2011年08月27日

ヘルメット 色にこだわる 古だぬき――無茶

 昨日は大谷大学の消防訓練でした。
学長・事務局長不在で、不肖わたくしCKPが本部長を務めました。
いっときの枝野くんのような作業服を着て、そして白ヘルメットをかぶりゴム長をはいて、1号館前に設置された本部席に陣取ります。
といってもテントが張られているわけでなく、スピーカーの置かれた机の横にボーっと立っていただけですどね。
そして、「全員、避難完了いたしました」「了解」ってなことをやったり、放水訓練を視察(?)してたりしたわけです。

 最後に北区消防署の方から総評をいただきました。
開口一番「危機に際してはもっと声をかけ合うこと!」
なかなか深いお言葉に、私は思わず『タワーリング・インフェルノ』のスティーブ・マックイーンになってしまいました。
危機における咄嗟の判断には、現場の様々な情報の中の最重要事項の見究めが必要である。
それには経験に基づく直観が必要であるが、直観に基づくものであってその判断は現場指揮者の責任によって下される。
ゆえにその判断を伝える声は自信に満ちていなければならない。
そして、その判断をすばやく伝達する。
次の段階に備える。

 てなことを考えていたら、S安さんが「そのジャージお似合いですね」と、よけいなことを言ってくれる。
あのね、これジャージじゃなくて作業服なの。
本来ならダブダブのゆったりサイズのはずなんだけど、お腹が出ててパツンパツンになっとるからジャージに見えるだけ!

 ところで、「ヘルメット 色にこだわる 古だぬき」の季語は何でしょう?
学生時代にへんな奴がおって、ロッカーの中に党派名の書かれた白や赤線入りの白、青、赤、黒、黄色の色とりどりのヘルメットをコレクションしておりましたなぁ。
というわけで、季語は「ヘルメット」
もちろん「政治の季節」を表します、はい。
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2011年08月26日

鷲田清一先生は9月1日より大谷大学教授です

「お疲れ様でした」の舌の根も乾かぬうちに、鷲田清一先生が9月1日に大谷大学に哲学科教授として着任されることをご報告いたします。
7年半にわたる副学長・総長の管理職を離れ久しぶりに一教授に戻られるときに、選んでくださったのがわが大谷大学哲学科でした。
「大阪と大谷では一字しか違わないし・・・」というような理由ではないと思いますが。

 秋からのセメスターでは、まだまだウォーミング・アップということで、大学院の哲学専攻のゼミと文学部・大学院共通の哲学関係の講義(もちろん他学科・他専攻の学生も聴講できます)。
来年度になると、加えてフランス語の哲学書原典講読、全学学生が聴講できる「人間学U」も担当していただく予定です。

 なお、9月29日(木)午後4時20分より鷲田清一先生大谷大学着任記念の講演会(西洋哲学・倫理学会主催)が開催されます。
タイトルは「震災と哲学」。
詳細は追ってお知らせします。
また9月25日の日曜日は東本願寺で「老い」をめぐるシンポジウムで基調講演をなさいます。

 というわけで9月1日から鷲田清一先生は大谷大学哲学科教授ということなのです。
が、出版の世界ではすでに「大谷大学教授」として活動を開始されておられます。
昨日ちょっとだけふれた東本願寺出版部の『月刊同朋』の「9月1日号」ですでに「大谷大学教授」を名乗っておられます。
また、角川選書として店頭に並んでいる『「ぐずぐず」の理由』でも既に「大谷大学教授」を名乗っておられる。
奥付は「初版発行8月25日」になってるんですけどぉ・・・・
本は「ぐずぐず」ですが、ご本人はサッサッの「いらち」人間?

 そのうちこの「哲学科教員ブログ」でも「わっしぃ」のハンドル・ネームで書いていただけるかも知れません(PILZ先生、東大での研究が終わったらオルグのほう、よろしく)。

 しかし、ひょっとして、大谷大学ってどんな大学?という方がおられるかも知れません。
「おおたに」とよみます(「おおや」でも「だいこく」でもありません)。
親鸞の教えを基礎とした京都にある東本願寺系のミッション・スクールです。
大学の雰囲気、そのミッションに関しては、内田樹先生の『最終講義』に収録されている大谷大学での講演「ミッション・スクールのミッション」を読んでいただくとよく分かると思います。
ぜひ、ご一読を!
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2011年08月25日

鷲田清一先生、お疲れ様でした――他者から贈られる「自尊心」

 鷲田清一先生は、本日8月25日で、4年にわたる大阪大学総長の職を終えられた。
副学長のときから数えると、7年半のお仕事、お疲れ様でした。
大阪大学を去るに当たっての感慨といっていいような文章がある。

 10年程前に『ようこそ先輩』という番組の出演にあたり母校である京都の小学校の立派なニス塗りの教室を見て、その校舎を「丁寧に、立派に造っておいてやろう」と考えた「むかしの大人」に思いを馳せる。
たしかに、昔の学校って立派でした。
小学校でも立派でしたね。
そして、ご自分の学長生活を振り返っておられる。

「番組の収録からしばらくしてわたしは大学の管理職に就くことになった。さらにその後、大学の代表者にもなった。そういう立場になってはじめに考えたのは、学生諸君に「自尊心」を贈ること、つまりかれらが「自分は大切にされている」とおもえるために何ができるか、何をどうすべきかということだった。
 大学の財政状況は厳しくなる一方だったが、学生諸君が一日のほとんどを過ごすキャンパス環境の整備のための予算は増やしていった。雨の日にぬかるみに足をとられないよう、通学路の長い坂道を拡げ、石畳にした。「何をするでもない」使い途の自由な場所のとりわけて少ない状況――そういう空間はそれまではプレハブの食堂の二階一ヵ所しかなかった――を改善すべく、次々とフリースペースを、屋内に、屋外に造った。研究型の大学なので、先生方は自身の研究環境の改善のほうを先に考え、この方針に抵抗するむきもあった。が、わたしの思い過ごしではなく、学生諸君の顔つきは近ごろとみに溌剌としてきている。
 最近、学内を歩いていると「ワッシー」と後ろから声をかけられることがある。以前だったら遠くからちらちらこちらを見ているだけで、声などかけてこなかったのに、その声が贈り返してくれる。わたしにも、「自尊心」を。
 その大学での務めを、わたしはこの夏、終える。」( 『月刊同朋』9月1日号、東本願寺出版部)

 このような総長を戴いていた大阪大学の学生諸君は幸福でした。
鷲田総長、本当にお疲れ様でした。

 ところで、この『同朋』の9月1日号には鷲田先生が9月1日に着任される大学名が書いてあるぞ・・・なになに?
posted by CKP at 17:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月22日

天使の玄義――レヴィナスと親鸞

 昨週末は、大谷大学同窓会の支部訪問。金曜日に石川県の大聖寺、土曜日に岐阜県の大垣という大・大ツアーでありました。
そこで講演というか出前講義のようなものをそれぞれ一席伺った。
レヴィナスのタルムード講話のある部分と親鸞の「正信偈」や「歎異抄」のある部分を対比しながらお話したのが、自分でも結構面白かったので忘れないうちに書いておく(お聞きいただいた方々の反応はいまひとつよく分からない)。

 法然に対する親鸞の関係、つまり「歎異抄」で述べられる「だまされて地獄に落ちても後悔しない」という関係は、近代的なアタマにはいわゆる「個人崇拝」ではないのか、という問題として浮上してくる。
この問題は、信仰一般における大きな問題で、真宗だけの問題ではない。

 このたびある必要からエマニュエル・レヴィナスの『タルムード四講話』(内田樹訳、国文社)を読んでいたら、その第二講話「誘惑の誘惑」に同じ問題が論じられていた。

「さてここから大事な話です。他人の話を頭から信じ込んだり、物を何も知らなかったりするのは非常によくない、という考え方があります。この考え方に立つと、「あらゆるものに対する好奇心」「節度のない窃視癖」(つまりそれが「知」であるわけですが)は非常によいものである、先験的原理と既成事実の検証の場である、ということになります。・・・
けれども「知」を無条件に善きものとする考え方などはどうでもよいのです。
問題なのは知を惹きつける誘惑の方です。おそらく私たちはここで別の選択肢に向き合っているのです。
「好奇心の誘惑」を正当化するのは「真実を知りたいという要請」でした。
さて、この要請に応える手だては無遠慮な窃視趣味しかないのでしょうか、もっと別の、もっと純粋な手だてがあるのではないでしょうか。・・・」(86〜87ページ)

 レヴィナスは西洋的な知の特質を「誘惑の誘惑」という言葉で形容する。
それは非ユダヤ的な知のことである。
しかし、ユダヤ的な知も、蛇によるエヴァの誘惑に始まるのであるから、「誘惑」は西洋キリスト教的知にもユダヤ的な知にも共通なる基盤である。
それは「真実を知りたいという要請」に付け込んでくる誘惑である。
しかし、レヴィナスの言う「誘惑の誘惑」とは、誘惑と分かっている誘惑に乗っかって己の知を試すような「知の誘惑」のことである。
そこでは誘惑を誘惑として見て取っている自我は常に安全地帯にいる。
そこからあらゆるものを「知る」。つまり「窃視趣味」というわけである。
そのような西洋的知とは別の、真実への接近方法はないのか。

 レヴィナスは重ねて述べる。
「私たちがこれから読み解いてゆくテクストの中で問題になっている「啓示」は、誘惑によって試されている思考の住まう秩序よりさらに古いある秩序の発見を可能たらしめてくれるはずです。
 西欧的思考のロジックにしたがう限り「啓示」に何らかの有用性があるとすれば、それは理性が見出しえぬような原理を含まねばなりません。
となるとこれらの原理の拠って立つ根拠は信仰至上主義の孤島かあるいはこれらの原理の伝達者に対する盲目的信頼か、いずれしかありません。つまり原理を受け容れる人は悪魔に欺かれるリスクをも負うことになるわけです。・・・・
 私たちが注解する啓示についてのテクストはまさしく真理の使言と使言の受容のこの関係を論じたものであります。使言を受け容れる者はその使言の当否を判定する能力がありません。というのも使言のみがその「当否の判定基準」をもたらすことになっているからです。」(90〜91ページ)

 超越的真理はそれは「超越的」であるがゆえに「啓示」という形で告げられる。
いきなり、突然、根拠無しに、示されるのである。
文字通りの理不尽である。
しかし、そこに理が尽くされているのなら、それは「超越的」でもなんでもない。
人間のアタマが理解し考察できることである。
不可思議なる真理は啓示される。
それを受け容れるのは、信仰至上主義に立つか、伝達者に対する盲目的信頼(個人崇拝)しかない。
という訳で、ここでやっとこ、レヴィナスと親鸞に同じ問題があることを提示いたしました。

 以下レヴィナスは「啓示」の受容に「別の知のあり方」を、タルムード(ユダヤ教の口伝律法とその解釈書)の「注解」という方法で考察してゆく。
そしてそれを「天使の玄義」という言葉で説明するのだが、そこまでの道のりがやたらと長いことに気がついた。
そのうちボチボチ書いていきます。
posted by CKP at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月17日

「あわい」のとき――お盆は荒木一郎を聴きながら

お盆も終わりました。
お坊さんの私は、寺の掃除と読経に明け暮れた十日間でした。

 お墓参りに来られる檀家さんを背にどれだけ阿弥陀経をお勤めしたであろうか?
ときどき気が遠くなるアタマで、荒木一郎のことを考えていた。

 お盆というのは、夏と秋の間で「死」と「生」が交わるとき。
夏草がぐんぐん伸びたり、蝉の屍骸が転がっていたり、不思議なときである。

 荒木一郎の「空に星があるように」を何回か聴き直して思ったのは、この人のぼんやりした声には、ちょうど死と生のあいだをさまようようなそんな魅力があるなぁ、ということであった。
歌の内容も、「それは誰にもあるような、ただの季節の変わり目のころ」であった。



 がしかし、そこにあちらへと行ってしまいかねない「危うさ」がある。
それが「いとしのマックス」での、
「どゅ・どゅ・どゅ・・・・〈ッ〉ゴウ」
の〈ッ〉である。
「ゴウ」の前でぐっと息を飲み込むその危うさに小学生の私らはのけぞったのであった。
さて、皆様ものけぞっていただけるか?



やはり、ラジオで最初に聴いたときの衝撃は伝わりませんが・・・・

というようなことを考えていたらZAZとか言うフランス系の歌手のCDを眼鏡屋さんからおくっていただいた。
これまた、イベリア半島とフランスの「あわい」の声とこぶしだなあ、とお盆的に聴いたのであった。

 
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2011年08月03日

J.D.サウザーは( ほぼ)荒木一郎である――と言われてもねぇ

 このところ、J.D.サウザーの新譜「Natural History」を聴いている。
セルフ・カヴァー集で、自身の大ヒット曲「You're only lonely」はもちろんリンダ・ロンシタュットが唄ってヒットした「Fathless Love」「Silver Blue」などが収められている。
とりわけ、イーグルスに提供した「Best of My Love」「New Kid in Town」などが、イーグルスよりもいいんじゃないか、という感じで収められていて、オジサンはうれしい。

 と言ってもお若い方には、J.D.サウザー?誰?
リンダ・ロンシュタット?誰?
イーグルス?なんか名前は聞いたことがあるけど・・・
という状況であろう。

 それで考えて、日本で言えば「J.D.サウザーは(ほぼ)荒木一郎である」ということを思いついた。
しかし、確かにサウザーを日本の歌手で説明できそうであるが、しかし、荒木一郎がサウザー以上に若い方には「過去の人」であることに気がついた。
荒木一郎のお母さんは荒木道子で・・・という説明を入れても事態は一向に改善されない。
むしろ、荒木道子と加藤治子の違いの説明で、どんどん説明地獄に陥ってしまうだけである。

 というときにYou Tubeというのは便利ですね。
J.D.サウザーの上記の曲、荒木一郎の「空に星があるように」とか「いとしのマックス――マックス・ア・ゴーゴー」などの曲を探しがしてくだされ。
なんたって「ア・ゴーゴー」ですよ。


レポートの採点が終わったら、ブログに貼り付けるかもしれませんが。
posted by CKP at 18:42| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする