2010年12月30日

今年のベスト3――我田引水編

 本日、本堂の掃除終了なう。

 さて、ベストはベストでも自己ベストのトップ3は・・・と言っても三つぐらいしかないのですが。

ベスト1は『宗教研究』365号の「スピリチュアリティ」特集号に書いた「霊はどこを徘徊するか――カント、シラーそしてヘーゲルの場合」。
18世紀から19世紀にかけてのドイツ語圏で、ガイスト(=霊・精神)というドイツ語がどのように使われていたかをねちねちと辿った論文。
会員のみ配布ですが、ぼちぼち大学図書館や古本屋に出ている頃です。
ちなみに、これを読んだある方から〈ある雑誌の「シャーマニズム特集」号を編集するから、この論文をもう少し一般向けに書くように〉と依頼されました。
「スピリチュアリティ」でヘーゲル書くのもずいぶん番外地だと思っていましたが、ついに「ヘーゲルはシャーマンである」という領域に入ってきました。
ヘーゲル研究網走番外地であります。
その論文ももう一本書いた論文も来年刊行。

でベスト2は去年の同朋新聞の葬儀についてのインタビュー記事が書籍のかたちになったもの(このブログ内でも読めますが)。
『人間といういのちの相』(東本願寺出版)。
1,000円也ですが、作家の高村薫さんや雨宮処凛さんなどのインタビューもあるので、けっこうお得です。

ベスト3も去年書いた(ひょっとしたらもにとつ前の年?)「苦」についての項目が収録されている『宗教学事典』(丸善)。
日本宗教学会の錚々たるメンバー二よって編集されている事典。
な、なんと21,000円也。
ぼちぼち図書館にお目見えするころです。

 あと2月に宮崎哲弥・香山リカさんと行った鼎談が活字になっています。
ところが、これは東本願寺の配布用パンフレット。
この二人だったら全部起こして、新書にすればけっこう売れるのにね。
もったいない。
売れたら、私も余禄に預かりウハウハの印税生活だったかも・・・

 というわけで今年もくれます。
一年間、ご愛読ありがとうございました。
みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。
では、また来年!
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2010年12月27日

今年のベスト3――本とCDそしてDVD

 年内の檀家さん回りと年明けの「修正会」の案内発送、ともに終了なう。
今から年賀状書き。
というわけで、「かおるちゃん、遅くなってごめんね」状態で年賀状が着くと思われます。
許されよ。

 というわけで吉例今年のベスト3。
まずは本のベスト3。
まずベスト1は、ウチダ本から。
内田樹先生のご本は今年も何冊出たのやら。
『日本辺境論』から『もういちど村上春樹にご用心』までどんだけ出すんじゃ、と思っていたら、この期に及んで高橋源一郎氏との対談本『沈む日本を愛せますか?』が出ている。
ええかげんに千駄ヶ谷であるが、わたしが今年拝読してありがたかったウチダ本は『街場のメディア論』(光文社新書)でした。
メディア批判も面白かったが、後半に展開されるマルセル・モースの『贈与論』の読みがガツンと来ました。
今まで「贈与―返礼」と等価交換の違いがよく分からなかったのだが、これですっきり。
これを読めば、アラ不思議、親鸞の往相回向・還相回向の働きもすっきり分かる(はずだと思います)。
二番目は、シモーヌ・ヴェイユ/冨原眞弓訳・解説『根をもつこと(上・下)』(岩波文庫)。
翻訳の清潔な文体、本文と同じくらいの量の詳細な注、簡にして要を得た解説。どれをとっても翻訳の規範となるようなお仕事にただただ脱帽でした。
三番目は、言わずと知れた朴一功著『魂の正義―プラトン倫理学の視座』(京都大学学術出版会)。
なんだかんだといっても根性がどうしようなく正義である朴先生の人柄がにじみ出る力作でありました。

 次にCD部門。
ベスト1は、ブライアン・ウィルソンの『Reimagines Gershwin』。
ベスト2は、エレーヌ・グリモーの『レゾナンス』。
この二つについてはすでに当ブログに書きました。
三番目は、アイリッシュ・ミュージック・グループのチーフタンズとライ・クーダーの合作『SAN PATRICIO』。
アメリカ・メキシコ戦争のとき、アメリカ軍を裏切ってメキシコ側に付いたアイルランド出身者の部隊「サン・パトリシオ」にちなんだ歌曲集。
全滅してゆく部隊を歌ったメキシコ風、アイルランド風の楽曲にはなんともいえぬ味わいがある。
リンダ・ロンシュタットも一曲参加してますよ、お父さん。
また、『パリ・テキサス』の8ミリのシーンで流れていた「カンシオン・ミクステカ」も二つのヴァージョンで聴けます。
ライ・クーダーという人は、惨めだけど味わい深い人生を歌わせ演らせたらもう右にも左にも出る人はいませんね。
(ちなみにこの戦争に大勝利したペリーは、5年後、浦和に現れることになる。)

 最後にDVDのベスト3。
ベスト1はブルース・スプリングスティーンの『ロンドン・コーリング・イン・ハイドパーク』。
なんど観ても気持ちよい。
ベスト2はキャロル・キングとジェイムス・テイラーの『トルバドール・リユニオン』。
なんど観ても泣けます。
以上は、すでにブログに書きました。
で、3番目は、どうしよう?
アバドとエレーヌ・グリモーの『ロシアン・ナイト』。
ラフマニノフの第2番のピアノ協奏曲。
アバドを見つめるグリモーの目がよい(というのは音楽評になってないが)。
しかし、ラトル=ベルリン・フィルの『くるみ割り人形』についていたDVDがよい。
指揮者ラトルとこのオーケストラが一体となって楽しみながらこのあまりにも有名な曲を演奏している姿が、感動的なのである。
ラトルのインタビューも面白い。
ラトルもやっぱりディズニーの『ファンタジア』でこの曲の楽しさに目覚めたみたいです。
偉大なり『ファンタジア』!

 番外としてSACD−SHM。
これでダイアー・ストレイツの『悲しきサルタン』、ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』、それにビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』を聴いた日にゃ、もうおしっこちびりそうになりました。
SHMだけだと、(藤)先生が「プラシーボ効果じゃないんですかぁ」などとコザ憎いことをほざきあそばすのであるが、SACDのシングルレイヤーとなるともうそんなことは言わせません。
SACDがかかるプレイヤーにしておいてよかったとしみじみ思った2010年でした。

 これらを読んだり、聴いたり、観たりしていたときだけが幸せな一年でした。
あ、それと沢井整体院でぐりぐりしてもらっているときと・・・これは至福のひととき・・・それだけ・・・
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2010年12月22日

ユダヤ人のクリスマス――「火あぶりにされたサンタクロース」と『A Christmas Gift for You (from Phil Spector)』

サンタクロースとクリスマスつまりイエス・キリストの誕生日とは、もともと何の関係もない。
サンタクロースはむしろ日本で言えば秋田の「なまはげ」と同類の人物である。
それが、20世紀初頭のアメリカでコカ・コーラの「赤」をまとって、世界中に広まったのである。

 クリスマス・ツリーにしても、北欧の古い樹木崇拝のなごりであり、日本の門松と同類の習俗である。
雪のなかでも緑の樹木に、永遠の生命を見たのである。
それに、ヒイラギやナンテンの赤い実。
これも生命を象徴する血の色。
したがって、クリスマスはすぐれて人類学の対象となる行事なのであった。

 人類学者クロード・レヴィ=ストロースがクリスマスを扱った(おそらく)唯一の作品に「火あぶりにされたサンタクロース」がある(中沢新一訳『サンタクロースの秘密』せりか書房所収)。
フランス語のタイトルは、「火あぶり」ではなく「supplicierされたペール・ノエル」つまり「拷問にかけられたクリスマスおじさん=サンタクロース」である。

 しかし、実際は中沢氏の翻訳どおり「火あぶり」されているのである。
レヴィ=ストロースの引用する新聞によると、1951年、フランスのある都市のカトリック教会でサンタクロースをアメリカ経由の異教の神として、「教区内のすべてのクリスチャン家庭を代表して、250名の子供たちが、ディジョン大聖堂の正門前に集まり、火あぶりにした」のである( もちろん人形でしょうが)。
その記事には「サンタクロースはホロコーストの犠牲になったのだ」という表現さえ見える。
ナチスによるホロコーストが明らかになってまだ6年しか経っていないとき、ユダヤ人レヴィ=ストロースに、このようなキリスト教徒の行為はどのように映ったか?

 しかし、レヴィ=ストロースはクリスマスそのものを否定するわけではない。
むしろ、なぜ大人たちは細心の注意をはらって、子どもたちにサンタクロースの存在を信じ込ませようとするのか、という観点からこの論文を書いている。

 少し長いがその結論部分を引用する。

「私たちは、子供らにとってのサンタクロースの権威を傷付けないよう、いろいろな犠牲を払って、気を配っている。このことには、私たちが心の奥底では、ささやかなものとはいえ、見返りを求めない気前の良さとか、下心無しの親切さなどというものが存在することを信じていたい、という欲望を抱き続けていることが、示されているのではないだろうか。ほんの短い間であってもよい、あらゆる恐れ、あらゆる妬み、あらゆる苦悩が棚上げされる、そんなひとときを、私たちは望んでいるのではないだろうか。
   (中略)
私たちは、このおもちゃはあの世からの贈り物なんだよ、と子供たちに教える。しかし、実際には、私たち自身がそうした贈り物をあの世に届けたい、とひそかに欲望しているのではないだろうか。クリスマスのプレゼントは、そういう私たちの心の秘密の部分に、ひとつのアリバイをあたえているのだ。クリスマスの贈与。それは生きていることの穏やかさに捧げられた「サクリファイズ(供犠)」なのだ。生きていることは、何よりも、死んではいないことによって、ひとまずの穏やかさを表現しているからだ。
 (中略)
 そこには、子供たちがサンタクロースの実在を信じてくれると、私たち自身も、生の意味が信じられるようになるだろう、という期待がこめられている。」(53〜55ページ)

 死者にお供えをして生命の復活する新しい春を迎える――世界各地に見られる儀礼が、サンタクロースが「火あぶり」にされることによって、サンタクロースを象徴とする「クリスマスの贈与」として復活したのである。
大人の世界の外にいる子どもたち=他者=死者への贈与として復活したのである。

 最初に書いたとおり、もともと樅の木も、サンタクロースも、トナカイも、イエスの誕生とは何の関係もない。
ベツレヘムあたりをサンタのおじさんがあんな暑苦しい格好してトナカイを駆っているという図は考えられない。
12月25日だって、イエスの誕生日ではない。
太陽の復活つまり冬至とイエスの誕生が無理やりくっつけられただけなのである。
その奥にある春に向けての生命の復活を待望する気持ちが、サンタクロースの復活を通じて前面に登場したのであった。
 
 レヴィ=ストロースは、キリスト教徒の「サンタクロースのホロコースト」という残虐な行為を逆手に取り、「クリスマスの贈与」=「生きていることの穏やかさに捧げられたサクリファイズ」の鮮やかな復活を宣言するのである。
このサクリファイズという言葉のユダヤ人レヴィ=ストロースにとっての意味を考えるとき、「生きていることの穏やかさ」という言葉のリアリティが迫ってくる。

 クリスマスの贈与――この美しい言葉が反響しているのが、同じくユダヤ人でレコード・プロデューサーであるフィル・スペクターのクリスマス・アルバム『ア・クリスマス・ギフト・フォー・ユー(フロム・フィル・スペクター)』。
いわゆるコンセプト・アルバムの嚆矢と言われるアルバムである。

 スペクター独特のウォール・オヴ・サウンドによるポップなクリスマス・アルバム。
ダーレン・ラヴやロネッツ(「ビー・マイ・べイビー」の!)が、リボンをかけたクリスマス・ギフトの箱から飛び出す楽しいジャケット・デザイン。
1963年のケネディ暗殺と同じ頃に発売されたため売り上げは伸びなかったという。
しかし、売れなかった理由はそれだけではないのかもしれない。
アルバム全体に、イエスの誕生を祝う敬虔さが希薄なのである。
それよりも、プレゼントすることの大切さ・楽しさが前面に出ているように思うのは、思い過ごしであろうか?

 永遠の生命を象徴する緑と赤の包み紙やリボンに包まれたプレゼント(『ノルウェーの森』の表紙の色でもありますね)。
キリスト教徒じゃなくても、いやキリスト教徒じゃないからこそ、「生きていることの穏やかさ」にあやかりたいもんです。


 


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2010年12月20日

越前屋俵太は達者でござる――リミッターをはずせ

 先週の金曜日、越前屋俵太氏と話をする機会があった。
現在は関西大学の客員教授としては谷雅徳、書家としては俵越山を名乗っておられる。
本学の短期学部で書道の非常勤講師をお願いしている関係でお会いしたのであった。

 以前の福井で「達者でござる」というテレビ番組で活躍されていた。
その番組のファンであった私は、当然ながらそのテーマソングを口ずさみながら、お会いすることになる。
チャンチャンカ、スカスカ、スカスカチャン・・・
すると、谷氏は一挙に「昔の名前で出ています」状態。

 その番組は、越前屋俵太氏が「見回り奉行」の格好で、福井県のいろんなところに出没し、おばちゃんやおっちゃんにいろいろ話を聞くという番組であった。
視聴率30パーセント。
そのコンセプトから今の鶴瓶師匠の「家族に乾杯」などが作られるようになったという。

 確かに、あの番組での越前屋氏の「聞く技術」というのは凄かった。
普段はようしゃべらん北陸のおばちゃんが、笑いながら生い立ちなどを語るのである。
私も、坊さんの格好でいろんなおばちゃんやおっちゃんの話を聞くということを仕事の重要な部分にしているので、楽しみながらも大いに勉強させていただいた。
そのときのビデオは「コミュニケーション・スキル」の講義で使っておられるそうである。

 が、それがいつの間にか「書家」になっておられる、そのきっかけをお聞きしてなるほどな、と納得。
遠いきっかけは榊莫山氏との出会いだそうである。
あるテレビ番組でご一緒して、食事のときに、恐る恐る話しかけたそうな。
そこで「白い紙の上での解放・自由」という莫山先生の言葉に感動された。
(その話は、一席の落語のように面白かった)。
そして数年後、書を通じての解放・自由を求めて「書家」となられた。

 ある県の小学校の書道の先生方の集まりに呼ばれ、小学生を指導されたときのことをお聞きして、なるほどなと思う。
「こんなとこへ私みたいなのを呼んで大丈夫かいな」と思いつつ、大きな箒状のもので書く。
書き出して紙が固定されてないことに気づき、書き順など無視して書く。
それを見ていた小学生が、その後、書き出しまるでトランス状態。
抑圧されていたものが一気に取っ払われる。

 その感じは、「達者でござる」において、口の重い北陸のおばちゃんたちから話を引き出す話術に通じるものがある。
つまり、リミッターをはずすということで共通したものがあるのである。
常に自分にリミッターをかけ、縮こまっている状態を解放したい――そのような願いが今の俵越山氏を駆動しているのであろう。

 常に外れっぱなしではいかんが、ここ一番というときにリミッターをはずすということは、今の時代、必要とされているのであろう。
とりわけ、私のような北陸の雪の中で育った人間は、ガンガンにリミッターをかけて抑圧し縮こまっているから、たまにははずすことが大切なのである。
posted by CKP at 18:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月16日

「長」――今年のかんじ

 一発逆転なんてないんだ。

 今年の世相を見ていて改めてそう思う。

 政治でも、経済でも、大学運営でも、個人的な悩みでも、どこかに一発逆転の妙案がある!とチェインジが叫ばれたが、どれもこれも見事にアウト!

 問題を一つひとつ分析し、処理しながら、着実に進むほかないなぁーと改めて思う。
ここらで、先は長いぞ、と腹をきめて、歯をくいしばって、一歩一歩前へ進むことを覚悟せねば何事も変わらん、と肝に銘じなければならんだろう、と思う。

 というわけで、今年のかんじは「長」。
でもって、当然、ア・チョー!
posted by CKP at 19:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月11日

トラブルに出くわしたら―靴はやっぱり履いていたほうがいいよね、マクレーン君

 昨日は「危機の時代の大学経営」というシンポジウムの聴講で出張。
大学が危機ではなく、時代が危機であるというなかなか微妙なタイトルである。
が、8年後には120万人の18歳人口の100万人へ向かっての急下降が始まるという危機感を持った大学関係者がわらわらと集まっておられた。
会場は満席。

 発言者の危機感にじむ発言を固唾を呑んでお聞きした。
唯一、会場が爆笑に包まれたのは元JTB社長の船山龍二氏の発言。
旅行にはトラブルが付き物。
「JTBはジャパン・トラブル・ビューローかなんていわれましてね」
と落語家みたいな口調で言っておられた。
トラブルが起こったときソリューションへむけての行動できる人材を求めているんです、と発言しておられた。
発言の端々に、幾多のトラブルを超えて会社の運営をしてこられた凄みが感じられた。

 「就業力」とか「学士力」とかいろいろ言われるが、社会が求めているのはこの「トラブル→ソリューション」という行動力である、ということがよく伝わる発言であった。

 大学での学問というのは、社会から見れば、その「トラブル→ソリューション」の予行演習でなければならない。
そういうことなのだな。
トラブルが起きないようにマニュアル通りに行動する能力が求められているのではない。

 学問上では、問題はトラブルとはいわずプロブレムという。
そのプロブレムがプロブレムなのは、それが今の自分の問題解決能力を超えているからである。
学問とはまずそのことをきちんと把握・分析することから始まる。
自分の力で何とかなるというような驕った態度では、事態は変わらない。
変わらないどころかどんどん悪化する。
怠惰な学生は、「自分で考える」と称してこうゆう事態に陥っている。

 この問題は自分の解決能力を超えている。
助けを呼ばねばならない。
ヘルプ!
ビートルズは偉大なのである。

まず、周りの先達に相談する。
先行研究に教えを請う。
うまく助けが見つからないとき、腹を決めて、問題を分割して、とにかくできるところからひとつずつ解決してゆく。
身の回りにある使える道具は何でも使う。
一発逆転的解決はすっぱりあきらめる。
一歩一歩少しでも前に進む。
だから論文は長い。

 というプロブレム対応法は、実はトラブル対応法でもあるはずだ。
ということは、学問の方法とは『ダイ・ハード』のジョン・マクレーン刑事のやり方でもあるはずだ。

トラブル発生。
考えろ、落ち着いて考えろ!
そうだ、火災報知機で助けを呼ぼう。
うまくいかない、じゃあ、敵の通信機を使おう。
マクレーンは一人で戦うのではない。
が、結局、一人で戦うのだが、そのときも、敵を分析し、一人一人片付けて行くのである。
途中で何度ももうダメかと思うような長い長い戦いなのである。
すると、応援してくる人は必ずいる。
が、靴を履いていなかったのはまずかった。
やはり、不用意に靴を脱いではいかんよね、マクレーン君。

勉強になるなぁー『ダイ・ハード』。
(『ポセイドン・アドベンチャー』も勉強になりますね。今度は『タワーリング・インフェルノ』で勉強しよーっと。)





posted by CKP at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月09日

成長する時の秘密=『ローマの休日』の秘密

 はい、またお会いしましたね。
今日は、1953年のウィリアム・ワイラー監督作品『ローマの休日』を一緒に観ましょうね。
はい、見事な見事な作品。
あなたも何度もご覧になってますね。
あら、一度も?へぇー、珍しい。
一生に三度は観ましょうね。
はい、でも今日は、今までとは違う角度、違う視点で観てみましょう。
それは、「秘密」の問題、王女さまの秘密、それを追う海外特派員。
こんなややこしい問題を、このオードリー・ヘップバーン主演の可愛い可愛い映画が扱っていたんですね。
ヒッチコック監督のスパイ映画『海外特派員』もヒントになったでしょうね。
さすがワイラー監督ですね。
憎らしいですね。怖いですね。

そうなんです。この映画、ある国の王女さまがローマで失踪するという話です。
これは国家の一大事。
ローマにその国の秘密警察が送り込まれます。
そして、新聞記者もそれをかぎつけて動きます。
あらら、王女さまのちょっとした「家出」が国家の秘密になってしまいます。
この国家秘密が暴露されるのかどうか、そんな話でもあるんですね。
でも、この秘密、暴露されませんでした。
なぜでしょう?どうしてでしょう?考えてみましょうね。

 毎日毎日が同じ日というのに飽き飽きした王女様は、「ミルクとクラッカー」を食べても眠られない夜、ローマの大使館を抜け出します。
そのとき睡眠剤を注射していたんですね。
ローマの街でゴロンと横になっていた。
ま、お行儀の悪いこと!
それをグレゴリー・ペック扮するアメリカの特派員に発見されます。
「育ちや良さそうやけど、酔っ払ってこんなとこで寝てるなんて・・・」
新聞記者は警戒しながらも、結局自分の安下宿に泊めます。
あらまあ、大丈夫かいな。
あくる朝、寝坊した新聞記者は王女の記者会見に遅刻。しかし、記者会見そのものが中止。
王女は病気という発表。しかし、その王女の写真と見ると「あの娘だ!」
新聞記者はいきなりそれまでの迷惑顔をにこにこ顔に変えて、友達のカメラマンと王女さまを街に連れ出し、特ダネを狙います。

王女がはじめてタバコを吸うところを隠しカメラでパチリ。
ヴェスパで交通違反をパチリ。
嘆きの壁の前にたたずむ王女をパチリ。
船上のパーティで大暴れをパチリ。

王女はそうやって写真を撮られているのを知りません。
というのも、その新聞記者は会社員と嘘をついていたから。
もちろん、王女さまも寄宿舎を抜け出した女学生と嘘。
両方とも嘘をついているからドキドキします。
だから簡単に恋に落ちる。
でも、それは絶対にかなわぬ恋。
「人生っていつも思い通りになるとは限らないものさ」
そんな新聞記者の言葉に彼女もうなずきます。

そして王女さまは大使館に帰ります。
まあ、そのときのヘップバーンの凛々しいこと!
きれいですね。素敵ですね。
昨日までのお嬢ちゃんが、もう立派な大人の女性。
まわりの人たちは、あまりの変貌ぶりにびっくりします。
もう寝る前の「ミルクとクラッカー」はきっぱりと拒否します。
しかし、どうしてこんなに変わったのか、この一日王女さまがどこで何をしていたのか、知らされません。
それは、秘密なのです。その秘密が王女さまをグイッと成長させたんやね。

翌日、王女さまは何事もなかったように記者会見に現れます。
そこにはあの新聞記者とカメラマンも。
そこで、王女さまは初めて恋の相手の素性を知ります。
「あの人、私を騙したのかしら」
ちょっと不安がよぎります。
しかし、新聞記者も友達のカメラマンもせっかくの一大スクープを握りつぶします。
彼らは、王女さまと秘密を共有したのです。
秘密による信頼関係を、特ダネより大切したのでした。

もちろん、新聞記者は迷います。
特ダネを公表すべきか?
でも、それは大切な一日だけの恋の思い出も握りつぶすこと。
しかし、記者としての仕事はどうなる?
だからラストシーンのカメラが揺れるのです。
この新聞記者の心のように揺れるのです。
憎い憎いキャメラ・ワーク。
この特ダネを暴露しても誰も幸福にならない。おそらく記者はそう考えた。
たしかに、暴露することによって多くの人の幸福の可能性が見える秘密もある。
しかし、この秘密は王女さまにとっては大切な大切な秘密。
それは、人間の信頼を確かにする秘密。
その秘密を知っているのは、王女様と記者とカメラマンだけ。
そして観客と。

 でもワイラー監督は、王女さまと記者しか知らない秘密を観客に隠しました。
さあ、どのシーンでしょう。
いやらしいなあ、憎い演出やな。
それに気付いたはあなたはもう立派な大人ですね。

 ハイ、秘密は人を成長させますね。
E.L.カニグズバークという人の書いた『クローディアの秘密』にも人を成長させる秘密が隠されています。
ニューヨーク郊外のキンドケイト家の長女クローディアと次男ジェイミーのメトロポリタン美術館へ「家出」するお話。
二人はそこで謎に出くわします。
さ、どんな謎でしょう?
その謎のカギを握るお婆さんを訪ね、その謎を解き、その答えを三人の秘密にすることにしたとき、お婆さんはクローディアに言います。
「クローディアに必要な冒険は秘密よ。秘密は安全でだし、人をちがったものにするには大いに役立つのですね。人の内側で力をもつわけね。」

 というわけで、ローマという美術館みたいな街に「家出」した王女さまも、一気に大人に成長したんですね。
はい、もう時間が来ました。
いっぱい映画を見て、人生のお勉強をしましょうね。
また、お会いしましょうね。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
posted by CKP at 20:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月05日

ヒミツ・ひみつ・秘密――盗まれた手紙2010或いはダイ・ハード5

 ウキリークスというのがよく分からない。
アナーキスト的な政治集団なのか新しいスタイルのジャーナリズムなのか、それともマニアックなハッカー集団なのかよく分からない。
アメリカ政府はWLのリーダーのアサンジ氏の所在などは完全につかんでいるはずだが、手を出せない。
ということは、極めて不都合な機密を握られているということであろう。
しかし、逆に言えば、その機密を明らかにしてしまったら、彼らの身は危うくなる。
となると、今回のアメリカ政府の機密を少しずつ明らかにしてゆくという機密公開の仕方が分からない。
凡人には想像を絶するような展開を考えているのだろうか?

 第三者で今いちばんこの攻防を真剣に分析しているのはサスペンスの小説家やシナリオ・ライターであろう。

 で、サスペンスの作家的に考えると、このWLの情報を小出しにしてのアメリカ政府との攻防は、『盗まれた手紙』の2010年ヴァージョンとして分析できることに気が付いた。
ラカンはこの小説を分析したとき「この手紙は内容が秘密にされている限りにおいて、有効である」から、手紙が大臣に盗まれたとき、王妃は身動きのできない状態になってしまっているとした。
この手紙の力は、現在WLが機密情報を秘匿することによってアメリカ政府を身動きのできない状態にしているときに働いている力と同じ力である。
王妃=政府、大臣=WLという構図が出来上がっているのである。
となると、デュパンが登場して手紙をすりかえたのと同じことをやれば、政府は窮地を脱することができるということである。
具体的にどういうことなのかは分からないが、けっこう面白い問題ではある。
が、WKの連中ならばそんなことはとっくに考えてその先を読んでいるのだろう。

 あるいは、今頃、クリスマスも近いことだし、ブルース・ウィルスがジョン・マクレーンになってWKの本部に足を踏み入れているかもしれない。
クールで賢そうなアサンジュというリーダーを、マクレーンが激怒させるというのは『ダイ・ハード5』のテーマにぴったりである。
ダイ・ハードのシナリオ・ライターは、
「あ、まだパパは生きている。あんなに人を怒らせるはパパしかいないもの」
というセリフを使いたくてうずうずしているはずだ。

ラストは、
「ねぇ、パパ。どうやってあんなに怒らせたの?」
「あいつの秘密をばらすぞって脅してやったんだ」
「どんな秘密?」
「それはヒ・ミ・ツさ。」

アサンジ氏がけっこうマスコミに登場するのは、このような展開をあらかじめ読み切っているからなのか?
posted by CKP at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月02日

デカルトの「書物と劇場」――「まる9年の間」のコギト

 本日、木曜1コマ目は、哲学科の一回生の演習。
17、8名の一回生諸君とデカルトの『方法序説』を読んでいる。
現在は、第2部と第3部のあたり。
つまり、四つの規則と四つの仮の道徳(格率)が提示される箇所。

 デカルトは1629年から1620年の冬、ドイツの野営地の炉部屋にとどまり、四つの規則と同じく四つの仮の道徳を定め、その後まる9年の間、旅に出る。

「こうしてその後まる9年の間、世界で演じられるあらゆる芝居のなかで、役者よりはむしろ観客になろうと努め、あちこちとめぐり歩くばかりであった。そして各々のことがらで、疑わしい点、誤りやすい点について、一つ一つ反省を加えながら、その間に、わたしの精神に前から忍びこんでいたあらゆる誤謬を根絶していった。」(岩波文庫版谷川訳『方法序説』41ページ)

 デカルトは、世界を劇場とみなし、そこで演ぜられる芝居を「観客」としてみてまわったのである。
そして、芝居をいわば「他山の石」としながら自分の誤謬を根絶していったという。
ところが、ドイツの炉部屋にこもるまえ、つまりポアチエ大学を出て2・3年の間、やはり世界を見てまわっているときについては次のように書いている。

「・・・わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、青春の残りを使って次のことをした。旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまな経験を積み、運命のめぐり合わせる機会をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点を引き出すことだ。」(17ページ)
「・・・このように数年を費やして、世界という書物のなかで研究し、いくらかの経験を得ようと努めたあと、ある日、わたしの自身のうちでも研究し、とるべき道を選ぶために自分の精神の全力を傾けようと決心した。」(18−9ページ)

つまり「炉部屋以前」では世界は「(大きな)書物」。
「炉部屋以後」では、世界は「芝居」の演ぜられる劇場。
なぜ、世界は炉部屋に引きこもる前と後で、「(大きな)書物」から「劇場」に変化したのであろう?

 この変化を考えるということが、今日の演習の後半のテーマになった。
書物と劇場、何が違うのか?
私自身、チョットは考えてみたが、よく分からない問題なので学生諸君に考えてもらった。
が、もちろん、学生諸君とて、すぐにアイデアが湯水のごとく湧き出るわけではない。
で、分からないなりにああでもない、こうでもないということをしゃべっているうちに時間がきてしまった。

 すると、授業のあと、学生がやってきて、こう考えたのですがとアイデアを示してくれた。

Мさんは、「デカルトは、まず世界という書物を読む場合、著者の意図を読もうとし、世界という劇場で演ぜられる芝居では、役者の演技を見ようとしたのではないか」という意見。
なるほど。
次にやって来たY君は「デカルトは、まず書物の著者になろうとし世界という書物を読み、次には役者になろうとして世界という劇場で演ぜられる芝居をみたのではないか」という意見。
なるほど。

二人ともそれぞれすっかりデカルトに憑依している。
デカルトに憑依することをサボっていた私には、やって来なかったアイデアである。
忘れないうちに書いておこうっと(と今こうして書いているわけですが・・・)。

 我々は書物を読むとき、まずは著者が何を言おうとしているかを読み取ろうとする。
著者と向き合うのである。
デカルトのいう「書物」は、「学問」が求められる書物で、どうも物語ではなさそうであるから、なおさらであろう。
ところが、芝居をみるときは、よほど筋が分からない芝居でない限り、作者の意図よりも役者の演技をみる。
それも、自分にひきつけてみようとする。
自分なら、こうするなどと。

 じっさい、デカルトは、四つの仮の道徳の最後に次のように述べている。

「この世で人びとが携わっているさまざまな仕事をひととおり見直して、最善のものを選び出そう、と思い至った。」(39ページ)

 さまざまな仕事、つまり役割を演ずる人たちを見て、自分がそれを演じた場合を想定しながら芝居を観ていたということになる。
いったい、芝居を観る、観客になる、ということはどういうことなのだろう。
観客には身体は必要ない。
わたしは普遍的な視点で全体を俯瞰しながら、舞台上の「わたし」を観る。
わたしの身体は、舞台上にある。
その身体に憑依しつつ、視点はわたしを含めた全体を観る位置にある。
幽体離脱状態なのである。
そして、その視点が身体を求めたとき、デカルトは舞台に上がり「我思う、ゆえに我あり」と見得を切ったのであった・・・と学生諸君の意見をまとめられるかな、と思う。
そうすると、この「我思う」には「まる9年の間」の観客生活の時間が込められていることになる。
デカルトって、単純そうでややこしいぞ、いまさらながらですけれど。
posted by CKP at 18:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする