2011年10月27日

内田樹にはずれなし――うほほい淀川節

 内田樹先生の『うほほいシネクラブ』(ムリョ400ページの文春新書、言及された映画187本)を読了。
そ・れ・だ・け・な・ら・ま・だ・い・い・が!
今は、索引をチェックしながら、まだ観てない映画のなかで観るべき映画を選んでいる。
ああ、めんどくせえ・・・
そんなら観なきゃいいのにね。

 この本での内田先生の映画批評は基本的に「褒める」というスタンスで書かれている。
つまり淀川長治スタイルなのである。

淀川先生は褒める。
それはもうさまざまな映画的知見を総動員して褒める。
日曜映画劇場で取り上げる映画は、どんな映画でも「みどころ」を取り出して褒めておられた。
したがって、「この映画でそこまで褒めるかぁ?」という映画も多々あったのである。
確かに、そう言えないこともないが、しかし全体的につまらん映画だろう・・・というのも淀川先生のおしゃべりを通すと、ものすごい「名画」になっていたりしたのである。

 ということはだな、内田先生が褒めている映画でも、「ここまで言うかぁ?」的映画が紛れ込んでいるはずなのである。
それを避けつつ、ほんとに面白い映画を探さねばならんから、今また400ページを読み返しつつ「これがアヤシイ」といってチェックしているのである。
ああ、めんどくせぇ・・・

 なぜ、このこ忙しい時期にそこまでして、ウチダ映画本を読むのか?
忙しいから、ゲラゲラ笑うために読むというのもあるが、それだけではない。
「褒める」ためには、よ〜く観る、それも相手のリズムに同調しながら観なければ、針の穴ほどの美点を棒の大きさのごとく褒めることはできないのである。
そのあたりに関して、私が「読み分け」できているかどうかを確かめるために、わざわざ映画も観ようというのである。
やっぱり、暇なんですかね、わたし。

 批評=非難と考えて、批評対象をくさすのは、わりと簡単なのである。
これはダメ、あれもダメ、という映画評はわりと簡単に書けるのである(と思う)。

 わたしは若かりし頃、ある美術雑誌の音楽欄でそれをやっていたが、一年ぐらい「くさす」音楽批評をやって、だんだんつまらなくなってきた。
(読者にはわりに受けていたようですが)
いつも自分の基準で批評対象をくさしていたのでは、自分の「基準」が全然成長しないのである。
いつも同じ自分がいるだけ。
それを他人の音楽を批判して確認しているだけ・・・つ、つまらん・・・でしょう?

 それで「批評」を学ぶために淀川先生の映画評を集めた本を何冊か集中的に読んで、「私は嫌いな人に会ったことがない」という批評を学んだのであった。
そう言い切るためには、その人の作品を丁寧に観る、よ〜く観るということが必要になる。
その上で、その美点、見るべき点を探し出すのである。
そして、このような映画表現もある、という自分自身の映画を観る眼も豊かになるのであった。

 それを真似して音楽批評を書いてみましたが、中途半端だったのでしょう、とたんに受けなくなり、それから一年で連載を止めました。

 今度のウチダ本を読むと、「褒める批評」が見事な芸になっていて、「内田樹は平成の淀川長治である」と言えるのではないかの思いを深くしたのである。
しかも、小津安二郎とジョン・ウォーターズとやくざ映画も語れる淀川長治。
それに、映画における「声」も語る・・・

 とにかく、面白く読みました。
内田樹にはずれなし!であります。
メル・ギブソンにはずれなし。
ジョニー・デップにはずれなし、と内田先生ご自身が書いておられたように。
posted by CKP at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月26日

楽しき労働――オジサンのむかし

 大谷大学に職員親和会という事務・現業職員の親睦組織があって、その機関紙(?)「暁鐘」に書いたエッセーです。
絶対に世間に出回るものではありませんので、ここに掲載します。
編集部の方々、いいよね?


働く楽しさ、仕事の誇り――「楽しき農夫」のこと

 知命も過ぎ、耳順にも手が届くほどに馬齢を重ね、よっこい庄一(これオッケー?)と座るようになると、若い人と話があわなくて冗談も通じないことが多い。ほんとに、冗談はよし子さん( これもオッケー?)と言われそうだが、まあ、これだけ時代の流れがはやいと10年前のギャグが通じないのも当たり前田のクラッカー(40年前ですけど、オッケー?)であるからして仕方ないのであるが。
 と、おどおどと確認しながら昔のギャグを言うのもお互い疲れるから、ここは皆さんのほとんどがご存知ない歌をご紹介しよう。
 わたし自身、その歌を学校で習った覚えはない。二人の姉が唄うのを聞いて覚えたのである。シューマンの『子どものためのアルバム』にある「楽しき農夫」というピアノ曲である。シューマン独特の神経質なところはなく、シューベルトといっても通るようなどこか懐かしい旋律の曲。旋律は今でも有名で、インターネットで調べたら一部分が「ポニョ」と似ているというので話題になっていた。しかし、私が覚えている歌詞は見当たらなかった。こんな歌詞である。
 「夕暮れ 鍬を肩に、野良道帰れば 空には 夕べの星が出る・・・」
 この歌をどんなときに唄ったかといえば、きょうだい3人と隣のミッちゃんとタマエちゃんたちとで、風呂の焚き付けにするため山の杉林に落ちた杉枝を拾いに行った帰り道でのこと。赤く枯れた杉枝を二束とか三束にくくり上げ背中に担いで田んぼ道をかえる道すがらこの歌を歌ったのであった(昭和30年代後半の日本の話である)。
 どこかに仕事の喜びがあふれているような歌だった。単なる「お手伝い」ではあるけれども、それなりに家庭の維持に貢献しているというような誇りがあった。また、杉枝をくくりあげながら「三束だから山賊」とか言い合い、お互いに背中に負うのを手伝ったりしているのも楽しかった。
 何が言いたいのかといえば、今の子どもたちはそのような「お手伝い」の機会がどんどん少なくなって「働く楽しさ、仕事の誇り」というのを知らずに、「シューカツ」なる恐ろしげな場面に至るのはかわいそうだなと思う、ということである。いや、私だって家に帰れば不機嫌オヤジだから、子どもたちにとっては「働くとは不機嫌になること」とインプットされているに違いない。
 通じようが通じまいが、家でも上機嫌でオヤジ・ギャグを連発することが、まずは第一のキャリア教育であるなぁ、と反省する57歳なのであった。
 そういえば、わたしが小さい頃、父親が寝るときニコニコ笑いながら「寝るほど楽なことはなし、起きて働くバカもいる」と称えながら布団に入っていたことを思い出す。「起きて働くバカ」の幸せな一日の終わりを教えてくれたキャリア教育だった。ありがとうね、父ちゃん。
posted by CKP at 18:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月20日

柄谷行人は二度くる――10月26日真宗学会で講演

 10月26日(水)午後3時から開催される大谷大学真宗学会で、柄谷行人氏の講演がある。(赤レンガの尋源講堂)
柄谷氏の大谷大学講演は一昨年の大谷学会についで二度目。
そのときも「えーっ?」と思いました。

 というのは、今は亡き今村仁司先生が、親鸞についての著作を発表されたとき、柄谷氏が新聞の書評で「今村は宗教に逃げた」というニュアンスで書いておられたからである。
「なるほど、そうゆう評価もあるんだなぁ」と思ったことを覚えている。
そのような柄谷氏が、仏教系の大学に講演にこられるので「えーっ?」と思ったのである。
それが、今回は「本丸」真宗学会である。
いよいよ宗旨変え?まさかね。
講演題目は「普遍宗教と哲学」

 「普遍宗教」とは『世界史の構造』で述べられている、部族宗教や国家宗教を超えた宗教、つまり部族や国家の特殊な神ではなく、それを超えた神と、共同体から自立して神に向き合う個人からなる宗教のことであろう。
しかし、柄谷氏はそこで、個人と超越者との内面関係を論ずるというのではない。
おそらく、「宗教に逃げる」とは、この内面のみを論ずることなのであろう。
そうではなくて、超越者を媒介とした個人と個人の関係、新たな共同体のあり方を論じたいのであろう。

 「具体的にいえば、普遍宗教が目指しているのは、個々人のアソシエーションとしての相互扶助的な共同体を創り出すことである。したがって、普遍宗教は国家や部族共同体を解体しつつ、それを新たな共同体として組織する。別の観点からいえば、普遍宗教は祭司階級を否定しつつ、新たな信仰集団を組織する預言者によって実現されるのである」(『世界史の構造』、213ページ)

という普遍宗教と哲学がどう関係するのか?というお話なのだろう(全然ちがったりして・・・)。

 また井上尚実大谷大学準教授は「普遍宗教としての浄土真宗――無償の贈与を平等に分かち合う思想――」という講演( こちらの講演が先?)。
「無償の贈与」とは、おそらく、柄谷氏の言う「愛」や「慈悲」という「純粋贈与」ということであろう。
「個々人のアソシエーションの相互扶助的な共同体」の絆である。
そのような共同体の中で「煩悩」の位置はどうなるであろうか?
煩悩の塊である私は、たまに贈与的行為をしても「お返しは?」などと思ってしまう「不純」人間である。
興味しんしんしんしんしん!
posted by CKP at 18:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月16日

連続セミナー「ベルクソンと災厄」――10月27日は京大で

京都大学の杉村靖彦先生からのご案内です。
連続セミナー(と呼んでいいのでしょうか?)「ベルクソンと災厄――今、『道徳と宗教のニ源泉』を読み直す」をご案内します。

10月24日(月)は東京は法政大学、
10月27日(木)は京都の京都大学、
10月29日(土)は福岡は九州産業大学

それぞれ朝の10時から夕方まで、『道徳と宗教のニ源泉』をめぐって、発表と対話が繰り広げられる。
発表はフランス語だけれども、内容は日本語のペーパーが配られる。
対話は日本語の通訳がつくそうです。

 京都のセッションでは、第2・3章つまり「動的宗教」「神秘主義」が扱われる。
京大の杉村靖彦先生が活躍されるというか、準備から何から大わらわというか、そういう一日です。

発表者の半分はフランス系の先生方。
生きたフランス語に接したい方、フランス語で哲学したい方、杉村先生の明晰なベルクソン解釈に接したい方、半日だけでもどうぞ。

詳細は下のHPまで。

http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/religion/rel-top_page/

杉村靖彦先生は、京大の先生のみならず、パリ・プロテスタント大学の名誉博士にまでなっておられるんですね。
ポール・リクールが京都賞のため京都に来た時、リクールの前で講演し、リクールをして「私よりリクールのことが分かっている」と言わしめたのが杉村靖彦先生でした。
そのようなリクール研究の功績でパリ・プロテスタント大学の名誉博士におなりです(リクールは、フランスでは珍しいプロテスタントでした)。
学生時代、私と一緒の風呂屋に通っていた後輩なんですけどね、杉村くん。

ポスターを貼りつけるように依頼されておるのだが、私のIT技術では不可能なのである。
上のHPからダウンロードしてくだされ。
こんな先輩でごめんね。
posted by CKP at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月14日

「聞く」に始まるコミュニケーション――佐藤学先生ご講演拝聴記

 昨日は、わが大谷大学の開学記念式典。
お勤めの後、学長から本学の今後10年のグランドデザインの発表。
そして、佐藤学先生の「21世紀型の学校改革と授業の創造」というご講演を拝聴。

 佐藤先生のご著書は以前から拝読していたが、お会いするのははじめて。
なかなか、「衝撃的」な出会いであった。

 文学部長室で来賓の方々と談笑していたら、突然、佐藤先生がトコトコと入ってこられる。
私の机の本の表紙をじーっと覗き込んでご覧になって、先ほどまで私が座っていた席にぴょこんとお座りなる。
前には、私の食べかけの和菓子とお茶が置いてある。
どうしたものか・・・私はお茶とお菓子をそーっと動かした。
佐藤先生は「何をするんだ?」と怪訝な表情。
他の来賓の方々は、意外な展開にかたずをので見ておられるだけ。
私は佐藤先生のお顔を覗き込みながら、
「あのぉ〜、ひょっとして隣のお部屋とお間違いでは・・・・?」
佐藤先生、周りを見回し、しばしの沈黙の後、
「こりゃ失礼、間違えました」
すたすたと退室。
お便所に行かれ、帰るとき部屋を間違えられたのである。
今までそのようなお方はいなかった。
となりの部屋とはずいぶん雰囲気が違うんですよ。
間違えません、ふつうは。
粗忽者というより、何かを物凄いスピードと集中力で考えておられて、日常茶飯事でときどき失敗する、そんな風情のお方と拝察した。
そして、式典開始までパソコンのパワーポイントに何やらサクサク書きこんでいらしたそうな。

 そして、式典会場へ。
佐藤先生はお席に座られると、我らがグランデデザインのパンフレットをマーカーペン片手に食い入るように読んでおられる。
グランデデザインにそれなりに関わってきた私はドキドキである。

 ご講演は、パワーポイントで各国の授業風景、生徒の表情のスライドを映しながらの分かりやすく、しかも刺激的で、「あ、こんな授業もありかな」と行動に結びつくお話であった。
人を動かすお話なのである。
それは、その分かりやすいお話が、現場での圧倒的な量の観察と膨大な資料の鋭い読み込みに裏打ちされているからであろう。
お話の多くの部分は、近く発刊されるご本と重なるということでそちらをお待ちください。

(ただ、小・中学校でのペアや4人グループでの「学び合い」ということが主流になりつつあることを強調された講演であったが、講演後、喫煙スペースで煙草を吸いながらおききしたら、「大学では、少しちがうんですよね」ということでありました。
むしろ「アメリカみたいに学生たちのグループに勝手にゼミをやらしておくというのは、ダメでしょう」ということでした。)
 
 が、そのご講演の最後の方で、本学のグランドデザインに言及されたときには、一気に緊張した。
「聞く」ということを始点としたコミュニケーション能力の育成を核とする「大谷大学のグランドデザインを私は支持します」という先生のお言葉に、胸が熱くなるものを感じた。
リップサービスにしては「支持します」という言い方はつよい。
先生の正直な感想だと思いたい。
この一年余り、さまざまな部署の事務職の方々、そしていろんな分野の先生方と「ああでもない、こうでもある」と作り上げてきたものだから、先生のお言葉にじ〜んとくるものがあったのである。

 思えば、そのグランドデザインを作ってゆくプロセス自体が「聞く」ことによるコミュニケーションの実践であった。
ホント、みんないろんなこと考えて、そして言うんだもんなぁ。
たしかにそのプロセスでコミュニケーション能力がけっこうついたような気がする。

 コミュニケーションとは馴れ合いではない。
自/他の区別を確認しつつ、そこに通路を開く作業である。
その通路において、言葉やモノが交換される。
自他を区別する分別線がしっかり引かれていないと、それは単なる押し付けになってしまう。
他者の存在を無視した一方的な押し付けになってしまうのである。
よって、お互いの交換は継続されない。
一般的に言えば、他者の状況、たとえば社会的立場、異文化、障がいの程度、差別の実態などなどをできる限り把握することで、自他のあいだの分別線が引かれる。
しかし、分別線が引かれているからこそ、我々は分別線のむこうの「あなた」とコミュニケーションをとろうとするのである。
そして、それは交換が進むにつれて区別がますますはっきりしてきて、違う者同士の間の交換が面白くなってくるのである。
あなたのことが分からないから、あなたのことがもっと知りたいのである。

 しかし、その交換つまりコミュニケーションの始まりは、「聞く」ということである。
「聞く」ということがなければコミュニケーションは始まりません、と佐藤先生は強調されていた。
聞くことが基盤にある教室は「しっとりと落ち着いた」教室になる。
それは、どこかから贈与を「ありがとう」と受け取るということであろう。
それを退蔵せず誰かにパスすることによって、コミュニケーションが起動するのである。
ゆえに「学びの共同体」としての授業を創造しようと全国、そして全世界の教室を飛び回っておられる佐藤先生にとって、聞くことからコミュニケーション能力の育成をはかろうとする本学のグランドデザインは「支持」に値するものであったのだろう、と思う。

 が、まだやっと基本設計ができたというだけの話である。
お楽しみはこれからなのであった。
は〜、たのしみ、たのしみ。
posted by CKP at 16:32| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月12日

学校の物語――大谷大学開学記念式典、佐藤学先生講演会は明日10月13日

 河合隼雄先生の15年前の論文「学校のゆくえ」(『現代日本文化論3』所収、岩波書店)に佐藤学先生の「物語」が出てくる。
         *           *
 教育学者の佐藤学はその著書『学びその死と再生』のなかで、教育における「物語」の必要性を何度も強調している。現在日本の教育は「物語の喪失」に喘いでいるのではないか。
「学校の危機が中心領域にある制度と政策に起因するだけでなく、むしろ、周辺領域に生成するはずの象徴的経験と人びととの絆の衰退にあり、その生成に携わる私たちの想像力の衰退にあるとすれば、学校のあり方を探求する作業は、「制度論的アプローチ」と並行して、学校生活の価値や意味を問い直す「存在論的アプローチ」によって推進される必要があるだろうし、学校生活に豊かな「物語」を復活する努力として展開される必要も生まれるだろう」と佐藤は述べている。
         *             *
 しかし、この「物語」は「昔の教師の宿直を懐かしむ」ような「教育美談」のことではない、と河合先生は強調される。
西洋的学問における「切断」「合理性」の男性原理に対抗して、「包摂」「結合」の日本的女性原理を懐かしみ、そこに安住してしまうことは「子どもの自立や個性の尊重」を無視してしまうことになる。
そのような「美談」は時に「子どもを抱きかかえすぎる」重荷になってしまうというのである。
むしろ、「新しい物語」の創造が必要だと河合先生は述べられて、「先にあげた佐藤学が彼自身の体験として語っていることを要約して」述べておられる。
         *          *
 佐藤は瀬戸内海の島に住んでいたが、思いがけず県下一斉模擬テストでよい成績を取ったため、周囲の人の期待を背負って、島を離れ有名な進学校に入学する。しかし、進学校特有の雰囲気になじめず、佐藤少年は教師に反抗を繰り返し、友人からも見放され孤立していく。教室に居場所を失った彼は、図書室に一人でこもって乱読したり、音楽室でさまざまな楽器をもて遊んだりしてすごす。そして、遂には赤面症、どもり、失語症などになり、他とのつながりを失ってしまう。
 二年生のとき高校中退を決意し、島へ帰ろうとするが台風で連絡船が欠航する。その翌日、音楽室で無為に過ごしていると、音楽教師のY先生がレコードをいっしょに聴かないかと声をかけてくれ、シェリングの弾くバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ・第二番の「シャコンヌ」を聴く。「その衝撃的な音の体験は、魂の昇華あるいは解脱としか言い表しようのないものだった。この偉大な作曲家の作品は、畏れとも悟りとも呼べる圧倒的な感動で、私の偏狭な心の密室の壁を内側から砕き、宇宙的な広がりのなかで溶解させた」。これが佐藤少年にとっての転機となった。後のことは省略するが、是非つけ加えるべきことがひとつある。
 それ以後26年、佐藤はY先生が定年で退職されることを知り、かつての思い出を記した手紙を出した。一週間後にY先生より返事があって、佐藤はその内容に驚く。「あの頃、Y先生ご自身も、音楽を教育することの意味を見失うという根源的問題に悩み、教師生活を中断する誘惑にもかられながら、祈る思いで生徒と音楽を共有する道を模索されていたのだと言う。先生と私は、くしくも「シャコンヌ」を仲立ちとする深い沈黙のなかで、象徴的な体験を交換しあっていたのである。偶然と言えば偶然とも言えないではないが、なるほど、象徴的経験は祈りを共有する人と人の出会いにおいて準備されるものなのである」。
         *                *
 河合先生はこれが「日本的美談」ではないことを強調される。
哀れな生徒を慰めるために先生がすばらしい音楽を聞かせた、という「教育美談」ではないと強調される。
しかし、ここには佐藤少年とY先生、またそれぞれと学校を「つなぐ」物語があるという。
つまりそれぞれの「心の密室」がバッハのシャコンヌという音の宇宙に開けていくという「象徴的な経験」が「交換」されることによって「つながる」という物語があったというのである。
それは先生が生徒を義理と人情で囲い込む「美談」ではなく、個として自立することによってつながるという「物語」なのである。

 しかし、そのような「物語」は、「偶然と言えば偶然と言えなくもない」という形で生成するもので、創造しようって思ってできるものではない。
それは、おそらく「学び」に「祈りの共有」を要請してくる。
明日の講演会で、そのあたりがどのように展開されるか、じっくり拝聴したいと思います。

http://www.otani.ac.jp/news/nab3mq000001lcdf.html
posted by CKP at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月07日

9.29鷲田清一先生講演「震災と哲学」――動画配信開始!

http://www.youtube.com/watch?v=yMFyk7UfJfI&feature=youtu.be

というわけで、先日9月29日の鷲田先生の講演動画配信です。

最初の30分くらいは、ちょと・・・という解説はやめましょう。
完全版です。
どうぞ!
posted by CKP at 18:05| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京大学・佐藤学先生ご講演「21世紀型の学校改革と授業の創造」――大谷大学開学記念式典

 来る10月13日は大谷大学の開学記念日。
悲しいことに授業はありません。
10時から式典、そして10時50分頃から記念講演。

 今年は東京大学大学院教育学研究科の佐藤学教授をお招きしています。
講演タイトルは
「21世紀型の学校改革と授業の創造」。

 佐藤学先生といえば、学校における生徒の活動を「勉強」ではなく「学び」と位置づけ、その「学び」という日本語を定着させた先生です。
確かに最近は「勉強」という言葉をついぞ聞かなくなりました。
そして最近は「学び合い」という協同の学びを提唱されておられるようです。
小学校の現場に出かけて、現場の先生方と授業のあり方を考えてこられた先生のようです。
大学での「学び」のあり方にもたくさんのヒントをいただけるものと期待しております。

先生になろうと思っている諸君、ぜひぜひ聴講してください。
木曜日の午前中ですが、近隣の学校の先生で授業のない先生方もぜひ!

http://www.otani.ac.jp/news/nab3mq000001lcdf.html
posted by CKP at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月03日

ライ・クーダーの怒り方―新作『PULL UP SOME DUST AND SIT DOWN』

 ウォール街をはじめとして全米でデモが続いている。
格差をどんどん広げていく経済政策への反対デモである。
今朝のテレビで評論家が「日本ではなぜデモが起きないんでしょうね、日本の若者はおとなし過ぎますよ」などとのんきなことを言っていた。
デモが起きるアメリカは偉い!という口ぶりなのである。

デモが発生するということは、アメリカの格差社会が相当ひどい状態になっているということであり、「アメリカ偉い!」と言って、どこまでもアメリカ追随でゆくとアメリカのように怒りのデモが頻発するようになる――ということを憂うるべきなのだが・・・・

 しかし、ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(岩波書店)を読むと、この格差を広げる新自由主義経済政策が、フリードマン率いるシカゴ・ボーイズ(シカゴ学派の若い衆)によって全世界で展開されている強力な政治政策であることが明らかにされていて、慄然とする。
ハイエクを師匠とするフリードマン→ラムズフェルトというシカゴ大学経済学部のシカゴ学派という系列があるんですと。
また、そのショックを与え、あるいはショック状態にある国に、一気に市場開放・規制緩和・社会的支出の削減という「自由経済」を持ち込む手法は、50年代に開発された拷問の手法と同じという指摘にもぞーっとする。
こんな恐ろしげな連中に合法的なデモぐらいで対抗できるのかなぁ・・・となんだか絶望的気分になる。

そんなとき、アメリカのギタリスト、ライ・クーダーから新作が届けられた。
3年ぶりの本人名義の新作は、ギターやフラット・マンドリンなどが鳴り響くライ・クーダー節全開のご機嫌なアルバム。
ところどころにフラコ・ヒメネス爺ちゃんのアコーディオンが入って、メキシコ国境を思わせる(と言っても行ったことないですけど)。

 が、歌詞をよく聴くと、ライ・クーダーは怒っている。
社会の格差を広げる経済政策にカンカンに怒っている。
初期の作品で「貧乏人はどうやって生きろと言うんだ!」と唄っていたあの怒りである。
最初の曲「銀行屋どもは、(ホワイトハウスに行って)誰も残っていない」から怒り全開である。
リーマン・ショックのときの銀行・証券会社保護政策への怒りである。
二曲目では、伝説の銀行強盗ジェシー・ジェイムスが天国から44口径をもってもう一度銀行を襲う。
ジェシー・ジェイムスが幽霊というより天使になって地上に舞い降りるのである。
しかし、それらの曲は決して激しい怒りを直接ぶつけるパンクなものではない。
どこかのんびりしていて、ゴキゲンなのである。

 強欲の銀行屋や株屋への怒りはある。
が、こちとらも無欲というわけではない。
小さな小さな欲はある。
その欲を満たすためにこつこつ働いている。
小さな欲だけど満たされるとうれしい。
俺はこの道を行く。
これはこれでなかなかいいもんだけど、強欲のあんたらには分からんだろうな・・・
そんな余裕が奏でられる。
貧乏だけどそんな惨めな人生の中の豊かさを噛み締めて、そして見せつけてやろうぜ・・・これも立派なデモンストレーションである。

最後の「No Hard Feelings」は、株屋に向けたこんな言葉で締めくくられる。

「悪く思うよな、非難しようっていうんじゃないんだ
だってあんたは移りゆく時の囁きのような存在
バッド・カルマといって、呪うつもりはないんだ
あんたはあんたの道、俺は俺の道を行くだけさ」
(訳は室矢賢治氏のもの。カルマとはあのカルマです。日本盤についている翻訳にはスペイン語の歌詞も訳してあり有難いです。五十嵐正氏の解説も充実しています。)

『ショック・ドクトリン』では、シカゴ学派がIMFをも抱き込んで世界の経済を牛耳る陰謀集団のように描かれている。
1960〜70年代のラテンアメリカの独裁政権から80〜90年代の東欧、中国の経済政策、そしてイラク政策まですべてシカゴ学派のショック・ドクトリンが具体的な事実によって証明されている。
要するに、経済が混乱したときには、あらゆる規制を撤廃し、銀行と株屋が「自由」に振舞えるようにせよ、ということである。
それを実行するには独裁政権がいちばん。
だからピノチェトのチリでも、ケ小平の中国でもフリードマンが活発に動いた・・・
この流れはどうにもとまらんなぁ・・・と読者はショック状態におかれてしまう。
どうやったらこの流れが断ち切れるんだろう・・・

そんなことを考えていたときのライ・クーダーのゴキゲンな音楽は、大変効きます。
それは、生き方に直接に効き目のある音楽です。
哲学だって、それじゃなきゃね!
posted by CKP at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月01日

大谷大学・松川教授の大発見!――月曜からも一緒にお弁当食べてね

 いつも一緒に大学運営の仕事をしているが、ときどきモンゴルや北京に消える松川節先生が何をしているのかよく知らなかった。
そしたら、東京で記者会見。
契丹文字の文書を発見してこれの解読を進めるということをしているらしい。
偉い先生だったんだ!

http://mainichi.jp/photo/news/20111001k0000e030010000c.html

 このあいだのモンゴル土産のチーズおいしかったです!
 馬鹿なことを言いながら一緒に昼食をとっていたが、月曜からは尊敬の眼差しを持ってご一緒しよーっと。
posted by CKP at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする