2010年06月30日

本務遂行の反対語は?――シリーズ「思考のテクニック」

 突然始まる新シリーズ「思考のテクニック」
今日はその第一弾!「反対語から考える」
(知らないうちに終わるシリーズですが・・・)

 本日は、大谷大学教育後援会の評議員会。
高校までで言えばPTAの総会のようなもの。
21世紀の現在では、大学でもPTAは大事な組織になっているのである。

 昨年度の決算や今年の予算、それに新会長の選出などの議事が2時間ほどかけて終わり、文学部長の大学現況報告。
この大学にお子さんを、大船に乗ったつもりであずけていただいて大丈夫ですよ、というお話をせねばならない。
しかし、皆さん、もうすっかりお疲れである。
そんな中でややこしい話もできない。

 という訳で、本学の三モットーの一つである「本務遂行」についてお話しする。
人間、本務を遂行するのが大事である――という話をいくら力を込めてお話しても、そりゃそうですけど・・・という反応しかかえって来ない。

 で、その反対語からご説明申し上げる。
本務遂行の反対語・・・いろいろ考えられますが・・・
私の場合は「目的達成」をあげてみた。
というのは、今の世の中、目的達成が重要なキーワードとなり「本務遂行」という言葉が忘却されているからである。

 目の前の仕事は、目的達成の手段でしかないのが、今の世の中である。
教育機関も、専門学校のように資格をとるための手段に堕して恥じることがない。
その資格で、人生の成功という目標を達成する――というように考えて少しも怪しまない。
本屋には「成功本」が山の如く積まれる。

 そのような中での「本務遂行」を言うのは、きわめてヘンテコである――ということを理解していただく、というのが話の目的の半分であったのだが、その目的がどれだけ達成されたか怪しいものである。

 なにかの手段である目の前の仕事を本務として遂行する。
つまり、手段を目的化する。
あるいは、目的を媒介とする仕事を遂行する。

 早い話が、大学では卒業の手段と見える卒論こそが本務である。
この本務が遂行できれば、つまり学生のworkが遂行できれば、社会に出てもそこで要求されるworkを本務として遂行できる。

 そして、そのようなworkを本務として遂行できることが「成功」というよりも「人間の幸福」なのである。
目の前の仕事がつねに手段でしかなく、仕事の彼方に逃げ水のように成功が手まねきする状態は、悪無限的不幸であろう。

 というようなことを説得的にお話することはできなかったが、長い会議の後の退屈そうなブンガクブチョーの話を、少しは「????」という感じで聴いていただけたのではないか、と思いたい。
なんか汗だくになっちゃったし・・・。
一生懸命workしたわけです。

 しかし「大船に乗ったつもり」になっていただいたかどうかは、あやしいところである。
posted by CKP at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月27日

起床のカフカ――ここが笑うところ

 昨日の朝、私の枕もとで、娘と妻がバタバタと出かける準備をしている時、どうゆうわけか、カフカの「掟の門」のページが頭の中で広げられていた。
あわてて身体を触ってみたが、ふつうどおりのメタボ腹であった。

 Vor dem Gesetz、「掟の門」とか「掟の前で」と訳される、文庫本で3ページほどの短編である。
フィッシャー社のポケット版では2ページ。
一段落しかない。

 田舎から出てきた男が、門番に掟の中に入れてくれと頼む。
門番は、今は駄目だ答える。
そんなに入りたきゃ、入ればいいが、奥にはもっと恐い門番がいるぞ。
田舎から来た男は待つ。
門番に贈り物をしたりするが入れてもらえない。
そのうち、門番の毛皮の蚤にまで懇願する。
そして、歳をとり、もう命が尽きようとするとき最後の質問をする。
「どうして何年もの間、私以外に誰も来なかったんだ」
門番は答えた。
「ここはお前専用の入り口だった。オレはもう行く。閉めるぞ」

 なんだかへんてこで、ちょっとおかしい話である。
みんなこの短編について語りたがる。
このブログでも今まで何回か書いた。

 今回は、あ、カフカって保険協会の事務員だったんだなと気がついて、この「掟」の意味が分ったような気がした。
保険協会の事務員にとって、掟=法律は全てを判断する基準である。
別の言い方をすれば、自分の責任で判断せず
「法律ではこうですから、お気の毒ですけど」
と言うためのものである。

 しかし、その掟への門は、田舎から出てきた男の為だけの門だった。
ということは、その掟は「私は何を基盤として振舞うか」という私の基盤を示す法であったということである。

 ヘーゲルがals 〜sich setzenと表現するとき、「〜として事に処する」と訳せるのではないかと思っている。
そのsetzenが過去分詞になってGesetz=法=掟。
ゆえに、法とは私が限定された場所でいかに振舞うかということを示すものである。

 で、田舎から出てきた男は、自分がいかに振るまうべきかを、門の彼方の掟=法に求めた。
官吏的振る舞いで求めたのである。
しかし、そのように求める形で、すでに自分の振る舞い方が、規定されてしまっている。
ここが笑うところではないのか。
自分の振舞い方を、他の権威に求めるという振る舞いが、すでにして彼の振舞い方であり、しかし、彼自身はそれに気付いていない・・・ここを笑わないと、あと笑うところ、ありませんよ。

 と、布団の中でくっくっと笑っていたら、娘と妻はとっととお出かけしてしまっていた。
posted by CKP at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月25日

この間の謎について――ビンボー・ダナオのことなど

 先週の今頃、「ビンボー・ダナオ」というキーワードでアクセスが倍増するということがありました。
同時多発的に「ビンボー・ダナオって誰?」という疑問が発生する事態というのは、かなり不気味なので調べてみました。

 おそらくビンボー・ダナオ氏のご夫人であった女優の淡路恵子さんのお子さんが亡くなられた事件が先週あって、そこに彼女の最初の旦那がビンボー氏であったと解説されていた。
ということで、この不思議な名前の男は何者だ?ということになったのだと思われます。
ちなみに亡くなったのは、淡路恵子・中村錦之介ご夫婦の時代のお子さん。合掌。

 ということで、このブログにビンボーの呪いがかけられていたのではなかったということでひと安心です。

 また少し前に「ヘーゲルの亡霊は昼間に出る」というタイトルを書いたとき、妙な既視感に襲われました。
なんだか、どこかで見たことがある・・・という感覚。
何なんだろうとこの間考えていました。

 わかりました。

 こう書き直すと分かります。
「ヘーゲルの霊は昼歩く」
ね、わかるでしょ?

 そうです。
「圭子の夢は夜ひらく」なんですね。
それがあったから、ヘーゲルの霊は夜歩くと思い込んでいたのでしょうか?
ホント、歌謡曲で哲学考えてスミマセン。
posted by CKP at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

編集者はえらい――私の文章修行

 先日、ある学会誌に論文を提出したとき「最後の部分、急いで書かれたようですね。幸いもう少し枚数に余裕がありますから、そこの部分書き直してください」と言われてしまった。
こういう場合、私は「合点承知!もっけの幸い」とイソイソと書き直すタイプである。
中には「この私に指示するのか」と烈火のごとく怒り出す大先生もいると聞く。

 編集する人が「分かりにくい」というのだから「分かりにくい」のである。
何とか分かってもらうために書いているのだから、書き直すのは当然である。

 しかし、こんな私とて最初からそうであったのではない。

 学生時代、生まれて初めてビラの原稿を書いたとき、O木君がエラソーに「これじゃ、何が言いたいかわからんだろ」と指摘した。
だったら、俺なんかにビラ原をまかせるなよな!と思ったのを鮮明に覚えている。

 初めて学会誌に論文を載せるときなど、真っ赤になった原稿用紙を見て、怒りと恥ずかしさで、こちらも真っ赤になっていた。
編集委員のS先生に学士堂という喫茶店に呼び出され、細かいところまで直される。
はぁ・・・と聞きながら、机の下では、怒りでてがプルプル震えていたものである。

 しかし、今から考えると、編集委員とはいえ、直接の指導学生ではない私の論文をあそこまで細かく読んでくださるというのはありがたいことだなぁと思う。

 また大学院生時代、ある雑誌に音楽コラムを書いていたときなどは、編集のS君(高校時代の友人)に情け容赦なく直された。
「これでは何が言いたいのか分からん!」という朱書きに「お前の頭が悪いんだろ!」と叫びながら、「でもわかんないんだよねぇ」と思い直し書き直したものである。

 また本学がアエラに連載した「今という時間」という宣伝コラムの第一回を担当したときなど、担当のT川さんに十数回書き直しを命じられた。
最後などほとんど一触即発状態であった。
あいだにタヌキ先生が入って事なきをえたが・・・・

 しかし、今から思うと、丁寧に読んでくださる編集者ほど注文が多いのである。
書き手の言いたいことを何とか分かりやすくしてやろうとしてくださっていたのだと思う。
ありがたいお節介なのである。

 だから私の場合、編集者から「直してね」という言われれば、「これ幸い合点承知」とイソイソと書き直すのである。
そうして、このようなワハハな文章家になってしまったのである。

 今までお育ていただいた編集者の方々の努力を無にしているようで、申し訳ないすっ。
posted by CKP at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月23日

ヘーゲルのガイストは昼間に出る――「鬼へー犯科帳」序説

 先週末、やっとこさ論文を受理していただいた。
締切は5月末だったのであるが、少し遅れて出したとろ、一週間余裕を与えるからもう少し最後の部分を丁寧に書いてね、と編集委員会から催促されてしまった。
それだけ余裕があるならば、最初からそう言ってくれればいいのに、と思わないでもなかったが、この場合、編集者の言われることは、客観的に正しいので、ガッテン承知、これ幸いと書き足し他のであった。

 論文のタイトルは「霊はどこを徘徊するか」

 このタイトルは、カント、シラー、ヘーゲルのガイスト(精神とか幽霊を表すドイツ語)という言葉の使い方をまとめていて思いついた。

 カントの場合は、「夢」の中をガイストは徘徊する。
夢ではなく、現実に目覚めようとするカントは、事の必然としてガイストをその哲学世界からいったん追放する。
 シラーの場合は、ガイストはいわば舞台裏から世界劇場を操作するとイメージされる。
劇作家であるから当然であろう。

 では、ヘーゲルの場合はどうか?

 実は、この論文、最初は、なぜヘーゲルのガイストは幽霊・亡霊と訳されずに「精神」と訳されるのか、という20年来の疑問を解くための論文であった。
カント・シラー・ヘーゲルの三人まとめて面倒見れば、ひょっとして明らかになるかも・・・と書きはじめた論文であった。

 そしたら、明らかになったのであった。
それも、私としては予想もしない仕方で。
しかし、わかって見れば、当然だよね、という仕方で。

 それが、「ヘーゲルのガイストは昼間に出る」というヘンテコな命題である。
ガイストが夜に出れば、亡霊である。
しかし、昼間に出れば「精神」と訳される。
なんだか脱力するような馬鹿馬鹿しい話である。
こんなことに私は20数年間悩んできたのである。

 しかし、私としては大いに納得して、なるほどなぁと思うことのできた、大変楽しい論文であった。
どこがどう「大納得」なのかを知りたい読者が多いと思うので、ここはやはり「鬼へー犯科帳」の連載をはじめねばなるまいなー。
こまったなぁー。
という今日この頃であります。
posted by CKP at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月19日

What's going on?――ビンボーの襲来?

 昨日から、ブログの様子がどうもおかしいのです。
昨日のアクセスはいつもの2倍近く。
どうしたのかと思って調べると、キィワード「ビンボー・ダナオ」でのアクセスの分が増えている。
そして、三年前に書いた「ビンボー・ダナオを知っていますか?」という記事が参照されている。

 いったい、何が起こっているんだ?!

 誰かが、ビンボーの呪いでもかけているのか?
 ビンボー・ダナオはとっくに亡くなっているし・・・

 突然「ビンボー・ダナオって誰れ?」という問いが同時多発的に発生した情況というのは、不気味である。

 いったい、何が起こっているんだ?!

 最近、すっかり物忘れがひどくなり、6月にはいつも(藤)先生に同じ事を言っているらしい。
「去年も同じこと言ってましたよ。それ、年中行事、風物詩ですっ!」

 という情況であるので、「ビンボー・ダナオ」などという不思議なキィ・ワードでガンガンアクセスされると、なんか、トンでもないことをどっかで書いたり、しゃべったりしたのか、すっごく不安なのです。

 いったい、何が起こっているんだ?!

(マービン・ゲイおよび関係者・ファンの皆さま。名曲のタイトルをこんなことで使用してスミマセン。)
posted by CKP at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月16日

問題解決と希望実現――ここは俺の顔を立ててくれ(『昭和語広辞苑』より)

 世界規模の事件から身辺の小さな問題まで見回してみると、最近なかなか解決しないなぁ、と思う。

 どこでも「希望実現」の声は高いのだが、またそれにまじめに取り組もうとするのだが、問題はますますこじれるばかりで、なかなか解決しない。
どうも、世界中の人間の「問題解決能力」が失調状態にあるようだ。

 私なんぞは、問題解決というとすぐに「当事者の希望をよく聞いて実現する」という理想状態を思ってしまう。
もともとまじめな人間ですから。
そして、それを目指してがんばってしまって、ますます事態を混乱させる。

 というときにDVDブックになってずいぶん安くなった、ご存知『椿三十郎』(もうすぐ四十郎)を観た。
やっぱり、何度観ても面白い・・・じゃなくて、そこに藩の問題を理想的に解決しようとする若侍に対する三十郎の渋いせりふがあった。

 城代家老に問題を解決するよう性急に迫るが取り合ってもらえず、「あなたたち、若い人と共にたちましょう」と言う大目付のほうを「さすが」と褒める若侍たちに三十郎は言うのである。

「大目付の仕事は何だ?ごたごたを収めることじゃないか?それを『共に立ちましょう』といってお前たちをたきつけてる。おかしいとおもわねぇか?!」

 城代家老は、騒ぎをまるく収めたいのである。
しかし、若者たちはシロクロをはっきりつけて、悪者を退治したい。しかし、それではよけい騒ぎが大きくなる。
で、ご存知!椿三十郎の登場なのであるが・・・
勉強になるなぁ・・・

 この伊藤雄之助演じる城代家老は「乗った人より馬は丸顔」と言われるくらい間延びした顔。
「ほんとに悪い奴はとんでもないところにいる。危ない、危ない」と言える炯眼の持ち主なのだが、若者たちには「うすのろのお人好し」と思われている。
このため「ここは俺の顔を立てると思って、刀を納めてくれ」という裁きができないのが難点。

 これができるのは、これまたご存知!鬼平こと長谷川平蔵であろう。
(池波正太郎『鬼平犯科帳』の主人公ですね)
人間の裏表、善と悪を知り尽くした鬼平だけに言える
「とっつぁん、ここはどうだい?俺の顔を立てちゃくれねぇか」
てなせりふ、一度言ってみたいものである。

 しかし、純粋がよい、裏表がないのがよい、という現在は、なかなか平蔵的お裁きは難しい。
人間なぞ矛盾した存在であるから、純粋なんてのは理想状態と見定めなければ現実対応できないと考えるが、少し賢くなると、どういうわけか現実と理想の区別がつかなくなるようだ。

 最近の政治家に、なんだか学級委員の優等生みたいなのがふえたなぁと思うのは私だけだろうか?

 ヘーゲルなぞはどうも長谷川平蔵みたいなことを考えていたのではないか、と最近、思うようになりました.
そう考えると、ヘーゲルの難解さが理解できるような気がするのです。
そういうわけで、ちょいと書いてみました。
論理展開がなく固有名詞ばかりでスミマセン(改めてきちんと書きたいと思います)。

 ということは『鬼ヘー犯科帳』の連載まぢか、マジか?といういうことか?
posted by CKP at 14:32| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月13日

へいせい徒然草――四十年目

 これも狐狸庵の法師なりけり。

 この法師、同窓の会なるものにて、四十年ぶりに竹馬の友に逢いけるに、いきなり、
「汝は、裏切り者なり」
と罵倒せられて、呆然と立ちすくみけり。

「如何なることども、思い出で来て、かような振る舞いにおよびたるや」
と尋ねしに、その友、答えていわく。
「我ら、小学なる学び舎に通いし頃、思い秘めたる女子の名前を互いに白状しあわさんとすることあり。
我、いとまたくその娘の名前を言いしに、テッチャンは人にはさようにさせながら、おのれは知らぬ顔で逃げ帰りき。
爾来、四十年、汝のことを『裏切り者』と恨みたりし。」

 この話を狐狸庵の法師より聞きし、越前の法師、我が意を得たりと、申すに、
「そは汝のサガなり。
汝は、人のことを「虫の脳」などと呼ばわりしに、すぐさま忘れにけり。
我は思い出すだに、いと口惜し。
この思い、汝は知らずや。」
狐狸庵の法師、答えていわく、
「汝の思いは、我が思いにあらず。
いかでか、他者の思いを知り得ようや。
かような道理をわきまえぬゆえに、汝が脳は虫の脳なりと言えり」

越前の法師、
「ことわりはさようなれども、情と理は異なり。
情知らずの、汝は、おそらく、いまだ多くの恨みをかうことあり。
夜道は月夜の晩だけにはあらずや。
くわばら・くわばら」
にくにくしげに、申すなり。


 げに男の恨みは恐ろしきことなり。

(この段をより深く味わいたき方は下記を参照すべし。)

http://tetsugakuka.seesaa.net/article/122926752.html


posted by CKP at 18:50| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月10日

キノコバスケット

kino02.jpg
ゆえあってゼミの学生たちからもらったキノコバスケットです。
エリンギとシイタケとマイタケと、なぜかニンニク一本です。
ちょっと疲れ気味なので、これで抵抗力をつけて頑張ります。

ありがとう。
posted by pilz at 21:53| キノコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

36年ぶりのYou’ve got a friend――キャロル・キングとジェイムス・テイラー

 37年ぶりの高校の同窓会、33年ぶりの大学の寮友の再開とこのところ、記憶の彼方から過去が蘇る。
そんなお年頃なのですね。
というわけで、2007年に録音されたキャロル・キングとジェイムス・テイラーの「トルバトール」というライブ・ハウスでの36年ぶりのステージのCD+DVDをこのごろ、聴いたり観たりしている。
たいへんよい。幸せです。

 口元の「おばあちゃん皺」を隠しもせずのびやかに唄うキャロル・キング。
頭は見事に禿げあがっても、涼しげな声は昔のままのジェイムス・テイラー。
それにダニー・クーチやラス・カンケルらの昔のままのバック・バンド。

 You've got a friendなんて聞き飽きたからスキップしようと思っていたのだが、いい雰囲気の流れで聴いちゃいました。
これがいいんですねぇ。

 ジェイムスが、1971年、キャロル・キングが作った「You’ve got a friend」を彼が先にレコーディングをして全米一位にしたエピソードを語り、それに対してあらためて「ありがとう」を言って歌い出される。
キャロルも、曲の途中でジェイムスに「ありがとう」を返す。
キャロルの笑顔のチャーミングなこと!
それに照れるジェイムスの初々しさ!
もう耳にタコができるぐらい聴いたこの曲が、まるでその場で生まれたように二人で唄われる。
おそらくこの名曲のベスト・ヴァージョンですね。

 Iという主語・主体が追及されていた時代に、Youを主語に持って来て唄われたことの意味が、Iという主語にがんじがらめになっている現代に、よけいに切実に蘇る。

 それに、ドリフターズ(と言ってもアメリカのですが)ために作られた「Up on the roof」のカッコよさ。
「屋上に上がれば、私の悩みはすべて空中にドリフトしてゆく・・」
ミディアム・テンポで演奏されるのだが、間奏になるとジェイムスは内から湧き上がるリズムに飛び跳ねながらギターを弾く。
ダニー・クーチのどこか神経質なギターがとんがったメロディを奏でる。
気持ちよい!
 
 この春の日本でのライブ(知らんなんだ!)では、「ロコモーション」や「クライイング・イン・ザ・レイン」も演奏されたそうな。
それらが収録されていないのが悔しいが、回顧モード全開のおじさんにはなによりものプレゼントでした!

posted by CKP at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月09日

王様と私たち――マハチュラロンコン大学ご訪問

 昨日はタイ最大の国立仏教大学マハチュラロンコン大学の学長補佐をはじめとする9名の管理職の方々の訪問を受けた。
この大学名は、シャムの第5世の王さまの名前だそうだ。
本学とは、20世紀初頭に当時の王様から三部経などをいただいたりでご縁の深い大学である。

 学長補佐の先生はあの黄色い袈裟姿のお坊さん姿。訪問団の半分の方々は同じ袈裟姿。あとの半分はスーツにネクタイ姿。
毎年1000人以上の青年僧を社会に送りだしてきたこの大学も、一般人の入学を始めたという。
そのようなシステムの先輩校として本学を訪ねられたようだ。

 近代化・資本主義化の波と仏教。
おそらく、タイの現在の混乱の波をどう受け止めてよいか迷っておられるのだろう。
それに対して、こちらが理想の大学像を提出できるわけでもない。

 むしろ、我々もお坊さんの格好して、時々たすき掛けをして、昔の小僧さんみたいに、えんがわ掃除をしてみたいくらいである。
東本願寺の御堂のひろいひろい縁側を、雑巾でぐいぐい水ぶきするのである。
訳の分からない悩みなど、たちまちにスッキリしてしまうにちがいない。
学生諸君を引き連れて、えんがわ掃除にいこうか・・・
歓迎のご挨拶をしながら、そんなことを考えたのだが・・・・

 それにしても通訳のUさんから「ひさしぶりぃー!」と声をかけられたのには驚いた。
吉田寮で一緒だった方である。
見事に禿げあがった頭でいきなり言われても即座に思い出せない。
通訳するの口もとを見ていて、思い出した。
お互い歳をとったものである。
最近、30数年前がよく現れる。
posted by CKP at 14:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月06日

まじめな近代――有用性の文化

 今度書いた(完了形!)論文では、カントとヘーゲルの間を論ずるために、にシラーも扱った。
ドイツの国民的作家と言われるわりには、「我が子の頭上の林檎を射った」ウィリアム・テル以外あまり知られていない作家で、それすらも現在は知られてなくて、わたし自身も困って、ドイツの評論家ザフランスキーという人の『哲学者としてのシラー』という本を大いに参考にした。

 そこに、今回の論文のテーマとは関係がないが、非常にすっきりした文章を発見した。

「近代とは何よりも、有用性を至上命題とする文化である。近代はマジメなのである。近代は遊ばない。・・・・シラーが自然から文化へとむかう道は、遊びを経由する。つまり、儀式、タブー、象徴化を経由するのである。」(R.Safranski:Schiller als Philosoph, wjs, 2005, S.27)

 言われてみれば、なるほどなぁ、という文章である。

 民主党の「事業仕分け」に拍手喝采を送るのも、『葬式は要らない』がそのタイトルだけでバカ売れするのも、「有用がえらい」という近代的思想の賜物である。

 どうせ葬式しても生き返るわけでもなし、葬式なんか要らないんじゃないの?というわけである(本の内容自体は葬式必要論なので、いっときのバカ売れ状態は一段落している)。
しかし、これだけ人類が続いてくれば、「葬式なんか要らない」と考えた人たちが、今まで居なかったとは考えられない。
葬式ができない状況もあったであろうが、おそらく、葬式をしなかった人も居るであろう。
しかし、現在、葬式をしない共同体というのは存在しない(と思う)。
ということは、葬式をしなかったような人たち、あるいはそうのような合理主義者の団体は、おそらく、葬式をしなかった事で特別の利益を得ることはなかったのであろう。

 葬式をしないことで、何か特別の利益が得られるのであれば、無葬式という習慣はまたたく間に世界中に広がっていたはずだからである。
ところが、そうではないということは、「葬式をしない」ということで特別の利益が得られないということである。

 むしろ、葬式をしないことには何らかの不利益があったのであろう。でないと、葬式に対するどこか強迫的な必要性は説明できない。
(もちろん、誰かにぼったくられるような葬式は要らないであろうが・・・)

 毎日の生活でも、趣味をはじめ、食べて生きるためにはべつに「要らない」モノがたくさんある。
「どうして読みもしない本を次から次へと買ってくるわけ?!」となじられても、買わずにいられない。
しかし、それらを排除してゆくことが、人間の幸せにつながるとは思えない。
宇宙船の中でも、栄養剤だけを食べるというわけには行かないのである。

 しかし、近代人はマジメで、無駄を排除することが好きである。
そして、排除しすぎて、なんだかおかしくなってしまうのである。
なんだか余裕のない人間が多くなってくるのである。

 もちろん排除してよい無駄もあるだろう。
しかし、何でもかんでも有用性一本槍はかえって危ない。

 民主党が民主党なのは、自民党的前近代性がないから、つまり近代的だから民主党。
だから、その民主党に前近代のシッポが生えている小沢一郎はムダということのようであるが・・・

 しかし、事に当たるとついつい面倒な手続きが無駄に見えて来て、それなしに事を運びたくなる。
「こんな手続きムダだろう!」
と最近文句ばかり言っている。
すると、学長の草野先生がおっしゃるのである。
「面倒かもしれんが、じっくりと手続き踏んでください」
さすが、学長先生だなぁ、と感心することしきりな6月なのでした。
posted by CKP at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑想・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする