2011年07月29日

瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず――土中に列車を埋めず

 中国の列車事故の処理にはびっくりしましたね。
事故車両を埋めるというのは、チョッとない発想ですが、それをまた掘り返すというのもなかなか味わい深いものがありました。
埋められたのは「きかんしゃトーマス」なんかでよく登場する最新鋭の意地悪きかんしゃだったのかな、なんて事を考えるのは私だけでしょうか?
速さ自慢で威張ってる機関車。

 それはともかく、いそいで列車が掘り返されているというニュースを聞いたとき、思い出したのが「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」という中国の古い歌でした。
辞書には「瓜畑の中では、くつが脱げても履き直すと瓜を盗むかと疑われる。李の木の下で冠の曲っているのをなおすと、李の実を盗むのかと疑われる。嫌疑を受けやすい行為は避けるのがよいという意味」というような説明がある。
日本では政治家が、ほかの政治家が汚職まがいの事をやらかしたときに「李下に冠を正さず、だわな」と発言するときに使われる。
なんとなく、やるんなら見つからないようにしろ、と言っているようにも聞こえるが、まずは、汚職のような不正はやるな!という警告だと解するのがふつうだろう。
だから、古代中国でも汚職が多く、それを警告する意味の言葉かなと思っていたが、よく味わうとそうでもない。

 この言葉の前には「君子防未然、不処嫌疑間」とあって、君子たるもの嫌疑を受けるような場面には立ち入らないことで、未然に防ぎなさいということである。
何を未然に防ぐのか?
嫌疑を受けて政敵に讒訴され、今の地位を失うことである。
これは始皇帝の昔も、共産党独裁の今も変わらないのであろう。
チョッと油断して、「瓜田」や「李下」に入って嫌疑を受けてしまうと、政敵がたちどころに上に訴えて、一挙に政治的な地位を失う。
それだけならいいが、命だってどうなるか分からない。
つまり、この古諺は汚職・不正はいけないということを訴えているのではなくて、嫌疑を受けるようなことをすると地位を失うぞ、命も危ないぞ!と警告しているのである。

ひょっとしたら、列車を土中に埋めることは「嫌疑の間に」身を置いてしまうことだ、このままでは党内の地位を失うことだ、命さえ危ない!と突然気付いた誰かが、「こりゃいかん。私は瓜田にも李下にも立ち入りませんでしたよ」と慌てて列車を掘り返しているといことなのだろうか?
どうも海外の目より党内の目のみを気にしての行動のように思えてならない。
自分の政治的地位を維持するためには何でもやる――そのようなあり方が、列車を土中に埋めたり、また掘り起こしたりとカラフルな行動を引き起こすのであろう。

 それに対して、日本の場合、少しぐらい「瓜田」や「李下」に立ち入っても、それほどおそろしいことにはならない。
氏、血筋そして学歴で社会的地位がある程度固定しているからである。
しかし、そのムラ社会のなかでは「土中に列車を埋める」というようなことはお互い容認されているのではないか。
それが今の原子力なんかでとんでもない事態を招いているのだろう。
別に原発の下に列車が埋まっているというようなことを言っているのではないのだよ、念の為。

 つまり、権力闘争が常時継続している「革命」の国中国では、善とは権力が変転する中でもみずからの地位を保全することであり、万世一系の島国日本での善とはムラの中に波乱を起こさないことなのであった。
足して2で割るのがよさそうであるが、足し方間違えるとえげつないことなりそうである。
が、いずれも私を保存すること、私達を保存することが善である。それは世俗倫理の常であるが、しかし、そのとき、他者あるいは他の共同体を犠牲にすることを悪とするか善とするかで、さまざまな世俗倫理が成立してくる。
だからこのような世俗的倫理を根本から批判するのが、哲学なり宗教の存在理由なのであろう。
列車を埋めて掘り返すというところには、哲学も宗教もなさそうだなと思った、ということです。

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2011年07月25日

へいせい徒然草――三重に住まいする法師

【「三重に住まいする法師」のことを知らないとぜんぜん面白くない話ですが・・・】

 三重に住まいする法師、越前なる法師に電話にて談じたきことありけり。
しかれども、電話を受けし家人、屋敷うちに法師を呼べど返事なく、ひとたび切断せり。
庵うちにこもりし越前の法師、そを聞きて、慌てふためきて電話するに三重の法師たちどころにいわく、
「汝が御屋敷、御殿のごとく、いたく広大とみゆる」
越前の法師、かえす言葉なく、「三重の法師、齢八十にならんとするに、いまだそのイヤミなる質(たち)、変わらず。死してのちもあの世にてもイヤミ言うらん」と嘆きけり。
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2011年07月15日

天使の誘惑――レヴィナスにフロイト

 またしてもレヴィナス、それに突然のフロイトである。
(さっき宗教学概論で話していて面白かったので,忘れないうちに書き込みます。)

 仰向けになってニコニコと天使のように笑う赤ちゃんの顔を覗き込むとき、レヴィナスに従えば、その顔に「殺害の誘惑」が書き込まれているという。

「(・・・)顔は不可侵である。目は絶対的に無防備であり、人体のうちでも最も剥き出しの器官でありながら、それにもかかわらず所有に対して絶対的な抵抗を示す。
そして、この絶対的抵抗のうちに殺害への誘惑、絶対的否定への誘惑が書き込まれている。
他者とは、殺したいという誘惑に駆られる唯一の存在者である。この殺害への誘惑と殺害することの不可能性が顔のヴィジョンそのものを構成している。
顔を見るとは、既に「汝殺す勿れ」に聴従することである。そして「汝殺す勿れ」に聴従するとは、「社会正義」の声を聞き取ることである。
だから、私が不可視のものである神について聴き取ることのできるすべて、神について知りうるすべては、ただ、一つの、同じ声を通じて私のもとに到来するのである。」(エマニュエル・レヴィナス「倫理と霊性」1952年、『困難な自由』1963年版所収、内田樹訳2008年版、国文社、24〜25ページ、適当に改行)。

 「殺害への誘惑」?
そんな馬鹿な!とまじめなお母さんなら怒るであろう。
もちろん、「殺害への誘惑」だけでなく「殺害の不可能性」も「顔」を構成する。
いや、「殺害」なんて言葉そのものが不謹慎だ!と怒る方もいるであろう。
しかし、そんな人も「食べちゃいたいくらいに可愛い」と言わないであろうか?
レヴィナスの言っていることは、そういうことである。
そういうことをシリアスに表現しているだけである。
しかし「食べちゃいたい」は単なる比喩で「殺害」などとは程遠いものである、と主張する方もいるであろう。
そのような人は、 レヴィナスのこの文章を、フロイトの『トーテムとタブー』の第2論文「タブーと感情の蠢きの両価性」の次の箇所と合わせて読むべきであろう。

「タブーが主に禁令という形で現れるものであるとすれば、次のように考えることもできる。つまり、タブーの根底にはポジティヴな慾が流れているというのはまったく自明であって、わざわざ神経症との類比によって詳しく立証するまでもない。というのも、やりたいという慾を誰ももたない物事を、それにもかかわらず禁ずる必要はないのだから、いずれにせよ、きわめて厳格に禁じられるのは慾の標的であるに違いないのである。この当然の命題をわれらが原始人に当てはめてみると、王や司祭を殺し、インセストを犯し、死者を蹂躙することは、彼らにとってきわめて強力な誘惑なのだと推理せざるをえないことになろう。
ところが、これはほとんどありそうもないことである。我々自身が良心の声を最も明瞭に聴き取ると思っている事例にこの同じ命題を当てはめてみれば、決定的な異論を提起するからである。その場合には、我々はこのうえない確信を持って次のように主張するであろう。我々はある命令、たとえば「汝、殺すなかれ」という命令に違反しようなどという誘惑などこれぽっちも感じないのであり、そのような違反に対しては嫌悪以外のなにものも感じないのである、と。
(中略)
 しかし、精神分析によって――健常者の夢に即して――見出された事実、つまり他人を殺したいという誘惑は我々においても予想以上に強く頻繁であり、その誘惑は我々に意識されずとも心に作用しているという事実を考慮するとしたら、また、さらにある種の神経症者の強迫的規定のうちに、強化された殺人衝動に対する予防や自己処罰が認められる場合には、我々は「禁令があるところではその背後に慾がある」という先に提示された命題を新たに評価しなおすことになるだろう。この殺人への慾は、実際に無意識のうちに存在しているのであり、タブーも道徳的禁令も心理的に決して余計なものではなく、むしろ殺人衝動に対する両価的(アンビヴァレント)な心的状態によって説明され正当化されると、想定することになるだろう。」(岩波版フロイト全集第12巻、91〜92ページ)

 あまりにもレヴィナスとフロイトがぴったしカンカンなのでびっくりしてしまう。
憎いだけでは人は殺人を犯さない。
愛と憎しみの狭間で殺人を犯すのである。
ゆえに「汝、殺す勿れ」とは、共に生きようとする人間を人間たらしめる人間の条件をなす禁令なのである。
人間における基本的抑圧なのである。
ゆえに、そこから強迫的に宗教儀礼が発生するという読み筋が見えてくるのだが、それはまた今度!
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2011年07月13日

汝殺す勿れ――レヴィナスの「顔」について

 いきなりであるが、レヴィナスの「顔」について考えてみた。

「認識作用は自分の対象をつかみ取る。認識作用は所有する。所有は存在者の独立性を否定する。存在者を破壊すること無しに、否定し、保持するのである。
それに対して顔は不可侵である。目は絶対的に無防備であり、人体のうちでも最も剥き出しの器官でありながら、それにもかかわらず所有に対して絶対的な抵抗を示す。
そして、この絶対的抵抗のうちに殺害への誘惑、絶対的否定への誘惑が書き込まれている。
他者とは、殺したいという誘惑に駆られる唯一の存在者である。この殺害への誘惑と殺害することの不可能性が顔のヴィジョンそのものを構成している。
顔を見るとは、既に「汝殺す勿れ」に聴従することである。そして「汝殺す勿れ」に聴従するとは、「社会正義」の声を聞き取ることである。
だから、私が不可視のものである神について聴き取ることのできるすべて、神について知りうるすべては、ただ、一つの、同じ声を通じて私のもとに到来するのである。」(エマニュエル・レヴィナス「倫理と霊性」1952年、『困難な自由』1963年版所収、内田樹訳2008年版、国文社、24〜25ページ、適当に改行)

 これはレヴィナスが「顔」を論じた早い時期の論述である。
『全体性と無限』( 1961年)の第三部で集中的に論じるよりも10年近く前のものである。
それだけに、レヴィナスが「顔」ということで何を考えていたのかが、簡潔に記されている。
対象を認識することは、他者の他者性を毀損して自分の所有にすることである。
ところが、顔として顕現する他者の他者性は、無防備であるから殺害を誘惑する。
しかし、そうであるからこそ、そこに「汝殺す勿れ」という戒律を伴ってくる。

それは神の声である、という。

 我々は、この文章を松沢哲郎先生の『想像するちから』の次の文章とあわせて読むべきであろう。

「仰向けで安定している人間の赤ちゃん。
赤ちゃんはすごく可愛い。人間を含めて子育てをする動物の赤ちゃんはみんな、親からの支援を引き出すように可愛い顔をしているのだけれども、人間の赤ちゃんは異様に可愛くて、異様に愛想がよい。あんなにニコニコしなくてもいいのにと思うぐらいにニコニコする。
それは、お母さんだけでなくて、お父さん、お祖父さん、お祖母さん、おじさん、おばさん、みんなからの助けを必要とするからだ。
仰向けの姿勢で安定して、にっこりと微笑むように人間の赤ちゃんはできている。」(53ページ、適当に改行)

 「赤子の首をひねるように」という言葉があるが、仰向けの赤ちゃんの可愛さは同時に無防備さでもある。
ゆえに「赤子の首をひねる」という誘惑が発生する。
しかし、それであるからこそ、レヴィナスは、その無防備さにおいて、「汝殺す勿れ」という神の声が到来するという。
そこに、無限の有責性が到来する。
赤ん坊がニコニコ微笑むとき、それが自分の子でなくても、その子の顔を覗き込むものは有責なのである。
そして、そこに到来する「汝殺す勿れ」という声が、「社会性」を形成するのである。

 突然のレヴィナス論で失礼しました。
(もちろん、ここで、仰向けで自由になった手で「つかむ」という行為と、対象の所有という「知」とこの「社会性」ということをどう考えるかという問題が出てくるのでした。)
posted by CKP at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月08日

大谷大学教職員学生ボランティア(臨時便)の報告

 7月1日(金)夜から4日(月)朝にかけて、大谷大学教職員学生ボランティアとして、宮城県仙台市・石巻市に行ってきました。ボランティア第1便として6月初めに活動して以来、ちょうど1ヶ月後の再訪でした。「大学の仕事や授業を休まないでボランティア作業をする」という基本方針の下に、金曜の6限が終わった19:40頃に京都・北大路の大学を出発しました。

*****

 今回も日本海周りのルート。そして今回もやはり眠れず。3時半頃から白み始める高速道路をひた走り、朝7:30頃に仙台の東本願寺の災害復興支援センターに到着。

〈作業1日目〉
 石巻まで移動して、石巻専修大学のボランティアセンターにて作業の割り当てをされました。今回は津波で様々なものが溜まった側溝の掃除が主な仕事。
 作業としては比較的単純ですが、重たい側溝のコンクリートのフタをはずし、清掃したうえでまた戻すという作業は、体力・集中力を要しました。ひとつ間違えると大怪我をしかねません。炎天下のなか、土曜日の作業を終了し、仙台の支援センターに戻りました。

〈作業2日目〉
 朝7時にふたたび石巻へ。この日も石巻市南中里で側溝の清掃です。作業をしていると、そこの家の方も出てきて下さって、一緒に作業をすることができました。
 誰も怪我することなく、お昼に無事に作業終了しました。

 作業後、先月訪問して泥だし・片づけ作業をした、石巻市中屋敷の酒屋さんへ向かいました。ちょうど家の方が居られて、ひと月ぶりに再会してお話を聞くことができました。
 先日も遺体が近所で発見されたこと、そして震災以来4ヶ月になろうとしている最近になって、お葬式のラッシュになっていることなどをお聞きしました。
 この地区は津波による被害が甚大だったために、ここに残っている人は多くありません。辺り一帯は静まりかえっていて、失われたいのちと波にさらわれた家々のかけがえのない重さが伝わってくるようでした。

 仙台に戻り、清掃・入浴・食事などを済ませ、19:30頃出発。帰路は往路よりもさらに眠れぬ夜を過ごしました。翌朝8時前に大学に帰着。荷物をバスから降ろし、解散しました。

*****

 震災から4ヶ月が経とうとしている今、着実に復興しているところももちろんありますが、その一方でまだまだ手つかずでいるところも多く残されています。今回、再度災害ボランティアに参加して、継続的な支援活動の必要性を改めて感じました。

 現在のこの関心を、来年の今頃も持ち続け行動に移すことができているだろうか?
 また、「節電の夏」という合い言葉の下に、一生懸命節電に励むことは何ら否定することではありません。しかし、仮に来年の今頃も同じような状況だったときに、果たして今年と同じような熱意を持って節電に取り組むことができているだろうか? 再来年はどうだろうか?

 被害の深刻さを思えば思うほど、「短期集中」だけではなく「長期継続」型の支援のかたちを模索する必要があるということを、これからも考え訴えていきたいと思います。

写真のレポートは、Facebookでの報告をご参照下さい。
http://ja-jp.facebook.com/otani311

 また、先ほど19:30すぎに、第2便(通算3回目)の有志ボランティアバスが出発しました。(私は今回は見送り組でした) 今回は宮城県七ヶ浜町での活動とのこと。無事の帰還を願っています。


追記:
 火曜日の授業に辞書を持っていこうとしたとき、しっかり掴んだつもりだったのに、その手から辞書がストンと抜け落ちそうになって驚きました。側溝のフタはずし・はめこみは、思っていたよりも握力にダメージを与えていたようです…。しかも、そのダメージが出るのが、おわってから2日後という…。
  
posted by (藤) at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人はなぜ仰向けに埋葬されるのか――松沢哲郎先生の『想像するちから』に触発されて

 今朝、5時ごろ目が覚めてトイレへ行って放尿しているとき、突然、人はなぜ仰向けに埋葬されるのか、という問題がやってきた。
ホント、人はなぜ仰向けのままで火葬されたり埋葬されたりするようになったのでしょうか?
なぜ、こんな問題が到来したかと言えば、松沢哲郎先生の『想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心』(岩波書店)を読んでいたからである。

 チンパンジーやオランウータンの赤ちゃんは仰向けにするとお母さんにしがみつこうとしてもがく。
彼らは四六時中お母さんにしがみついているのである。
しかし、人間の赤ちゃんは仰向けで置かれても安定している。
たしかに。
人間は母親だけでなく父親や祖父祖母兄姉までもが子育てに参加するから、赤ちゃんは仰向けで安定するように変化してきたのだそうだ。
そして、そのようにして子育てに参加する者たちをまとめて「家族」と呼ぶのであろう。
チンパンジーの子育てはひたすら母親が受け持ち、子どもが5歳になるまで母親は次の子どもを妊娠しない。
妊娠能力のない「お婆さん」が生きているのは人間とシロナガスクジラだけである。
人間は、その「お婆さん」も含めて「家族全体」で子育てをする方向に変化してきた。
母親から離れても、家族みんなから世話されるのが人間の赤ちゃんなのである。

そのことによって、
「第一に、見つめ合う、微笑む、ということが飛躍的に増大した。」(51ページ)
人間の赤ちゃんはチンパンジーの赤ちゃんに比べると「異様に可愛くて、異様に愛想がよい」(53ページ)そうだ。
「第二に、声でやりとりするようになった。夜泣きするのは人間だけで、チンパンジーは夜泣きしない。お母さんがすぐそばにいるから、呼ぶ必要がない。(・・・)人間の親子は物理的に離れているから、赤ちゃんが声を出して泣かないとお母さんが来てくれない。(・・・)生まれながらにして、声でやりとりする。人間のことばの始まりである。」(51ページ)
「第三に、いちばん重要なポイントとして、仰向けだからこそ手が自由だ。(・・・)
 チンパンジーの赤ちゃんと人間の赤ちゃんを比べてみて、はじめて気がつくのだが、あんなに早くからガラガラやおしゃぶりやいろいろな物を手で握りしめ、口を介して持ちかえたりするのは、人間の子どもだけだ。チンパンジーはそんなことをしない。なんとか必死にしがみつこうとするだけであって、チンパンジーはそんなに早くから物の操作はしない。」(52ページ)

 なぜ「いちばん重要なポイント」なのか。

それは「人間とは何か」という問題に直結する。
前世紀から人間の定義は「二足歩行するサル」ということになっていた。
四足のサルが立ち上がり、手を自由に使うようになったのが人間だ、というストーリー。

しかし、
「四足動物が立ち上がって二足になった、という説明は決定的にまちがっている。ニホンザルの姿を思い出してみよう。四足で歩くときは体幹は水平だが、立ち止まって休むときは二足で体幹は直立している。直立歩行以前に、そもそも霊長類の体幹は直立していた。( ・・・)
 そもそも同じ四足動物と思われがちだが、イヌが走るときは自動車でいえば前輪駆動になっている。サルが走るときは後輪駆動だ。樹上生活の適応によって霊長類は四つの手をもっている。それがニホンザルのように地上でも活動するようになると、形こそ同じだが四肢の末端部の働きが、手と足というように分化し始めた。人間が森を離れてサバンナに住みかをもとめるようになって、その傾向がさらに加速したといえる。
 人間は立ち上がることによって、手をつくったのではない。人間は立ち上がることによって、足をつくった。物をつかめない四肢の末端をつくった。それで歩くようになったのが人間だ。
 人間は、生まれながらにして親子が離れている。そういうなかで赤ちゃんは仰向けで安定していられる。その姿勢が、見つめ合う、微笑みあうという視覚的なコミュニケーションを支え、声でやりとりをするという音声聴覚的なコミュニケーションを支え、それが後には発話につながっていく。そして、生まれながらにして自由な手で物を扱い、多様な道具使用に結びつく。」(54〜55ページ)

 この「仰向け姿勢」の重要さは松沢先生の共同研究者・竹下秀子さんの指摘によるという。
竹下さんは「お母さん」だったのだろうか?
あのころ流行っていた「うつ伏せ寝」に疑問を持たれていたのだろうか?

 「仰向け」という姿勢は、コミュニケーションと手の自由(つまり道具の使用)という人間の人間たる条件に決定的なのである。

 ゆえに、死んだ人間とコミュニケーションをとろうとする場合、死者は「仰向け」の姿勢のままで埋葬されたり火葬されたりするのではあるまいか。
死者とのコミュニケーションを拒否する場合、折り曲げたりうつ伏せにされたりするのではあるまいか。

 たとえば、あなたが殺人を犯し、その死体と一晩を共にせねばならいとしよう。
もしあなたがその行為を反省し、死者に許しを請うならば、その遺体は「仰向け」にされるはずである。
ひたすら逃げることのみを考えていたならば、死体は部屋の隅にうつ伏せか壁に向けておかれているはずである。
そんな状況に遭遇したことはないから、正確なことはわからないが、きっとそうだと思う。

 したがって、人間が「仰向け」で埋葬する方向に進んできたことは、とりもなおさず、死者とのコミュニケーションを開こうとする傾向性の表れなのである。

 が、それはともかく松沢先生の『想像するちから』を直接読まれることをお勧めします。
図書館ではなくなるべく買ってください。1,900円なり。
この本の印税は野生チンパンジーの保護活動「緑の回廊プロジェクト」に全額寄付されるそうです。

posted by CKP at 17:52| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月07日

Shizuteru Ueda :Wer und was bin ich?――上田閑照先生の新著

先週末、家にかえると上田閑照先生から書籍小包が届いていた。
先生手ずからお送りくださっている。
一瞬、先日お送りした『シャーマニズムの諸相』が送り返されてきたのかとびびる。
こんないい加減な論文は受け取れないと叱られるのではないかと・・・。
恐る恐るドキドキしながら開封する。
ホント、いつまでこのようにびくつかねばならないのだろうと、我ながら情けない。

 しかし、出てきたのは先生ご自身の新著「Wer und was bin ich? 」(Verlag Karl Alber)というドイツで出版されたご本である。
一瞬、叱られたのではなかったと安心するが、「この本長い間考えてきたことのまとめのようになりました」という手紙のお言葉に思わずスミマセンと謝ってしまった。
 
 先生は今年85歳になられたが、その歳になられても、今までの思索を練り直し、しかも禅仏教を基本とするその考察をドイツ語で表現する努力を続けておられる。
「Eranos」に発表されている論文もあるが、書き下ろしの論文もある。
そのようなご本を贈っていただくのは有難いことである。
有難いことではあるけれども、怠け者の弟子にはとてつもないプレッシャーになる。
したがって、「スミマセン」と謝ってしまう。

 先生としては、別に私をびびらせようとしてご本をお送り下さっているわけではない。
新しい本ができたし送っておこうぐらいの軽い気持ちである(と思う)。
そう思いたいのであるが、やはり、「こやつはほっとくとすぐ怠けるから、こういうものを送って少しハッパをかけよう」というふうに勝手に先生のお気持ちを読んでしまう。
そうとしか読めないところが、怠け者の弟子の悲しさである。

 本日の大拙忌記念講演会にも体調がよかったらこられるとのことである。
いつも世の中をなめきって態度の悪い私が、コメツキバッタのごとく上田先生の前でヘコヘコする様子を楽しみたい方、どうぞおいでませ。

しかし、あくまでもメインは山田邦男先生のご講演です!

【追記】
上田先生は元気に講演会に参加されました。
山田先生に「大変よく分かるお話でした」と感想を述べておられました。
その上で、「私は、ここまで来て、これでいいのだろうかと考えるのです。そして、どうなるのかとエスを主語に考えるんです。Wasという問いがそのままWasという答えになるような境地があるのではとこのごろ思うんです」と述べておられました。
直立不動のまま「はあ」とか間抜けな受け答えをしていたのは、私です。
posted by CKP at 14:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月05日

それでも人生にイエスと言う――山田邦男先生講演会

 来る7月7日大谷大学宗教学会主催の大拙忌記念公開講演会が開催されます。
今年は大阪府立大学名誉教授というよりヴィクトール・フランクル研究の日本での第一人者である山田邦男先生に「それでも人生にイエスと言う」というタイトルでお話いただきます。

 フランクル――アウシュヴィッツを生き延びたユダヤ人医師。『夜と霧』の著者ですね。

 講演タイトルから察するに、おそらくこれまでの山田先生の研究というか生き方の探求の集大成といったお話になると思われます。
午後4時20分より大谷大学尋源館(赤レンガ)二階の尋源講堂で開催されます。
是非是非、ご参加あれ!

追記、最初「それでも人生にイエス問い言う」と誤記してしまいました。
フランクル並びに山田邦男先生、そして読者諸賢にお詫びするとともに訂正いたします。
しかし、なんだか意味ありげな誤記で、ひょっとしたら考え込んじゃった方がおられるかも知れません。
お疲れ様でした。スミマセンデシタ。
posted by CKP at 18:02| Comment(1) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月01日

大谷大学教職員学生有志ボランティア(臨時便)出発

教職員学生有志ボランティア(臨時便)がきょう出発します。
参加希望者が多かったため、当初予定した第1便と第2便のあいだに臨時便を設けました。
前回と同じく、仙台を拠点にして石巻で活動する予定です。

活動の速報は、Facebookをご覧下さい。(モバイル機器に強いメンバーが、おそらく随時報告をアップすると思います。そういうのに弱い私は、せめて力仕事で役に立とうかと・・・)
http://www.facebook.com/otani311

腰を痛めて皆に迷惑をかけないよう、気を付けます。では!
posted by (藤) at 14:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする