわな音楽シーンとかに。
私のような底の浅い人間は、ッタマ来ることがあると妙に元気になる。
が、これらのオジサンというかジイサンたちは、なんだか底知れない。
だから、単なる怒りよりも何かもっと深いものに突き動かされているのだろう。
怒りということだけで言えば、単に快を求めるだけの音楽に怒っている。
快の向こう側から呼びかけてくる何かに激しく反応しながら、唄を我々にむけて差し出しているように聴こえる。
ロックということは死ぬことと見つけたり。

 ニール・ヤングの爆音ロックとセンチメンタル・フォークか聴ける『Le noise』でも、ランディ・ニューマンが雨だれのようなピアノを弾きながら鼻にかかった哀しげな声で皮肉に満ちた歌を唄う『The Randy Newman's song book vol.2』を聴いてもそう思った。

 というわけで、昨年の私の聴いたロケンロールは、結局は、60過ぎたジイサンたちの円熟というのとはちょっと違ったロケンロールだったのでありました。
そういえば、我が大谷大学哲学科でも、鷲田・池上という還暦を過ぎてしまったお二人の先生がやたらと元気である。
ああ、私もはやく60になりたい!
というわけで今年もシェケナベーベー!

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2012年01月11日

2011年に読んだ本――考え込んだり、慰められたり・・・

 昨年読んで、考えさせられたり、興味深かったり、慰められたり、面白かったりした本を挙げておきます。
佐野洋子『死ぬ気まんまん』や鷲田清一先生の『「ぐずぐず」の理由』、内田樹先生の『最終講義』『「呪い」の時代』などなどは、何度か書いたりしているので、ここではとりあげません。

 震災関係では、石井光太著『遺体』(新潮社)が、丁寧なルポルタージュの圧倒的な力で一気に読まされ、また深く考えさせられました。
釜石市の遺体安置所を中心に、日に日に増えてゆく遺体を「遺体」として埋葬しようとする人々の努力が、一種の群像劇のような形で記録されています。
このルポに教えられたのは、生きている者の生活は死者を死者として受け容れることによってはじめて動き出すということでした。
たまたま生き残った者の責務としてたまたま津波にのまれてしまった人々の死に向き合い、弔う。
それは死者と共に生きるということの始まりでもある。
そのとき儀礼、死体を「遺体」として扱う何気ない行為をも含めた儀礼的な営みが大きな役割を果たすことを、多くの見ず知らずの死者たちに教えられたように読みました。
一方、安藤泰至編『「いのちの思想」を掘り起こす』(岩波書店)の安藤論文「上原專祿の医療・宗教批判とその射程」や脇坂真弥論文「田中美津論――「私という真実」を生きるということ――」では、「死者と共に生きる」ということの難しさ、あるいは「たまたま」授かったいのちを私のいのちとして受容することの困難さ(「有り難さ」でもあるが)が強調されていました。
なぜそのようなことになるのか?
この違いを、「いのち」に関わるこの二冊の本を読み比べながらじっくり考えたいと思っています。

 次に、仕事に疲れたおじさんが「疲れてるのは、あんたが悪いんやない」というキャッチ・コピーにふらふらと吸い寄せられようにして読んだ本。
津村記久子『ワーカーズ・ダイジェスト』(集英社)。
織田作之助賞の受賞した作品。

 主人公はおじさんではない。
31歳から33歳になってゆくワーカーズふたり。
津村さんの小説にしては珍しく、登場人物はいつものカタカナではなく漢字表記。
働くということは、職場や顧客の理不尽なふるまいにへとへとになりながらも、そのむこうになにかを見出し生きてゆくということ。
33歳になった主人公の一人は思う。

「去年と比べて、ますます体は重くなったように感じるけれども、少しだけ落ち着いたような感触もある。よくもないけど、悪くもない。特に幸せではないけど、不幸でもない。」

 この小説に登場する楽曲はほとんど知らないものばかり。
30歳前後の人が聴く音楽なのだろう。
しかし、ラストに流れる「ブエノスアイレス午前零時」というのはyouTubeで探してみた。
そしたら、ピアソラのチョット前衛的なタンゴ。
午前零時から夜明けまではまだまだ遠い。
しかし、自分の知らない別の世界の夜明けが近づいている、そんな感じの曲でした。

 もひとつフィクションで興味深く読んだのはジェラルディン・ブルックスという作家の『古書の来歴』(森嶋マリ訳、武田ランダムハウスジャパン)。
現実に存在する「サラエボ・ハガター」と呼ばれるヘブライ語の文書の来歴をフィクションを交えて展開したもの。
先のコソボ紛争のときにこの文書をサラエボの学芸員が守ったという史実から展開される。
14世紀ごろ、スペインのユダヤ教・キリスト教・イスラームが共存していたコンビベンシアと呼ばれる時代に描かれ(ヘブライ文書にしては珍しい細密画が描かれている)、異端審問、ユダヤ人追放、イタリアでのカトリックによる焚書、そしてナチスによる焚書をどのように免れてきたかが物語られている。
この本を読んでいると、「サラエボ・ハガター」のような稀こう本だけでなく、18世紀のドイツの哲学者の本を今の日本で読むのさえ、そこにその哲学者だけでなくどれだけの人の人生が関わってきたのか、と思わざるを得ない。
本を読むとは、著者のみならずそれを伝えた人々とも関わることなのだな、と強く思いました。

 以上がベスト3( +1)といったところですが、あと年末に読んだ立石泰則『さよなら!僕らのソニー』(文春新書)が面白かった。
ソニーというブランドが、グローバル化のなかでどのように瓦解してゆくかが、丁寧に描かれています。
なんだか、ひとごととは思えず、一気に読んでしまいました。
posted by CKP at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月07日

新年あけましておめでとうございます――今年も(大谷大学)哲学科教員ブログをよろしく

もう7日です。
遅ればせながら新年明けましておめでとうございます。
今年も、大谷大学哲学科教員ブログをよろしくお願い申し上げます。

 正月三ヶ日のお年始回りの疲れが出てまだボーっとしているCKPカドワキです。
この連休は毎日ご法事があって、クルマで走りまわっております。
そしたら昼過ぎのNHKのラジオ第一放送の「ホット人物ファイル」で「大谷大学教授の」という紹介が飛び込んできました。
誰だろう?と思って耳をすましたら「鷲田清一先生です」。
うあー、鷲田先生はもう仕事をはじめておられる〜。
鷲田先生はもう「ホット」に燃えておられる。
こりゃ、いつまでもブログをさぼってたらいかんなー。
という訳で、とにかく新年のご挨拶に及んだ次第。

 いろいろと書きたき事は多かれど、まだむらむらとブログ魂が燃え上がりません。
が、そのうち火がつくと思いますので、どうか本年もよろしく。
posted by CKP at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする