2010年10月29日

内田樹先生ご講演映像配信―-「ミッションスクールのミッション」

 去る10月13日に開催された大谷大学開学記念式典および初代学長清澤満之謝徳法要における内田樹先生のご講演「ミッションスクールのミッション」の配信を始めました。
快くご許可いただいた内田先生に感謝申し上げます。
ただし、「これはオフレコですけど・・・」という部分はオフレコにしています。
そこが聞きたいという方は、直接、私に聞いてください。

では、「倍音」の話がどのように「ミッション」の話になるかハラハラドキドキのサスペンス講演をどうぞ!

http://www.youtube.com/user/otaniuniversity?gl=JP&hl=ja#p/u/0/YLg-3AyPgXo
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2010年10月28日

口笛吹いて――R50完全指定

 今週の火曜日のことである。
 
 朝起きると、アタマのなかでなぜか映画『大脱走』のテーマ曲が鳴っていた。
あの軽快なマーチが鳴っていたのである。
ああ、オレ、どこかへと脱走したがってるのかなぁ・・・
スティーブ・マックイーンのようにオートバイを飛ばして・・・
てなことを考えながら朝ごはんを食べて、大学へ。

8時40分の勤行当番に間に合うように8時に下宿を出発!
「大脱走マーチ」を口笛で吹きながら颯爽と歩こうと思ったのだが、出てきたのは「クワイ河マーチ」。
同じく捕虜になった連合軍の戦争映画だが、こちら脱走じゃなくて橋を架ける話。
捕虜になってもイギリス軍人の誇りを失わず、その誇りを確認しながら行進するときに部隊が吹く口笛のマーチ。
「大脱走マーチ」に切り替えようとするのだが、吹けども吹けども「クワイ河マーチ」。

 思い出すのは、学生時代、京大構内をこのクワイ河マーチの口笛を吹きながら行進したこと。
わたしが提案したのではない。
デンコさんが、「おもろいからやってみよう」と言うので、文学部前から時計台前の正門まで、赤ヘルかぶって10人ばかりの隊列を組んで、みんなでクワイ河マーチの口笛を吹きながら行進したのであった。
西部講堂でアングラ(!)劇をやってた連中が「キミらには負けた」と感心していたっけ・・・
というようなことは思い出すが、肝心の「大脱走マーチ」が出てこない。

 思い切って、あてずっぽうで違うメロディを吹いたら、これが「史上最大の作戦」のマーチ。
アタマのなかではミッチ・ミラーのおっさんがにこやかに指揮までとったりする。
というわけで、クワイ河マーチと史上最大の作戦マーチを交互に吹きながら、髪の毛ばかりかアタマの中身まで暴発しそうになって大学に到着。

 勤行はちゃんとしました。

 で、長い長い一日の間、ときどき思い出そうとするが思い出せない。

 で、タヌキ先生と、ここにはとても書けない「そりゃないよね」的な話をしながら久しぶりにテクテク一緒に帰る。
別れ際、悩みを打ち明ける。
「大脱走のマーチを思い出そうとするんだけど、出てくるのはクワイ河マーチと史上最大の作戦・・・」
「似てるからなぁ・・・」
とタヌキ先生のお言葉を賜ったとたん、思い出しました!
タァラ・タラーラ・タラってマーチ。
よかった!

 もつべきものは、よき先輩、よき同僚である。
おかげで「大脱走マーチ」と「クワイ河マーチ」と「史上最大の作戦マーチ」を自在に口笛で吹き分けられるようになりました。
めでたし、めでたし。
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2010年10月24日

哲学科にしようかどうしようか迷っているあなたに――学科の選び方

 公募推薦などが始まり、いよいよ大学入試が本格化であります。
この期に及んで、まだ「哲学科にしようかどうしようか」と迷っているあなた!
哲学科はあなたのような人物を求めているのでありますよ!

 今頃になって迷うということは、あなたのアタマが考える得るような「テツガクする理由」が見当たらないということであろう。
当然である。
今のあなたのアタマで「テツガクする理由」が考えられるのであれば、古今東西の賢人たちがテツガクして「なんでオレはこんなことを考えるのだろう」などと面倒なことは考えなかったのである。

 しかし、今頃まで迷っているということは、あなたの身体がテツガクすることを欲しているのである。
ここは、先ずは身体の欲望に素直に耳を傾けるべきである。
そして、一生かけて、なぜ18歳の私の身体はテツガクすることを欲したのであろうか、とアタマと身体とを仲良く使って考えるべきであろう。

 そのようなアタマの使い方ができれば、あなたの将来は明るい。
あなたの身体の欲望を丁寧に扱う作法が身につくからである。
そのような人は、他人の身体も丁寧に扱うから、いろんな職場でも歓迎されるのである。
アタマだけで考える人は、他の人と一緒に居ると、ときどき残念な振る舞いをして、敬遠されるのである。

 であるから、なんとなくテツガクしたいと身体がどういうわけがテツガクに反応するあなたは、ちょっと迷いながらでも、哲学科へと願書を出すことをお薦めするのである。

「なんとなくテツガクしたいな」「なんとなくヘーゲル分りたいな」とテツガクの道に迷い込んだ私が言うのだから間違いないのである。
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2010年10月22日

Co-existは共生?――「俺だけ得はしない」という美学

 「互恵関係」という言葉が最近聞こえてくる。
もちろん中国との関係においてである。

 I田先生のブログでそのことが話題になったとき、アメリカ在住の先生のお友達が「Co-exist」という英語で隣国との関係のあるべき姿を表現されておられた。
直接的には「共存」とか「共生」とかの漢語で訳せるのだろうが、日本語つまり大和言葉ではどう訳したらよいのだろう。
I田先生によれば、現在そのような表現によって英語圏でイメージされているのはwin-winという関係だそうだ。
そうなってくると、「共倒れ」などという日本語がまず思い浮かんでくる。
「共に得」という事態を表す日本がにわかに思い浮かばないのである。

 お商売のほうでは、「三方よし」と言われる。
「売り手よし 買い手よし 世間よし」の「三方よし」である(『おせっかい教育論』60ページでの釈徹宗先生の発言)。
近江商人にとって「共によし」という場合、「私とあなた」の二方ではなく、「世間」を入れた「三方」になるというのである。

 もとになる表現は次のようになる。
「他国へ行商するも総じて我事のみと思わず其の国一切の人を大切にして私利を貪ることなかれ、神仏のことは常に忘れざるよういたすべし」(末永國紀『近江商人』中公新書210ページ、仮名遣いは適宜改めた)。

 近江の商人たちは江戸時代、他国に進出し、今で言うチェーン展開したのであるが、そのとき「其の国一切の人を大切にする」という理念を掲げていたのである。
その理念が商売の具体的場面に即して言われると「売って悔やむことこそ商売の秘訣」つまり「損して得とれ」という表現になる。

「総じて売り物は高値にならざる前より、人の望みに任せて順に売り惜しみなく売り払い申すべき事、売りて後に悔やむようにならばさきざきに利益あるなり、これ重畳と相心得、売りて悔やむ事、商人の極意と申す事よくよく納得いたし、我も人も無事長久なる事も思惟して専ら勤行いたすべし」(同、190ページ)

 高値になる前に売ってしまって損をしても「我も人も無事長久なる事」という「利益」つまり得があるというのである。
売った人も買った人もそして世間一般も無事に穏やかに続いてよかったね、ということが利益なのである。
ここには一人勝ちはもちろんのこと「win-win」という関係もない。
また、一時の損を「投資」として考えるのとも微妙に違う。
投資の場合はやはり、自己利益として回収するという発想がある。
そうではなくて、損は確かに損であるのだが、それによって共同体が維持されるという次元の違う「得」が目指されるのである。
もちろん、それが回りまわって自分の商売の維持ということにはなるのだが、そこでは資本主義的「拡大」という発想はない。

 このような「三方よし」の考え方のうちには、いうなれば「損の美学」という考え方がある。
「三方一両損」の美学である。

 二人が三両の所属をめぐって争っているとき、そこに一人がやってきて仲裁にはいる。
この仲裁者は一両出して、四両にする。
争っていた二人がそれぞれ二両もらいそれぞれ一両の損、仲裁にはいって一両出した者も一両の損、これでみんな一両の損で、めでたしめでたし・・・・
なのであるが、これを読んだあなたはおそらくこの話を誤解している(というか私自身誤解していた)。

 私の誤解。
最初の二人が「この三両は俺のものだ」と主張して争っていると思い込んだのである。
ふつうはそう思うでしょ?
私が特に吝嗇であるからとは思わない。

 ところが違うのですね。
『日本国語大辞典』には次のようにまとめてある。
「落語。講釈種で、大岡政談の一つ。
大工の吉五郎が落とした三両の金を、左官の金太郎が拾って届けたが、吉五郎が受け取らないので、大岡越前守が一両足して、両者に二両ずつほうびを与え、三者が一両損と裁く。」

 拾った三両を「俺のものだ!」と主張するのではなく、拾い主が落し主に「この三両はお前のものだ!」と返そうとする。
落し主は拾い主に「落したからには三両はもう俺のものじゃねぇ。拾ったお前のものだ!」と受け取らない。
そこで、大岡越前が一両足して四両にしてそれを二つに分け「それぞれ丸儲けしたわけじゃねぇ。一両ずつ損をしているから、それぞれほうびとして受け取れ」という形で円く治める「損の美学」なのである。
つまり、俺だけ得したんじゃ世間様に顔向けできねぇ、というめんどくさい美学があるんですね。
自分だけいい思いをするのは悪徳とであるという、自己本位というより共同体本位の美学なのである。
それを「世間体を気にする」と否定してきたのが、近代でした。

「なんであなたは世間を気にする、あーあー知りたいホントのことを」と「危険な二人」で唄ったのはジュリーさまでしたね(ね、って言われても・・・でしょうが)。
「今日まで二人は恋という名の旅をしてきたといえるあなた」は「年上のひと 美しすぎる!」のでした。
その年上の人は「世間」を気にするのでした。
「ねぇ、坊や、自分だけがよくても世間はとおらないのよ」なんて年上の美しすぎる人に言われてみたい。
しかし、今となっては57歳以上だもんなぁ・・・
お、若尾文子がいる!
しかし、ホワイト家族の若尾文子は再婚せずそう言うべきであったのじゃないか?ソフトバンク?!
「あ”−」と絶叫する犬のお父さんジロー君の苦悩も分かりますね。
何のはなしだっけ?

 領土問題でこんな「三方一両損」的美学など持ち出すことはできないけれど、しかし、この問題は未来の世代に先送りという考え方にはその傾向がうかがえないこともない。
両方がぜったい損はしないぞ、ということを美徳としていたのではおそらくカタは付かないであろう。

 ましてや日常の人間関係では、今一度「損の美学」ということを考えてもよいであろう。
少なくともそのような考え方がある、と知るだけでも世界が広がるように思う。
それは、本当の得とは何か、ということを考えるきっかけになるからだ。
少しばかり損はするけれど世界が穏やかに存続すること。
なんか人間的余裕というのが感じられるのです。

 二項対立を三項目で円く治めるヘーゲル弁証法の「否定」というモメントも「損」という具体的な言葉で置き換えてみると、何かが見えてくるかもしれない、などと妄想する。

 とにかく、なんだか世界中が「損する人間は劣った人間と見られる」という考え方で凝り固まっているときに、このような考え方があるのを知ると、思考のこりがぐりぐりとマッサージされるようで、あー気持ちいい!
posted by CKP at 17:33| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年度文芸奨励賞の締め切り迫る!

毎年哲学科が賞を独占する同賞ですが、
今年の締め切りは、22日です。
まだ応募していない哲学科の学生諸君はどうぞ。
詳しくはこちら
posted by pilz at 17:00| お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月21日

おおきな木――The Giving Tree

 『おおきな木』という1964年に出版され、世界でずーっと読み継がれているという絵本が、今度、村上春樹の新訳で出版された。
という事を聞いたので、村上春樹ミーハーの私はさっそく購入。

これまでの訳で読んでいるわけではないので、村上訳でどう変わったのかは言えない。

 著者は1930年生まれののシェル・シルヴァスタインというソングライターでもある人。
と言っても、どんな歌を書いた人か分からない。

 読んでみて、何となく1960年ころのフォーク・ソングの匂いがした。
たとえば、「レモン・ツリー」とか「パフ」とか。
PPMですね。
こんな物語の少しあとの時代に、ニール・ヤングとかジョニ・ミッチェルが出てくるのが「なるほど」という感じもする。
「シュガー・マウンテン」とか「サークル・ゲーム」とか。
どれももう今となっては古い唄だけどね。
 
 リンゴの木と少年の成長の物語。
56歳でこの本と出合うことになったのが残念だ。
若いときに読んでいれば、いま読み返して56歳という年齢の自分を発見できただろう。
しかし、まだまだ成長して60歳とか70歳で読むと、また違う読み方ができると思う。
いろんな読み方ができる、静かな深い物語でしたとさ。
posted by CKP at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月20日

緊急連絡―宗教学コース門脇ゼミ(3・4回生)

 すまぬ。
 10月21日の4コマ目の哲学科宗教学3・4回生の門脇ゼミ。
急用ができて、休講にします。
発表を用意していた諸君、すまぬ。
空いた時間を利用して、↑に告知されている表現コンテストの50字表現を考えてくだされ。

なお、来週(28日)も最初から予告していた通り休講。
再来週からは、4回生の卒論発表に移ります。
4回生諸君は準備しておいてください。
この発表が終わって、3回生の発表になります。

という訳で、本日教授会が終わって大急ぎで寺に到着なう、でした。

金曜日のオフィス・アワーは平常どおり。
おいでませ。
posted by CKP at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

少女たちはなぜ空を飛ぶのか――飛翔というリスクと人間的生命

 宮崎駿監督のアニメの主人公の少女たちは空を飛ぶ。
沢田研二のTOKIOも空を飛ぶ( 古くてどーもスミマセン)。
ユーミンのデビューアルバムには「ひこうき雲」「恋のスパー・パラシューター」「紙ヒコーキ」と空を飛ぶ歌が3曲もある(これも古い!)。
どうしてこの人たちは空を飛ぶのだろう?

「空を飛ぶ夢」という定型の夢があるのだと言う。
最近、「空飛ぶ夢」って見ましたか?
いったいどんなときに見るのだろう。
新宮一成先生は『夢分析』(岩波新書)で次のように述べておられる。

「乳幼児期に初めて言葉を話しはじめることが空飛ぶ夢の源泉であるが、その後も、新しい言語活動への参入が必要になるたびに、そのときの記憶が呼び戻され、夢の中で活動する。我々は人生の新たな段階にさしかかると、そこで要求される新しい言語の水準を獲得できるかどうかをとても不安に思うのであるが、この夢を見ることによって、かつて赤ん坊から人間になったときにあれほどうまくできたではないか、話せるようになったではないか、ということを自分に言い聞かせているのである。」(12ページ)

 仰向けに寝転んでいるしかない嬰児にとって、言葉は意味の分からない音として高い空を飛び交っていたものであった。
その言葉の世界に参入することは、飛翔のイメージで記憶の底に保存される。
そして、大きくなっても新たな次元に飛び込もうとするとき、その記憶が「空飛ぶ夢」として反復されるのだという。
はじめてのお使い、はじめての学校、はじめての恋愛、はじめての学会、はじめての会社、はじめての老い、はじめて死ぬとき・・・今までとは一段高い次元に飛翔するとき、「空飛ぶ夢」が現れるのだという。

(とは言うものの、私の場合、「空飛ぶ夢」は記憶にない。いつもズルズルと新しい次元にもぐり込んでいたのだろうか?追いかけられる夢というのはたくさん見たが・・・。ゴジラはもちろんドラえもんさえに追いかけられた。怖かった!)

 しかし、なぜ「空飛ぶ夢」なのだろう?
空を行き交う言葉の世界に参入するのならば、にゅーっと大男・大女に変身するという夢でもいいのではないか?
なぜ空を飛ぶという危険を伴う行為として記憶の底に保存されるのだろう?

 言葉の世界に参入するということは危険を伴う行動なのか?

 新宮先生ご自身の夢では、言葉はボールとなり、それは手をスパッと切るような危険なものとして登場している。
しかし、それは言葉そのものの危険性であって、言葉の世界に参入することの危険性ではない。
言葉の世界への参入に伴う危険とは何だろう?

 正高信男著『0歳児がことばを獲得するとき』(中公新書)には次のような叙述がある。

「子どもが母親から授乳をうけて成長する哺乳動物には、無数の種が存在している。しかしながら、吸っては休み、吸っては休みというパターンをくりかえす動物はわれわれヒトの赤ちゃん以外にはまったく知られていないということは、いくら強調してもしすぎることはないだろう。その行動の機能は、母親との相互作用の迅速な成立以外にはあり得ない。(中略)ヒトでは、エネルギー摂取を犠牲にしてまでも、くちびるによるコミュニケーションに重点が置かれるようになっているのである。」(26・27ページ)

 ヒトの赤ちゃんがおっぱいを吸い、休んでお母さんの揺さぶりを待つという自然に見える行動は、じつは栄養摂取を犠牲にしながら、つまり極端に言えば生物学的生命を危険にさらしながら、コミュニケーションの世界を開いているのである。

 生後3ヶ月未満の赤ちゃんは、いくらおっぱいを吸っても、それをのどに詰まらせることはない。息をしながら飲めるようなのどの構造になっているのである。
この頃ののどの構造はチンパンジーとほぼ同じだという。
だから、休まずごくごくおっぱいを吸えるのに、赤ちゃんは休んで、つまり栄養摂取を犠牲にしてお母さんとのコミュニケーションをとるのである。

 ところが、生後3ヶ月を過ぎるとのどの構造が人間ののどの構造に急激に変化するという。
つまり言語音を発生することのできるのどの構造に変化するのである。
すると、「のどが詰まる」というリスクを負うことになる。
餅やコンニャク・ゼリーを「詰まらせる」(実際は「詰まる」のではなく気管の入り口に何かが接するため、呼吸器系が反射的に空気を外へ送り出して異物を取り除こうとすることによって、息がすえなくなり窒息するのであるが)。

 そして、このような「窒息」のリスクを負いながら、赤ちゃんはお母さんとの声によるコミュニケーションの段階に入るのである。

 お母さんが「わたし」の声を真似てくれた!というとき、そのお母さんの声を真似るのである。お母さんのおうむ返しにおうむ返しで応えるのである。
(お母さんの「真似る」という欲望を真似るのである!)

 そのおうむ返しは、生後3ヶ月から4ヶ月の間に一挙にできるようになるときがある。(49ページ)
ちょうど、「飛躍」という感じでそのときが訪れるのである。
ちょうど、自転車に乗れた!という瞬間があるとき、急にくるように。

 おそらく、そのようなリスクを、つまり栄養の摂取を犠牲にしてのくちびるによるコミュニケーション、そして窒息の危険を冒しての言語音の発声というリスクを負いながら言葉の世界へと向かうことと飛翔のイメージとが、身体の深いところでリンクしているのだろう。
人間が空を飛ぶのが不自然でリスキーな行動であるように、われわれが言葉の世界に参入するということは不自然でかつリスクの高い行動なのである。
しかし、そのリスクを負わなければ人間的生命が賦活されることはない。

 哲学に時々「命がけの飛翔」というイメージが出てくるが、論理的には分かりにくいが、人間が人間的生命を生きようとするときには、必須のモメントなのであろう。
posted by CKP at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月17日

地中の人々――頭の中に引っかかっていたこと

 チリの地下700メートルに閉じ込められていた33人のニュースに接しながら、何かがアタマの中に引っかかっていた。
それほど重大なことではないが、思い出すべき何かがあるような気がしていた。

 先日、村上春樹の名をブログに書いて、そして地下の33人の救出の報に接したとき、アタマの中でビージーズの不安げなコーラスが響いた。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」。

 同名の村上春樹の短編小説が『中国行きのスロウ・ボート』に収められていたはずだ。
あわてて探すのであるが見つからない。
仕方なく、文庫本を買いなおす。

 この小説の扉にはビージーズの歌の歌詞が引用されている。
「地下では救助作業が、
 続いているかも知れない。
 それともみんなあきらめて、
 もう引きあげちまったのかな。」
妙な曲である。
この曲がヒットしたのは大ヒット曲「マサチューセッツ」の前か後か?
ウォーカー・ブラザーズの「孤独の太陽」のヒットと同じ頃だったか?

 小説は、ニューヨークとは何の関係もない。

 「僕」が28歳の年、友人・知人が次々と死んでゆく話だ。
その葬式に行くとき、黒いスーツと靴を友人から借りる。
彼は嵐の動物園に行くのが好きな以外はふつうのビジネスマン。
その友人と「僕」との対話。
そして年末のパーティで会った「おそろしく感じのよい女性」との対話。
そして最後に救助を待つ地下の人々の様子。
「みんな、なるべく息をするんじゃない。残りの空気が少ないんだ。」

 生と死、現実と非現実のパラレル・ワールドが描かれているのだが、地上が現実なのか地下が現実なのか分からない。
生が非現実なのか、死が非現実なのか・・・
地上の生活がじつは地霊が見ている夢のような感じもしてくる。
大地に支えられてはじめて地上の生活が成り立つのならば、そういう言い方だってできる。

 地下には何か、特別な力があるのだろう。
どっちにしたって、死者は地中へと帰ってゆくのだから。

 しかし、ニューヨークに炭鉱なんかあるのだろうか?
posted by CKP at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月15日

うちこめ!!うしみつくん――江口寿史論を!

 13日に内田樹先生にお会いしたとき、口をとんがらせて文句を申し上げた。
出版されたばかりの『街場のマンガ論』に「ねこマンガ」のサインをいただきながら申し上げたのである。
「江口寿史論がないじゃないですかぁ!」
先生、ゴニョゴニョと弁明されておられましたが・・・。

 先生は、講演において「倍音的文体」の例として村上春樹の『羊をめぐる冒険』をあげておられた。
『羊をめぐる冒険』にはレイモンド・チャンドラーの『ザ・ロング・グッドバイ』が倍音として響いている。
その『ザ・ロング・グッドバイ』にはスコット・フィッツジェラルドの『ザ・グレート・ギャツビー』が響いている。
その『ザ・グレート・ギャツビー』にはアラン・フルニエの『ル・グラン・モーヌ』が響いている・・・・
もし村上春樹がフランス語の翻訳もする人ならば、『ザ・ロング・グッドバイ』『ザ・グレート・ギャツビー』だけでなく、きっと『ル・グラン・モーヌ』も翻訳したであろう・・・
(こんな話がどうやって「ミッションスクールのミッション」というテーマにつながるのかのハラハラドキドキのサスペンス講演でした。)

 その線で行けば、江口寿史画伯のボクシング・マンガ『エイジ』には、『あしたのジョー』が響いている。
『あしたのジョー』には、映画なら黒澤明の『姿三四郎』、小説なら吉川英治の『宮本武蔵』が響いている。
つまり荒ぶる若者がメンターのもとで成長するという古代的な説形式を基音して倍音を響かせているのである。
ようするに、私は『エイジ』が好きで、時々読み返して涙ぐむのでありました(グシュン)、ということなんですけどね。

 とにかく、江口マンガのキャラクターというのは、どこかにその「本歌」の音を倍音として響かせているのであります。
とは言いつつ、プッチン・プリンのお風呂に恍惚の表情で入るトーマス兄弟というのは・・・これに関しては、にわかに本歌が思い浮かばない。

 が、江口マンガの中でも影の薄い「うしみつくん」でさえ、様々な倍音を聴きとることができるように思う。
ジョージ秋山やつのだじろうのちょっとアブないマンガを微妙な線をたどって笑いに持ってゆくという力技でありました。
アタマに二本ろうそくを灯し、白装束で藁人形を打ち込むうしみつくん。
二十世紀後半の少年らしく、シカトされたりバカにされたりしたことを丑の刻参りで発散するうしみつくん(たしかラッコにまで馬鹿にされるというのがあっと思うが)。
なんで江口寿史は私の読みたいマンガを描くのであろう、と30代の私は感涙にむせびながら読んだのでありました。

丑の刻参りを現代に復活させるという画期的なマンガであったが、微妙な題材でもあったから、長くは続かなかったのが残念である。
もっとも微妙でなくても、長く続かないのが江口マンガの常であるが。

 現在でも洛北のある神社ではときどき藁人形が打ち込まれているという。
ときどき胸が苦しくなるのはこのせいか?
が、インターネットに心の奥の邪悪な毒がばらまかれるよりよっぽど健全でありましょう。
「丑の刻参り」というのは、自己カウンセリングの装置としてよく出来ているとわりと本気で思う。
ネット販売で「丑の刻参りセット」というの売りだしたらいかがなものであろう。
アイデア料はいりませんから。


posted by CKP at 12:51| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月13日

倍音的ミッション――内田樹先生ご講演拝聴記

 本日は大谷大学開学記念日で内田樹先生のご講演。
昨夜のツイッターで「どんなイベントでどんなタイトルでの講演か忘れている」と書かれていた。
おいおい、大丈夫かぁ?
朝9時半正門前でお迎えする。
立て看板の「開学記念式典および初代学長清澤満之謝徳法要」という文言をじーっとご覧になって、「こんな厳粛な会に僕なんか呼んじゃって、カドワキさん、責任とらされますよ」とあくまでも人をおどしにかかっておられる。

 読経の後、ご講演。
開口一番、「読経の倍音が気持ちよく響いて眠くなっちゃいました」。
あらららら。
それから怒涛の倍音論あるいは倍音的文体論。
倍音とは基礎的な音の周波数の倍、倍の音が響く現象である。
その倍音は目の前のひとつしかない発生体とは別のどこかから聞こえてくる。
そして、その音はまさに「私宛」に聞こえてくるのだが、その聞こえ方は聞くほうの霊的成熟度によって違ってくる、というような話である。

 この話と「ミッションスクールのミッション」という講演題目とどのようにつながるのか。
おそらく聴衆の皆さんもこの話を怪訝な顔をして聴いておられたのだろう。
内田先生は「この倍音の話とミッションという話がそのうち繋がりますから、ご安心ください」と注釈を入れる。

 そして、教育論。
学びとは「教えたい!」と激しく欲望する者のもとに「なんだか分からないけどここで学びたい」と思う者が互いに足を一歩踏み出すところに成立する。
ただし、教える者は、手を差し出して学ぶものを引き上げてはならない。
学ぶものは、「なんだか分からないけどここいる」というその「なんだか分からない」理由を自分で考えることによって学ぶ。
そのためには、教える者が旗幟を鮮明しなければならない。
それがミッションである。
そのミッションが倍音で称えられるならば、それを「私宛」のミッションと聞くものが出てくる、ということであろう。
そして、そのようなミッションが林立するところにまた倍音が発生する。

 しかし、今の市場原理主義的教育政策は、市場のニーズにあわせ旗幟をあいまいにする方向へと動いている。
そこでは教育・学びは賦活されない。
平べったい音が流れているだけである・・・
同じような無個性な大学がだらだらと並ぶ・・・

 というような形で倍音とミッションが繋がっていたと私はお聞きした。
ミッションは単音ではない。
さまざまの人格の歴史を響かせているのである。

 そして内田先生のお話そのものを、武道家の内田やレヴィナシアンの内田、「書き助」としての内田や入試部長としての内田etc.、そしてその奥にさまざま人々の音を響かせている倍音的講演として、私はお聞きした。
どうしてこの人は私が聞きたがっていることが分かるのだろう、と。
posted by CKP at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月10日

何事もあせらず――フィル・コリンズの教え

 何かのCMでフィル・コリンズの唄う「恋はあせらず」が流れていた。
カッコいい。
この間発売されたモータウン・カヴァー集「ゴーイング・バック」に入っていると思って衝動買い。
懐かしい!カッコいい!
が、「恋はあせらず」が出てこない。
よく見たら「恋はあせらず」は入っていない。
調べたら80年代にヒットさせているんですね。
あわててベスト盤も買う。

という訳で「買い物もあせらず」でした。

 しかし、かっこいい。
シュープリームズの原曲は、エレキ・ベースが
ボン・ボン・ボン、ボン・ボン・ボボン
と始まるが、フィルのヴァージョンは、ドラムで
ドン・ドン・ドン、ドン・ドン・ドドン
と始まる。
それがかっこいい。
ダイアナ・ロスよりチョッと神経質な唄い方もたまりません。

ママが言ってたよ
You can't hurry love
No, you'll just have to wait
Just trust in the good time
No matter how long it takes
って・・・

そう、恋に限らず、何事もあせらずに!

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2010年10月08日

ススキ揺れ腰いてててて北大路――無茶

 このところ腰が痛い。
私はアタマではなく、腰で考えるタイプである。
ゆえに、ここのところ何も考えられずボーっとしている。
ボーっとしているのはいつものことか?

 急に涼しくなって夏の疲れが出たのか?
ブンガクブチョーの椅子が腰に悪いのか?
それとも研究室で使っているバランスチェアーを2週間ほど修理に出してたのがコタエたのか?
(15年ほど前「通販生活」で買ったノルゥエーのリボ社の椅子。
座面がボロボロになりスポンジがわらわらと崩れだしたので修理。
大谷大学横のフィンガー・マークスで丁寧に直していただき見違えるようになりました!)

 これまた大谷大学横の沢井整体院でグリグリやっていただくときが至福のときです。
あーしあわせ。
posted by CKP at 17:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月05日

内田樹先生講演会――10月13日大谷大学開学記念式にて

 来たる10月13日(水曜日)に大谷大学の開学記念式典が挙行される。
10時から講堂で勤行や表彰式があり、そのあとに記念講演会。

今年の講演は、内田樹先生。
講題は「ミッションスクールのミッション」。
およそ一時間のご講演です。

以上、お知らせでした。
posted by CKP at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月04日

はじめに「ありがとう」ありき――海辺の村で

 この土曜日曜は、山一つ越えた海辺の村の「秋回り」。
一軒一軒で、親鸞聖人の「正信偈」を唱和して「報恩講」をお勤めするのである。
若いころは「親鸞聖人の御恩とは何か、それに報いるとはどのような行為か」というようなことを語らねばならない、と力んでお勤めしていたので、大変疲れた(もちろんそれは大切なプロセスであったが)。
しかし、最近は、「ありがとうございます」とまず頭をたれてお勤めすれば、その御恩のなんたるかは自然に実感されるというような感じでお勤めするので、2日間で10軒のお参りもそれほどつらくはない。
体力的には疲れるけれども。

 それよりも、漁師村のこの村の雰囲気が、9月に行った筑豊の炭鉱の街に似ていることに気がついた。
人々の物言いが、よく言えば率直。
悪く言えば乱暴なのである。
板一枚下は地獄の漁師の村。
地にもぐれば生きて出てこれるかどうかわからない炭鉱の街。
死と隣り合わせの生活では、よけいなことは言っていられない。

 と思いながら回っていたら、あるおばさんからしこたま説教された。
「物事は思い通りにならん。それを引き受けてのお念仏でしょうが!
ゴエンサン、そこんとこ若いもんにちゃんと言わな!」

 ほんと、なかなか思い通りに事は運びません。
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2010年10月01日

チンパンジーは空を仰ぐか――谷川俊太郎「かなしみ」に寄せて

 毎年、後期の宗教学概論の最初に、「私の発生」という問題を考えるために谷川俊太郎の「かなしみ」という詩を紹介している。
茨木のり子著『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)最初の章「生まれて」の最初に紹介されている詩である。

かなしみ

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた
         ――詩集『二十億光年の孤独』

 去年は「過去」と「遺失物」という言葉から、「本質的な事柄こそが思い出せない」というトラウマとの関連で話をしたような気がする(よく思い出せないが)。
今年は、「あの青い空の波の音の聞こえるあたりに」という第一行にひっかかった。
チンパンジー研究の松沢哲郎先生がどこかで「人間は二足歩行が特徴とされてきたが、それ以前に仰向けになることが人間独自の行動である」と書かれていたことを思い出したからである。
それに加えて新宮一成先生の『夢分析』(岩波新書)の次の一節。
「振り返ってみれば、かつて嬰児として横になってうえを見ていた我々人間にとって、言葉はもともと空のものである。」(3ページ)

 かつて私たちは仰向けになり、空を言葉が行き交うのを聞いていた。
しかし、それを理解できない音として聞いていた。
それは波のような音だったのかも知れない。
そして、いつしかその言葉の世界へと私たちは飛び立つ。
そのとき、地上に落ちていったのは、言葉を知らないかつての私かもしれない。
それは、言葉の世界の住人になってしまった今、永遠に見つけることのできない「私」である。

 そんなイメージが浮かんだのである。

 哲学が、「人間とは何か」、「私とは何か」を問うものならば、私が「言葉を話す人間としての私」になった瞬間に常に思いをはせなければならないであろう。
また、詩も、言葉によって世界が形作られるという生々しい感動を写し取るものならば、同じ瞬間を常に参照する作業なのであろう。

 私のイメージは茨木のり子さんのこの詩に対するイメージとはずいぶん違う。
けれども、茨木さんが名著『詩のこころを読む』の冒頭にこの詩を置いたのは、詩の発生と私の発生の同質性をどこかで考えておられたからではなかろうか、と思うのである。

 秋の高い空を仰ぐとき、どこかで言葉を知らなかった赤ん坊の私が蠢いているのかもしれない。

posted by CKP at 18:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする