2010年08月31日

真夏のクリスマス――残暑お見舞いのプレゼント

 あんまり暑いのでクリスマスのことを考えようと思って、『サンタクロースの秘密』をぱらぱらと読む。

 とはいうもののそこに収められているレヴィ=ストロースの論文は「火あぶりにされたサンタクロース」。
よけい暑くなりそうであるが、それを読んでいて、『徒然草』のどこかに同じようなことが書いてあることを思い出した。
で調べてみると、『徒然草』の第十九段「折節の移り変はるこそ、物毎に哀れなれ」には次のように述べられている。

「晦日の夜、いとう暗きに、松ども燈して、夜半過ぐるまで、人の、門叩き、走り歩きて、何事にか有らん、事々しく罵りて、足を空に惑ふが、暁方より、さすがに音無く成りぬるこそ、年の名残も心細けれ。亡き人の来る夜とて、魂祭る業は、この頃、都には無きを、東の方には、猶、する事にて有りしこそ、哀れなりしか。」(島内裕子 校訂・訳 ちくま学芸文庫版、2010年、52ページ)

 この「亡き人の来る夜」という晦日の記述は、西洋のクリスマスに関するレヴィ=ストロースの次の記述を思わせるものである。

「まず、生者の世界に、死者が戻ってくる。死者は生者をおどしたり、責めたてて、生者から奉仕や贈与を受け取ることによって、両者の間に「蘇りの世界(モンド・ヴィヴェンディ)」が、つくりあげられる。そして、ついに冬至がやってくる。生命が勝利するのだ。そののちクリスマスには、贈り物に包まれた死者は、生者の世界を立ち去り、次の年の秋まで、生者がこの世界で、平和に暮らすことを認めてくれるのである。」(クロード・レヴィ=ストロース「火あぶりにされたサンタクロース」、中沢新一訳、『サンタクロースの秘密』所収、せりか書房、1995年、48-9ページ)

 で、それがどうした?といわれても、ただ雰囲気が似てますね、としか言いようがない。
暑いから、ま、それはよかったね、ということでよろしいのではあるまいか。

 この『サンタクロースの秘密』の解説の発展形が訳者である中沢新一著『純粋な自然の贈与』に「新贈与論序説」として展開されている。

 ホワイト・クリスマスを思いながら読書するのも、残暑の過ごし方である。

 で、「サンタクロースの火あぶり」ってのはどうなったんだ?と興味のある方は、直接、その論文に当っていただくか、わたくしめが編集した『揺れ動く死と生』の最初のとこを読んでいただくと、よろしいかと思います。
ではでは。

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2010年08月30日

J.C.ドビンズ教授特別セミナー始まる――「ペット・ボトル信仰」への言及はあるか?

 アメリカはオバーリン大学からJames C. Dobbins教授をお迎えして大谷大学大学院特別セミナーが本日より始まりました。
全体のテーマは「宗教学的アプローチによる真宗研究――古典的宗教理論と近代真宗」

 講義は朝10時40分から、午後はディスカッション(場所は大谷大学響流館3階マルチメディア演習室)。
日程は
 8月30日 「近代真宗の始まりと西欧における宗教学の勃興」
 8月31日 「“科学的”宗教研究の始まり」
 9月1日 「社会現象としての宗教」
 9月2日 「心理現象としての宗教」
 9月6日 「宗教経験と神秘主義の思想」
 9月7日 「宗教における神話と儀礼」
 9月8日 「文献学的・神学的な宗教研究」
 9月9日 「宗教学における方法論的批判とポストモダンの転機」
 9月10日 公開講演会「恵信尼の世界:「恵信尼の手紙」を通して見た浄土教の諸相」(16時20分より:メディアホール)

 ドビンズ先生は、日本語もペラペラの大変穏やかな先生。講義は英語ですが、和訳のプリントが配られます。
私も参加したい内容なのですが、出張などが重なりなかなか出れない。
なんとか時間をつくって「飛び入り参加」しようと思っています。

 先週の金曜日には歓迎会がありました。
わたしはドビンズ先生の奥さまのとなり。
英語で会話せねば・・・と思っていたら、奥様も日本中世史がご専門で日本がペラペラ。
いろんなことに興味を示される方で、最近イタリアレストランが多いのはなぜか?理容室が昔より多いのはどうして?と矢継ぎ早に質問される。
はては、ペット・ボトルを門口においてあるが犬猫に効果はあるのか?
「あれは、ペット・ボトル信仰です」
とご説明申し上げたら、げらげら笑っておられた。
ひょっとしたら、ドビンズ先生の講義でも取り上げられるかもしれない。
「ペット・ボトル信仰に見られる神秘主義」って。
なわけないですが・・・・
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2010年08月26日

なぜ「贈与論」が流行るのか――アマゾンの陰謀か?

 大学は今夏休み。
残暑めちゃめちゃ厳しき折、ゆえあって、私は毎日出勤している。
それだけでも我ながらエライ!と思う。
教員控え室には、先生方への休み中の荷物、それもアマゾンからの荷物が山と積まれている。
(F先生宛のもとどいてますよ、クンクン)

 アマゾンって、ちょっとうれしいのである。
なんだか、誰かから贈り物をもらったような感じがあるのである。
最近「贈与論」が流行るのも、アマゾンによって、「贈り物って、やっぱりうれしいね」という感覚が触発されたからではないか、とも考える。

 今村仁司先生がアマゾン・ジャンキーであったかどうかは、聞き漏らしたが、先生の晩年のお仕事は「贈与論」であった。
遺著と言ってよい『社会性の哲学』は、全編これ「贈与論」である。
社会性つまり人間の交わりを形成する根本は「与えられてーある」という贈与の感覚である、というのが今村先生が最後に到達した人間観であった、ということである。

 また、内田樹先生の最近著『街場のメディア論』も結局は「贈与論」である。
前半は最近のメディアのあり方に頭から湯気を出して怒っておられて、それはそれで面白いのだが、後半の「贈与論」の展開には、なんだかユーミンの「カーテンを開いて/しずかな木漏れ日の/やさしさに包まれたなら/きっと/眼に映るすべてのものは/メッセージ」を思い出して、優しい気持ちになれる本であった。

 とにかく、「贈与」ということで人間の在り方を考えようとする流れができてきている。

 20世紀は、どちらかというと、人間を生産とか創造の主体として考えるというのが主流だった。
要するに、人間の「私」が世界の中心、つまり神だということでしょう。
そして、神さん同士がせめぎあうという「社会」が形成されてきた。
そこには社会性という云うものが希薄な社会、つまり相互承認というより相互殲滅戦という社会が形成されてしまった。
こりゃまずいというわけで、生産とか創造より「贈与」というあり方で人間を考え直そうということではないか?
アマゾンはまことに絶好のタイミングで登場したのである。


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2010年08月24日

CKPのとっても役立つ人間活動講座――コンサートでデート編

 学生時代のことである。

 Aさんを美輪明宏のコンサートに誘い、その後すぐふられた。
 Bさんをイーグルスのコンサートに誘い、その後すぐふられた。
 CさんをB.スプリングスティーンのコンサートに誘い、その後すぐふられた。

 皆さん、きっぱりと「やっぱり、もう会わないほうがいいと思うの」とのたまわれるのである。
こういうことが3回も続くと、これはデートのやり方に問題があると、いかな、わたしでも考えたのである。

 わたしの場合、コンサートに行くときはほとんどの曲を歌えるくらい予習をしていく。
もうド・レ・ミ・ファ・ドンのイントロ・クイズのごとく、前奏一発でノリノリ状態になっている。
コンサートの前など、そのミュージシャンについてのウンチクをデートに誘った女子にコンコンと説教する。
コンサート中は、唄ったり異様な歓声をあげたりしている。
コンサートが終われば、興奮状態でコンサートの復習をする。

 私が誘われた女子であったならば、こんな男と付き合いたくない、と思う――ということを3回の失敗の後に気がついたのである。
何事も相手の立場で考える――これが人間活動の基本であると気付いたのであった。

 ではどのようにデートをすればよいのか。

 プロフェッサー・ヨシナガ君がアドヴァイスしてくれた。
「ちょっと流行っている映画を見に行けばいいよ。
そのあと映画の話で話題ができるし。」
 
なるほど、さすがプロフェッサーである。
で、さっそくしんちゃんに紹介された女子を映画に誘う。

「ワタシ、その映画見たくない」

結局振られたのであった。

 これを報告したら、O木君が、いつもの通り偉そうな口調でのたまうのであった。
「それはお前にどっか問題があるんちがうか」
返す言葉がなかった。

 ま、こういうことはうまくいく時はうまくいく。
だめな時はどうやってもだめなのである。
これも人間活動の基本である。
健闘を祈る。
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2010年08月23日

B.スプリングスティーンは今日も汗まみれ――DVD『ロンドン・コーリング:ライヴ・イン・ハイド・パーク』

 暑いときには、熱いブルース・スプリングスティーン!

 というわけで、スプリングスティーンの最新DVD『ロンドン・コーリング』を観る。
ほぼ三時間のライヴ。
この暑いのに、汗まみれのスプリングスティーンを観るのはちょっとためらわれたが、観だすと止まらない。
2度も観てしまった。

 ストレートなロックンロンール。
美しいバラード。
オーディエンスとの楽しいコール&レスポンス。
夕暮れのハイド・パークの映像も美しい。
 
 ワーキング・クラスの夢と希望、挫折と苦悩、汗まみれの労働とささやかな幸せ、そして思い通りにならない人生がときには激しく、ときには優しく歌われている。

 25年前の初来日のライヴを思いだす。
Born in the U.S.Aのころだ。
あれで頂点に登ってしまったスプリングスティーン、つまり成功者となってしまった彼は、成功者としてワーキング・クラスの人生をどう唄うべきか迷ったであろう。
私も、あまりスプリングスティーンを聴かなくなっていた(ライヴに誘った女の子とその後すぐ別れちゃったというか、相手にされなかったという個人的事情もあるけど・・・)。

 しかし、このライヴのスプリングスティーンはカッコイイ!
迷いがない。
きっと、彼はどこかで、暴走族のあんちゃんたちのうまくいかない人生を、そのまま表現することこそが自分の仕事だ、と見定めたのだろう。
腹の据わったロックンロールになっている。
「夢破れたヒーローたちがたむろするハイウェイ」(Racing in the StreetじゃなくてBorn to run)を爆音をあげて突き進むのである。

 おそらく、彼は一度はワーキング・クラスの思い通りに行かない人生に「救い」をもたらすべきだと考えたであろう。
自分だけ「成功者」になることの矛盾の中では、そう考えるのが自然だ。
しかし、救いなんてない。
その救いのなさを、正確に唄うこと――それこそが唯一の救いとなる、そうふっきったのではないか。
このライヴのブルースの、時々60歳という年齢をギャグにしながらの、明るい表情を見てそんなことを考えた。

 ちょうどユダヤの民の苦難の歴史をつづった『旧約聖書』が、救いのない救いをもたらすように、彼の歌は救いのない救いを唄う。
まったく救いのない「The River」を聴きながらそう思った。

というわけで、これは文句無しに今年のベストDVDであります。
私の買った日本版は歌詞の訳も画面に出ていて、短編小説のような彼の歌の理解に役立ちます。
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2010年08月20日

家庭の貨幣――貨幣なき社会の危険性

 ふつう家庭の中ではお金と性と政治の話はしないことになっている。
なぜならば、これらは他人同士を媒介するシステムであり、それが家庭に出現するということは、家庭が他人同士の集まりであるということになってしまうからである。

 しかし、それだからと言って家庭でお金が動かない訳ではない。お年玉やお小遣い、あるいはプレゼントとしてお金は動く。
それは等価交換ではなく贈与―お礼という関係であるが、ともかくお金は家庭内でも動くのである。
このような贈与による関係が構築されていないと、家長は家長として認められず、お父さんは孤立し、家族は解体してゆくのであろう。
お父さんの家庭サービスの大切なゆえんである(ほんと、そうですよ!)。

 しかし、成人に達した子供とその親のあいだでは、贈与関係だけではなく等価交換的なお金の動き方もあるであろう。
家庭を維持していくのに若夫婦と年寄り夫婦がきちんと月々の供出額を決めるとか、老後世話になるとき年金の管理をどうするとか、わりとドライな貨幣による関係がなくては、大所帯を維持していくのは難しい。

 このあたりをあいまいにし、あたかもお金が関係ないような形で家庭を維持することは、大変危険なことである。
それはひたすら家長が絶対権力を主張するだけの共同体になってしまうからである。
まるでポル・ポトの「貨幣なき社会」のような危険性をはらむことになるのではないかと、この間の「40年前に消えた老人」問題を見ながら思うのである。
彼らが「消えた」のは、まだ「家庭では金のことなんか口にするもんじゃない!」という古き美しき掟がまだ生きていたころである。
(そういえば、ポル・ポトが「貨幣なき社会」を追及し始めたころでもあるなぁ・・・)

 だから、お金に目がくらんでいるキンキラキンの宗教団体もいかがかと思うが、お金を汚らわしいとひたすら軽蔑する教団も危ないと思うのである。
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2010年08月19日

諸行無常とお金――なぜ「人間大好きか」(その3)

 お金は諸行無常という仏教の真理を原理的に超えている。
つまり、お金はいつかは滅び去り無に帰してしまうということはないのである。
諸行無常という仏教の真理はお金には当てはまらないのである。
いや、当てはまってはならないのである。

 たとえば「円」が、いつの日か滅び去るとしてみよう。
人間が死ぬように、「今日とも知らず、明日とも知らず」円はいつか死滅し無に帰すとしてみよう。
おそらく、人々はいっせいに「円」を手放し、ほかの通貨を求めるであろう。
お金が「滅びるもの」とされた瞬間、お金は実際に滅びるのである。
したがって、お金は、人間のように、あるいはこの世のすべてのモノのように、諸行無常であってはならないのである。

 そのお金の在り方を、岩井克人は次のように述べる。

「貨幣が今ここで貨幣であるとしたならば、それは結局、次のような因果の連鎖の結果にほかならないのである。貨幣が今まで貨幣として使われてきたという事実によって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣がじっさいに今ここで使われる。過去をとりあえずの根拠にして無限の未来へむけての期待がつくられ、その無限の未来へむけての期待によって現在なるものが現実として可能となるのである。貨幣ははじめから貨幣であるのではない。貨幣は貨幣になるのである。即ち、無限の未来まで貨幣は貨幣であるというひとびとの期待を媒介として、今まで貨幣であった貨幣が日々貨幣となるのである。」(岩井克人『貨幣論』筑摩書房、1993年、190ページ)

 つまり、お金は不滅であることによってお金であるのである。
それは永遠の時間を体現している。
岩井はこれを「貨幣とは時間なのである」と表現する。
これをひっくり返せば、Time is Money。

 しかし、それはお金が時間的存在である、ということではない。
時間的存在とは、諸行無常な存在である。
時間が滅びたら世界がなくなるように、お金が滅びたら人間の社会がなくなるという意味でお金は時間なのである。

 これは、しわくちゃの一万円札と真新しいピンピンの一万円札が、同じ価値を持つことが不思議でないことによって確かめられる。
モノとしてのお金はもちろん滅びる。諸行無常なのである。
しかし、ぼろぼろの一万円札でも、あるいは灰になった一万円札もピンピンの真新しい一万円札と交換できる。
お金の働きは、そのお金によって成り立っている人間社会においては、諸行無常を超えているのである。

 おそらくここに単なる交換の道具にとどまらないお金の魅力というか魔力があるのであろう。
永遠の命を望むように、永遠のお金を望むのである。
だから諸行無常を生きなければならない人間の目から見ると、永遠の命とお金とはどこか似ているのである。

 だから宗教を不老不死を得ることと考えた場合、お金が宗教となることもありうるのである。

しかし、「不死の法」を得たはずのお釈迦様は死んでしまった。
また、親鸞は「仙経を焼いて、浄土の教えに帰依した」曇鸞を賛嘆する。
仙人なるお経つまり不老長寿の教えを焼き捨てた曇鸞を賛嘆するのである。
しかし、同時に「無量寿」という真理を得るのである。
諸行無常なのに無量寿。

はて?

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2010年08月18日

ゆく夏に自由研究を手伝う――無茶

 午前中は中二の娘の自由研究の手伝いで、娘が実験している様子を写真に撮ってたり、現像に出かけたりして過ごす。
中三になると、高校受験を控えているため、自由研究はないそうである。

 おそらく、親として子供の自由研究を手伝うのはこれが最後であろう。
サザエさんちと違って毎年確実に歳をとっているので、40年一日の如く、夏の終わりに「バカモ〜ン!ちゃんと宿題やっとかんかぁ」とカツオ君を叱っているわけにはゆかないのである。

 という訳で、「バカモ〜ン」はこの私で、この夏中に書くべき論文がまだできない。
テーマはもちろん、お金と宗教である。
という訳で、論文のイメージが到来するまで、ブログでいろいろお金について書いてみるのでした。

 許されよ。
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2010年08月17日

お金をテツガクする――仏教徒或いはソクラテスの徒として

 8月の14日にNHKで「お金をテツガクしてみよう」という番組があって、ちょっと期待して観た。
成り上がりの矢沢の永ちゃんのインタビューは面白かったが、番組全体の構成の意図がいまひとつよく分からなかった。
というわけで、自分でお金を哲学することにする。  
残暑厳しき折、我ながらご苦労なことである。

 「お金が大好き」と表立って言うことははばかられる、と先に書いたが、よく考えてみると、金融資本主義といわれる現在、マネーゲームにいそしむ人びとは、もうすでに表立って堂々と「お金が大好きです」と言っているのであった。
リーマン・ショックによって、そのような風潮にバサッと冷や水がかけられ、この「お金大好き」は間違っているのではないか、という疑念が席巻するかに見えた。
しかし、世の中はやっぱり株価や為替の動向に釘付けになっている。

 確かにお金は大切である。
お金を軽蔑してはいけない。
しかし、ソクラテスの昔から言われるように「金や名誉ばかりに心を傾けて恥ずかしくないのか」(『ソクラテスの弁明』)という警告も忘れるべきではないであろう。

 お金が大切なのは、それが貨幣経済の中で一市民として生きるには必要不可欠のものだからである。
逆に言えば、同族共同体の中では必要ない。
そこでは、生活物資は分配されるからである。
しかし、その生活物資を外部から同族共同体にもたらすためには、お金が必要なのである。
現在は、同族共同体、例えば家族なども解体の危機に瀕しているから、同族への食料の配分すらもニグレクトされたりする。
家族の一人ひとりが市民として独立というよりか孤立し始めているのである。

 17世紀ころの『ヴェニスの商人』とか『守銭奴』、あるいは『世間胸算用』などは、市民社会の形成とともに成立したお金を巡る文学である。
人びとは封建的な同族社会から自由になり、一市民と独立し、それぞれお互いに「異邦人」としてお金を媒介とした経済活動の中で生きることになったのである(ということは岩井克人「『ヴェニスの商人』の資本論」に活写されている)。
そのお金を巡る悲喜劇が新たな文学を形成したのであった。

 そして18・19世紀には『諸国民の富』や『資本論』などのお金の哲学が登場する。
そして、20世紀には『黄金狂時代』や『月と6ペンス』などで、お金に翻弄される人間に対する批判が展開される。

 しかし、21世紀、人びとはいよいよ孤立し、生き延びるためにはお金をますます必要としているように見える。
そして、お金を得て、人々はますます孤立する。
そのようにしてお金はますますその必要度を増す。
ますます人は孤立する・・・・以下同じ。
そして、60億ドルだったか円だったか、殆んど想像を絶した額のボーナスを得るような人物が人々の尊敬を得るような時代が現代である。
こうなってくると、そのような額のお金は、生活のために必要である範囲をはるかに超えてしまっている。
こうなってくると、お金は、明らかに人間を支配する魅力を持っている、と言わねばならない。
こうして「お金が大好きです」と臆面もなく言える世界が形成される。

 いったい、お金のどこがそんなに魅力的なのであろうか?

 マネーゲームのギャンブル性とか、自分の能力が金額でクリアに示されるということも、お金に魅惑される理由であろう。
永ちゃんはそのあたりのことも正直に語っていた。
かっこいいぜ、ベーベー!
が、それはお金そのものの魅力ではない。

 いさかか突然で恐縮であるが、仏教的観点から言えば、お金は原理的に諸行無常を超えている。
つまり、時間を超えている。
おそらくこの永遠性がお金の魅力の一つであろう。
つまり、お金は「諸行無常」なんてウソだ、と主張するのである。

 だから、仏教徒として「お金大好き」に対して、聞き捨てならないと目くじらを立てるのである。
また、ソクラテスの徒として「お金や名誉ばかりに心を傾けて恥ずかしくないのか」といわねばならないのである。
永遠なるお金の前では、死の練習である哲学が成り立たないからである。
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2010年08月16日

わたしの彼は後ろ向き、或いは夢見る頃をとっくに過ぎても――我が愛しのリンダ・ロンシュタット

 ようやくお盆が終わる。
この一週間を振り返ると・・・・

 10日からボーズ全開モードに入る。
12日の墓参り法要に向けて、本堂や庫裏、境内の掃除、掃除、掃除。

 無心に掃除する、と言いたいところだが、「わたしの彼は後ろ向き」というトピックを桃尻語でやろうか、それもチョッと飽きてきたし宇野鴻一郎風にやろうかなどと考えながらゴシゴシふき掃除をする。
「わたしの彼って、このごろ後ろ向きばっかりなんです」
こりゃまずいわな・・・などと考えながら・・・

 13日から本日までは、ひたすら本堂や檀家さんちでお経を上げる。
無心というよりも放心状態でアミダ経を上げて、ようやく一息である。

 で、「後ろ向き」の話であるが、別にたいそうな話ではない。
最近はメチャメチャ忙しく、そんなときに聴く音楽は、もう50〜60年代のジャズ、60年代〜70年代のロックで、音楽に関してはもう完全に「後ろ向き」である、というだけ話である。
すみません。
とりわけ、高校の同窓会に出てからその傾向が強くなった。

 それで高校時代に聞いた曲を聴いているかというとそうでもなく、最近は70年代のアメリカの歌姫リンダ・ロンシュタットのCDばかり聴いている。
1979年の最初の来日のときなど、真冬の大阪の丸ビル前で二晩徹夜してチケットを買って、最前列かぶりつきでキュートなリンダに声援を送ったものである。
そのころはいい席を取ろうとすると徹夜しなければならなかったのである。
確か、カーラ・ボノフの「Lose Again」で始まったと記憶している。



 彼女の70年代の終わりのアルバムに「夢見るころを過ぎても(When I grow too old to dream)」という古い唄が入っている。

「一緒にいたころは楽しかったね。
人生は美しく私たちは若かった・・・」




なんかね、回顧モード全開なんですね。
お盆なんだしいいじゃないですか。

 ホント、お父さん、リンダ・ロンシュタット、久しぶりに聴くと何だがぐっと来ますよ。
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2010年08月09日

なぜ「人間大好き」なのか(その2)――残暑お見舞いしながら考える

 昨日、夏のオープン・キャンパスも大盛況のうちに終わり、いよいよ明日から夏休みである。
あまりにうれしくて、左右別々の靴を履いて大学に出て来てしまった。
靴をスリッパに履き替えようとしたとき気付く。
自分で気付いた分、エライ!
で、あわてて下宿にとんで帰り、いい汗を書く。

 というような状況でエントリーするブログである。
心してお読みくだされ。
残暑きびしき折、申し訳ない。
しつこく、『金色夜叉』の分析から・・・・

 『金色夜叉』の世界は「等価交換」の世界である。

 お宮さんは「己の美しさがいかばかり値するか」を知っていて、自分の美貌に値段をつけそれに見合う、つまり「等価」な結婚を考えている。
この高価な美貌には「学士風情」では不足と考えたのである。
そして、銀行家・富山の結婚の申し出に心動かしたのである。
そのとき貫一君に宮との結婚を諦める交換条件として「洋行」が提示された。
その交換条件を育ての親であるお宮の父親から聞いた貫一君は、「妻を売りて博士を買う」ようなものだと憤るのである。
この提案に貫一君のプライドは大いに傷ついたらしく、お宮自身にも同じセリフを繰り返す。
「い……い……いかに乞食士族の孤児(みなしご)でも、女房を売った銭で洋行しようとは思わん!」
したがって、貫一君自身は「等価交換」的世界を拒絶しているように見える。
ところが、この貫一君、「ちええ、はらわたの腐った女!姦婦!!」とビックリ・マークを二つも付けてお宮を足蹴にして次のように言うのである。

「お宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心変わりしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みの為に貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉をくらってやる覚悟さ。」

 確かにダイヤモンドに目がくらみ、銀行家・富山に心を動かしたお宮さんは、残念な女性である。
が、「ちええ、はらわたの腐った女!姦婦!!」って言うのは、少し言いすぎであろう、何でそこまで言うの?と思って、それに続く貫一君のセリフを読むとその「????」という点が明らかになる。

「学問も何ももうやめだ」

 これはいったいどういう意味でしょう?
お宮さんが「はらわたの腐った姦婦」と明らかになったならば、「はい、さよなら」で「学問に一生を捧げよう」という啖呵でもきれなかったものでしょうか?
などと厭味な問いかけをするのは、わたしだけではありますまい。
いったい貫一君を何のために学問にはげんでおったのでありましょうや?
どう読んでも、立派な学士様になって、お宮の美貌に値する男になってお宮を娶る――そのような目的のために学問にはげんでいたのではないか――と言われても仕方ないであろう。
であるからして、ダイヤモンドをちらつかす富山も、自分の美貌に値段をつけるお宮も、そして学士の称号を得て自分にお宮の美貌に値する値段をつけようとする貫一君も、みな同じ穴のムジナなのである。
だから、貫一君は「金色夜叉」となる以外に復讐を思いつかない。

 尾崎紅葉自身は、貫一君が最後にはこのムジナの穴から這い出して、真の愛、真の人間性に目覚めるまでを描きたかったようであるが、それは果たせなかったようである。
それはおそらく明治の世相に対する警鐘乱打であったはずだ。

 したがって、この『金色夜叉』の連載が終わって5年後の西田幾多郎の次の文章は、おそらく同じ世相に対する警鐘なのであろう。

「カントがいった如く、物には皆値段がある、独り人間は値段以上である、目的其物である。いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として貴いのである。世の中に人間ほど貴い者はいない、物はこれを償うことが出来るが、いかにつまらぬ人間でも、一つのスピリットは他の物を以て償うことは出来ぬ。而してこの人間の絶対的価値ということが、己が子を失うたような場合に最も痛切に感ぜられるのである。」(「『国文学史講話』の序」『思索と体験』所収、岩波文庫版231ページ)

 つまり「いかにつまらぬ人間でも、一つのスピリットは他の物を以て償うことは出来ぬ」ということである。
どんな立派な人間でも、どんなつまらぬ人間でも、何かと「等価交換」できないと言うのである。
これは「金色夜叉」的世相に対する明確な批判を含んでいる発言であろう。
が、このような世相は、大学を学問を「成功」の手段としてだけ位置づけようとする現代にも連続している。
だから、現代でも「かけがえのない」という言葉で「金色夜叉」的世界を拒否しようとしているのである。
この人間の「かけがえのなさ」、西田の言葉で言えば「人間の絶対的価値」を、我々は大切にしようとし、「大好きです」と表現するのである。

 ちなみに、西田のいう「カントがいった如く」とは、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』の次の文章のことであろう。

「目的の国においてはすべてのものは、価格をもつか、それとも尊厳をもつか、そのいずれかである。価格をもつ者は、何か別の等価物で代替できる。ところが、それとは逆に、一切の価格を超出した崇高なものは、したがっていかなる等価物も許さないものは、尊厳をもつ。
人間の普遍的な傾向性と必需に関係するものは、市場価格をもつ。必需というものを前提しなくても、何らかの趣味に、すなわち、私たちの心の諸力の単なる無目的な遊びにおける適意に、適合するものは、愛好価格をもつ。ところが、何かが目的自体それ自身でありうるための唯一の条件をなすものは、ただたんに相対的価値すなわはち価格をもつのではなくなくて、内的価値すなわち尊厳をもつ。」(岩波版カント全集第7巻『人倫の形而上学の基礎づけ』74ページ)
この「目的の国」については注釈が要るが、今はそれは置いておこう。

 しかし、なぜお金は「等価交換」の場面にのみ登場し、つまり「かけがえのない」という存在を形成することはできないのであろうか?
また逆に、なぜ人間は他のもので償うことができない、等価交換できないのであろうか?
また、人間の絶対的価値を見る世界と「贈与と返礼」的世界はどのように関係するのであろうか。
まだまだ考えねばならない。


 
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2010年08月06日

お金と人間――『金色夜叉』あらすじのお勉強

 尾崎紅葉作『金色夜叉』は、明治30年から35年まで断続的に読売新聞に連載された、明治を代表する大衆小説である。
わたしら昭和生まれも、その小説を読んだわけではないが、漫才やコントで「ダイヤモンドに眼がくらんだお宮を貫一が足蹴にする熱海海岸の場」というのに親しんでいる。

 間貫一君は、天涯孤独の身の上ながら、彼の父に恩を受けたという鴫沢に何不自由なく育てられ第一高等中学校へ通う学生である。
もうすぐ東京帝大に入り学士さまの身分も見えてきて、将来を嘱望された貫一は鴫沢家の娘のお宮の許婚となる。
ところが、そこに銀行家富山(とみやま)が、「未だかつて彼等の見ざりし大きさの金剛石(ダイヤモンド)を飾れる黄金の指輪」をはめて登場。

 許婚と言ってもお宮は「恐らくは貫一の思える半ばには過ぎざらん」という状態。
つまり、のぼせているのは貫一君のみ。
その上「宮は己が美しさのいかばかり値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以ってしてわずかにかほどの資産を嗣ぎ、類多き学士風情を夫にもたんは、決して彼が望みの絶頂にはあらざりき」(仮名遣い・漢字は適当に改めてある。新潮文庫版25ページ。なお「彼」とは宮のこと)。

 お宮さんは、絶世の美女で、「許婚の貫一君にこれといった不足はないけれど、この美貌だったら、もっとすごい資産家の奥様になれるわ」、などと考えていたのである。
自分の美しさが、どれだけ「値するか」を知っていたのである。

 そこにダイヤモンド男・富山が正月のカルタ会に登場するのである。
そのカルタ会で宮を見初めた富山は、さっそく鴫沢家に宮との結婚を申し出る。
そのとき、許婚の貫一君にあきらめてもらうべく、「留学」が用意される。

 このことを宮の父親から告げられた貫一君は「妻を売りて博士を買う!これはあに穢れたるの最も大なるものにあらずや」( 51ページ)といきり立ち、熱海で静養している宮に会いに行くのである。

 「妻を売りて博士を買う」とか「己が美しさのいかばかり値するか」とか、なんだかえげつない表現がポンポン出てきます。
明治30年、文明開化もだいぶ進んだ世の中は、何でも金で換算する、そのような人物が活躍する時代を迎えていたのであり、小説はそれを「穢れたる」と断言することで拍手喝采を受けるのでありました。
そして、われらが間貫一君は、そのような金の穢れと育ての親の鴫沢の恩のあいだで激しく揺れ動くのであります。

 熱海の海岸で貫一君はお宮さんに涙ながらに訴えるのであります。

「大恩を受けているおじさんおばさんのことだから、頼むといわれた日には、僕の体は火水の中へでも飛び込まなければならないのだ。おじさんおばさんの頼みなら、無論僕は火水の中へでも飛び込む精神だ。火水の中へなら飛び込むがこの頼みばかりは僕も聴くことはできないと思った。火水の中へ飛び込めというよりは、もっと無理な、あまり無理な頼みではないかと、僕はすまないけれどおじさんを恨んでいる。
 そうして、言うこともあろうに、この頼みを聴いてくれれば洋行さしてやるとお言いなのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児でも、女房を売った銭で洋行しようとは思わん!」(65ページ)

 貫一君は、宮と富山の結婚をあくまでもおじさんと富山、そして自分を含めた取引として考えたいと思っている。
つまり、宮の心は、依然、自分のほうを向いていると考えたいのでありますが、しかし、宮の心そのものがすでに富山に方に傾きつつあるのであります。

 そこで例の「今月今夜のこの月を・・・」であります(つまり、ここがよくコントで使われたのです)。

「ああ、宮さんこうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前にこうして物を言うのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、よく覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一はどこでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らしてみせるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」

 と貫一君、けっこう未練がましく同情をひこうとするのであります。
下手をするとストーカーにでもなりそうな貫一君なのであります。
そして、お宮が
「ああ、私はどうしたらよかろう。もし私があっちへ( お嫁に)いったら、
貫一さんどうするの、それを聞かして下さいな」
などというと・・・・・

「木を裂く如く貫一は宮を突き放して、
「それじゃ、断然お前は行く気だね!これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちええ、はらわたの腐った女!姦婦!!」
その声とともに貫一は脚を挙げて宮の弱腰をはたと蹴たり。地響きして横様に転びしが、なかなか声も立てず苦痛をしのびて、彼はそのまま砂の上に泣き伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるように、彼の身動きもえせず弱々と倒れたるを、なお憎さげに見やりつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心変わりをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みの為に貫一は行きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉をくらってやる覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人!もう一生お目にはかからんから、その顔を挙げて、真人間でいる内の貫一の面をよく見ておかないかい!長々の御恩に預かったおじさんおばさんには一目会って段々の御礼をもうしあげなければ済まんのでありますけれど、仔細あって貫一はこのまま長のお暇をいたしますから、随分お達者でご機嫌よろしゅう……宮さん、お前からよくそう言っておくれ、よ、もし貫一はどうしたとお訊ねなすったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまったと……」」(76ページ以下)

 という訳で、貫一君はお宮さんを「ちええ」とブルース・リーのような奇声をあげて足蹴にし、あまつさえ「はらわたの腐った女!姦婦!!」と罵声を浴びせ、彼女の前から消えるのであります。
ま、ストーカーにならずによかったね、というもんであります、しかし、その後、貫一は高利貸しとなり金銭の鬼、つまり夜叉となって、一方、夫を愛し得ない宮から詫びが入るも、貫一はこれをはねつける・・・と、この小説は未完のままで貫一君は「金色夜叉」のまま、途切れているのでありました。

 という訳で、明治30年代、つまり大谷大学が東京に真宗大学として開校したころ、巷では、恩と愛と金をめぐっての人間の生き方が問われていたのでした。
が、本日は、お若い方々に、尾崎紅葉『金色夜叉』という小説をご紹介するだけにとどめます。
いや、私自身も勉強になりましたです。

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2010年08月05日

なぜ「人間大好き」なのか?(その1)――『金色夜叉』の話になりそう・・・

 なぜ「お金大好き」じゃなくて、「人間大好き」なのか、という問題を考えようとしていたのであった。

 思えば、お金という存在は気の毒な存在である。
現代社会で生きてゆくためには必須のものであるにかかわらず、表立って「お金大好き!」と言うことがはばかられる。
私なぞも講演をするとき、講演料がまったく気にならないなどということはない。
が、「なんぼ貰えますか?」とは、講演の打ち合わせの時にはとても訊けない。
しかし、講演の後、予想していた金額よりぐっと少ないとどっと疲れが出るし、多いとルンルンになったりするのである。
(こないだの大学の暁天講座、あれ、講演料って出るのかなぁ、それともブンガクブチョーの仕事のうちなのかなぁ・・・などと卑しいことを考えているのです。)

 であるから、文化人タレントがインターネットで「講演ウン十万円でお引き受けします」と売り込んでいるのを見ると、品がよろしくないなと思いつつも、はっきりしていてそれはそれでいいなぁという中途半端な感想になってしまうのです。
が、じゃ、自分の講演に値段をつけるか、などと訊かれれば、やはり値段付けされるのは拒否したい。
もちろん、一千万円の「お礼」をいただいても拒否せずありがたく頂戴する。
が、千円のお礼でも、いやお礼の言葉だけでも、文句は言わない。
ちょっとがっかりするだけである。

 というのは、わたしらが人前でお話する「講演」とか「法話」は、「売り物」つまり「商品」ではないからである。
つまり、ある一定の貨幣価値に換算できるものではないのである。
それは、無量の価値、つまり量ることのできない価値を有したい!という欲望のもとに、人前に提示されるものなのである。
だから、値段がつかない。
売り物ではないのである。

 じゃ、何なのか?
「売り物」じゃないとしたら、それは「贈り物」としか言いようがないであろう。
「贈り物」には、かならず「返礼」でもって応じなければならない。
だから、講演などの後、「御礼」などと毛筆でうやうやしく書かれた白い和紙の包みが差し出されるのである。
で、私はそれを「え、そんなぁ・・・そうですか?それじゃ、遠慮なく・・・」などと、額に押し当てていただくのである。
決して「講演」と現金を等価交換しているのではない。
「これ、ほんの気持ちですが」と言ってさし出される「御礼」の気持ちをいただいておるのである。
その「気持ち」が、和紙の包みの中に大量の現金として表現されるとき、「ウォホホ」と思わず頬が緩むことがあるということだけである。
(「分かりやすい話をありがとうございました」という言葉だけで終わる可能性もあるのである。ただし、そのようなときは、「ひょっとして、現金として表現される「気持ち」が後で提示されるのではないか」と思って、なかなか腰を上げないのであるが・・・)。

 当たり前の光景であるが、これは決して、商品としての講演を売買する行動ではないであろう。
講演の前に、講演者に
「では、5万円分の講演、お願いします」
と申し渡し、講演が終わったら、
「あれじゃ、5万円はお払いできません。3万円分しか払えませんな」。
そのようにして示された、はだかの現金3万円をあいだにして
「そんな殺生な。今日の講演の元手はいただかんと・・・」
などという会話は、ふつうない。
ないが、もし「講演」が「商品」であったら、これは正しい会話であろう。
あくまでも、双方が「等価交換」を主張するのである。

 したがって、「御礼」と書かれた白い和紙の包みは、原理的には貨幣ではないのである。
貨幣を包みの中に隠して気持ちを表現するものなのである。
おそらく、その昔に存在した「給料袋」とか「賞与と書かれた包み」も、経営者が労働者の労働力を買うという表現ではなく、「よく働いてくれて、ありがとうね」という気持ちを表現したものであったのであろう。

 ただ、その「気持ち」は、なんにでも、いつでも使える貨幣で表現されるのが、喜ばれるというだけである。

 それじゃ、結局、現金をもらうのがうれしいということじゃないか、と口をとんがらせて言う人がいる。
が、それは短見というものである。

 一定の現金が「御礼」と書かれた「包み」の中にあるとき、それは「贈り物」を貨幣価値として換算しているのではない、ということの表明なのである。
「御礼」という包みは、「これは等価交換ではない」ということを雄弁に語っているのである。
つまり、「あなたの贈り物は、わたしにとって量ることのできない価値を持ったものである。だから返礼をしたい。が、これしか今はできないからご海容願いたい」ということを語っているのである。
つまり、人間相互の行為を、贈与と返礼の関係として解釈し、そのような共同体を維持していこうという相互確認行為なのである。
このような関係は、人間共同体の基本であり、その共同体を形成するための学校や医療機関でも、実は、等価交換ではなく贈与−返礼関係が基本なのである( つまり、消費税がつかない金銭のやりとりである)。

 したがって、そこではむき出しの現金は、少し気の毒な地位に甘んじなければならないのである。
それが、愛の関係であったら、お金は完全なヒール役になる。
『金色夜叉』の世界であります。
が、これをお若い方々に、つまり「熱海の海岸散歩する、貫一・お宮の二人連れ」というのを説明するのは、少し大仕事なので、今日はこれにて。

posted by CKP at 17:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする