2011年11月29日

無駄あっての人間――ハムレットの不満、パリ・コレの憂鬱

『東洋経済』の「さらば!スキルアップ教」という、今度は「教養教」を宣布せんとする「おいおい今さらかよ」的特集の号を読んでいたら、「欧州ドミノ危機」という記事で「イタリア陥落、スペイン、フランスへ波及・・・」というフレーズに出くわした。
ラテン系にしてカトリック圏が経済危機に陥っているということである。
どんな発展形態であれ資本主義とラテンかつカトリックは相性がよろしくないというわけである。

 となると、ファッションの聖地のパリ・コレクションとかミラノ・コレクションというのはどうなるのか、とよけいな心配をしてしまう。
現在の金融資本主義にうまく乗れないこれらのラテン系の国々への敵意とファッションへの敵意が重なっていると思われるからだ。

 金融資本主義というのは、市場における徹底した効率化を推進するところに成立している。
商品交換にかかる時間やリスクに「価値」を見出し、それすらも商品にして効率化を図るのである。
そのようにして、デリヴァティヴだのヘッジ・ファンドだのと、わたしなんぞには、いったい何をさしているのかよく分からない世界が展開されるのである。
そのような「効率化」の視点から見ると、ファッションというのは基本的に無駄である。
服なんて局所を隠し、暑いときには汗を吸い取り、寒いときには暖かければよいのである。
色だの形だのフリルだの、そんなものは余計なものである。
また、フランス・イタリアといえば、料理である。
が、「効率化」の観点から言えば、栄養たっぷりのサプリメントを食べていればよい。
フランス料理みたいな微妙な味わい、イタリア料理みたいな楽しい歯ざわりなんてことはどうでもいいのである。
が、フランス人、イタリア人というのは、そういうわけには行かない人たちなのである。
着るものはやはり美しくなければネ。
食べるものもお洒落じゃなければネ。
しかし、これらの国の経済危機が発している警告は「そんな無駄なことやっている場合か!」ということなのである。

 これと類似の危機はシェイクスピアの時代にもあった。
ハムレットは母親の再婚の婚礼に際して、親友ホレイショーに嘆く。

「倹約、倹約だ、ホレイショー。
冷めた葬式用の料理が結婚披露のテーブルを飾ったんだ。」

 おそらく1600年前後のイギリスでも、カトリックとプロテスタントの間で、贅沢と倹約のせめぎあいがあったのであろう。
ハムレットはどうも倹約という当時の流行思想にご不満のようなのである。
しかし、その後のイギリスは倹約の精神を発揮して産業革命の中心地になってゆき、プロテスタント・ドイツも工業国になってゆく。
ゆえにこそ、そこにマルクスとエンゲルスの資本主義批判も生まれた。
それは、ハムレットまでさかのぼれば「反倹約」の精神なのかもしれない。
経済学説としては破産を宣告されてしまっているマルクスの労働価値説というのは、どう見ても、「価値」とは人間が手間とヒマをかけてリスクを背負い込んで作り上げるものだ、という非効率性をよしとする思想だからだ。
手間とヒマにこそ人間の営みの価値がある。
それを徹底的に効率化すれば、そこには具体的な人間の出る幕はなくなってしまう。
どうせ死んでしまう人間ならば、なるべく早く死んだほうが効率的ということになってしまうのである。
プロテスタント圏に自殺が多いというのも、現代自殺が増加しているということと考え合わせれば、倹約とか効率化というイデオロギーと関係があると言えるであろう。

 無駄があっての人間である。
ノイズがあっての音楽である。
栄養価の低いこんにゃくあってのおでんである。
○○あっての服である(ここは何が入るのでしょう?鷲田先生に訊いてみよう)。

 ヨーロッパ経済の正常化が、ラテン・カトリック文化を厄介もの扱いするような形で展開するとすれば、世界は確実につまらなくなるだろう。

posted by CKP at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月21日

ヨーホー/ハイホー、トラブルなんかへっちゃらさ――ブライアン・ウィルソンのディズニー・ソング集

 昨日の日曜日、大学の仕事が終わって久しぶりに安くて新鮮なお刺身が食べたくなり、四条のト一食堂で「ト一定食」を食べる。
その帰り河原町のタワーレコードに寄り、ブライアン・ウィルソンのコーナーで「In The Key of Disney」というこの10月に出たばかりの新譜を発見!
即購入。輸入盤で1500円也!( 国内盤は出ていません)

 更級日記の女の子のようにわくわくドキドキしながら帰宅するやいなや、プレイヤーにセットして耳を澄ます。

 一曲目。ゴキゲンにロックした「You’ve got a friend in me」。
ピクサーの「トイ・ストーリー」の主題歌。
作詞・作曲はランディ・ニューマン。
今は大学生の息子が小さいときに、何度も何度もいっしょに見たピクサーの傑作アニメ。
自分が「おもちゃ」であることを自覚しないバズ・ライトイヤーが私は好きだった。
「自分がなんであるか」を自覚しちゃったら、そりゃ人間だよ・・・というなかなか渋いテーマを扱っておりました。

2曲目はぐっと古くなって「ジャングルブック」から。
そして3曲目、「ダンボ」からジャンボが唄う「私の坊や」。
ライオンキングやリトル・マーメードなどの最近のアニメの曲もある。

そして圧巻は、ラストの3曲。
『メリー・ポピンズ』から「Stay awake」。
そして『白雪姫』の「ハイホー/口笛吹いて」と『パイレーツ・オブ・カリビアン』の「ヨーホー」を組み合わせた曲。
最後はもちろん『ピノキオ』から「星に願えば」(トップとラストの曲が人間になりたい人形の歌というのが面白いですね)。

 『メリー・ポピンズ』からだともっとにぎやかな曲がありそうなものだが「眠らないで」という選曲がブライアンらしい。
「星に願えば」はもうこれ以上はないという美しく暖かいファルセット・コーラスをバックにブライアンが歌う。
この歌のベストだと思う。
しかし、それ以上に、ディズニーの最初の長編アニメ『白雪姫』の「ハイホー」と最近の大ヒット『パイレーツ・・・』の「ヨーホー」を合体するというアイデアにはびっくり!
それが絶妙の形で組み合わされ、ほんとに楽しいリズムを背景に歌われてゆく。
どんな楽器(?)でこんな音がでるの?と思わずヘッドフォンで聴き直し、あまりの見事さに泣いてしまいました。
ほんと、口笛吹いてゆけばトラブルなんぞへっちゃらさ、という気になるのである。
なんでブライアンの音楽はこんなに優しいのだろう。

 そんなことを考えながらCDのジャケットを見る。
サーフボードを積み込んだワゴンの向こうの海に沈む夕日。
その夕日にはミッキーマウスの耳がついている。
コミカルだけれどもセンチメンタル。
カリフォルニアの海には夕日が沈むのですね。

 夏の終わりの海でしょうか?
もうサーフィンの季節も終わるのでしょうか?

ブライアンの公式HP。
収録曲がほぼ完全に聴くことができます。
http://blog.brianwilson.com/brian-wilson-in-the-key-of-disney/
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2011年11月18日

大学選びは、「急がばまわれ」――思弁と投機

 公募推薦入試の季節である。
受験生諸君はどのように大学選びをしているのだろうか?

 受験者の数の昨年比を見てみると二つの大きな流れがある。
来年度から新学部・新学科を開設する大学は、その学部・学科を中心にして去年よりも多くの受験生を集めている。
そのような動きのない大学は、昨年の90%から80%の受験生。

 ということは、受験生諸君は「新設学部・学科」を選ぶ傾向が強いということである。
もちろん、そのような傾向に動じない受験生諸君も多いが、大きな流れとしては「新設」のある大学へ学生の注目が集まるという傾向はここ数年の大きな流れである。

  しかし、まったく伝統のないところに、たとえば文系の大学にいきなり医療系の学部を作るというときでも、どっと受験生が集まるというのは、不思議といえば不思議なのである。
受験の時期が限定されているから「少し様子を見て」というのがなかなかできにくいということもあろう。
が、そのような新設学科を出ると人生に有利という判断が、どういうわけか「常識」に登録されてしまい、大学も受験生もそちらに動くというのが不思議といえば不思議なのである。

この傾向は、だいたい20年前くらいからか。
そのころは、「国際」とか「情報」というのがトレンドだった(これには我が大学も乗っかりました)。
次に「バイオ」とか「福祉」「臨床心理」。
いつごろからか知らぬが「経営」とか「金融」という学部・学科も登場し今も残っている(今年あたりは受験生が減っている)。
そして、現在は、看護・医療系と言葉として「グローバル」。

 自分の心の中を見つめてみて、本当にそのような学部・学科で学びたいという欲望がうごめいているのなら問題はない。
大学も、そのような学問を本当になすべきだと思うのならばどんどん新設すべきであろう。

 しかし、そこにはどこか投機的動機が潜んでいないか。
自戒をこめて言うのだが、そのことを今一度反省すべき時期に来ているように思う。

「投機」というのがいけない、というのではない。
我がヘーゲル先生などは、投機的思考=思弁(Spekulation)を最上位に置いたくらいである。
つまり、主観的な現実を超えるところへむけて思考し、その思考を現実化するあるいは現実のうちに見出すという思考である(岩波文庫版『小論理学』82節参照されたし)。
これが「市場」での思考になると、生産物を買い付け、商品として消費者に届けて貨幣を得るという「投機活動」になる。
つまり、目の前の生産物の向こうに貨幣を見出し、モノを商品として売ることによって、貨幣を現実化するのである。
(これが自給自足経済であると、養老先生がどこかで言っておられたように「あの田んぼは将来の自分だ」というのが投機的思考つまり思弁となる)。
大学選びにおいても、たとえば将来の法律家を夢見て法学部を選ぶ、というのは投機的行動であり、時には「夢みたいなことを考えるな」と親に反対されることもある。

 つまり、これらの思考には「将来の現実」という時間とリスクが付いてまわるのである。
ゆえに「夢みたいなこと」とか「空疎な思弁」というような批判がある。
「あの田んぼは将来の自分」という養老説も、稲が育つ時間と冷害などのリスクが含まれている。
しかし、そのような投機的思考も、思い通りに行かなくても、現実において収まるところに収まり、それなりの安定を得る。
ゆえに、時間とリスクをとりながらの投機的行動はいたって健全な人間的営みでなんら批判すべきものではない。
経済市場もそのような投機の場であれば、今のような不安定な状況ではないのであろう。
収まるところに収まって、見えざる手がやっぱり働いているんだね、ということになるのであろう。

 ところが、現在の投機的市場は実体経済とかけ離れていると言われる。
なぜか?
チョット勉強しました!(岩井克人『二十一世紀の資本主義』所収の同名の論文を参考にしましたが、ほんとに読めているかどうか自信ありません。誤解してたら、岩井先生スミマセン)。
投機には時間とリスクが付き物である。
だから、それを回避するということも、金融市場では商品になる。
いわゆる「金融商品」とか「デリヴァティヴ」といわれているものは、時間の省略とかリスクの回避を商品にしているものらしい。
先物取引とか債権を売るとか、はたまたナントカ・スワップとか、私にはさっぱり分からないが、あらかじめリスクを回避するとか、将来の利益を今得るとか、そんな魔法が金融市場を席捲しているのだそうだ。
つまりリスクや時間を売り買いして「効率化」を目指すということが盛んに専門的投機家によって行われて、その結果、市場が不安定になるという。
それぞれが最善手を読み合いすることによって、裏の裏を、さらに裏の裏の裏を・・・・と無限に裏を読みあうことによって、市場が不安定になるという。

 大学・学部選びでも、そのような不安定を招く効率化が進行しているのではないか?
新設学科に受験生が殺到するのは、将来において就職に困らないようなトレンドな学部を選ぶということだろう。
大学に学びながらゆっくり将来の生きる道を考えるという時間を省略し、いきなり職業が限定されるような学部を選ぶということである。
自分がこの職業に一生を捧げるというよりも、この職業には需要があるだろうというトレンドを読んでリスクを回避する。
大学のほうは、「この学部に入れば、将来は大丈夫」というような学部を準備・創設して、そのようなリスクや時間を負担する。
しかし、このように生き方を効率化することによって、生き方がますます不安定になるのではないか?
あと2・3年経てば、別の職業がトレンドになったりするのだから。
だから、そこを見越して別の学部を準備している大学もあるかもしれない。
要するに、「各人が投機的に考える」という「各人が時間とリスクを負う人間的営み」を省略するように世の中が動いているのではないか?

 TPPにしても、ドルを基軸通貨にしていれば効率化をはかれますよ、という話で、それでいよいよ市場が不安定になるような気がする。
というようなことを考えながら、各大学の受験者の動向をインターネットで検索している私は、健全な投機的思考をしているのでありましょうや?

posted by CKP at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月16日

ご案内

明日11月17日(木)、大谷大学西洋哲学・倫理学会秋季公開講演会を開催いたします。

 講題 脳死は人の死か?ー私がためらう理由

 講師 高橋久一郎氏(千葉大学文学部教授)

 会場 尋源講堂

時間は、午後4時30分からです。奮って、ご参加ください。
posted by pada at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月10日

大爆笑――津村記久子さんの「誰かにふいに話したいこと(晩年編)」9日京都新聞夕刊

 昨日の京都新聞夕刊のコラム「現代のことば」の担当は津村記久子さん。
大谷大学の卒業生の芥川賞作家である。
今回のタイトルは「誰かにふいに話したいこと(晩年編)」

 大爆笑であった。

 津村さんは「道を尋ねる」業界では、なかなかの顔なのだそうだ。
その津村さんが、映画を見る前に阪神デパートのマクドナルドでバリューセットをほおばっていたとき、70歳ぐらいの一人暮らしのお婆さんから話しかけられた、というエッセイである。

「おいしいですか」から始まり、「恋をしてますか」を経て、「男は絵画教室で探すべし」などのさまざまな教えを学んだそうな。

 確かに、大谷大学でのトークセッションでお見かけした津村さんは、道を尋ねやすそうな感じの方であった。
いかにも本学の学生という感じ。
ピアスぎらぎら、髪の毛ピンク!というのではない。
かと言って深窓の令嬢というのでもない。
ふつうです、という感じ。

 しかし、ふつうをきちんとやってくのって、けっこう大変なんだ。
そして、そのふつうって、大変だから、おかしくて、悲しくて、いとしいものなんだ。

 そんなふつうの人生の味わいを生きてきたお婆さんだからこそ、そのふつうを生きて、そして書いている津村さんに「話したく」なったのではないだろうか。

 昨日の京都新聞夕刊を読んでくだされ。
posted by CKP at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月06日

松沢哲郎は泣ける−―祝!『想像するちから』毎日出版文化賞受賞!!

 今日、まったくの偶然で、地下鉄で松沢哲郎先生と同じ車両に乗り合わせた。
京都大学霊長類研究所の所長の松沢先生である。
先生は、東一条で開催される学会へ行かれる途中。
私は、朝、法事を勤めて、遅ればせながら入試中の大学へ行く途中。

 いきなりだったけど、『想像するちから』(岩波書店)が毎日出版文化賞を受賞されたお祝いを申し上げる。
( この本については、このブログの今年の7月頃にとりあげている。興味ある方は探してくだされ。)
大谷大学の大谷学会講演会にお呼びしたときお世話しただけの間柄であるが、覚えていてくださった。
少し毛色の変わったチンパンジーとして先生の記憶にインプットされていたのかも知れない。

 『想像するちから』の感想などをお話させてきただく。
すると、松沢先生は「ここお会いしたのも何かの縁ですね」と言いながら、かばんをごそごそ探っておられる。
出てきたのは「美女という災難」というタイトルの文庫本。
「これに書いているので、通勤の途中にでも読んでみてください」
「え????チンパンジーの美女の話?」
と思ったら、文春文庫で毎年出ているベスト・エッセイ集のこの10月に発売された文庫本に先生の文章が掲載されているのであった。
「美女という災難」とはそのうちの一つ、有馬稲子さんのエッセイのタイトルであった。

先生のエッセイは、丸善の『学燈』に掲載された「読書の思い出」。
「物心ついたとき」から、二十二歳で「チンパンジー研究に出会う」ころまでの読書体験を淡々と綴った文章である。
お母さんに「繰り返し読み聞かせ」てもらった「ふしぎなたいこ」の昔話から始まり、小学校のころの偉人伝、教員寮から郊外に引越し、お父さんが買って居間に置かれた「諸橋大漢和辞典」。
中学一年の終わりころお母さんが亡くなられて、かわりに食事の世話をしてくれた年の離れたお兄さんが買ってくれたフルートや詩集。
そしていろいろ読んで、受験勉強や京大の山岳部時代の読書。

 ただ「思い出」をそのまま書いておられるだけのエッセイだが、なんだか泣けてくるエッセイなのである。
そして、このような読書体験を背景に、チンパンジーのアイちゃんとの研究が、生きることへの深い洞察に充ちた研究になっていったのだな、と納得できる文章なのである。

 あまりにラッキーな地下鉄での出来事なので書いてしまいました。
posted by CKP at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月03日

お金や名誉よりも大事なこと――現代ギリシアはソクラテスの末裔?

 ギリシアが国家の財政破綻の危機に直面していて、EUが何とかそれだけは避けたいと手を打ったが、当のギリシアは国民投票でその「救いの手」を受け容れるかどうかを決めるという。
その「救いの手」を受け容れないと国家破産だから受け容れるしかないだろう――とふつう思う。
が、ギリシア国民はそうは考えない。

 このままいけば国家が債務不履行に陥ってしまう。
が、そうなっても、外からの「救いの手」は拒否するかも、というのである。
うそーっという展開である。

 今のギリシア人も、「お金や名誉のことしか考えないのか」と人々を怒らせて死刑を得てしまったソクラテスのようなところがあるなぁ、と私などは妙なところで感心している。

 国家が債務不履行の危機から救われて、欧州諸国と同じような経済機構に組み込まれるくらいなら、他からダメ国家と呼ばれようとも、今の何かを守りたい――お金や名誉よりも大事なことがある、とギリシア国民は言っているような気がするのである。

 ギリシア国民が問題としているのは、おそらく、お金や国家のメンツの問題ではなく、生き方の問題のような気がする。
ただ生きるのではなく、いかに「よく生きるか」という問題。

 現代のギリシア国民の生き方は、毎日の金融市場に振り回されている「先進諸国」の国民の生き方に比べて、えらくのんびりしているように見える。
「怠惰」にすら見える。
しかし、生き方としてどちらが人間らしい生き方か、と考えると、金融市場の動向に血眼になっている生き方よりも、昼寝の時間を大切にする生き方のほうが、本当のような気もする。
もちろん、昼寝なんかするとバチが当たる、という勤勉な生き方も長い伝統に培われてきたのだから一概に否定すべきではない。
しかし、金融市場を気にする生き方はここ30年くらいのもである。
株価はどうなった?
円はいくらだ?
そういうことに血眼になるのは「勤勉」という美徳とは違う。
ゆえに金融資本主義をを絶対的真として、「昼寝大好きは怠惰」と非難するのはお門違いのような気がする。

 もちろん、ギリシア国民が「昼寝を守れ」と国民投票やストをするわけではないだろう。
しかし、彼らは、何かとても大切なものを失うかどうかの瀬戸際で抵抗しているのような気がする。
金融の素人は、そんな彼らの抵抗を、なんとなく応援したくなるのである。
posted by CKP at 18:56| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする