2011年05月30日

坂東曲はアフリカン――親鸞の野性の証明

 28日の土曜日は、福井教区のご門徒さんと一緒に東本願寺に団体参拝。
親鸞聖人750回ご遠忌の最終日にお参りできた。
お勤めは、「坂東曲( ばんどうぶし)」。
100人余りのお坊さん方が身体を激しく前後左右に揺らしながら、お念仏や和讃を荒々しく称える、門外不出のお勤めである。
ほぼ中央、前から3番目の席、文字通りの「かぶりつき」。
あんなにまぢかで拝聴したのははじめてである。
力強いユニゾンの声明の強烈なビートに圧倒された。
どう考えても、京のみやびな歌ではない。
まるで利根川の両岸から怒鳴りあうような歌声である。
身体の激しい動かし方も、トランス状態寸前という感じの荒々しいもので、今の日本ではあまり見られないものである。
アフリカンなビートと言ってもよい。
あれで、立って称えていたならばピョンピョン飛び跳ねるところまでいくであろう。

 なんとも野生的な声明であった。
その野性性は、肖像画で伝わる親鸞の野性性に通じるものがある。
井上雄彦氏も昨年の報恩講で坂東曲に接したはずである。
おそらく、屏風絵に描かれた「泥の川を民衆と共に歩く親鸞」にあの坂東曲の野生的な響きが刻まれているはずである。

 それに比べると、私自身の親鸞理解はまだまだお上品なのではないか、などと思ってしまう。
生・老・病・死もそうとうに人工化されたものとして向き合っているのではないだろうか、と深く反省しているのであった。
荒々しい生・老・病・死にふてぶてしく向き合った親鸞――そんなことを考えさせる坂東曲でした。
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2011年05月26日

たわむれにサンデルはすまじ――私があった「痛い目」

 かねがね聞いてはいたのである。
「不用意にサンデルの真似をすると痛い目にあいますよ」と。

(藤)先生によれは、サンデルの授業を見て「俺もひとつ白熱教室を!」と思い、講義中にいきなり学生に「君はこの問題をどう思うのかな?」と質問し、「ハァ?」と反応されるという〈痛い目〉にあっている大学教員があとを絶たないという。
サンデル先生は、講義の前にゴッソリと課題を与え、調べたり読んだりしてもう発表したくてウズウズしている学生に質問しているそうだ。
思いつきでサンデルしよーっと、講義中に質問すると痛い目にあうのである。

 この前のシンポなどはまさにそれだったなぁー、(藤)先生の忠告を忘れて「痛い目」にあっちゃたなぁー、と未だに反省の日々なのであった。
「白熱シンポジウム」などをねらってはなりませぬ。
げに聴くべきは、(藤)先生の忠告なのであった。

 マールブルクのルドルフ・オットー・シンポジウムに参加された村山先生の方は、なかなか好評を博した講演となったそうな。
きっと、講演中に不用意にサンデルの真似をするということをなさらなかったのであろう( という問題でもないだろうが)。

 ま、とにかく、大学教員たるもの、戯れにサンデル教授のまねをして白熱教室を!などということは、ゆめゆめ思う勿れ、ということであります。
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2011年05月16日

井上雄彦「親鸞・屏風絵」は座って観るべし――シンポのほうはさんざんでしたけど・・・

 昨日、「死といういのちの相(すがた)」のシンポジウムの司会をするために、東本願寺にいったとき、井上雄彦さんの「親鸞・屏風絵」を観てきました。
今まで、晩年の親鸞の絵像に親しんでいる者にとって、井上さんの若い親鸞はとても新鮮な親鸞でした。
民衆と共に泥の川を歩く親鸞も迫力ありましたが、烏とにらめっこする若々しい親鸞が私には魅力的でした。
なんだか、「これが私の描いた親鸞ですけど、文句あるぅ?」というようなすっとぼけた感じが、ユーモアと自信を静かに伝えておりました。

 ただ、ほとんどの人が、美術館で鑑賞するように立って観ておられました。
畳の部屋に置かれた屏風ですから、座って鑑賞すべきでしょう。
座って下から見上げると、親鸞の視線や手の大きさが、確かな説得力を持って迫ってきます。
立ったまま観てしまった方は、もう一度座ってご覧になることをお勧めします。
(本来ならお茶などすすりながら、「またこりゃ、えらい若い親鸞さんですなぁ」とかなんとかしゃべりながら拝見するとよろしいのでしょう。)
第2次の公開の最終日の18日には、「最後のマンガ展」をプロデュースなさった大桑さんという方のお話もあるそうです。

http://www.higashihonganji.or.jp/info/news/detail.php?id=301

 さて、一方、「死といういのちの相」というシンポ。
正直な主催者発表では2000人の方々にご参集いただいたようです。
最初は1500人くらいかな、と思って見回していたら、あれよあれよと2000人に増えていったそうです。
皆さん、「死」という問題に関心があるんですね。
また、今の文明の中で生きるということを問い直さねばという思いがあるんですね。

 しかし、司会としての能力不足で、議論を深めることができず、後悔、後悔、また後悔で昨夜は眠られぬ夜を過ごした私です。
まとまらないのは始めから分かっていましたが、あそこまでバタバタだと、こられた方は「金かえせ〜!」という感じでしょう(無料ですけど)。

 なかでも藤原新也さんの被写体に対するスタンスについてのお話を、もう少し突っ込んでお聞きできたら、と後悔しきりです。
藤原さんは、無頼派的な見かけによらず、実に誠実な方で、びっくりしました。
(ウチダユーヤ的な言動をとられるんじゃないか、と最初はビクビクしていた弱気な私です。)
シンポの後でお聞きしたお話がとても興味深かったのです。
それをあそこで引き出しておれば・・・と後悔日記をつづる私でした。

 マールブルクのシンポのほうはいかがだったのでしょうか?
機関銃のようなドイツ語攻撃をかいくぐって無事生還なさることを念じております。

 なお、いったん中止になっていた鷲田先生が講演なさる「老といういのちの相」のシンポは、9月25日の午後に開催される運びとなりました。
こちらは、気配りと愛嬌の鷲田先生が、じっくりと議論を深めてくださるシンポとなるでしょう。
予定に入れておきましょう。
posted by CKP at 15:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月13日

シンポジウム:人間といういのちの相(すがた)――5月15日午後1時より

 東本願寺で「人間といういのちの相(すがた)」というシンポジウムが開催される。
「生・老・病・死」という人間の四つの相をそれぞれ一回ごとのテーマにしたシンポジウムで、今回は最終回の「死」をテーマにしたシンポジウム。

 この15日の日曜日、午後一時から東本願寺で開催される。

http://www.higashihonganji.or.jp/goenki/gyoji/inochinosugata/

 最初に田口ランディさんが一時間ほどの講演をする。
そして、それを受けて、ホリスティック医学の帯津良一さん、写真家の藤原新也さんがランディさんとディスカッションを展開する、ということになっている。

 わたくし、門脇健がコーディネーター、つまり司会をするのです。
が、強烈な個性のお三人である。
ほっておいても、話は展開してゆくであろう。
気の弱いわたしは、死んだふりしてひたすら聞き役となるでしょう。

 井上雄彦さんの親鸞の屏風絵も、少し楽に見学できる状況になってきているようです。
シンポも井上・親鸞も、太っ腹な東本願寺は無料公開です。
どちらが、主になるかはそれぞれでしょうが、どうぞおついでに覗いてくだされ。
posted by CKP at 11:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月09日

第7回 ルドルフ・オットー国際シンポジウム――ドイツ・マールブルク大学にて

 5月の12日から14日、ドイツはマールブルク大学の福音神学部で第7回国際ルドルフ・オットー・シンポジウムが開催される。
『聖なるもの』で有名なルドルフ・オットーを記念して3年毎に開催される国際研究シンポジウムである。
今回のテーマは「Geschlechtergerechtigkeit: Herausforderung der Religionen」。
「性の公正:諸宗教への問いかけ」とでも訳せるだろうか。
男性・女性の性を意味するドイツ語Geschlechtの複数形に公正とか正義を意味するGerechtigkeitがくっついている。
Herausforderungは、ふつう挑戦とか挑発と訳される。
このシンポジウムが好きな言葉である。
「性」の問題の場に、それぞれの諸宗教を引っ張り出してくるというようなニュアンスだろうか。
性の公正という問題が、諸宗教に挑戦するというニュアンスである。
あるいは議論へと挑発する。

 過去数回、大谷大学からも参加して、プロテスタントはもちろんカトリック、ユダヤ教、イスラム教、そしてインド・チベット仏教などと研究者と意見を交換してきている。

 今回は、我が哲学科の村山保史先生が参加され、最終日14日の11時より発表される。
もちろんドイツ語での発表でタイトルもドイツ語で長い。
「Genderimplikationen in Symbolisierungen des Gottlichen in buddhistischen Traditionen in Ostasien.」(ウムラウト抜き)。
どんな話であろう?
観音様は男か女かとか言う話なのであろうか?
それとも、仁王さまのマッチョなスタイル、何とかならんか、という話だろうか?
まさかね。

 今頃のマールブルクは、アスパラガスがうまい。
これでビールを飲むと最高であります。

以下にプログラムを貼り付けます。
近くにおられる方は、是非ご参加を!

http://www.uni-marburg.de/fb05/fachgebiete/religionsgeschichte/forschung/ROS/ros2011/ros2011programm
posted by CKP at 17:59| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月06日

満ち足りた寂しさ――イリーナ・メジューエワの弾くシューベルトのピアノ・ソナタ

 このところイリーナ・メジューエワというロシア人の女性ピアニストの弾くシューベルトのピアノ・ソナタばかりを聴いている。
それも2枚組のCDの一枚目のピアノ・ソナタ第18番ト長調ばかりを聴いている。

 とっても良いのである。

 最初の和音の連打の響き。
長調だけれどもどこか寂しげな和音が、弱音で、ピアノの響きを確かめるようにゆっくりと弾かれる。
なんとも心地よいのである。
寂しさの充ちている静けさを音にするとこうなるんだろうな、という感じで弾かれている。
その音が聴いている身体全体に沁みわたる。

 1828年に31歳で死んだシューベルトが、その死の2年前、あの歌曲集『冬の旅』の1年前に書いたピアノ・ソナタである。
ベートーヴェンのように、ひとつのモチーフが次々と展開されてアタマを興奮させる、というようなピアノ・ソナタではない。
どこかぎこちないとつとつとした語り口が、いつものシューベルトである。
しかし、メジューエワの弾くピアノの音は、アタマを興奮させることはないが、身体に静かに沁み込んでくる。

 シューベルトというのはこのように弾かれ、そして聴くのだなと納得できる演奏であり、録音である。
そのようにして聴くと、シューベルトという人の音楽の寂寥感が空虚なものではなく、どこか満ち足りたものであることが体感される。
つまり寂しさや孤独をことさら嘆くのではなく、静かな諦念をもって受容しつつそれを音楽に昇華しているのである。
ときどき舞曲風の旋律もあるが、それらはまるで寂しさとのダンスと言えるような響きを持っている。
あの調子のよい「楽興の時」の第3番の愛らしい曲も、そんなニュアンスがあるのではないか、と思いいたった。
一度、この人の演奏で聴いてみたい。

 このイリーナ・メジューエワという人は、どういうわけか日本を中心にして演奏活動をするロシア人ピアニスト。
昨年のショパン・イヤーで数々のショパン・アルバムを出し、レコード・アカデミー賞を獲得している。
そのときのアルバム・ジャケットはどれも彼女が背筋をすっと伸ばしてピアノをバックに少し大きめの瞳でどこかを見つめている写真。
ところが、このシューベルト・アルバムでは、エゴン・シーレがジャケットに使われている。
何かシューベルトに特別の思いれがあるのだろうか?
しかし、その演奏は決して連綿たる思い入れがうっとおしいというものではなく、楽譜の音をきちんとと弾いたらこんな響きが聴こえてきました、という何かとてもすっきりしたものである。
しかし、身体に深くうったえるのである。

ホント、いいですよ。

 2枚組のCD,1枚目に飽きたら2枚目を聴こうと思っているのですが、なかなか2枚目に行けません。
富山は魚津の若林工房というところで制作され、通信販売を中心に販売されているようです。

http://www.waka-kb.com/cd/


 蛇足ですが、この人のシューベルトを聴いていると、無性にセレニアス・モンクの演奏が聴きたくなるのはどうしてでしょう。
そうやって聴くと、なんかね、「’round midnight」が、すっごくわかるんですよ(ソロでもセッション盤でも)。
騙されたと思って、流れで、聴いてみてください。
やっぱり騙された、ということになるかも知れませんが・・・
posted by CKP at 17:34| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月05日

井上雄彦の「屏風日記」――ポスト・カードで見てしまった

 前の記事で、井上雄彦氏描く親鸞の屏風絵の一般公開について書きました。
以前から有名な話だったんですね。
ぜんぜん知りませんでした。
大谷大学にいても、近くて遠き東本願寺。

 その井上氏のブログに「屏風日記」を発見!
なかなか読ませ、泣かせます!

http://itplanning.co.jp/news.html

 昨日、「こどもご遠忌」で東本願寺にお参りした奥さんと子どもさんが、屏風のポスト・カードを買ってきてくれました。
最初、へーぇ・・・・若い親鸞?
「どっかのおばあちゃんが拝んでたよ」
やはりホンモノを見ねば。

 ちなみに、私は母親と吉崎に向かわれる蓮如さまの御影をお迎えに行っておりました。
ナント信心深い家族でしょう。
posted by CKP at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月02日

井上雄彦の描く親鸞――バガボンドはどこへ向かうのか

『スラムダンク』、『バガボンド』そして『リアル』の井上雄彦さんが、親鸞を屏風に描かれた。
まだ実物を見てはいない。
現在、東本願寺で第2次の公開期間が始まっている。

http://www.higashihonganji.or.jp/info/news/detail.php?id=260

 15日には東本願寺に行けるから、そのときまで『バガボンド』を読み直して、武蔵の成長の跡を辿りながら、どんな親鸞が描かれているのかを想像して見たい。
井上さんは、描く対象とともに成長し、自分が変わってゆく作家だ。
親鸞を描き、そして語るときの穏やかな表情は、『バガボンド』で静かな面立ちへと変化してきた武蔵とそっくりだ。
そんな迫力で井上・親鸞は語りかけてくるのだろう。
楽しみです。

 

posted by CKP at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする