2010年09月30日

ブログの効用――なぜ書き続けるのか

 本日は大谷大学の前期の卒業式。
一年生の授業で「今日は卒業式です。どういうことかわかりますか」と質問したら、「想像を超えています」という答え。
事情を説明。
世の中には、現在の自分には考えられないことが、ふつうに存在しているのです。

 卒業祝賀会で人文情報学科のI先生と歓談。
先生は通信技術では世界的な権威。
ゆえに先生のブログはビジュアルで楽しい。
誰かのブログみたいに「字ばっかり」ではない。
写真とそれにわさびの利いたコメント。

http://blog.goo.ne.jp/geneve1992

 毎日書くのを義務にしておられるとの事。
「そうすると観察眼が鍛えられるような気がするんです。そういう習慣を学生にも勧めようと思って・・・」とおっしゃっておられた。

 確かにそういうことってあるかもしれない。
ただし、私の場合は、ろくでもない観察ばかりになって、あまり「お勧め」できないのであるが・・・
しかし、いろんなことに驚いたり、感心したりすることは確実に増えたような気がする。
すると、世の中が面白し、いろんなことに感心する自分に出会えたりする。
ただ、私の場合、リクツ的に面白い!ということばっかりだからなぁ。

字ばっかりでスミマセン(←ビジュアルに展開することはぜんぜん考えていないようですね)。
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2010年09月28日

マイケル・パイとマルセル・マルティン――二人は仲好し

 昨夜は、京都に居ついておられるマイケル・パイ先生と来日中のマルセル・マルティン先生との御会食。
マールブルク大学の名誉教授でかつ以前に大谷大学大学院特別セミナーの客員教授をお勤めいただいたお二人である。

 パイ先生は比較宗教学の世界的権威で世界宗教史学会の会長も務められたエラ〜イ先生である。が、口笛を吹きながらサンダルで学内を歩く気さくな先生である。
わたしはパイ先生から、宗教を考察する時、本質ではなく形態に注目することを学んだ。
とりわけ、当該の宗教の内部のものが主張する「本質」から宗教を考察することには禁欲的である。
その宗教が見せるいわば「表情」から、その宗教を生きる人間を考察するのである。

 たとえばマールブルクでシンポジウムがあったとき、神学部の先生から「明日は市庁舎の前で5月祭があります。ご参加ください」とアナウンスがあったとき、パイ先生は片目をつむりながら、
「プロテスタントが春の祭りをするんですね」
とおっしゃった。
一神教徒が春の神様の祭りをするとは何事か!と糾弾されているわけではない。
心の中のキリスト教と身体に根づく森の宗教を生きる人間全体を考察しようとするのである。
おそらくパイ先生は「そんなこと教えてないよ。それは君の勝手な学びでしょう?」と言われるであろうが。

 そのパイ先生とマルティン先生、神学部で実践神学を教授し大学の説教者でもあるマルティン先生が大の仲よしなのが前々から不思議であった。

 しかし、よく考えたら、マルティン先生も「表現」とか「表情」を大切にしておられることに気がついた。
私がマルティン先生から学んだ事柄の一つにビブリオ・ドラマがある。
聖書や仏典のある場面を実際に演ずるという宗教へのアプローチである。
そこで大事なのは、内面ではなく外面である。
その場面ではイエスはどこにどんな表情で佇むのか?
聴衆はイエスに向き合っているのか、それとも背後からつき従うのか?
実際に身体を動かしながら聖書や仏典を読むのである。
アタマや心だけでなく身体で読むのである。

 そのように人間をアタマや心だけで考えるのではなく身体を含めた全体で考えることが、このお二人の「仲」を結びつけているのかな、と思う。
「そんなリクツでつきあってませーん。君はリクツがすきですねー。」とパイ先生はにやにやしながらおっしゃるであろうが・・・

 と書くと私がペラペラとドイツ語で会話していたように思う方がおられるかもしれない。
いないか?
昨日は、ほかに英語の堪能なI上先生と英語もドイツもオッケーというF枝先生もおられ、英語が共通語。
私も英語で「存在がどうした、本質がどうした」という抽象的な話なら理解できないことはないが、パイ先生の底意地の悪いブリッティッシュ・ジョークなどは一緒に笑えない。
ジャパニーズ・スマイルを浮かべながらパクパクとひたすら食べている。
するとパイ先生は目ざとく「こいつは分かってないな」と私に日本語で解説するのである。
ほんと、Set me free!である。
いたたまれなくなって、煙草を吸いに席を離れると日本語を話さないマルティン先生が、ウディ・アレンがダイアン・キートンに突然であってドギマギしたような表情で、「私にも一本ください」とついてこられる。
「私はキートンじゃないのよ。もうかまわないで!」と言いたくなるのを抑えて、一緒に煙草を吸いました!
私は日本語会話では能弁でありますが、英語とかドイツ語だと寡黙なんです。
ああ、疲れた!
posted by CKP at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月25日

ユーミンの宅急便――「やさしさに包まれたなら」

 本日は大学の父母会。
さきほど全体会でご挨拶して、あとは夕方の懇親会。
というわけで・・・・

 内田樹先生の『街場のメディア論』の後半で展開される、マルセル・モースの『贈与論』の有名な箇所の解釈に、ユーミンの「やさしさに包まれたなら」を想った。

カーテンを開いて 静かな木漏れ日の
やさしさに包まれたなら きっと 
目に映る全てのものは メッセージ

メッセージが届く、ということで「贈与論」なのである。
相変わらず、いい加減な思い付きだなぁ、と自分でも呆れていたのである。
が、よく考えたら、この歌を贈与論で解釈していた人がいた。
宮崎駿監督である。
宮崎監督が、ジブリ作品には珍しく既成の曲をテーマソングにしたアニメ。
『魔女の宅急便』。
そのエンディング・テーマが「やさしさに包まれたなら」。
ね、贈与論でしょ?
ちなみにオープニング・テーマは同じくユーミンの「ルージュの伝言」。

 というわけで、勇気百倍である。
というわけで、「やさしさに包まれたなら」の贈与論的解釈に突入しまーす。

 二番目のリフレインの箇所はこんな歌詞になっている。

雨上がりの庭で クチナシの匂いの
やさしさに包まれたなら きっと
目に映る全てのものは メッセージ

 これらの歌詞でまず気がつくことは、まず主体があって、そこにホイっとメッセージが届く、という構造になっていない、ということである。
あるいは、主体がメッセージを目を皿のようにして探して、そしてついに発見!ということになっていない。
確固たる主体がまず存在してそこにメッセージが届くというイメージにおいて特徴的なのは、そこでは主体自体が変化することなく、そこにメッセージによる情報がプラスされるという主体のあり方である。
情報が増えてよかったですね。

 ここではそういうことではない。
「目に映る全てのものはメッセージ」と世界の見え方が変容してしまっているのである。
ということは主体のあり方も変容している。

 どのようにして、そのような事態が起こるのか?
ポイントは二つあると思う。

 まず、第一は「カーテンを開いて」「雨上がりの庭で」という歌詞が指し示す主体の動き。
わたしの部屋のカーテンを開く。
雨上がりの庭に出る。
「私」という部屋、私の「見方」、そこに閉じこもるのではない。
そこから外へと回路を「開く」という行為が唄われる。
また、「雨上がり」という歌詞から、それまでの雨で「私の部屋」に引き籠っていて、そして雨が上がって、庭につまり「私の外に」出た、そんなイメージも喚起される。
私だけの見方というフレームワークが、外へと開らかれるのである。

 そして第二のポイントは「静かな木漏れ日の」「クチナシの匂いの」という歌詞。
「クチナシ」というのは、四つの音をもつ植物なら何でもよかったというのではないのだろう。
ここはどうしても「クチナシ」でなければならなかった(のだと思う)。
そうすることで、最初の「静かな」に対応する沈黙が確保される。

 ここでは主体は、語る能動的な主体ではなく、聞くという受動的な主体である。
言葉をまだうまく操ることのできない子どもに戻っているのである。
「開く」という主体の能動的行動で、「聞く」という絶対的受動の場に主体を置くのである。
閉じた私を開くことによって、聞くことが可能になるのである。
それが「やさしさ」なのであろう。
閉・開・聞の門構えの漢字の展開が面白いですね。
悶々という漢字も最初においてもいい。

 それはともかく、このとき注意すべきは、聞くべきメッセージの運び手がトントンとドアをたたいて、そして心のドアを開けるという順番ではない、ということである。
まず、ドアを開ける。
カーテンを開ける、庭に出る、ということが先にあるということである。
そうすると、「目に映る全てのものはメッセージ」となって、届くのである。

 誰かからメッセージが私宛に発せられてそれを私が受け取るというシークェンシャルな流れではない。
私が心を開いて「目に映る全てのものはメッセージ」と受け取ることで、メッセージが既に発せられていたという過去が形成されるという時間的逆転が起こっているのである。
ヘーゲルの論理では、目の前の出来事を「現象」と見なすことで、その背後に「本質」が置かれるというような言い方があるが、同じことであろう。
ヘーゲルはこれをWesen(本質)は、 sein(在る)の過去分詞gewesenから出来ているとか、本質は現象としての現象であるとか、ややこしいことを言って説明しようとする.
ユーミンなどはそれを「やさしい」言葉でさらっと唄っている。
ユーミンってすごいなと思う。

 そもそも私たちの存在自体、気がついたときには既に与えられていた、つまり贈与されていたのである。
その贈与をメッセージとして受け取るということは、私の中に閉じこもっている限りは不可能なことなのである。
ただし、どのようなきっかけでドアを開けることになるのか、という問題があります。
このあたり『魔女の宅急便』で考えるのもおもしろそうである。

 なんだかゴチャゴチャしてきました。
以上を簡単にまとめますと、やっぱりユーミンが好き黒ハート、ということなのでした。 
 
posted by CKP at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月24日

空を仰ぐメガネ――哲学するメガネ

 今年は22日が仲秋の名月で23日が彼岸の中日。
月や夕日をゆっくり仰ぐ時期だが、京都は雨で、それにいろいろバタバタしていてそんな余裕がなかった。
いけませんね。

 仲秋の名月のことはすっかり忘れていた。
これを教えていただいたのメガネ屋さんのブログ。

http://tuziokamegane.web.fc2.com/

以前は手広くやっておられたようだが、現在はぐっとダウン・サイジングされて、ご夫婦でこつこつ丁寧に手作りでされている。
名月を眺めたり、萩の咲き乱れる寺を散策したりしながら・・・

 製品は西田幾多郎なんかがかけていた丸メガネが中心。
フッサール風の楕円も造られている。
鯖江にあって、そこが鷲田清一先生の故郷ということで、鷲田先生のメガネコレクションにも収まっているとか。

 私の場合、丸メガネだと、丸出だめ男のように間の抜けた顔になるので、フッサール風の楕円メガネを作ってもらおうとと思っている。
厳密なる学が可能になりそうな気がする。
せめてメガネだけでも哲学しようというコンタンなのでした。

(なおちょっと気になるメガネのお値段は、秘密なんだそうです。せっかく作ったメガネの値段が知られるのもねぇ・・・という方がおられるなどの理由から。
直接問い合わせするか、わたくしカドワキまでお問い合わせくださいませ。
寿司屋で「時価」のマグロを注文するみたいにドキドキしますね。)
posted by CKP at 11:03| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月21日

彼岸へと散り急ぐのか菊の池――無茶

 本学は、昨日から祝日(敬老!の日)にもかかわらず、後期の授業を開始。
早速いろいろな問題が飛び込んでくる。
と同時に、私と同い年の同僚が亡くなったというニュースも飛び込んできた。

 10年前、私が学生部長で大学の近代化100周年の企画を担当していたとき、彼が事務部門のリーダーで夜遅くまで議論したものであった。
というより、夜明け近くまで怒鳴りあった。
意見が合わないと2・3日口をきかないこともよくあった。
それでも、北海道の最果ての同窓会支部3箇所を二人きりで5日かけて回ったこともあったな、とお通夜で彼の写真を見たとき思い出した。
私はへとへとであったが、彼はあきることなく大学の理想を語ってくれたものであったが・・・。
こんなにあっさり逝ってしまうとは思わなかった。

 昨日からお彼岸である。
真西つまり阿弥陀如来がおられる西方浄土へ日が沈む。
阿弥陀さんも「お疲れやったね」と彼を迎えたであろうが、「あわてすぎじゃ」ともおっしゃっているであろう。
私自身の太陽は今どのあたりであろうか?
午後4時ごろの高さか5時ごろか?
posted by CKP at 19:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月19日

同志よ!――人生のギア・チェンジ

 昨日は、急遽開催された武生高校同窓会73年卒業の4次会というか番外編に参加。
どこが番外編かというと、高校時代、クラスも別々でどちらかというと「すれ違い」「ねじれの位置」にあった5人が集まったからである。
(あとで考えたら、私だけがねじれていたのか知れんが・・・)

 私以外の4人は子育ても一段落して、人生のギア・チャンジを終えたり、それを参考にギアに手をかけようとしている皆さん。
私は、未だフルスロットルであるが、そろそろ緩めねばならない時期である。
ガス欠も近そうだし。

 しかし、不思議なもので、高校時代、交わした言葉など数えられるくらいの仲なのに、こうして久しぶりに話すと、なんだかここで静かに話をするために、高校時代はねじれの位置にあったのだな、などと思えてくる。
同志愛などという言葉も浮かんでくる。
高校卒業後40年近く、それぞれ、それなりに髪振り乱し七転八倒しながらよくぞここまで生き延びたよね、そんな気持ちになってくるのである。

 そして、今、人生の仕切りなおしをするのである。
それぞれギア・チェンジして、新たに「成功」を目指そうというのではない。
等身大の幸せを享受しながら、老いの準備、そして死の準備をしてゆこう、というのである。
そんな気持ちが通い合うのが、気持ちよかった。

 そういえば、その2日前におよそ30年ぶりに大学時代の友人に偶然出会った。
開口一番、「オソ松」君、亡くなったよ、と話しかけられた。
「オソ松」というニックネームの先輩が癌で亡くなったのである。
ホント、老いの準備、死の準備というのはハナシだけではないのです。

55過ぎて、クラス会に出るようになったタヌキ先生が、「もうながくはないんだから・・・」と口癖のように言われるのが、よーく分ります。
posted by CKP at 18:58| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

百年の誤植――『宗教研究』365号所収、門脇健「霊はどこを徘徊するか」の誤記について

 日本宗教学会編『宗教研究』365号の門脇健「霊はどこを徘徊するか」を読んで、その誤植・誤記の多さにあきれ、「この門脇健ってのはなんちゅう奴や」と調べてここに辿り着かれた皆様、お疲れ様です。

私はこの「哲学科教員ブログ」にCKPのハンドルネームで参加しております門脇健と申します。
先ず、拙論をお読みいただいたことに、衷心よりお礼申し上げます。
とともに、誤植というより誤記等に関して、お詫び申し上げます。



たとえばこの箇所でしょうか?

「カントは『視霊者の夢』のあと、一七七〇年に「可感界と可想界の形式と原理」を発表して哲学的著作に関しては長い沈黙に入る。そして、一八八一年ついに『純粋理性批判』を発表し、・・・・」(60ページ)

 たしかにカントは「長い沈黙」に入るのでありますが、この記述だと111年も沈黙していたことになります。
カントって長生きしたんだなぁ、と感動する方はよもやおられないと思います。
一八八一年というのはもちろん一七八一年の間違いです。
以下の数行は、年代が百年ずれておりました。
スミマセンデシタ。

或いは、ここでしょうか?
「spiritus とかspritualitaetという言葉が見られるが・・・」(52ページ)
はい、あとのほうは大文字ではじまらなければなりませんね。
スミマセン。

或いは「選ぶことがない・・・」(56ページ)のところでしょうか?
ここは「選ぶところがない」が正しい言い方ですね。
スミマセン。

 ほかにまだあると思います。
気が付かれかたは、広いお心をもって、そーっとお知らせくだされば幸甚であります。
posted by CKP at 12:07| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月16日

親鸞のPlease Mr. Postman―-宛先としての私

Please Mr. Postmanという歌は1961年マーヴェレッツという女性3人のグループの曲。モータウン・レコードの初の大ヒット曲でもあったそうな。
リードヴォーカルとコーラスの掛け合いが楽しい曲で、その後、ビートルズそしてカーペンターズにカバーされた。
「ねぇ、郵便屋さん、待ってよ、かばんの中をよく見てよ。彼からの、私宛の手紙があるはずよ。ねぇ、待ってよ、ねぇったら・・・」
という恋人からの手紙を待つという普遍的なテーマを扱った曲。
原曲、ビートルズはコーラスの「Wait!」という掛け声で始まるが、カーペンターズの場合はいきなり「 Stop!」で始まる。

 ユーミンの「この手紙が届く頃にはここにいないかもしれない・・・・・・思い出すと涙が出るから 返事はいらない」ってのはこの曲のアンサーソングなのだろうか?

 何の話であったか?

 そうそう、親鸞の話である。
しかし、別に親鸞の書簡の話ではない。

『歎異抄』に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」というフレーズがある。
先ごろ、回向=贈与という文脈で親鸞の思考論理を考えていた。
そのとき、頭の中で突然、Please Mr. Postmanが鳴り出し(確かカーペンターズ・ヴァージョン)、と同時に先に引いた『歎異抄』の一節が思い出されたのである。
ああ、そういうことなのか、と思ったのであります。
で、どういうことなのかというと・・・

「ひとえに親鸞一人がためなりけり」というこのフレーズは、ずばり「私宛の手紙が届いていた」ということなのである、とストンと腑に落ちたのである。

 親鸞は20年間比叡山で修行をしている。
今の文脈では、手紙を書きに書いた、というようなものであろう。
しかし、返事は来ない。
努力が足りないのか、手紙の書き方が悪いのか?
そして、法然のもとに行って訊いたのかもしれない。
「私宛の手紙はないですか?」
すると法然は答えた。
「すでに阿弥陀の本願がある。それがあなた宛に既に届いている。」
親鸞には思いもよらないものが、思いもよらない仕方で、既に届いていたのである。
あらかじめ想い描いていたようなものを受け取ることが大涅槃であったなら、それはそれほどたいしたものではなかろう。
だから親鸞は本願を「難思の弘誓」とも呼んだ。
だから「本願って何ですか」と訊かれても「私ごときが説明できるような陳腐なものではない、それは思いもよらないものなのである」という言い方しかできない。
本願についてぺらぺら説明するやつがいたら、そいつは詐欺師だ。
本願については、否定を媒介とした苦しげな説明しかできないのである。

 それはともかく、その本願が既に届いていることに気づかせてくれるのが、郵便屋さんであり、師であり、還相の菩薩なのである。

 ここで「探すのをやめたとき 見つかることもよくある話で・・・」という井上陽水を唄ってもよし。
カフカの「掟の前で」の、門に入らず待って待って死んでゆく男への「この門はお前だけの門だった」という門番の言葉を思い出してもいい。

 私宛のメッセージが既に届いていても、私にそれを読み取る能力がなければそれはメッセージにならない。
私は私のフレームワークでしか物事を読むことができない。
おそらく師とは、そのフレームワークを破壊してくれる作用を言うのであろう。
私の見方が崩壊したところに、私宛のメッセージが顕わになる。
親鸞の「よくよく案ずれば」は「私の見方を壊してみれば」ということであろう。
しかし、これがまことに困難な作業なのである。

 ところで、Please Mr. Postmanの手紙はどうなったのであろう?
次の日に届いたのであろうか。
それとも届かないという仕方で既に届いているのであろうか。

希望と絶望の背中合わせがうたわれるこの歌は、eメール時代になってもやはり名曲ですね。
posted by CKP at 15:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月15日

退屈の楽しみ――クレモンティーヌ「ANIMENTINE」

 昨日は疲れて何もする気がなくて、帰りにCDショップをのぞく。
変なCDを発見した。
フランスの歌手クレモンティーヌが唄うアニメソング集「Animentine」である。

 「うる星やつら」や「天才バカボン」のテーマソングが、クレモンティーヌの脱力ボサノバで唄われる。
「キテレツ大百科」の「はじめてのチュー」もある。

 もてあました退屈が「退屈だっていいじゃないか、人間だもの――つみを」とささやきかける。

 退屈をするのは人間だけ、それも近代的な人間だけである。
猫は退屈が常態であるから、退屈はしていない。
せわしない近代にぽっかりと空いた時間の空白状態。
未来も過去も霞の彼方。

 こんなときにはボサノバが一番であります。
ボサノバといえば名盤「ゲッツ/ジルベルト」のあの脱力主婦アストラッド・ジルベルト唄う「イパネマの娘」でありますが、このクレモンティーヌのフランス語や英語でうたわれるボサノバ・アレンジのアニメソングもなかなかよろしいものです。

 テレビのCMで「bon bon Bakabon Bakabon bon」というのが聞こえてきて「?」と思っておったのだが、これだったんですね。

『キテレツ大百科』は内容はあんまり覚えてないのでござるが「はじめてのチューウ、君とチューウ」というのは妙に印象的な歌でござった。
これは英語で
「It is my first kiss chu Kiss with you」となっております。

 あ〜あ、ずーっと退屈していたい。
posted by CKP at 12:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月14日

贈与論で親鸞――田川組:仏教公開講座

 昨日は、福岡県は筑豊の香春(かわら)町を訪ね、仏教講座で一席うかがってきました。
2時間近くのたっぷりの講演。
このたび論文にした「回向=贈与」論で親鸞を読み解くという試みを聴いていただきました。
聴きに来てくださった方々の反応が大変にいいので、ついつい悪乗りして歌謡漫談みたいな話になってしまいたした。
ただ、あとで気がついたのですが、この地は井上陽水の出身地の近くで、井上家が檀家さんの住職さんもこられていました。
陽水さんの唄を挿入すべきでした。
「探すのをやめたとき、見つかることも よくある話で・・・」って。
反省しています。
 
 どんな話をしたかは、また論文が公表された時のお楽しみ。
いや、「プリーズ・ミスター・ポストマン」を使ってそのうち書きそうな気がする。

 田川市に移っての打ち上げの会も大変楽しいもので、普段はコップ一杯のビールも飲めない私ですが、ついついジョッキを空けてしまいたした。
ミュンヒェンのビア・ホール以来の珍事です。
田川のビールはミュンヘンに負けません。
田川組の皆さん、ありがとうございました。
posted by CKP at 16:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月10日

黒澤明の『蝦蟇の油』――黒澤の「先生」論

 よく考えてみれば、黒澤明の監督デビュー作は『姿三四郎』(1943年)という若造が師について成長してゆく物語だし、最後の『まあだだよ』(1993年)は、「先生は先生をやめても先生」という内田百閧モデルにした「先生と学生」の映画だった。

『姿三四郎』は全編をきちんと観たことはないが、幼稚園か小学生の頃、テレビで観た「若者が池の中で杭にしがみつきながら、先生らしき人物に意地を張っている」というシーンを鮮明に覚えている。

『七人の侍』にしても、木村功演ずる若侍の成長というのも大きなテーマであった。
このときの先生は志村喬。

 そして内田百陂_。
黒澤という人は、よほど若造の成長とか先生を描くことが好きであったようだ。

 そのことと、黒澤自身の「自伝のようなもの」のタイトルの「蝦蟇の油」とは、どのように関係するのか?
じつは、先日「蝦蟇の油」という言葉をこのブログに使った時は、誰かの自伝にあったなぁぐらいの意識はあったが、黒澤明の自伝とは意識しなかった。
偶然の一致である。
「蝦蟇の油」という「自伝のようなもの」のタイトルと「先生を見出し成長する」ということとは、どこか関係が有るのだろう。
読んでみようと思う。

 そういえば新しい『ベスト・キッド』もチョット興味あります。
アチョーって・・・・
posted by CKP at 11:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月09日

教育の成立――アメリカの「先生の格付け」に思う

 昨日の読売新聞にアメリカにおける「先生の格付け」という記事が出ていた。
小学生のテストの結果の伸びで先生の能力を格付けし、公表したのだという。
アメリカの学校教育が現在どんな状況でこういう話になるのか分らない。
が、もし先生がカタログの星5つという感じで選ばれる事態を作ろうとしているなら、教育にとって好ましい話ではない。

 というのは、教育というのは、まさにこの人こそ私の先生だ!という思い込みが成立したとき、教育になるとおもうからだ。
つまり先生と生徒という関係が発生したとき、はじめて、教育が成立するのである。

 黒澤明の加山雄三が三船敏郎を「先生」と仰ぐことになる過程を描いた映画つまり『椿三十郎』や『赤ひげ』を観ているとそのことが手に取るように分かる。
三船が演ずる乱暴で強引な三十朗や赤ひげを加山雄三は最初は拒否する。
自分の方が正しい判断をしていると思っているからだ。
私に新しい知識を授けてくれるなら先生と認めよう、という態度である。
この青二才の若造を加山雄三はみごとに演じている(というか地なのだろう)。

 それが途中から、自分のあり方に疑問を感じ、最後はがばっと三船の前にひれ伏して教えを請うのである。
このときの三船の「しょうがねぇなぁ、勝手にしろ」という表情が秀逸である。
このとき「教育」つまり先生と生徒という関係が成立しているし、ある意味では教育が終わっている。
「学ぶことによって自分が変わる」ということを、加山演ずる若造は学んだからである。
そこから先はほっておいても生徒は勝手に学ぶ。

 高い格付けの「先生」について高度な知識を得ようするとき、はたしてそのような学びは成立するのだろうか。
知識をエスタブリッシュメントの象徴としてまるでフェラーリ―やベンツのように身につけるということで終わるのではないか、などと危惧するのである。

 日本でも、「大学の格付け」つまりAAAとかBBとか格付けしようという話がある。
リーマン・ブラザースは倒産の前日までたしか相当高い格付けだったはずである。
アメリカの教育を手本とする日本の教育は、そのうち先生の格付けを言い出すであろう。

 その前に、三船‐加山の黒澤映画で教育を学んでもらいたい。
黒澤明という人はホントに凄い先生なのである。
そう言えば、アメリカ映画でも、『スティング』では、ポール・ニューマンがロバート・レッドフォードの先生でありました。
ただし「詐欺師」ですけど・・・

posted by CKP at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月07日

蝦蟇の油――CKP,intelligenceについて語る

 先週末は、同窓会の「夏季八十講」の講演ツアーに出かけた。
今年は東京の周辺2箇所の同窓会支部のみ。
しかし、猛暑の中、初めての土地を移動するのは、2箇所が限界である。
高校野球の間の阪神タイガースはえらいと改めて思う。

 この同窓会支部巡回では講演するだけではなく、同窓生の方々から、大学への期待やご批判を賜る機会でもある。
が、ご批判のほうは、ボーっとしているとすぐ忘れてしまう。
自分に不利な情報は、脳がすぐ忘れようとするのであろう。

 最近は、大学の現状に関する情報を集め、数値化することが上からも横からも奨励される。
そうして教育方法を改善するのである。
そのような時、自分に不利な情報をどれだけ読み取れるかが、インテリジェンスのカギなのであろう。

 アメリカはインテリジェンスが発達した国家であると、あちらで活動してきた方々は強調する。
確かにCIAをはじめとする諜報部員の数は世界一なのであろう。
そして、各国に関する情報も豊富にあるのであろう。
が、ブッシュはありもしない大量破壊兵器が「有る」という情報に基づいてイラク戦争を始めた。
そして、途中で「無い」ということになり、このたび誰が勝者かわからぬまま、アメリカ軍の「撤退」が開始されたのである。

 ブッシュは、自分が欲しい情報だけを読もうとしたのであろう。
こういうのはインテリジェンスとは言わない。

 おそらくホントのインテリジェンスとは、不都合な情報、よく飲み込めないような情報に出会ったとき、それらに向き合いタラリタラリと蝦蟇の油を流すような知性を言うのではあるまいか。

 この前の戦争のとき、対アメリカ戦を始めるにあって天皇から問われた山本五十六は「一年か一年半は暴れて見せます」(二年だったか?)と答えたという。
と同時に、指導者たちはその後のことは「考えない」という暴挙に出たのである。
情報はあるけど、考えない。無いことにする。
勝てない戦争を始めるときはどこでも同じような「考えない」という状況から始まるのであるなぁ、と改めてぞーっしたのである。
posted by CKP at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月03日

「学士力」とか「就業力」とか「教育の質保証」とか――「一人前の大人」とは?

 日本私立大学連盟(略称「私大連」)の「教育の質保証」テーマにした会合に参加してきた。
文科省や中教審などから「学士力をつけろ」「就業力をつけろ」「教育の質保証の定量的評価をせよ」と矢継ぎ早に催促されるのに、いかに応じるかという会合である。

 いくつかの大学からポートフォリオやクロスメディアの活用、日本型IRの可能性などの発表があり、「参考にはなるけど、うちの大学ではそのままでは難しいなぁ」と思いながら拝聴していた。
もう少し、「文科省とか中教審、あるいはその背後の経済界などが次から次へと大学に言ってくるが、私大連はいつまでこれをハイハイと応じておるのか!」というような議論になるかと期待していた。
「私大連」という名前に、つい「全学連の集会」などというアナクロなイメージを抱いてしまったのですね。

 しかし、猫の目のように変わる政策に右往左往するより「即戦力と言っていた経済界が就業力と言い出したのは、結局「一人前の大人」をよこしてくれということであろう」くらいの読みをして、「一人前の大人とは」という議論などをしてもよかろうと思いながらすわっておったのである。
 
 「一人前の大人」とは、たとえば自分の書いた卒論に責任を持つというようなことであろう。
そして、その不十分性も自覚できる――そこに「大人」が出現する。
「一人前の大人」とは、じつは「自分は半人前でしかない」と自覚できる人間である。
卒業論文で絶対100点満点がつかないことも、じつは「学生の論文としてもまだまだ半人前」ということなのである。
まだまだ足りないところがある。
まだまだ勉強すべき課題が無限にある。
道は無窮である――そう自分のあり方を見定めることが、大人ということである。
( だから、大学に残って勉強するものは、まだまだずーっと「半人前」なのである。)

 そこに「●●力」という「力」が発生する。
やらねばならぬことが見えているのであるから、当然、そこには「やらねば」という「力」が発生するのである。

 ゆえに、大学で「半人前」ならば、そのままでは社会では「4分の1人前」ぐらいであろう。
そして、そこで自分の課題を発展させる「力」を発揮する。
そのような形で、社会に出て行けるのが「大人」であろう。

・ ・・というようなことを考えながら、大人しく座って会合に参加しておりました。
posted by CKP at 13:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする